あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

第10次中山道ウオーク①(関ヶ原~加納)続き

2009-04-19 10:52:40 | 中山道を歩く
 風邪で中止した国際ウオーキングトレイル実踏に、遅れて3日目の
4月17日(金)のみ参加し、予定どおり山梨県の中心・甲府盆地の
南部、市川三郷町のJR身延線、市川大門駅まで歩いてきました。

 昨、4月18日(土)は、午後、早稲田大学、早稲田キャンパス内の
早稲田ギャラリーで開催された、四国遍路公開シンポジウムのプレ
イベントに出かけ、歩いて2度四国遍路をされた月岡祐紀子さんの、
四国遍路や継承しているごぜ三味線の話と、ごぜ歌と月岡さんご自
身で作詞作曲の遍路組曲の演奏を聞いてきました。

 その様な次第で、第10次中山道ウオーク初日の続きが、だいぶ間
があいてしまいました。

=============================

 2009年4月1日(水)
 =関ヶ原~加納=〈続き〉

 美江神社で食事をして休んでいると雲行きが再び怪しくなり、冷えて
きた。美江寺宿を抜けて田園地帯に出たら再び雨となり、ザックカバー
を被せたり傘を差したりしたが、雨は長くは続かずに済んだ。

 長良川の支流にかかる慶應橋を渡って河渡(ごうど)宿へ。

 一里塚碑の先で長良川右岸下に出て、「相染堂」とも呼ぶ観音堂の
横を通過する。



 本堂の大屋根が目立つ円成寺の横から河渡橋際に上がり、700m
ほど上流に進む。


 支流の寺田橋を渡って長良川に残る渡し場、「小紅(こべに)の渡し」
の乗船場に行く。


 小紅の渡しは、道路の延長ということで無料。モーター着きの小舟に
船頭を入れて一度に9名乗船できる。

 乗船前に記念撮影をして、2組に分かれて渡った。背後に見えるピー
クは、岐阜城のある金華山。


 水量は多いが流れの幅は2~300mくらいか。鵜飼いで知られる上流、
岐阜市内の金華山下付近に比べると狭い感じ。数分で対岸に着いた。


 左岸に上がると、一帯は岐阜市の市街地の外れ。

 近くの乙津寺に寄りトイレ休憩。ここのトイレを使えるのは、善男善女
に限られる。


 境内には、弘法大師がこの地にお堂を建てた折、杖を逆さにさしたの
が芽を出したという梅の木があり、梅寺と呼ばれているという。

 本堂前には、大きく枝を広げたクスノキの大木が立つていた。


 JR東海道線の高架下を抜けると加納宿西の番所跡碑が立つ。加納
宿とは現在の岐阜市の中心部。今日の歩きは休んで先行していたリー
ダーペアの一人、Morimamaさんが待つ、JR岐阜駅前に16時32分に
着いた。


 雨が通り過ぎた後の午後は風が冷たく、気温も下がって真冬を思わせ
る寒さだった。

【コースタイム】関ヶ原駅8・00ー六部地蔵8・24ー垂井宿西の見付9・02
ートミタヤ(相川橋近くのスーパー)9・12~25ー青野一里塚跡10・00ー
兜塚10・33ー赤坂宿本陣跡10・40~50ー三ツ屋町の桜堤11・21ー小簾
紅園12・03~10ー美江神社(昼食)12・55~13・45ー生津のファミリーマ
ート14・15~22ー河渡一里塚跡14・37ー河渡の渡し15・08~25ー乙津
寺15・32~40ーJR岐阜駅前16・32

(天気 晴一時曇にわか雨、距離 32㎞、地図(1/2.5万) 関ヶ原、
 大垣、岐阜西部、北方、岐阜、岐阜北部、歩行地 岐阜県関ヶ原町、
 垂井町、大垣市、瑞穂市、岐阜市)

 注、距離はフリーソフト「カシミール3D」にて2.5万分の1デジタル地図
   上を測定したもの。
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第10次中山道ウオーク①(関ヶ原~加納)

