あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

九品仏、等々力渓谷や駒場野公園を歩く(東京)

2012-07-09 22:12:36 | カントリーウオーク
 2012年7月8日(日)

 梅雨の中休みとなったこの日、カントリーウオークグループの第195回例会は、東京
二十三区内に緑陰を求めて開催した。

 渋谷駅西口に9時に集合した20人は東急東横線に乗り、自由が丘駅で東急大井町線に
乗り換え、次の緑が丘駅で下車する。

 駅のそばから始まる九品仏川(くほんぶつがわ)緑道でコース地図が配布され、9時
50分にスタートした。


 == 九品仏から等々力渓谷を巡る ==

九品仏川緑道は、目黒区と世田谷区の区境になっている九品仏川を暗渠(あんきよ)に
して、その上を緑道にしたもので、九品仏浄真寺の北にある猫じゃらし公園まで約1.8
㎞あるという。

 川の両側が車道、真ん中が緑道になっていて。ソメイヨシノやオオシマザクラなどの桜
並木が続き、ツバキ、ツツジ、クチナシなどとともに、良い緑陰が続いている。


 少し進むと、道路脇の民家のムクゲがきれいな花を見せる。先ほど乗り換えた自由が丘
駅付近は賑やかな商店街になっている。




 駅の南で東横線の踏切を、さらに大井町線の踏切も渡り、行く手に見える森を目指して
奥沢七丁目の住宅街に入った。


 教会のような十字架のある屋根の玉川聖学院高校の北や、天然酵母パンの工房前などを
通過し、九品仏浄真寺(じようしんじ)の東門を入った。


 浄真寺は延宝6年(1678)の創建。この地はもと世田谷吉良氏系の奥沢城だっが、
小田原征伐後廃城となり、当地の名主七左右衛門が寺地としてもらい受け、珂碩上人
(かせきしようにん)が開山したという。

 3万6千坪という広い境内は、樹齢700年以上というカヤ↓を始め、イチョウ、トチ、
コウヤマキ、ボダイジュ、シイ、モミジなどの大木古木が多く、寺域一帯は深い緑に覆わ
れている。


 東門を入りすぐ左に、宝永5年(1708)建立で精巧な木彫で飾られた鐘楼がある。
関東でも名楼といわれ、暮れの除夜の鐘には、遠近の参詣者で賑わうという。


 正面には、「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)建立の重厚な
仁王門が大きくそびえる。楼上には、阿弥陀如来と二十五菩薩が安置されているようだ。



 仁王門を入り右手に立つ大本堂は方形屋根。傍らに石を配した池があり、そばの半夏生
(はんげしよう)が花を見せていた。


 円形に整えた石のつくばい(手水鉢)も、なかなか趣がある。


 本堂左手に東京都天然記念物の「九品仏のイチョウ」が高く枝を広げ、ギンナンがたわ
わに実をつけていた。その枝下には、天保年間(1830~)のものという仏足石がある。


 本堂の西に三つの阿弥陀堂が並び、各々3体ずつ合計9体の印相の異なる阿弥陀如来が
安置されている。これをあわせて九品といい、九品の仏から浄真寺が通称「九品仏」と呼
ばれているようだ。


 阿弥陀堂の背後には、開山した珂碩上人(かせきしようにん)の御廟、開山廟(かいさ
んびよう)が、近くに、紀元前3世紀のインドの阿育(あしよか)王を祭る阿育王塔など
があった。

 ゆっくり境内を拝観して東門に出る。クロマツなどの並ぶ長い参道を南へ抜け、東急大
井町線の九品仏駅の横を通過する。

 線路の南を平行する通りに入り、奥沢八丁目のゆとりある住宅地を西へ。尾山台中の北
を通過し、今日まで七夕イベントを開催中の尾山台駅周辺の商店街を抜けて、等々力(と
どろき)二丁目へ。


