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絵を描くことで探している自分とは

2024-07-31 04:32:46 | 水彩画
 

 絵を描くことが好きで、描きたいときに描きたいだけ描いてきた。それがだんだんに日々の一枚という具合に、描く時間が捻出できれば、ほぼすべての時間絵を描くことになっている。それでもまだ描きたい、という気持ちは尽きない。尽きないどころか以前よりもさらに描きたくなっている。

 年をとり残り少ない時間と言うこともある。何かもう少し行けば、見えてきそうな自分の絵がある気がする。絵は自分の内部にある、感じたり考えたりしている、自分の中の世界観や哲学らしきものを、画面として表そうとしているものだ。考え方が、外界に反応している。その様相を画面に描くものなのだろう。

 見るということが自分の大半を形成しているのだろう。特別な景色を見て、人生が変わるほどの感動をするという人もいることだろう。何かを見るということが面白いのだ。稲を見ていてどれほど見ていても飽きない。見ているということは稲の面白さなのだろうが、見ている側の見え方の深まりで、変化が起こる。ある時実態が見えるということが起こる。この体験が見ることのおもしろさだ。

 よく聞く事例はゴッホの絵を見て、自殺を思いとどまったという人の話である。自殺をしようと考えた人が、最後にゴッホの絵を見ようとひまわりの絵を見に行ったそうだ。ゴッホの絵を見て、突然涙があふれ出て、涙が止まらなくなった。何故だかわからないまま、泣き続けることになった

 それで死ぬことをやめたそうだ。泣くことで取りつかれた死から、解放されたのだろう。ゴッホの絵にある何物かが見えたのだろう。見ることの深度は常に異なる。この話は渋谷にあった洋画人体研究所で一緒にクロッキーをやっていた、絵を描く友人から、体験を聞かせてもらった話だ。

 ゴッホの絵の力ということが実際に人を変えた事例である。ゴッホの絵には深い世界観にもとずく、真実が描かれている。絵画に表された世界観ほど、直接的に見る人に何かを与え得るものはない、と考えている。ただ、ある絵が特定の誰かに、しかもその誰かのある特別の心境の時に、出会うことで、絵とみる人の間に、共鳴関係が奇跡的に起こる。

 それは人間の見るという能力は、読んで理解するとか、触って理解する。食べてわかる。それよりも見る世界は多様で深い上に、直接的なものだからだろう。見えているかのように感じるものも、実は何も見えていないことが普通なのだ。見る側が深まることで初めて見えるということが多いものだ。偉そうに言うが、絵は見る能力がなければ見れないものなのだ。

 見る喜びというものがあるが。その見る喜びに勝るものはないと言えるほどのものだ。本を読むとか、回峰行をするとか、座禅をするとか、様々な努力方法があるが、ただものを見るという能力を研ぎ澄ますためには、普段の見る努力以外にない。ランチュウの幼魚の頭の煙は、その道の専門家にならなければ見えない。

 人間は生きている以上何かを見続けている。寝ているときも夢を見ている時間さえある。道元の禅は半眼である。目に映るが見ていない状態。見るという意識のない状況でも視覚には見えている世界がある。心眼というようなものもある。記憶の世界を思い起こして、記憶の映像を見るということもある。見ることの能力を深めることが、絵を描く努力なのだ。

 私自身の場合、見ることは考えること以上に、自分というものを作り上げているものである。その自分が見た世界を表そうというのが、絵画だと思っている。だから写真のような絵を描く人の見るは写真のような見るなのだろうと思う。なんと機械的でつまらない世界しか見ていないものかと思う。

 見ている世界は広大である。そして深淵である。それを切り取り小さな画面に切り取るのだ。写真のようであるなら、実際にそのものを見た方がいいに決まっている。宇宙が画面という小さなものに収まることができるのが絵画なのだ。

 モナリザを見て、すごい絵だと思うことと、実際のモナリザにお会いするのとはまるで違う。ダビンチはモナリザを見て、その人間から感じられるすべてを描こうとしたのだろう。しかし、どれほど正確に描こうとも、モナリザその人を見る方が面白いだろう。永遠には見ることができないから、まるで見ているかの如く表したかったのだろう。

 しかし、AIで3次元映像を使えば、いつでも肉眼以上に明瞭にみることが可能になる。ダビンチが今いるとすれば、そうしてモナリザを仮想空間に存在させたかもしれない。そういうことをどこまでしたところで、モナリザという絵画の本質を明確にすることはできない。

 そこに自分というものがモナリザに同化して、見ている存在になるということがある。自分が見たいモナリザというか、千変変化するモナリザのすべてを一枚の絵に凝縮で来るのが絵なのだ。絵はリアル世界を映しているものではなく、自分が見て、自分の内なるモナリザに総合されたものを表す。絵画に描くことで総合しているものだ。

 内なるモナリザは記憶されたモナ・リザでもない。理想化されたモナ・リザでもない。ダビンチのモナリザなのだ。つまり、モナリザを借りて、ダビンチという人間がその背後に存在している。私がモナリザを見て驚くのはモナリザではなく、描いたダビンチの眼が見る私を凝視しているかのようなのだ。

 モナリザを描いたはずが、いつの間にかダビンチという人間の本質を表す画像に変わっているのだ。ここが驚くべきことだし、絵画がここまで可能なのかと教えられたことなのだ。モナリザという絵を見ることは、このように人間を見る特別なダビンチに出会うことができる。

 モナリザを直接見ることや、映像を見ることや、AIで3次元再現をしたとしても、全く再現できない、絵画という表現方法の世界観があるのだ。ダビンチほどの知性の人だから、実は精神的自画像をモナリザを借りて、描いている可能性は高い。少なくともモナリザとダビンチは一体化している姿なのだ。
 
 ダビンチから自分の絵の話に飛躍することは、あまりに不遜なことではある。それでもつながってはいる。子供のころから見続けてきた、目に写り惹きつけられてきた風景の中に、自分の世界観を感じる。間違っている自然などない。特別な自然もない。あるのは自然というものの総合なのだ。

 無垢の自然のことではない。自然に対して人間が生きるために手入れをしてきた姿に、感銘を受ける。自然は常に自然の側に戻そうとしている。人間は自然と折り合いをつけて、自分の生きる食料は生活空間を作る。この里地里山に残された、自然に対する人間の痕跡に惹かれるのだ。

 モナリザの姿に託したものと同じように、私の中には風景にしか託せない何かがある。何故、風景の中に自分の世界観が見えるのか。空間の在り方に、空間の色彩の総合の中に、自分という感じが見えてくる。その風景に感動している自分は、実は空間の広がってゆく感触に、吸い込まれて行っている。色彩の調和と躍動に心躍らせている。

 この風景からあふれてくる、絶対的な世界の感じは、絵に表現する以外に表現の方法がない。残念なことに、私が見ている世界を絵にはまだできない。目は見ているのだから、もう少しである。自然に少しでも近づけることができればと思うのだが、絵を描いて居る時にはそういうことも考えたこともない。

 絵に出てくるものはあふれ出てくるのであって、意図があってそう見えるように描いたものではない。それはゴッホでもダビンチでも同じだ。そうなってしまっただけのことなのだ。私は凡人であるから、あふれ出てくるように描けるわけではないのだが、少なくともそういう姿勢で描きたいと考えている。

 

 
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