2016年11月20日(日)
JR武蔵野線の周辺を歩く「続カタツムリ歩行」の第39回例会に参加した。
集合はJR常磐線の松戸駅だが、西武池袋線の遅延とJR山手線が途中で15分ほど停
止し、松戸駅に着いたのは受付締切の10時ちょうど。
急ぎ改札を出たら、最後に出発するところだったIさんとOさんに出会う。地図は用意
してきたのでゴールの場所を聞き、10時08に西口をスタートした。
駅前から西に延びる広い通りを進んで、坂川の一平橋を渡る。川は江戸時代に掘られた
のだという。
江戸川の左岸堤防近くで右折すると、道路を挟み平潟神社と来迎寺とが接している。
来迎寺は市内小金にある東漸寺(とうぜんじ)の末寺で、江戸初期の1660年の創建
とか。
近年建て替えて近代的なスタイルの来迎寺、道路際には7地蔵と、元禄10年(1697)
造立の庚申供養塔が立つ。
平潟神社は水神宮とも呼ばれ、「水神宮」の掲額のある石鳥居には万延元年(1870)
と刻まれていた。
中部小の南を回り坂川沿いを少し、堂の口橋を渡って県道5号・水戸街道に出た。南へ
すぐに西蓮寺がある。
慶長18年(1613)に市内下矢切から当地に移転してきたとのこと。歴代住職は教
育熱心で、江戸末期には本堂で寺子屋を、明治6年(1873)には仮校舎として現在の
中部小が設立され、市内の教育発祥の地といわれているという。
どっしりした構えの本堂、庫裏の前の池の傍らに、金魚を象った飾り物が下がる。
水戸街道に戻ると、東側に古い商家が目に付いた。原田米店の建物で、幕末以来の2階
建て商家の形式を残す貴重な建物とか。現在、1階左手は自転車店で、右手には「ひみつ
堂」のちようちんが下がる。
ひみつ堂は松戸市観光協会の事務所のようで、事務所前にあった観光パンフレットを物
色していたら、中から出て来た方が「松戸あんないマップ」の見どころを説明して下さり、
市立博物館のチケットもいただく。
さらに、この建物は大正時代の建築、奥の2階建て↑は昭和、突き当たりは↓明治の建物
で、明治から昭和まで3代の建物が残る貴重な場所だという。
道路を隔てた西側は善照寺。文化6年(1809)の火災時、本尊の不動尊を篤信家深
山卯兵衛が背負って避難して災難を免れ、以来「火伏せの不動尊」として篤い信仰を得て
いるという。
本堂右手には観音堂があり、本堂前のイチョウがよい彩りに。
善照寺の南側には宝光院がある。千葉周作は、文化6年(1809)頃に松戸に住み、
近くの淺利道場で稽古に励んだようで、境内には実父幸右衛門の墓と師匠淺利又七朗の供
養塔があるとか。
本堂はコンクリート造りで朱塗り、本堂前から西側にかけては、近年造られた「松戸四
国八十八ヶ所弘法大師霊場」になっていて、四国八十八ヶ所霊場の本尊の新しい石像が並
んでいる。
背後は坂川だが、この辺りは豊富な斜面林に覆われていて、駅近くとは思えぬ静寂なた
たずまい。
すぐ先の春雨橋際で水戸街道に分かれ、カーブする坂川沿いの遊歩道へ。その先も緑陰
が多く、色づいた広葉樹が続いている。
小さな社の松先稲荷神社前を過ぎると、南側は木々の多い松戸神社である。背後のハゼ
が色づき、ピラカンサがいっぱい実る。
松戸神社は寛永3年(1626)に社殿が建立され、正徳5年(1715)頃に松戸町
の鎮守を移し、松戸の総鎮守として地元の崇拝を受けているという。
坂川沿いのソメイヨシノも色づき、拝殿左手のイチョウは黄葉に覆われ、境内のモミジ
やケヤキもよい彩りを見せる。拝殿前は、七五三詣での家族で賑わっていた。
カルガモの泳ぐ坂川沿いをさらに南下し、松龍寺の山門を入る。
松龍寺は慶長18年(1613)の開基で、元和7年(1621)に現在地に移り、8
代将軍吉宗など4回、将軍家鹿狩りの際の御休憩所になったという。
山門は宝暦年間(1751~64)の建立のようで、市内に残る唯一の江戸時代の建造
物らしい。境内には観音堂もある。
その先には、石柱に「慈眼寺」の新しい標石があるが本堂は無く、広い空き地の隅に小
さいお堂だけが残されていた。
坂川は右にカーブして県道5号のめがね橋の下を抜ける。そのカーブ点に、「あなたも