 高架で大井町線を越える都道312号(目黒通)下を過ぎると、等々力駅南西の交差点。
交差点際にある世田谷区保存樹木の大ケヤキ際で小休止した。

 すぐ西の、ゴルフ橋際が等々力渓谷の入口となる。等々力渓谷は、武蔵野台地の南端、
国分寺崖線(がいせん)(通称ハケ)を谷沢川が浸食してできたもの。台地と谷との標高
差は約10mあり、延長約1㎞の東京都区内唯一の渓谷で、下流の南に向かって遊歩道が
設けられている。


 ゴルフ橋の横から階段を下り、左岸の遊歩道を進む。深い谷の両岸は、ケヤキやシラカ
シ、コナラ、イロハカエデなどの樹木に覆われている。シダなどの湿性植物も多く、東京
二十三区内とは思えぬうっそうとした深い渓谷が続き、ひんやりとして涼しい。


 200m足らずで橋を渡り右岸に回る。さらに進んで左カーブした対岸に不動の滝があ
り、流れは細いが三筋の流れの横に小さいお堂が祭られていた。

 滝の背後を上がると等々力不動尊だが、右岸の階段を上がり、日本庭園の上の芝生広場
に11時58分に着き、芝生にシートを広げて昼食とする。遅れてきたKさんも、ここで
合流した。


 食事中に雲が切れ、日が差してきて少し蒸し暑くなった。記念撮影とミーティングをし
て、12時50分に出発する。


 == 駒場野公園から代々木公園へ ==

 芝生広場横の書院前を通過して渓谷に下り、往路を戻って等々力駅に行く。13時11
分発溝の口行き電車で二子玉川駅へ。

 東急田園都市線に乗り換え、渋谷駅の手前の池尻大橋駅で下車し、次のコース、北方に
ある駒場野公園に向かう。

 上を首都高3号線が走る玉川通りを渋谷方向に少し進み、大橋二丁目に入る。東邦大大
橋病院の南から西に回り、警視庁第三機動隊の間を北に抜ける。

 都道423号を少し西進して北に折れ、駒場野公園に入った。駒場野公園は、東京教育
大農学部跡地を利用して作られ、面積は2.8haあるという。



 よく茂った広葉樹に覆われたこの園内も、緑がいっぱい。近隣の子供会の親子らしいグ
ループが、バーベキューを楽しんでいた。


 北に緩やかに下ると「水田の碑」があり、明治11年(1878)にここに開設した農
学校の農場の一部でわが国最初の試験田、実験田が出来、以後耕作を続けていることが記
され、背後の谷間に今も残る水田が見下ろせる。


 その横を下り、蛍橋を渡った先には「ケルネル水田」の説明板があり、この水田が旧駒
場農学校の実習田で、ドイツ人オスカー・ケルネルの指導で、日本農業の特質を配慮した
農芸化学に多くの成果を収め、現在は筑波大付属駒場中、高校で教育水田として生徒が実
習していると記されていた。

 公園の北を走る京王井の頭線の踏切を越え、駒場四丁目の日本民藝館前に回る。昭和初
期、柳宗悦(やなぎそうえつ)らの提唱で始まった民芸運動の本拠地として、昭和11年
(1936)に開設したもの。建物は国登録有形文化財になっている。


 入館はせずに東に向かい、東大教養学部構内に西側の第2グランド横から入った。グラ
ンドではクリケットの練習をしている。


 構内中央を東西に貫く、イチョウ並木の通りを東に進む。新しい建物の北を回り、構内
東側にある駒場池を見下ろすところに行く。


 愛称「一二郎池」と呼ぶ池には、一周できる遊歩道があるが、一般者は西側の一部だけ
しか立ち入り出来ない。池に下り立ち入り可能な橋で戻る。橋では、近隣の子どもザリガ
ニを釣っていた。

 裏門から出て、都道317号山手通りへ。地下を走る有料道路、中央環状線が完成して
いて、このあたりは路幅が広がり以前と様相が一変していた。


 富ヶ谷一丁目で右折して井の頭通に抜ける。代々木公園交番前交差点を左折し、西門か
ら広大な代々木公園に入った。この園内も緑がいっぱいで、入園者も多い。



 二つの大きな噴水のある池の南を回り、バラ園のアーチをくぐる。15時53分にJR
山手線原宿駅西側に着き、ゴールとする。

(天気 曇後晴、参加 21人、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、
 東京西部、歩行地 目黒区、世田谷区、渋谷区、歩数 21,000)