2009-04-15 18:22:24 | 中山道を歩く
 昨年は直前の腰痛で参加できなかった中山道ウオーク、今年は節目
となる第10回を迎えた。今回は3月28日(土)に京都・三条大橋をスタ
ートし、4月13日(月)に軽井沢までの前期コースである。

 私は4月1日から4日までの区間参加で、関ヶ原宿から大井宿(恵那
市)までを歩いた。岐阜県南部、美濃地方を西から東へ、ほぼ横断した
ことになる。

==============================

 2009年4月1日(水)
 =関ヶ原宿から加納宿(岐阜市)まで=


 
 前夜宿泊した尾張一宮駅前のビジネスホテルを出て、7時45分にJR
東海道線関ヶ原駅に着き、皆さんと合流する。

 駅前で準備体操をして、8時ちょうどに出発、駅前を南に進んですぐに
中山道に入り、関ヶ原宿を東に向かう。

 家並みが少なくなったあたりで国道から旧道に入ると、わずかだが松
並木が残っていた。

 このあたりは、関ヶ原合戦の徳川家康最初の陣地があったところだと
いう。

 旧道は車もほとんど通らないので歩きやすく、一面のナノハナがまだ色
彩の乏しい風景に彩りを添えてくれる。


 隣の垂井町に入って間もなく、国指定史跡の垂井一里塚がある。石段
の上に小さい社が祭られ、ソメイヨシノもあったが、花は2~3分咲きくらい
だった。

 垂井宿には、ところどころに古い商店や住宅、「旅籠」と記された宿、土
蔵づくりの家なども残り、本流寺の前には、明治天皇垂井御小休止所の
石標が立っていた。


 町並みを東に抜け、相川の相川橋を渡る。毎年恒例のようで、5月の
端午の節句を前にたくさんのこいのぼりが川の上で泳いでいる。

 今日の参加者は16人だが、カメラマンが6人もこちら側に構え、10人
の顔しか見えない。

 橋の先、支流との合流点付近は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分
岐点にあたり、垂井追分の道標が立つていた。自然石の道標は宝永6
年(1709)建立で、中山道の道標の中では、7番目に古いという。

 青野一里塚跡にはりっぱな石の常夜灯があるが、塚の面影はない。
この北側には美濃国分寺跡があるようだが、寄らずに通過した。

 「中山道青墓宿」の道標を過ぎ、JR東海道線の踏切を過ぎると、交差
点に「昼飯町」の表示が目につく。
 
 近くの如来寺前の説明板によれば、大阪の海から拾い上げた仏像を、
長野の善光寺に納めることになり、一行がこのあたりで新緑の美しい
景色に見とれて昼飯をとったので、このあたりを昼飯(ひるめし)というよ
うになったとのこと。のちに読みを改め、現在は「ひるい」と読んでいる
ようだ。

 間もなく赤坂宿。ソメイヨシノが咲き始めた塚があった。

 兜塚(かぶとづか)と呼び、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)、杭
瀬川の戦いに戦死した東軍、中村隊の武将、野一色頼母を葬り、その鎧
兜を埋めたと伝えられているようだ。

 赤坂宿にも古い建物が幾つか残り、本陣跡は公園になっていて、皇女
和宮の碑も立つ。

 赤坂宿本陣は、岐阜県内では中津川に次いで大きく、1861年10月、
皇女和宮が降嫁する際にも宿泊したという。

 赤坂宿を抜けた小さい川のほとりに常夜灯が立ち、赤坂港跡バス停が
ある。

 杭瀬川のもとの流れで、大正時代までこの川に数百の船が上下してい
たところらしいが、今は全くその面影はない。

 田園地帯に出て小さい流れを横断する。両岸のソメイヨシノが、かなり
開花していた。

 赤羽町に入り、平野井川の堤防に上がる。堤防にはナノハナが咲き、ソ
メイヨシノも五分咲きくらい。

 雲が増えて風が冷たくなり、パラパラと雨も落ちてきたが、本降りには
ならなかった。

 少し先の和宮記念公園とも呼ぶ小簾紅園(おずこうえん)で休憩。日本
庭園のモミジの新芽が、秋のような彩り。

 ここは呂久渡船場跡で、皇女和宮は船中から色鮮やかな紅葉を眺めて
歌を詠まれており、その歌碑も立つ。

 水量豊富な揖斐(いび)川の鷺田橋を渡る。両岸の広葉樹は芽吹きはじ
めで、やわらかな彩りを見せる。


 ナノハナの続く田園地帯を進み、りっぱな市庁舎らしい建物や学校の横
を進む。このあたりのソメイヨシノは満開間近になっていた。一体は柿の
産地で、まだ芽吹き前の柿畑が多い。



