5月最後の週末、カントリーウオークグループの「特別例会」と称する1泊のウオーキ
ングに参加した。
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第1日 2018年5月26日(土)
== 本佐倉城跡から早苗田の間を抜けて宗吾霊堂へ ==
京成本線の大佐倉(おおさくら)駅に11時に集合する。駅は無人で、駅周辺に商店は
無く民家も少ない。全員時間前に着いたので、10時58分に駅前を出発した。
駅の周辺でホトトギスとカッコウが鳴き、この日はこの先歩いた本佐倉城跡などあちこ
ちでもたくさん耳にする。
線路沿いを少し、北への細道を上がり、大佐倉集落の中心部にある宝珠院に入る。
開基は不詳のようだが、永徳3(1383)年の中興と伝えられ、天和3(1683)
年には京都・醍醐寺三宝院の直末となり、幕府から朱印30石を拝領し、佐倉藩内真言寺
院12ヶ寺などの筆頭になったとか。
本佐倉城(もとさくらじょう)千葉家の祈願寺としての由緒を残し、佐倉藩堀田家(ほ
ったけ)とも縁ある寺院でもあったようだ。
佐倉市保存樹のタブやイチョウ、タラヨウなど豊富な新緑が境内を覆い、アジサイが咲
き出し、ツツジはヤマボウシも花を見せていた。
東南に下り京成線をこ道橋で越えて線路の南側沿いを東へ、築堤になった線路下を抜け
て折り返し、宝珠院の東側にある勝胤寺(しょういんじ)に回る。
勝胤寺は、これから行く本佐倉城の3代城主・千葉勝胤(ちばかつたね)が菩提寺とし
て建立したとのこと。
本堂前には、千葉家の遠祖である平忠頼が産湯につかったと伝わる、「千葉水」が流れ
出ている。
境内のアジサイやガクアジサイが咲き出し、ツツジも咲き残っていた。
本堂左手墓地の奥の樹林下には千葉家供養塔の五輪塔が並び、最奥に千葉勝胤の宝篋印
塔(ほうきょういんとう)がある。
京成本線の南側に戻って早苗田の横をすぐ、民家横の屋根掛けの下に5基の石像が並ぶ。
そばのT字路際には古い道しるべの標石が残り、「根古屋ヲ経て南酒々井・・」などの文
字が読めた。
南側一帯に広がる台地のこんもりした森が本佐倉城跡で、台地下まで進んで、その北側
凹部付近から城跡へ。
「国指定史跡 本佐倉城跡 東光寺ビョウ」の標柱横から入り、山すそを進むと「本佐
倉城跡全体図」や、「マムシ注意!」の掲示などがあった。
さらに「セッテイ虎口(こぐち)」を上がり「金明竹(きんめいちく)の小径」に出た。
周辺はその金明竹の林で、節(ふし)と節の間に緑と薄黄色の縞模様が表れた特徴的な
竹が群生していた。
竹林の間を「セッテイ空堀」に下るとホタルブクロが咲く。
城北側の玄関口「東光寺ビョウ」に回り、北側の田園地帯やその先の順天堂大のある台
地などを一望した。
東側の「Ⅳ郭虎口」から再び南進して「大堀切」を抜け、城山に向かう。「城山虎口」
を入って「城山門跡」を過ぎ、本丸のあった広い草地の「城山」に上がり、その規模を確
認する。
いったん下って南西側の「奥ノ山」へ上がる。ここも広い草地が広がり、その南端の
「妙見宮跡」近くにあったベンチに12時30分に着き昼食にした。
13時5分に昼食地を後にした。南西側の「倉跡」から南東に下り、根古屋集落際に出
る。ここには「国指定史跡 本佐倉城跡」の大きな標石と説明板があり、城跡見学の表口
のよう。飲料水の自販機も、城跡ゆかりのデザインである。
城跡と谷地田の間を北東から北西へと回り込む。早苗田の間を北進して京成本線の北に
抜けた。
さらに広がる早苗田の間を、北側の順天堂大の建物や斜面林など眺めながら東進する。
休耕田となってアシの伸びた辺りでは、ヨシキリがひときわ賑やか。
農水省酒々井排水機場の横を通過し、京成酒々井駅方面からの車道を横断する。1本北
側の農道に回って少しずつ向きを北東へと変え、柏木集落西部の斜面林が近づいた辺りで
山すその道路へ。