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「駅からハイキング」で没後100年の啄木をしのび盛岡を歩く(岩手)②

2012-07-05 13:23:42 | JR東日本駅からハイキング
 2012年6月27日(水) (続き)

 岩手県公会堂は昭和2年(1927)、昭和天皇のご成婚を記念して建てられたもの。

 早稲田大学大隈講堂に似たモダンな造りで、南側の玄関の方に回ると、自由に入館でき
ると表示があったので入り、1階廊下を一巡した。




 県道1号を東へ進み、行き止まりの盛岡市役所の東に回り、再び中津川右岸沿いの道へ。

 対岸に白壁と瓦屋根の古そうな建物が見える。「ござ九」と呼び、江戸後期から明治に
かけて灯明用の灯心や、わら工品などを扱った豪商の商家のようだ。




 次の中の橋を渡ってすぐ東に、岩手銀行中の橋支店の、赤レンガと白い花崗岩の帯の美
しい建物が目に入る。

 東京駅などを手がけた辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司工学士の設計により、明治44
年(1911)に建てられた旧盛岡銀行。国の重要文化財で、盛岡市の保存建造物第1号
である。

 銀行の南側のビル2階の、盛岡の観光拠点「プラザおでって」が今日のチェックポイン
ト。スタンプを押して、近くの「駅からハイキング」協賛の食事どころを聞く。


 プラザには観光パンフレットが並び、さんさ踊りやちゃぐちゃぐ馬っこの飾り付けが展
示されている。1階には岩手、秋田、青森の特産品特売場があった。



 教えたもらった食事どころは、ひとつ南の通り、高いアーケードの肴町商店街の東側に
あり、名物わんこそばの店で知られるという東家。


 さすが人気の店らしく、壁面いっぱいに来店した著名人の色紙が並んでいる。


 13時を過ぎていたので幸い空いていて、注文したとろろ肉そばも、そう待たずに来た。
そばも、協賛でサービスのリンゴジュースも美味しくいただいた。


 気温が上がり午後の日差しは暑くなったが、まだ先がある。岩手銀行とプラザおでって
の交差点まで戻って南西に向かう。

 すぐ近くに、国の重要文化財に指定されている旧第九十銀行本館を活用した「もりおか
啄木・賢治青春館」があり、入館する。

 盛岡出身の建築家、横浜勉の設計で明治43年(1910)竣工の建物。


 石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街の紹介や、二人の作品などが展示されていた。


 さらに南西へ。下の橋に近い下ノ橋町に新渡戸稲造(にとべいなぞう)生誕の地があり、
小公園になっていた。


 新渡戸稲造は、文久2年(1862)南部藩士の三男としてここで生まれ、農政学を専
攻して札幌農学校や東京帝大などで青年の教育に当たり、のち台湾の開発や国際連盟事務
局次長など、国際人として欧米でも活躍している。


 下の橋に出て、中津川左岸沿いを下橋中学校のそばまで行く。校門前に、二人の歌を刻
んだ比較的新しい「啄木・牧水友情の歌碑」があった。




 校門の横には「金田一京助ゆかりの地」の説明板があるが、字がかすれて読みにくい。

 中の橋同様、木の欄干に擬宝珠のかかる下の橋を渡り、盛岡城跡公園(岩手公園)に南
端から入る。


 慶長年間(1596~)に南部信直が築城を開始、寛永10年(1633)歴代藩主の
居城となったところ。石垣は盛岡産の花崗岩を積み上げたもので、日本百名城の一つにな
っているとか。国史跡に指定されていて、2006年に開園100年を迎えている。



 園内は桜やモミジなどが豊富で、新緑の彩りが気持ちよい。


 最高点の本丸に上がり、朱塗りの渡雲橋を渡って二の丸へと進み、消防義魂碑や石川啄
木歌碑などを見る。啄木歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書という。


