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貧困の変貌

2016-08-30 04:35:02 | 暮らし

以前このブログで貧困家庭など自分の周辺にはないという、コメントをいただいたことがあった。貧困はそれくらい見えなくなっている。見えないけれども増えている。今回、NHKの高校生の貧困報道が、批判の対象になった。学習用のパソコンが買えないので、1000円のキーボードを購入して練習しているという話だった。1000円で買える古いインターネットのないパソコンもあるのにと思った記憶がある。片山さつき議員がNHK報道の批判をしている。貧困が見えにくいことに気づかない鈍い国会議員の姿をさらしている。結果今一人の女子高生が、辛い思いをしているだろう。希望格差というのだそうだ。教育格差という事になる。生活保護の不正受給が取り上げられ、厳重な調査というものが盛んに言われる。確かに不正受給はある。おかしな受給者がいるのも事実だ。しかし、99%の必要で受給している人にたいしてにまで、批判が及び苦しい想いの生活保護者を知っている。貧困の質の変化を考える必要がある。

生活保護を受給してはいないが、保護を受けている人より貧困生活をしている人がかなり存在する。ワーキングプア―と呼ばれたりする。普通に働けて、働いてもいるが、子供の食事が不十分だったりする。貧困は見えにくくなっているだけなのだ。誰だって貧困は隠したい。困っているという事は人に知られたくない。外見的にはいかにもの貧困者は今の時代居ない。路上生活者でも見た目は私と同じである。勉強をしたいという気持ちを社会全体で支えるのは当たり前のことだ。その女子高生の部屋にアニメの本があり、携帯電話を持っていたとしても、それが貧困ではない証拠だというのは、ゆがんだ想像力である。自助努力しろと言う視線を感じる。日本の有機農業には、消費者は生産者を支えるという事で、全量買い取りのような提携という仕組みがある。ところが消費者の中には、生産者を見学して、自分より贅沢をしているのに、なぜ支えなければならないのかという疑問を呈する人がいる。生産者は絵に描いたような貧困であることが期待される。

貧困とは何か。教育を十分に受けられない社会のことだ。希望格差という事である。同じ社会に生きていて、平均的な収入の半分以下の収入の層を貧困層と呼ぶ。平均年収が500万円であれば、250万円以下を貧困と呼ぶ。シングルマザーが多いと言われているが、都会に暮らしている場合が多い。都会で250万円家庭なのか、田舎で250万円家庭かで全く状況が異なる。家があり庭で野菜ぐらいは作れる環境であれば、250万あれば普通に暮らせる。畑をやれるなら、月20万あれば十分である。子供にパソコンは買えるし、冷房も入れられる。しかし、都会でのアパート暮らしであれば相当に苦しいはずだ。子供の教育費も節約しなければならないのが現実である。こういう家庭が15%になっているという話なのだ。豊かな社会での貧困という問題を改めてとらえ直す必要がある。特に子供の貧困が深刻である。大人には抜け出せる可能性があるが、子供はその中でもがく以外にない。貧困の子供の方が肥満というのが、現代の貧困である。

子供が教育を受けたいという希望だけは、誰にでも叶えられる社会であってほしい。私は小学校から大学までほぼ無償で進学で来た。つまり、50年前より今の方が、教育に関していえば困難になっている。社会は格差が進んでいる。学びたいという者が学べる社会になってほしい。そして誰もが学びたくなるような、希望のある社会でなければならない。教育に関して後退した原因は受益者負担の思想である。大学に行き恩恵を受けるのだから、行くもの自身が負担すべきだという考え方である。教育は個人のもの、競争の材料だという考え方だ。教育を良い会社に入社するための資格と考えるからおかしいくなる。教育は社会のものであり、個人のものではない。一人が良くなるためには全体が良くならなければならないのが、健全な社会だ。その為の教育のはずだ。

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