首都圏は午後から久しぶりの雨、いまはわが家周辺では雪になりました。明日
朝には、この冬初めての積雪となりそうです。
暖かだった1月最後の日曜日、きのう1月31日(日)は、カントリーウオーク
グループの有志で、東京下町ウオークをして、江戸の名残の地などを巡りました。
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2010年1月31日(日)
JR御茶ノ水駅の聖橋(ひじりばし)際前に集まったメンバー15人は、10時4
分にスタートする。
南へ下り、ニコライ堂の下を過ぎて、東側の神田淡路町に入った。通りの両側
には、名の知られた病院や医院が幾つかある。
さらに進んで、老舗のそば屋や料理店などの建物の残る一角を過ぎ、旧交通博物
館前まで行って線路側を折り返して昌平橋を渡る。橋の欄干にカモメが羽を休めて
いた。
神田川左岸沿いを緩やかに上がって湯島聖堂に入った。元禄3年(1690)、5代
将軍綱吉が、上野の孔子廟を移し、漢学の府としたところ。
のち昌平坂学問所が設けられ、これが東京大学の前身となったという。
広い敷地の西側にある孔子像。背後の大イチョウは、枝を大きく広げていた。
入母屋造りの大成殿に上がる大きな鴟尾(しび)。
聖橋の北側に出て、本郷通りから国道17号に回って近くの神田明神へ。
天平2年(730)創建と伝えられる古社。江戸時代の神田祭は、江戸城内に
入った山車を将軍がご覧になるので、天下祭りとして有名だったという。
きらびやかな山門を入った社殿前の広場では、11時半から伊勢大神楽の奉
納があるとか。いすに座って待つ人もいた。
社殿の西側から北側に幾つもある摂社を見ながら回り、北側の急階段を下り、
湯島3丁目に入って立瓜坂を上がる。
通りのそばに、古いポンプが残っていた。
ひとつ西の通りに出て、突き当たりが湯島天神。今日もかなりの人出である。
遅れてきたTさんが、ここで待っていて合流した。
湯島天神は文和4年(1355)、湯島の郷人が菅原道真を祭り、のち文明10
年(1478)、太田道灌が再興したという。
学問の神とあり、受験生による合格祈願のお札が何重にも納められていた。
梅の名所としても知られているが、梅園の梅は、まだ咲いている木はわずか
だった。
北側の春日通に出て西へ少しで、麟院(りんしょういん)がある。
嘉永元年(1624)、徳川3代将軍家光の母、春日局(かすがのつぼね)が
再建し、65歳で没するまで20年の余生を送ったところとか。
広い境内には樹木が多く、都心とは思えぬ静かなたたずまい。この周辺は
何度も歩いているが、この寺のことは知らなかった。
境内の西北の隅に、春日局の墓がある。墓の中央に丸い穴があるが、局が
「黄泉(よみ)の国からこの世を見通せる墓をつくるように」と遺言したことから
だという。
寺の背後に向かって、細い路地を鍵の手のよう縫って進み、文京区総合体育
館の横を過ぎる。この体育館のプールには、土曜半ドンの頃、仕事を終えた午
後、よく通って泳いだことを思い出す。
その通りを北に突き当たったところに、東京大学の鉄門がある。狭い門から
東大構内に入った。
ちょうど正午になったので、構内で昼食をすることにした。近くの東大病院の
建物の地階にあったコンビニで弁当を買い、そばのベンチで食べる。
昼食を終えて病院の表側に回ると、建物の上部にあるデザインが目に入る。
近くの広場には、明治初期にドイツから来日し、わが国内科学の基礎を築い
たベルツと、外科学の基礎を築いたスクリバの像が並んでいた。
グランドと剣道部の間から、構内の中心にある三四郎池に回る。もと加賀藩
前田家の上屋敷に築造された育徳園の園池で、夏目漱石の小説「三四郎」の
主人公が、よくここを散策したことから、名づけられた。
安田講堂や理学部、工学部などの建物の横を回り、北側の弥生門で東大を
出た。
近くには、竹久夢二美術館を併設する弥生美術館があるが、入館はせずに
通過して不忍池に向かう。
少し先の建設業者の建物内に、珍しいものを見つけた。1964年の東京オリ
ンピックの時の台東区上野観光連盟の看板である。どこに掲げられていたのだ
ろうか…。
不忍通(しのばずどおり)に出て横断、不忍池のボート池の北側を回る。
池のほとりの柳が、かすかにふくらんでいた。
池の中ほどにある弁天島に入り、弁天堂に参拝する。
アシの茂る池に泳ぐ、たくさんのカモやユリカモメなどを眺め、上野公園に
向かった。 (続く)