 三の丸を経て、大きな烏帽子岩が目につく桜山神社の横から公園を出た。


 東大通りを公園の東に回り、近代建築の「もりおか歴史文化館」に行く。


 1階は盛岡の観光情報や伝統文化の紹介をしており、2階では盛岡藩主南部家ゆかりの
資料などが展示されていた。



 大通りを駅の方向に向かう。アーケード街の間に花の飾られた一角を過ぎ、大通二丁目
に入る。丸藤という建物の前に、啄木少年像が立っていた。


 開運橋を渡り、盛岡駅構内の北東北観光センターに15時20分にゴールした。ゴール
の受付を済ませ、近くの緑の窓口に行く。期待した一本前の上り東北新幹線こまちはすで
に満席。待合室や1階の土産物街などで時間を待ち、予定していた16時41分発の、こ
まち32号で帰途についた。

(天気 快晴、距離 10㎞、地図 「歩いてたのしむまち盛岡MAP」、歩行地 盛岡
 市、歩数 20.600)



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「駅からハイキング」で没後100年の啄木をしのび盛岡を歩く(岩手)①

2012-07-04 16:45:24 | JR東日本駅からハイキング
 2012年6月27日(水)

 JR東日本「駅からハイキング」最終日も快晴で、最高気温は28度くらいになる予報。
今日の「駅からハイキング」は、「石川啄木没後100年 在りし日の啄木をしのぶ」と
いうテーマで、岩手県の県庁所在地、盛岡である。

 受付は10時からだが、8時40分頃には宿泊した東横イン盛岡駅前を出た。北上川か
ら岩手山を見ようと近くの開運橋へ。

 ちょっと霞んでいるのと右手にビルがかかるので、左岸沿いにひとつ上流の旭橋まで行
く。岩手山はやはり霞んでいるが、今日の暖かな気象条件では仕方ない。


 右岸の遊歩道を開運橋まで戻り、近くの郵便局で不要荷物をゆうパックにして自宅に送
った。

 盛岡駅ビル2階にある北東北観光センターに9時半近くに行き、「駅からハイキング」
の受付を早めてもらえぬか聞いたら、よいという。受付を済ませ、9時32分に盛岡駅を
出発した。