慶喜公気分」の表示とともに写真が2枚焼き付けられ、その説明文がある。
徳川最後の将軍慶喜(よしのぶ)が、明治38年(1905)4月に、この場所から撮
っためがね橋周辺のステレオ写真と、撮影する慶喜を撮った、弟秋武の写真である。
ちなみに、この写真撮影時から38年前の慶応4年(1869)4月、江戸城開城に伴
い、上野・寛永寺で謹慎していた慶喜は水戸へ向かい、最初に宿泊したのが松戸宿だった
という。
現在のめがね橋は、レンガ造りの橋の上を舗装された県道5号が走る。
この小山レンガ橋は明治31年(1898)に造られ、レンガ造りの構造物としては千
葉県で一番古いといわれているとか。江戸川からの逆流を防ぐために設けられたもので、
上下流両側から6枚の堰板(せきいた)を上げ下げできる構造になっているようだ。
橋の横から撮影した辺りをふり返ったら、いつの間にかアオサギが流れに立っていた。
県道5号を南進する。JR常磐線が近づいた辺りには小さい馬頭観音堂があり、傍らの
ハゼが鮮やかな彩りを見せる。
間もなく江戸川の葛飾橋からの県道54号に合し、JR常磐線の上を小山浅間橋で越え
る。
現在の水戸街道・国道6号との交差点際をV字状に折り返し、ゴールの浅間(せんげん)
神社に12時03分に着いた。
社殿は、ヤブニッケイやタブノキ、ツバキなどがうっそうと茂る急階段を比高約20m
上がった山上に祭られている。
浅間神社の創建は天保4年(1833)、古くから富士山を対象にした山岳信仰の神社
で、深い樹木に覆われた丘陵円形の極相林は、県の天然記念物に指定されている。
林の下の道路際に、朱塗りコンクリート造りの神楽殿や小さい池を囲む庭園があり、山
際には下浅間宮の小さいお堂が祭られていた。
鳥居の横には江戸時代の庚申塔や青面金剛塔などが並び、1番古い庚申塔は元禄11年
(1698)の造立という。
神楽殿の周辺で昼食を終え、記念撮影とミーティングをして、13時近くに散会した。
(続く)
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JR武蔵野線の周辺を歩く「続カタツムリ歩行」の第39回例会に参加した。
集合はJR常磐線の松戸駅だが、西武池袋線の遅延とJR山手線が途中で15分ほど停
止し、松戸駅に着いたのは受付締切の10時ちょうど。
急ぎ改札を出たら、最後に出発するところだったIさんとOさんに出会う。地図は用意
してきたのでゴールの場所を聞き、10時08に西口をスタートした。
駅前から西に延びる広い通りを進んで、坂川の一平橋を渡る。川は江戸時代に掘られた
のだという。
江戸川の左岸堤防近くで右折すると、道路を挟み平潟神社と来迎寺とが接している。
来迎寺は市内小金にある東漸寺(とうぜんじ)の末寺で、江戸初期の1660年の創建
とか。
近年建て替えて近代的なスタイルの来迎寺、道路際には7地蔵と、元禄10年(1697)
造立の庚申供養塔が立つ。
平潟神社は水神宮とも呼ばれ、「水神宮」の掲額のある石鳥居には万延元年(1870)
と刻まれていた。
中部小の南を回り坂川沿いを少し、堂の口橋を渡って県道5号・水戸街道に出た。南へ
すぐに西蓮寺がある。
慶長18年(1613)に市内下矢切から当地に移転してきたとのこと。歴代住職は教
育熱心で、江戸末期には本堂で寺子屋を、明治6年(1873)には仮校舎として現在の
中部小が設立され、市内の教育発祥の地といわれているという。
どっしりした構えの本堂、庫裏の前の池の傍らに、金魚を象った飾り物が下がる。
水戸街道に戻ると、東側に古い商家が目に付いた。原田米店の建物で、幕末以来の2階
建て商家の形式を残す貴重な建物とか。現在、1階左手は自転車店で、右手には「ひみつ
堂」のちようちんが下がる。
ひみつ堂は松戸市観光協会の事務所のようで、事務所前にあった観光パンフレットを物
色していたら、中から出て来た方が「松戸あんないマップ」の見どころを説明して下さり、
市立博物館のチケットもいただく。
さらに、この建物は大正時代の建築、奥の2階建て↑は昭和、突き当たりは↓明治の建物
で、明治から昭和まで3代の建物が残る貴重な場所だという。