 穏やかな流れを見せる川沿いを少しで美江寺(みえじ)宿へ。街道沿いの
民家はいずれもりっぱで、庭木も豊富な家が多い。


 鍵の手にある美江神社に13時近くに着き、昼食とする。

 境内の一隅に、中山道美江寺宿跡の説明板があった。   〈続く〉 

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第8次中山道ウオーク最終日(浦和~日本橋)

2007-11-01 18:06:28 | 中山道を歩く
 第22日 2007年10月31日(水)
 =さいたま市浦和から日本橋まで=


 
 第8回中山道ウオークも最終日を迎えた。出発予定
のさいたま市内、JR大宮駅に8時前に着いたが、誰
もいない。H隊長に電話したら、昨日は宿舎の浦和の
別所沼会館まで歩き、今日のスタートは会館からに変
更したとのことだった。

 JR京浜東北線で蕨(わらび)駅まで行き、蕨宿の北
入口で待つことにする。自宅から直行のEさんも、間も
なく来られた。


 しばらしくて18人の皆さんが来たので合流する。国道
17号の東に並行する旧中山道の歩道は、中山道69
宿の浮世絵が、タイルで描かれ埋め込まれていた。


 蕨宿本陣跡にある蕨市立歴史民俗資料館に入り、
トイレ休憩を兼ねて観覧した。


 旧道は1㎞ほどで通過し、この先多くは国道17号を
進むことになるが、荒川に近い戸田市内は再び国道
の東に回り、若いけやき並木の下の歩道を進んだ。


 埼玉と東京の都県境になる荒川の戸田橋を渡り、
板橋区に入る。


 橋のたもとで待ったいたNさんからミカンをいただ
き、橋の先の木陰で小休止してのどを潤す。

 東坂下では国道の東を、すぐ先で国道の西に回り、
ちょっとした傾斜の清水坂を上がる。再び国道に出
て間もなく、道の両側にりっぱな志村一里塚が残っ
ていた。

 日本橋から3番目の一里塚で、天保3年(1830)
の「新編武蔵風土記稿」にも紹介されており、都内
に残る一里塚は、北区西ヶ原の一里塚とここだけ
で、国の史跡に指定されているという。

 東側の塚の隣には、竹製品を販売する斉藤商店
の古い商家もある。

 1㎞余り進んで、国道の東に続く板橋宿に入った。
この先2㎞近くは、いまも活気のある商店街が続き、
宿場の名残も感じられる。

 本町の小さい交差点際に、縁切榎(えのき)の旧跡
がある。榎の皮を煎じて相手に飲ませれば、別れら
れるといわれ、嫁入り行列はこの木の下を通らなか
ったとか。

 文久元年(1861)、皇女和宮が将軍家茂に降嫁
したときには、この榎を包んで見えないようにしたと
もいわれているという。現在の榎は3代目のようだ。

 板橋宿は、入った北側から、上宿、中宿、平尾宿に
分かれている。上宿にあたる本町には、にぎわい広
場と呼ぶ小公園があり、木造の大きな常夜灯の周囲
で、何人かの住民が憩いのひとときを過ごしていた。