 アーチ型の開運橋そばまで行き、先ほど戻った北上川右岸沿いの遊歩道に入る。


 遊歩道は「啄木であい道」になっていて、緑陰のところどころに啄木や節子夫人の歌碑
が立っていた。





 旭橋を渡って北東に進む。幅広い県道1号線を東にすぐにあった標識に従い、「啄木新
婚の家」へ。


 啄木が節子と結婚した明治38年(1905)6月からの新婚当時住んだ家とのこと。
でも二人だけでなく、両親と妹も一緒の5人での生活だったようだ。


 邸内に、啄木が勤めていた朝日新聞社があった東京・銀座ゆかりの「銀座の柳三世」が
植えられている。

 私と同じ頃訪れた弘前市の石川中一年生の5人から、一緒に写真をと誘われ並び、その
後私も5人の皆さんを撮らしてもらった。

 「中央通」と呼ぶ県道1号を、中心街に向かう。通りに、近くにある岩手山神社の祭り
ののぼりが並んでいる。


 ポスターを見ると、間もなくの7月7日と8日夜が祭典らしい。東北各県の真夏の祭典
のひとつ、「盛岡さんさ踊り」のポスターも見られた。


 国道455号との交差点際、盛岡地方裁判所構内に、大きな花崗岩の割れ目から幹の伸
びた「石割桜」がある。


 この地は盛岡藩家老だった北家の屋敷跡。桜の樹齢は350~400年といわれ、国の
天然記念物。毎年4月中旬に見事な花を咲かせるという。


 交差点から東側の街路樹はトチ、大きな枝振りで、この先よい緑陰が続いているが、こ
こで左折して国道を北に向かう。


 両側は岩手医大と付属病院の建物が並び、右手建物の入口付近に、「岩手病院」という
宮沢賢治の歌碑があった。


 賢治は大正3年(1914)4月に約1か月ここに入院し、病院の看護婦さんと初恋を
した思い出の場所らしい。

 本町通交差点を通過して、国道は右から左へと緩やかにカーブする。カーブ点に、「赤
喜」という赤瓦屋根の大きなそば店があった。


 その先両側は藩政時代からの寺町で、大屋根の寺院が続いている。


 最初の寺、東願寺の塀際に、日本の道百選「塩の道」のりっぱな標石があった。

 北山バス停そばの清養院には、「宮沢賢治ゆかりの地」の説明板がある。明治42年
(1909)、盛岡中学に入学した賢治は、4年生の時に寄宿舎の舎監排斥運動で寮を追
われ、この寺に1年間下宿したことが記されていた。


 隣の龍谷寺は「啄木遺蹟」のひとつ。母方の伯父対月が寺の住職をつとめ、啄木の父母
の縁がこの寺で結ばれたとか。少年時代の啄木はしばしこの寺を訪れ、伯父から詩歌の手
ほどきを受けたという。


 本堂前には、国の天然記念物モリオカシダレの古木があるが、最初入ったときには気づ
かず、後から戻って確認した。


 龍谷寺で寺町が終わり、変則四差路の交差点になる。交差点西際には「白楊」の看板が
出た問屋のような大きな建物があるが、何の店かは確認しなかった。



 交差点から北山交番↑の前を少し進んで、報恩寺に行く。当初三戸(さんのへ)に創建、
慶長6年(1601)にここに移転したとか。藩政時代は200石を有し、南部領内の総
領で、現在も寺域7千坪を有するという。


 精巧に組まれた仁王門を入ると、杉木立やモミジなどの深い緑陰に覆われ、正面に本堂
が、左手に五百羅漢を祭る羅漢堂↓がある。

 
 五百羅漢は、享保16年(1731)から4年かけて造立したもの。制作は京都の仏師
9人で短期間に完成し、造立年代や願主、制作者まで明確な五百羅漢は全国でもまれなこ
ととか。

 羅漢像と羅漢堂は盛岡市文化財になっている。本堂から入り、古い鐘や仏像、仏具など
並ぶ廊下を回って五百羅漢を拝観する。


 金色に塗られた木造の羅漢像は、堂内両側や正面仏像背後の五段の棚に鎮座していた。


 ちなみに啄木は、文学に親しみ始めた盛岡中学時代、この報恩寺を含む北山一帯で好ん
で吟行をしたという。

 折り返して南に向かい、グランドの横を回って三ツ石神社に入る。社殿の右手に、しめ
縄をかけた三つの大岩が並んでいた。


 昔この地に住んで住民を悩ました鬼がいたので、三ツ石の神にお祈りして鬼を捕らえて
もらい、境内の三つの石にしばりつけた。鬼は二度と悪さはせず、この地にやって来ない
と誓ったので、約束のしるしに三ツ石に手形を押させて逃がしたとのこと。


 岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源といわれ、鬼の退散を喜んだ住民連が、
神に感謝の真心を捧げた踊りが「さんさ踊り」の起源といわれているという。

 少し南から先ほど訪ねた龍谷寺に戻ってモリオカシダレを確認し、三ツ石神社の東へ。
下小路中学の南を回り、中津川の富士見橋際へ。日陰がなく暑いが、右岸堤内の遊歩道に
入り、次の上(かみ)の橋まで行く。


 橋の高欄(こうらん)にある擬宝珠(ぎぼし)は、1609年に南部氏二十七代利直が、
城下町盛岡の整備でこの橋を架橋したとき、かつての領国三戸城から移されたとか。現在
の橋は1935年の架設のようだ。


 橋の下流あたりでは、秋になるとサケの遡上が見られるという。


 橋のそばの旧県立病院跡地を活用した緑の広場を横切り、岩手県公会堂の北に出た。
                                   (続く)



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JR東日本「駅からハイキング」で みなとまち八戸を歩く(青森)

2012-07-02 20:57:43 | JR東日本駅からハイキング
 2012年6月26日(火)