道路を隔てた西側は善照寺。文化6年(1809)の火災時、本尊の不動尊を篤信家深
山卯兵衛が背負って避難して災難を免れ、以来「火伏せの不動尊」として篤い信仰を得て
いるという。
本堂右手には観音堂があり、本堂前のイチョウがよい彩りに。
善照寺の南側には宝光院がある。千葉周作は、文化6年(1809)頃に松戸に住み、
近くの淺利道場で稽古に励んだようで、境内には実父幸右衛門の墓と師匠淺利又七朗の供
養塔があるとか。
本堂はコンクリート造りで朱塗り、本堂前から西側にかけては、近年造られた「松戸四
国八十八ヶ所弘法大師霊場」になっていて、四国八十八ヶ所霊場の本尊の新しい石像が並
んでいる。
背後は坂川だが、この辺りは豊富な斜面林に覆われていて、駅近くとは思えぬ静寂なた
たずまい。
すぐ先の春雨橋際で水戸街道に分かれ、カーブする坂川沿いの遊歩道へ。その先も緑陰
が多く、色づいた広葉樹が続いている。
小さな社の松先稲荷神社前を過ぎると、南側は木々の多い松戸神社である。背後のハゼ
が色づき、ピラカンサがいっぱい実る。
松戸神社は寛永3年(1626)に社殿が建立され、正徳5年(1715)頃に松戸町
の鎮守を移し、松戸の総鎮守として地元の崇拝を受けているという。
坂川沿いのソメイヨシノも色づき、拝殿左手のイチョウは黄葉に覆われ、境内のモミジ
やケヤキもよい彩りを見せる。拝殿前は、七五三詣での家族で賑わっていた。
カルガモの泳ぐ坂川沿いをさらに南下し、松龍寺の山門を入る。
松龍寺は慶長18年(1613)の開基で、元和7年(1621)に現在地に移り、8
代将軍吉宗など4回、将軍家鹿狩りの際の御休憩所になったという。
山門は宝暦年間(1751~64)の建立のようで、市内に残る唯一の江戸時代の建造
物らしい。境内には観音堂もある。
その先には、石柱に「慈眼寺」の新しい標石があるが本堂は無く、広い空き地の隅に小
さいお堂だけが残されていた。
坂川は右にカーブして県道5号のめがね橋の下を抜ける。そのカーブ点に、「あなたも
慶喜公気分」の表示とともに写真が2枚焼き付けられ、その説明文がある。
徳川最後の将軍慶喜(よしのぶ)が、明治38年(1905)4月に、この場所から撮
っためがね橋周辺のステレオ写真と、撮影する慶喜を撮った、弟秋武の写真である。
ちなみに、この写真撮影時から38年前の慶応4年(1869)4月、江戸城開城に伴
い、上野・寛永寺で謹慎していた慶喜は水戸へ向かい、最初に宿泊したのが松戸宿だった
という。
現在のめがね橋は、レンガ造りの橋の上を舗装された県道5号が走る。
この小山レンガ橋は明治31年(1898)に造られ、レンガ造りの構造物としては千
葉県で一番古いといわれているとか。江戸川からの逆流を防ぐために設けられたもので、
上下流両側から6枚の堰板(せきいた)を上げ下げできる構造になっているようだ。
橋の横から撮影した辺りをふり返ったら、いつの間にかアオサギが流れに立っていた。
県道5号を南進する。JR常磐線が近づいた辺りには小さい馬頭観音堂があり、傍らの
ハゼが鮮やかな彩りを見せる。
間もなく江戸川の葛飾橋からの県道54号に合し、JR常磐線の上を小山浅間橋で越え
る。
現在の水戸街道・国道6号との交差点際をV字状に折り返し、ゴールの浅間(せんげん)
神社に12時03分に着いた。
社殿は、ヤブニッケイやタブノキ、ツバキなどがうっそうと茂る急階段を比高約20m
上がった山上に祭られている。
浅間神社の創建は天保4年(1833)、古くから富士山を対象にした山岳信仰の神社
で、深い樹木に覆われた丘陵円形の極相林は、県の天然記念物に指定されている。
林の下の道路際に、朱塗りコンクリート造りの神楽殿や小さい池を囲む庭園があり、山
際には下浅間宮の小さいお堂が祭られていた。
鳥居の横には江戸時代の庚申塔や青面金剛塔などが並び、1番古い庚申塔は元禄11年
(1698)の造立という。
神楽殿の周辺で昼食を終え、記念撮影とミーティングをして、13時近くに散会した。
(続く)
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