 両側がみごとな桜並木になっている石神井川にか
かる板橋は、疑木の木橋。日本橋から10㎞642m
の標柱が立つている。

 正午近く、橋の南の小公園で休憩。缶ビールと
出来たてのコロッケが配られ、乾いたのどを潤し、
昼食前のよい腹ごしらえになった。

 板橋宿を南に抜けて国道を横切り、12時半過ぎ、
板橋駅前に着く。

 Kさんが大きな歓迎幕を持って出迎えてくれた。


 記念撮影後、昼食となり、近くのそば屋などに入
る。私は買ってきた弁当を駅前広場で広げた。

 板橋区から豊島区へと進んで、巣鴨地蔵商店街へ。

 あいかわらずお年寄りで賑わうとげ抜き地蔵前や、
狭い商店街を抜けて、JR巣鴨駅近くで国道17号に
戻った。

 JR山手線線路の南は文京区。2.5kmほどで本郷
通りに入り、東大に沿って進んで、神田明神と湯島聖
堂の間を通過する。

 取り壊し中の旧交通博物館横から最終コースに入り、
15時35分、途中を歩いた仲間数人の出迎えを受け、
ゴールの日本橋に着いた。


 H隊長が、毎年引き継いできた菅笠にサインして、
来年の第9次隊長、Kさんに引き継ぐ。

 無事、第8次中山道ウオークは幕を閉じた。


 橋のそばで記念撮影後、近くの常盤橋公園に移動し、
H隊長の音頭で乾杯する。

 
 点呼担当のOさんから、今回の歩行距離は602㎞、
延べ参加者433人と発表があった。

 途中先行した3人に準備してもらった、寿司やつまみ
ものを食べながら、今回の行程を振り返り、しばしの
歓談。来春の再会を約して三々五々散会した。

〈コースタイム(途中参加)〉蕨宿北口9・25ー蕨市立歴
史民俗資料館9・33~45ー戸田橋北詰10・28ー清水坂
11・05ー志村一里塚11・18ー板橋(休憩)11・52~12・12
ー板橋駅前(昼食)12・34~13・30ー都電横断13・45ー
巣鴨駅横14・02ー本郷弥生交差点14・36ー本郷三丁目
14・49ー旧交通博物館前15・10ー日本橋15・35

(天気 晴、距離(蕨駅から) 23㎞、歩行地 (さいたま
 市)、蕨市、戸田市、板橋区、豊島区、文京区、千代
 田区) 
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中山道に残る近代化遺産

2007-10-20 22:21:48 | 中山道を歩く
 昨日まで報告した第8次中山道ウオークの初日に、
H隊長から現地で、琵琶湖疏水のことを説明してもら
ったことを報告しました。

 そこで、琵琶湖疎水についてもう少し調べてみたい
と思い、昨日書店に行ったら、10月から11月にかけ
てNHK教育テレビで放映中の「知るを楽しむ」の『ニッ
ポン近代化遺産』という番組のテキストを見つけました。



 この中に、「夢の総合開発プロジェクト」というテーマ
で、琵琶湖疏水が取り上げられ、すでに放映は済んで
いるのですが、テキストには17頁にわたり、詳しく述べ
られています。

 まだ全文を読んではいませんが、このプロジェクトが
京都市の近代化や、東京遷都後の京都の活性化など
に大きな貢献をしていることが分かりました。

 写真は琵琶湖疏水の、あるトンネルです。


 ところで、このテキストにはほかに、「桃介と貞奴の
愛のかたち」という題で、木曽川の電源開発が、また、
「急勾配に挑んだ機関車」というテーマで、旧信越線
の碓氷峠越えに使われた電気機関車のことが取り上
げられています。

 いずれも、いま皆さんが歩行中の第8次中山道ウオ
ークの沿線にあり、昨年、一昨年の前回や前々回など
のウオークでゆかりの場所を通過しており、中山道が、
日本の近代化にとって、大変重要な街道であったこと
が分かります。

 ほかに、「シルクカントリー秘話」というテーマで、中山
道に近い、群馬県の富岡製糸場なども取り上げられて
います。

 テキストにはないのですが、埼玉県の深谷市は、明
治維新後の日本の産業や金融の基礎を築いた、渋沢
栄一の出身地で、東京駅などのレンガを製造した工場
の遺構も残っています。