 「駅からハイキング」、3日目のテーマは「みなとまち八戸(はちのへ)、懐かしき
昭和を感じながらぶらり旅」、スタートはJR八戸線で八戸駅から四つ目の陸奥湊(む
つみなと)駅である。

 「イサバと朝市の陸奥湊」と書かれた駅前の小さな観光案内所で「駅からハイキング」
の受付をして、8時18分に出発した。駅前広場に「イサバのカッチャ」像がある。イ
サバとは魚商人で、カッチャはお母さんのことらしい。


 駅前の通りには、魚市場や鮮魚店、食堂、寿司店などが並んでいる。目の前の中央魚
市場に入ると、美味しそうで安い商品がたくさん並んでいた。




 それらの店を見ながら東に進み、Y字路を左折して港の方に向かう。八戸大橋に上が
る広い道路を横断して、館鼻(たてはな)漁港に出た。

 八戸大橋や港を整備中らしい大型クレーンが目につき、大漁旗を掲げた船も近くに停
泊している。


 港に沿って植栽のある遊歩道を進むと、観光案内所や産直品販売などをする「みなと
の駅」があったが、早いのか閉店していた。


 その角を右折して突堤にある八戸水産公社の建物のところに行く。建物の1階に、そ
ば処と「漁港ストア」と呼ぶ海産物などを売る店があったが、名前で想像するよりは小
さめの店舗だった。

 でも、日曜の日の出前から9時頃には、この周辺に約350店舗が出店し、多いとき
は3万人もの人出となる八戸市最大の「鼻岸壁朝市」が開催されるという。


 建物の北に回り、八戸大橋↑や大型クレーンの工事現場などを眺めながら戻るように
進む。昨年の東日本大震災の災害復旧工事の看板があり、この港も被災したことが知れる。

 長く伸びる漁業関係者のものらしい建物が終わると小さいドックがあり、竣工した漁
船の進水準備が進められていた。


 八戸大橋への取り付け道路下に、恵比須龍神社が立っている。漁業関係者の守り神の
ようだが、取り残されたように立つ社殿が、ちょっと淋しい感じだ。


 対岸に石油基地の林立する円筒形のタンクが近づき、港の奥には別の漁港の建物が見
える。



 正面の高台にそびえる展望塔を目指し、傍らにハマナスの咲く階段から館鼻公園に上
がった。そばに八戸海上保安部八戸信号所の、クリーム色の建物がある。

 公園の中心は、桜の杜(もり)広場と日和山広場。桜の杜広場はソメイヨシノが多く、
海側の展望が広がる。日和山広場には二つの銅像や三陸津波記念碑、慰霊観音忠魂碑な
ど八つの記念碑が立っていた。




 記念碑の背後には「グレットタワーみなと」と呼ぶ展望塔がある。平成19年4月に
オープンしたもので、展望塔の高さは概ね7階建て相当の24.2m、展望室の床の標
高は海抜47mだという。

 階段もあったが気づかず、エレベーターで上がると、眼下に八戸の臨海工業地帯や市
街地、港や八戸大橋などが一望できる。


 遠方には名久井岳、折爪岳、階上岳など周辺の緩やかな山容も望まれるが、展望写真
に記された八甲田連峰は霞がかって確認できなかった。


 一昨日、弘前など津軽地方で瓦屋根の家がほとんど見られないことに気づいたが、展
望塔から見下ろすこのあたりも、トタン屋根ばかりだった。


 展望塔を降り、次に向かう。公園の南には八戸測候所がある。近年、地方の測候所は
かなり閉鎖されたが、八戸は重要な漁港なので残されたのだろうか…。


 南側の住宅地に向かって緩やかに下り、途中で右折して細い路地に入る。右手に簡素
な社殿の八坂神社があり、ニレかと思われる大樹が、大きく枝を広げていた。


 神社の階段から、南側に大屋根の寺が見えたので回ってみる。浄土宗十王院で、寛文
7年(1667)の開山。本尊阿弥陀如来は八戸藩南部家から元禄15年(1702)
に拝領したという。