近くに「袈裟掛けの松伝承」の説明板があり、承応2(1653)年に江戸の将軍に直
訴した佐倉宗吾の子どもを逃がした際の動静についてなどが記され、植え替えられたゆか
りの松が立っていた。
斜面林が切れた辺りに桑の木があり、熟してきた赤い実がたくさん付いていた。
T字路に出て、すぐ先の公津地区スポーツ広場で小休止する。
野球グランドの横を進んで宗吾四丁目の戸建て住宅地に上がる。隣の宗吾三丁目の北端
から東に回り、車道に並行する細道を北に抜け、宗吾霊堂の参道入口から境内に入った。
宗吾霊堂は、真言宗豊山派東勝寺の管理する仏堂とのこと。
承応年間(1652~6)に下総佐倉藩の悪政で生活に苦しむ人々を救うため、公津村
名主の木内惣五郎は徳川4代将軍家綱に直訴し、10万の命を救う。だがその罪で承応2
年に本人と4人の子は刑に処され、その遺骸を現在の墓のところに埋葬したようだ。
百年後の1752年、佐倉藩主堀田正亮から「宗吾」の法号を送られ、立派な仏位を得
て宗吾を祭る宗吾霊堂としたという。
参道を入ってすぐ右に、その宗吾父子の墓がある。正面の山門は、宗吾霊350年祭記
念事業として、昭和53(1978)年に完成したものとか。
さらに進んで、大きな宗吾霊堂に参拝した。
霊堂の左手前に咲くヤマボウシは、「佐倉義民伝」の上映記念に歌舞伎役者が奉納した
もの。霊堂左手奥には「宗吾御一代記念館」があるが、入館は省いた。
薬師堂↑などを見ながら参道を戻り、宗吾霊堂交差点から南西に延びる県道137号に
平行する旧道を進む。稲荷神社の先で再び車道に入って南東へと緩斜面を下る。
車道を覆う宗吾霊堂の山門を抜けて、今日のゴール、京成本線の宗吾参道駅に15時54
分に着いた。
16時15分発の下り電車で、宿泊するホテルのある京成成田駅に向かう。
(参加 13人、天気 曇、距離 9㎞、地図 酒々井(しすい)、成田、歩行地 佐倉
市、酒々井町、成田市、歩数 18,000、累積標高差 上り130m、下り140m)
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第1日 2018年5月26日(土)
== 本佐倉城跡から早苗田の間を抜けて宗吾霊堂へ ==
京成本線の大佐倉(おおさくら)駅に11時に集合する。駅は無人で、駅周辺に商店は
無く民家も少ない。全員時間前に着いたので、10時58分に駅前を出発した。
駅の周辺でホトトギスとカッコウが鳴き、この日はこの先歩いた本佐倉城跡などあちこ
ちでもたくさん耳にする。
線路沿いを少し、北への細道を上がり、大佐倉集落の中心部にある宝珠院に入る。
開基は不詳のようだが、永徳3(1383)年の中興と伝えられ、天和3(1683)
年には京都・醍醐寺三宝院の直末となり、幕府から朱印30石を拝領し、佐倉藩内真言寺
院12ヶ寺などの筆頭になったとか。
本佐倉城(もとさくらじょう)千葉家の祈願寺としての由緒を残し、佐倉藩堀田家(ほ
ったけ)とも縁ある寺院でもあったようだ。
佐倉市保存樹のタブやイチョウ、タラヨウなど豊富な新緑が境内を覆い、アジサイが咲
き出し、ツツジはヤマボウシも花を見せていた。
東南に下り京成線をこ道橋で越えて線路の南側沿いを東へ、築堤になった線路下を抜け
て折り返し、宝珠院の東側にある勝胤寺(しょういんじ)に回る。
勝胤寺は、これから行く本佐倉城の3代城主・千葉勝胤(ちばかつたね)が菩提寺とし
て建立したとのこと。
本堂前には、千葉家の遠祖である平忠頼が産湯につかったと伝わる、「千葉水」が流れ
出ている。
境内のアジサイやガクアジサイが咲き出し、ツツジも咲き残っていた。
本堂左手墓地の奥の樹林下には千葉家供養塔の五輪塔が並び、最奥に千葉勝胤の宝篋印
塔(ほうきょういんとう)がある。
京成本線の南側に戻って早苗田の横をすぐ、民家横の屋根掛けの下に5基の石像が並ぶ。
そばのT字路際には古い道しるべの標石が残り、「根古屋ヲ経て南酒々井・・」などの文
字が読めた。