 テキストを見て、中山道ウオークの中で、これら日本
の近代化遺産を訪ねながら歩いてみると、当時の中山
道の重要さが、さらに認識できるのではないかと感じ
ました。
コメント (2)
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第8次中山道ウオーク③(高宮宿~関ヶ原宿)続き

2007-10-19 17:59:26 | 中山道を歩く
 ヒガンバナの咲き残る里道を進み、復元した久礼一里
塚付近で、名神高速と北陸道とのジャンクション上を知
らぬ間に通過する。



 あちこちにコスモスの咲く三吉集落を抜け、樋口からは
車を気にせず進める名神高速寄りの旧道。車の通れぬ
名神高速そばの細道に入り、正午近くJR醒ヶ井(さめが
い)駅に着いた。

 ここで昼食となり、駅前の小さい食堂と、駅横の地元産
品の売店やレストラン、軽食堂などのある「水の宿駅」と
に分かれて食事を済ませる。

 駅の先からは、醒ヶ井宿を流れに沿って進む。流れに
は、水温15度前後の湧水を好む緑の水草、バイカモが
たくさん見られ、初夏から晩夏に咲くという小さな白い花
も残っていた。


 流れに回る小さな水車や、朝鮮通信史との対応に貢献
した儒学者、雨森芳洲の歌碑、石垣下から豊富な湧水を
見せる居醒の清水などを見ながら進んで醒ヶ井宿を出る。


 しばらくは名神高速と国道21号に沿った谷間を進む。


 石の地蔵がたくさん並んだお堂を過ぎ、杉やヒノキの下
の、ちょっとぬかる土道を500mほど通過して小川の関
跡で車道に戻る。

 ひこばえの伸びた田んぼの間を抜ける農道で近道をし
て、松並木の残る中山道に戻る。


 周囲を緑の山並みに囲まれ、このあたりも車の少ない
気持ちよい道。柏原宿の入口には、復元したばかりの
一里塚が出来ていた。


 古い家並みに旧街道の雰囲気を感じる柏原宿。それぞ
れの家に、旅籠屋、造り酒屋などの職業と名前を記す木
札が下がっていた。


 宿場の外れには、中世の仏教説話「小栗判官照手姫」
の照手姫が判官の平癒を祈った地蔵堂がある。 好天の
午後、さわやかな風が汗ばんだ体に心地よい。

 明治時代に植えたという太いカエデ並木の間を通過し、
長久寺集落に入ると、「寝物語の里」の石碑が立つ。

 ここは近江(滋賀)と美濃(岐阜)との国境(県境)。国境に
は細い溝があり、溝を挟んで両国の人が寝ながら他国の
人と話合えたので、「寝物語の里」の名が生まれたという。

 国境を挟んで並ぶメンバー、右が近江、左が美濃である。
道を挟んだ美濃側には芭蕉句碑が立つ。

 JR東海道線の南に回ると、美濃で最初の今須宿。宿を
東に抜けたところに、復元したらしいが見栄えのよい一里
塚がある。


 国道を横切り、今須峠を下った山中集落の西端に、都
一(みやこいち)の美女といわれた源義朝(よしとも)の愛妾
(あいしよう)、常盤御前(ときわごぜん)の墓がある。

 東国に走った子、牛若の行方を案じて追った御前は、
土賊に襲われここで息を引き取り、山中の人が葬ったの
だという。

 近くに流れる黒血川は、壬申(じんしん)の乱(672)の激
戦で両軍の兵士の流血が、川底の岩石を黒く染めたこと
からこの名がついたとか。その後も関ヶ原の戦いなどの戦
場にもなったようだ。

 さらに1㎞ほどで、「木曽路名所図絵」にも描かれたとい
う東山道の不破(ふわ)関守(せきもり)跡。

 関は、延暦8年(789)以後に設けられ、越前の愛発、
伊勢の鈴鹿とともに日本の三関といわれたという。

 少し先、左手の民家の間を入った畑の中には、壬申の
乱の時、大海人皇子が兜(かぶと)を掛けたと伝えられ
る「兜掛石」が小さいお堂に祭られていた。


 交通量の多い国道に入り、すぐ先で西首塚に寄る。関ヶ
原合戦の戦死者数千の首級を葬った塚とか。塚の上に
は十一面観音と馬頭観音のお堂があり、ケヤキだろうか
太い木が枝を広げていた。