 本堂はコンクリート造り。本堂前から墓地が並び、墓地の一隅に天保2年(1831)
建立の徳本行者名号碑(とくほんぎょうじゃみようごうひ)が立っていた。


 徳本行者は和歌山県日高郡の人で、念仏の実践者として将軍家から庶民まで多くの支
持を得た江戸後期の名僧。紀州から江戸まで念仏行脚(あんぎや)し、江戸小石川の伝
通院(でんつういん)に住んだという。

 何年か前に熊野古道を歩いたとき、三重県尾鷲市(おわせし)で同じような名号碑を
見た記憶があり、この遠隔地の北東北にも縁があったのかと、認識を新たにした。


 少し先には数本の大ケヤキに囲まれた大佑神社があり、社殿の前に「大佑明神岩」と
呼ぶ大岩が祭られている。

 健保2年(1214)にこの地に着いた工藤大佑が、神勅により承久2年(1220)
神聖な岩を「磐座(いわくら)」として弁財天を祭った岩とのこと。以後、淋しかった
この村を、豊漁祈願により大漁をもたらし村人に喜ばれ、海上安全、大漁満足、商売繁
盛などの神として祭られているという。


 台地下に出て左折したところに、看板は「駒井酒造店」だが、安永4年(1775)
創業という八戸酒造のレンガ造り大きな建物が並び、軒先に大きな杉玉が下がる。さす
がここだけは瓦屋根である。


 予約しなかったので見学はできなかったが、入口の周辺だけをのぞかせてもらう。

 建物は、大正5年(1916)竣工の北蔵を始め、文庫蔵、西蔵、煉瓦蔵、主屋(お
もや)と煉瓦塀など、ほぼ大正年間竣工の姿を残して事業を継続していて、八戸市景観
重要建造物指定第1号で、国の登録有形文化財となっている。

 南側の交差点を右折して、新井田川の湊橋を渡る。両側には小型漁船がたくさん係留
されている。


 小中野(こなかの)バス停際に、古い木造の洋館が立っていた。大正6年(1917)
年頃、八戸商業銀行小中野支店としてに建てられ、その後平成元年まで燃料販売会社旭
商会の事務所として使用されたもの。


 国の登録有形文化財だが外観はかなり傷んでいて、修復の手立てはないものだろうか
と思う。

 南側の新湊橋からの通りを進んで、「駅からハイキング」のチェックポイントになっ
ている新むつ旅館に行く。


 木造二階建ての大きな建物。遊郭(ゆうかく)として明治31年(1898)に創業
し、昭和33年(1958)からは旅館として営業しているという。トイレを借りよう
と声をかけたら、おかみさんが案内してくれるというので上がる。


 ほぼ建設当時のままという室内、黒光りの階段や柱、二階の部屋や手すり、釘隠し飾
りなどに老舗らしい歴史が感じられる。


 遊郭時代の明治後記の、遊客名簿や写真も残されていた。手の込んだこの建物も、国
の登録有形文化財である。

 見どころはここで終わり、ゴールの駅に向かう。狭いスペースに立つ古峯神社前を通
過し、新湊橋を渡る。橋際に難波したらしい船が見える。東日本大震災で被災したのだ
ろうか…。


 港町らしい商店の並ぶ通りを進み、11時10分に陸奥湊駅前の観光案内所に着いた。
ゴールの受付を済ませ、上り列車の時間待ちの間にそばの魚菜小売市場に入り、魚の干
物などを求める。


(天気 快晴、距離 6㎞、地図 駅からハイキング用手書き地図、歩行地 八戸市、
 歩数 10,000)


 首都圏では見られなくなった旧国鉄塗色の、11時35分発ディーゼル列車に乗る。


 予定より早かったので、二つ先の本八戸駅で途中下車して、駅前の台地にある三八城
公園に行く。



 公園は八戸城跡に造られたもの。桜やツツジなど緑が豊富で、最高点には八戸城址碑
や消防組頭碑、八戸藩初代南部直房公碑などがある。





 その下に人口の滝や池、子どもの遊具などがあり、高台なので八戸市中心部の展望が
開ける。


 短時間で駅に戻り、次の上り列車で八戸駅に着く。急ぎ昼食を済ませ12時57分発
上り東北新幹線はやて26号で、次の目的地盛岡に向かった。


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JR東日本「駅からハイキング」で城下町弘前を歩く(青森)②

