あるきメデス

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比企丘陵北部から畠山重忠ゆかりの地を歩く(埼玉)

2017-12-18 18:30:23 | カントリーウオーク
 2017年12月9日(日)

 埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループの第249回例会に参加した。

 東武東上線の小川町駅に集合して10時15分発熊谷駅行きバスに乗り、10時30分
に西古里(にしふるさと)バス停で降りた。

 担当のKさんから今日の行程の説明があり、3組に分かれてスタートする。

 == 比企丘陵北部を抜けて埼玉県農林公園へ ==


 県道11号を少しで、田んぼの中を北に伸びる道を北へ。行く手にカヤの大木が目に入
り、そのカヤの立つ重輪寺に入った。

 嵐山町指定天然記念物の大カヤで、樹高約18m、幹周り約5m、推定樹齢は約350
年という。
      
 重輪寺の開山は慶長年間(1596~1615)とされ、カヤの植樹は草創後50年後
と伝えられているようだ。

 本堂は禅寺らしい落ち着いたたたずまい、小さい山門の前に近年の建立らしいい風神、
雷神像と曹洞宗の開祖・道元禅師立像が立っていた。
 

              

 寺の前を東進して県道69号を横切り、東側台地の集落に上がって兵執(へとり)神社
に行く。このような名の神社は、私は初めてのように思う。

 境内は杉など豊富な樹林に覆われていて、八幡神社、稲荷神社などいくつかの摂社があ
る。


 地図上は南東側に寺マークもあるがそこには廃屋が残るのみで、どうやら廃寺になった
ようだ。そばの大きなピラカンサがたくさんの実をつけていた。


 東側の車道を北に向かい、右カーブ点で車道に分かれて山道に入る。その入り口付近に
まん丸で小さいカキが実っていた。取って熟したのを口に入れたら、少し渋みがあるが甘
くなっていた。
     


 山道といっても軽自動車が通れるくらいの幅があり、傾斜もほとんど無く歩きやすい。
     
日当たりのよいところや木陰などを抜けて行くと、金網に囲まれた広い敷地の県立循環器
・呼吸器病センターの南西側に出た。

 その先の馬内集落を西に抜けて、わずかな家並みの後鷹巣集落を北西に進み、昼食地の
埼玉県農林公園に入る。

 入口周辺は「武蔵野の森」と呼ぶナラやクヌギなどの広葉樹林で、その先の農産物直売
所に入って少しの買い物をする。




 先着の皆さんが昼食中の芝生広場には12時33分に着いた。

 近くのジュウガツザクラが花を見せていた。
 


 芝生広場の周辺は、葉の落ちた広葉樹林やソメイヨシノなどに囲まれている。


 農産物直売所のそばには、温室や石窯焼きピザの店、公園食堂などの建物が並んでいる
が、年末だからか来訪者は少なめだった。




 公園食堂横の小さい池をバックに記念撮影して、13時23分に出発した。


 == 吉野川を渡り畠山重忠公史跡公園へ ==


 公園の南西端の交差点を渡り、西側の川本サングリーンパークを少しのぞいて西へ、次
のY字路を右に入った黒野台集落には、ズイキや大根を干した民家がある。


 北に向かう道沿いの民家には、ユズがたくさんの実をつけていた。
    


 集落を北に抜けて吉野川を渡ると、吉野川の左岸沿いに広々とした田園地帯が東西に延
びている。


    
 次の分梨子(わけなし)集落には、たくさんの実をつけてピラカンサが目につき、ホオ
ズキかミニトマトのような実を吊した木株もある。
       


 斜面林の間を抜けて古い庚申塔などの並ぶ背後を下り、北斜面の斜面林と田んぼの間の
日の差さぬ道を西へ。


 昨夜降った雨の水溜まりが凍ったままになっていた。北側の根岸集落の入口付近で小休
止する。
       

 今は深谷市だが、合併前の川本町のマンホール


 北に日光の男体山など、西北に雲のかかる浅間山などを望み、次の畠山集落から金井集
落へと少しずつ北西に進み、畠山重忠公(はたけやましげただこう)史跡公園に入った。


 公園は畠山重忠の館跡(やかたあと)を整備して作られたもの。畠山重忠は平安後期~
鎌倉時代初期に活躍した関東武士を代表する武将で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人。園
内には畠山重忠と家臣の墓といわれる五輪塔や、重忠公の産湯の井戸、愛馬を背負った重
忠公の銅像などがある。
     

 
 覆屋の中にある「畠山重忠墓」は埼玉県指定史跡で、重忠など主従6基の五輪塔があり、
中央の一番大きいのが畠山重忠墓と伝えられているという。


       

 10分余りで公園を出て、東北に延びる車道を800m前後進み、畠山氏の菩提寺とい
う満福寺(まんぷくじ)に行く。

 満福寺は真言宗豊山派の寺院で、草創は鳥羽天皇(1110年)の頃とか。後に畠山重
忠が寿永年間(1182~5)に再興して菩提寺としたようだ。

 現在の本堂は以前は講堂で寛政4(1792)の建立、重忠の位牌や寺宝の茶釜、茶碗、
太刀、御朱印状などが伝えられているとか。


 手前の観音閣↑には、重忠公の守り本尊である等身大の千手観音像が安置され、秩父・
板東・西国の百番観音像、算額絵馬などがあるという。

     
 境内には2本の大イチョウやシダレザクラが目についたが、いずれも葉はすでに落ちて
いた。





 寺の東側から特産の深谷ネギの畑の横を北に入り、荒川右岸の断崖を背にした井椋(い
ぐら)神社の森に入る。

 井椋神社は、畠山氏の先祖、雅恒(まさつね)から5代重能(しげよし)までの間、秩
父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきたが、その後重忠の父重能が館を畠山に移した
時に、祖父重綱がこの地に勧請(かんじょう)したとか。


 拝殿の左手横から背後の荒川断崖上に回ると、「鶯(うぐいす)の瀬」の碑が立ち、そ
の説明板があった。
       
 荒川のこの辺りは鶯の瀬と呼ばれ、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬とのこと。ここは、
畠山重忠が榛沢六郎成清のところに行った帰路、豪雨にあって洪水で渡れないでいるとき
に、1羽のウグイスが鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられているという。



 右岸に沿って上流へ少し進んで重忠橋を渡る。


 橋の左岸上流側に接して六堰頭首工(ろくせきとうしゅこう)がある。

 1602年に伊奈備前守(いなびぜんのかみ)は荒川に石堤を設け、左岸に4つ、右岸
に2つの堰を作って用水路を整備した。
 
 しかし上流からの水を取るため渇水時には水争いが絶えず、また洪水による施設の流失
などが繰り返されたとのこと。

 そこで、水争いを解消して安定した用水を取水するため、6つの堰をまとめ完成したの
が六堰頭首工で、昭和14(1939)年に完成し、今日の大里(おおさと)の豊かな農
業・農村を支えている大里用水の前身になったという。


 すぐ先で国道140号を渡り、ひとつ北側の車道を西進して、ゴールの秩父鉄道の永田
駅に15時35分に着いた。

 皆さんは急ぎ熊谷方面への上り電車に乗り、私とTさんは16時08分の三峰口行き下
り電車で帰途につく。


(参加 12人、天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 三ヶ尻、 歩行地
 嵐山町、深谷市、歩数 20,700)




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