朝には、この冬初めての積雪となりそうです。
暖かだった1月最後の日曜日、きのう1月31日(日)は、カントリーウオーク
グループの有志で、東京下町ウオークをして、江戸の名残の地などを巡りました。
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2010年1月31日(日)
JR御茶ノ水駅の聖橋(ひじりばし)際前に集まったメンバー15人は、10時4
分にスタートする。
南へ下り、ニコライ堂の下を過ぎて、東側の神田淡路町に入った。通りの両側
には、名の知られた病院や医院が幾つかある。
さらに進んで、老舗のそば屋や料理店などの建物の残る一角を過ぎ、旧交通博物
館前まで行って線路側を折り返して昌平橋を渡る。橋の欄干にカモメが羽を休めて
いた。
神田川左岸沿いを緩やかに上がって湯島聖堂に入った。元禄3年(1690)、5代
将軍綱吉が、上野の孔子廟を移し、漢学の府としたところ。
のち昌平坂学問所が設けられ、これが東京大学の前身となったという。
広い敷地の西側にある孔子像。背後の大イチョウは、枝を大きく広げていた。
入母屋造りの大成殿に上がる大きな鴟尾(しび)。
聖橋の北側に出て、本郷通りから国道17号に回って近くの神田明神へ。
天平2年(730)創建と伝えられる古社。江戸時代の神田祭は、江戸城内に
入った山車を将軍がご覧になるので、天下祭りとして有名だったという。
きらびやかな山門を入った社殿前の広場では、11時半から伊勢大神楽の奉
納があるとか。いすに座って待つ人もいた。
社殿の西側から北側に幾つもある摂社を見ながら回り、北側の急階段を下り、
湯島3丁目に入って立瓜坂を上がる。
通りのそばに、古いポンプが残っていた。
ひとつ西の通りに出て、突き当たりが湯島天神。今日もかなりの人出である。
遅れてきたTさんが、ここで待っていて合流した。
湯島天神は文和4年(1355)、湯島の郷人が菅原道真を祭り、のち文明10
年(1478)、太田道灌が再興したという。
学問の神とあり、受験生による合格祈願のお札が何重にも納められていた。
梅の名所としても知られているが、梅園の梅は、まだ咲いている木はわずか
だった。
北側の春日通に出て西へ少しで、麟院(りんしょういん)がある。
嘉永元年(1624)、徳川3代将軍家光の母、春日局(かすがのつぼね)が
再建し、65歳で没するまで20年の余生を送ったところとか。
広い境内には樹木が多く、都心とは思えぬ静かなたたずまい。この周辺は
何度も歩いているが、この寺のことは知らなかった。
境内の西北の隅に、春日局の墓がある。墓の中央に丸い穴があるが、局が
「黄泉(よみ)の国からこの世を見通せる墓をつくるように」と遺言したことから
だという。
寺の背後に向かって、細い路地を鍵の手のよう縫って進み、文京区総合体育
館の横を過ぎる。この体育館のプールには、土曜半ドンの頃、仕事を終えた午
後、よく通って泳いだことを思い出す。
その通りを北に突き当たったところに、東京大学の鉄門がある。狭い門から
東大構内に入った。
ちょうど正午になったので、構内で昼食をすることにした。近くの東大病院の
建物の地階にあったコンビニで弁当を買い、そばのベンチで食べる。
昼食を終えて病院の表側に回ると、建物の上部にあるデザインが目に入る。
近くの広場には、明治初期にドイツから来日し、わが国内科学の基礎を築い
たベルツと、外科学の基礎を築いたスクリバの像が並んでいた。
グランドと剣道部の間から、構内の中心にある三四郎池に回る。もと加賀藩
前田家の上屋敷に築造された育徳園の園池で、夏目漱石の小説「三四郎」の
主人公が、よくここを散策したことから、名づけられた。
安田講堂や理学部、工学部などの建物の横を回り、北側の弥生門で東大を
出た。
近くには、竹久夢二美術館を併設する弥生美術館があるが、入館はせずに
通過して不忍池に向かう。
少し先の建設業者の建物内に、珍しいものを見つけた。1964年の東京オリ
ンピックの時の台東区上野観光連盟の看板である。どこに掲げられていたのだ
ろうか…。
不忍通(しのばずどおり)に出て横断、不忍池のボート池の北側を回る。
池のほとりの柳が、かすかにふくらんでいた。
池の中ほどにある弁天島に入り、弁天堂に参拝する。
アシの茂る池に泳ぐ、たくさんのカモやユリカモメなどを眺め、上野公園に
向かった。 (続く)
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