南側一帯に広がる台地のこんもりした森が本佐倉城跡で、台地下まで進んで、その北側
凹部付近から城跡へ。
「国指定史跡 本佐倉城跡 東光寺ビョウ」の標柱横から入り、山すそを進むと「本佐
倉城跡全体図」や、「マムシ注意!」の掲示などがあった。
さらに「セッテイ虎口(こぐち)」を上がり「金明竹(きんめいちく)の小径」に出た。
周辺はその金明竹の林で、節(ふし)と節の間に緑と薄黄色の縞模様が表れた特徴的な
竹が群生していた。
竹林の間を「セッテイ空堀」に下るとホタルブクロが咲く。
城北側の玄関口「東光寺ビョウ」に回り、北側の田園地帯やその先の順天堂大のある台
地などを一望した。
東側の「Ⅳ郭虎口」から再び南進して「大堀切」を抜け、城山に向かう。「城山虎口」
を入って「城山門跡」を過ぎ、本丸のあった広い草地の「城山」に上がり、その規模を確
認する。
いったん下って南西側の「奥ノ山」へ上がる。ここも広い草地が広がり、その南端の
「妙見宮跡」近くにあったベンチに12時30分に着き昼食にした。
13時5分に昼食地を後にした。南西側の「倉跡」から南東に下り、根古屋集落際に出
る。ここには「国指定史跡 本佐倉城跡」の大きな標石と説明板があり、城跡見学の表口
のよう。飲料水の自販機も、城跡ゆかりのデザインである。
城跡と谷地田の間を北東から北西へと回り込む。早苗田の間を北進して京成本線の北に
抜けた。
さらに広がる早苗田の間を、北側の順天堂大の建物や斜面林など眺めながら東進する。
休耕田となってアシの伸びた辺りでは、ヨシキリがひときわ賑やか。
農水省酒々井排水機場の横を通過し、京成酒々井駅方面からの車道を横断する。1本北
側の農道に回って少しずつ向きを北東へと変え、柏木集落西部の斜面林が近づいた辺りで
山すその道路へ。
近くに「袈裟掛けの松伝承」の説明板があり、承応2(1653)年に江戸の将軍に直
訴した佐倉宗吾の子どもを逃がした際の動静についてなどが記され、植え替えられたゆか
りの松が立っていた。
斜面林が切れた辺りに桑の木があり、熟してきた赤い実がたくさん付いていた。
T字路に出て、すぐ先の公津地区スポーツ広場で小休止する。
野球グランドの横を進んで宗吾四丁目の戸建て住宅地に上がる。隣の宗吾三丁目の北端
から東に回り、車道に並行する細道を北に抜け、宗吾霊堂の参道入口から境内に入った。
宗吾霊堂は、真言宗豊山派東勝寺の管理する仏堂とのこと。
承応年間(1652~6)に下総佐倉藩の悪政で生活に苦しむ人々を救うため、公津村
名主の木内惣五郎は徳川4代将軍家綱に直訴し、10万の命を救う。だがその罪で承応2
年に本人と4人の子は刑に処され、その遺骸を現在の墓のところに埋葬したようだ。
百年後の1752年、佐倉藩主堀田正亮から「宗吾」の法号を送られ、立派な仏位を得
て宗吾を祭る宗吾霊堂としたという。
参道を入ってすぐ右に、その宗吾父子の墓がある。正面の山門は、宗吾霊350年祭記
念事業として、昭和53(1978)年に完成したものとか。
さらに進んで、大きな宗吾霊堂に参拝した。
霊堂の左手前に咲くヤマボウシは、「佐倉義民伝」の上映記念に歌舞伎役者が奉納した
もの。霊堂左手奥には「宗吾御一代記念館」があるが、入館は省いた。
薬師堂↑などを見ながら参道を戻り、宗吾霊堂交差点から南西に延びる県道137号に
平行する旧道を進む。稲荷神社の先で再び車道に入って南東へと緩斜面を下る。
車道を覆う宗吾霊堂の山門を抜けて、今日のゴール、京成本線の宗吾参道駅に15時54
分に着いた。
16時15分発の下り電車で、宿泊するホテルのある京成成田駅に向かう。
(参加 13人、天気 曇、距離 9㎞、地図 酒々井(しすい)、成田、歩行地 佐倉
市、酒々井町、成田市、歩数 18,000、累積標高差 上り130m、下り140m)
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