2012-07-01 21:06:52 | JR東日本駅からハイキング
 2012年6月25日(月) 〈続き〉

 「駅からハイキング」のゴール、弘前市立観光館のそばに、県重宝の旧弘前市立図書
館がある。ルネッサンス様式の建物で、二つのドームや白壁の中に落ち着いた彩りの窓
枠が、建設当時のモダンさを感じさせる。


 道路を隔てた西側は、弘前市役所。


 市立観光館内部には、弘前ねぷたまつりの大きなねぷたが飾られていた。


 ゴールの受付をしてもらい、館内にあったレストラン追手門で、ミニ丼ランチを注文
して昼食をする。

 このあと、北側に広がる弘前公園と仲町伝統的建造物群保存地区を巡ることにして、
弘前公園の南側、追手門を入る。


 弘前公園は、津軽統一を果たした津軽家初代藩主為信(ためのぶ)が慶長8年(1603)
に計画し、二代信枚(のぶひら)が慶長16年に完成した津軽氏の居城跡。広さ約49.2Ha、
東京ドーム10個分以上あり、三重の堀と土塁に囲まれていて、国指定史跡になっている。



 公園内は、春の花どきに話題となる桜が多く、好天で気温が上がった今日はよい緑陰
になっている。

 追手門を入ると、「弘前アイス組合」のミニ屋台でソフトアイスを販売していた。
100円だがたくさん盛ってくれ、さっぱりした味わいが暑さを和らげてくれる。公園
内の何か所かで販売していた。




 レンガ積みの市立博物館横を進んで、朱塗りの「杉の大橋」を渡る。


 隣接する県立弘前工業高校の向こうに、岩木山がほぼ全容を見せてくれた。




 緑いっぱいの二の丸の下乗(げじよう)橋から、文化8年(1811)に再建という
天守閣を眺める。

 時間が無いので観覧はせずに先に進む。



 弘前市古木名木のソメイヨシノ↑や、県天然記念物王鹿石の巨岩↓、二の丸東門与力
番所などのそばを通過し、あふれるばかりの桜やモミジの新緑を眺め、北門を出た。


            二の丸東門与力番所    
         
           


 ちなみに北門(亀甲門)は、5棟残る城門中で特に規模が大きく、形状も異なり最古
の形式だという。


 弘前公園の北側一帯は、国の仲町伝統的建造物群保存地区になっている。北門を出て
亀甲橋を渡った向こうには、国重要文化財の石場家住宅がある。



 城の北側の堀に沿って東へ。堀を埋めるコウホネが咲き出していた。城の東北端、交
差点際は川崎染工場の建物。「津軽天然藍染」と書かれたのぼりがゆれている。




 交差点の斜前には、地元の新鮮な農産物などを販売する「ひろさき新撰組」があった。


 川崎染工場の横を入って次の通りで右折して東へ。同じ針葉樹の生け垣の屋敷が続き、
独特の景観を見せる。


 保存地区の東南端には、かやぶき屋根の武家住宅、旧岩田家が公開されていた。寛政
時代(1789~1801)末から文化年間(1804~18)に建てられたと推定さ
れるもの。

 江戸時代後期の武士の生活を知る貴重な建築遺構の一つだという。


 保存地区を離れ、駅に向かう。交差点のそばの亀甲町広場には、落ち着いた和風建築
の休憩所がある。


 南進してNHKの角を曲がり、さらに進むと、東北最古のプロテスタント教会という、
クリーム色が美しい弘前教会の礼拝堂が目に入る。明治39年(1906)の建築で、
明治のゴシック式木造建築としては極めて貴重な建物と記されていた。


 教会の角を曲がって南西へ。弘前郵便局前などを通過して、14時50分にJR弘前
駅に着いた。


(天気 晴後快晴、距離 12㎞、地図 「ひろさきガイドマップ」、歩行地 弘前市、
 歩数 18,200)



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