 最後の関ヶ原宿に入り、JR東海道線関ヶ原駅入り口の
角にある旅籠屋ます屋が皆さんの今日の宿。16時20分
に着いた。

 3日間お世話になったH隊長ほかの皆さんに分かれ、昨
日、今日、荷物運搬をしてもらったOさんの車に預けた荷
物を受け取り、関ヶ原駅に急ぐ。

 関ヶ原駅16時31分発東海道線に飛び乗り、名古屋か
ら東海道新幹線ひかり380号に乗り継ぐ。21時過ぎに
帰宅した。

〈コースタイム〉高宮駅8・23ー国道306号交差点8・59ー
鳥居本宿本陣跡9・35~41ー磨針峠望湖堂10・03~12ー
蓮華寺10・55~11・06ー久礼一里塚跡11・20ー醒ヶ井駅前
(昼食)11・54~13・00ー松並木13・31ー柏原駅前14・11~
23ー寝物語の里(県境)14・52~57ー今須郵便局15・09ー
常盤御前の墓15・30~34ー不破の関跡15・50~57ー西首
塚16・12ー関ヶ原駅入り口(旅籠屋ます屋)16・20

(天気 晴、距離 28.5㎞、歩行地 彦根市、米原市
 (旧米原町、山東町)、滋賀県関ヶ原町)
 
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第8次中山道ウオーク③(高宮宿~関ヶ原宿)

2007-10-19 15:46:36 | 中山道を歩く
 2007年10月12日(金) 第3日 
 =高宮から関ヶ原まで=


 
 前日宿泊した彦根のビジネスホテルから近江鉄道で
高宮駅まで戻り、8時27分にスタートした。今日も好天
である。

 昨日からの参加で、コースリーダーでもあるMさんは、
交差点や分岐点などに、中山道の目印になる赤いビニ
ールテープを貼っている。


 高宮宿を抜けてすぐ、近江鉄道の踏切付近には、たく
さんのヒガンバナが咲き競っていた。


 しばらくは車の多い車道歩き、しかも歩道がないので
うっとうしい。いつになったら安全に歩ける街道になるの
だろうか。当分は期待できそうにない。

 「天寧寺五百らかん」と彫られた大きな石碑の近くで、
東京から京都に向かうご夫妻と行き交い、励ましを交わ
す。間もなく東海道新幹線と名神高速道路が右から近
づいてきた。

 その新幹線のガードをくぐり、高速道路との間に入っ
たところに、小野小町塚があった。

 地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」に小野小町
が歌われ、この地を誕生地とする伝承が残っていると
いう。

 2㎞ほどで鳥居本(とりいもと)宿。雨傘を看板にした
古い家がある。松屋といい、傘や合羽を扱う店らしい。


 中山道が右折したところには、古くから漢方薬を製造
販売している、赤玉神教丸本舗の有川家がある。

 日本瓦と白壁の、大きな店構えだった。


 鳥居本宿を抜けると、磨針峠(すりばりとうげ)へ向かう
上り道。ひとしきり上がった峠には神明宮があり、江戸
時代には望湖堂と呼ぶ大きな茶屋があったという。

 神明宮の裏庭に回ると、その名のとおり琵琶湖が一望
出来るが、手前にある大きなエレベータ工場が景観を損
ねる(上の写真より少し左)。

 神明宮下を出発直前のメンバー。


 狭い街道を下って行くと、コスモスやサワヒヨドリ、ススキ
などの咲く山間の気持ちよい道。


 豊富な緑が、上りの疲れを忘れさせてくれる。  


 米原市に入り、正面に近づいた田んぼの向こうに、伊吹
山が見えてきた。


 間もなく、商店も見られぬ小集落の番場宿だが、ここに
は蓮華寺(れんげじ)という大きな寺がある。

 聖徳太子の建立で、鎌倉時代に一向上人が再興し、現
在は浄土宗とか。京都での元弘3年の合戦に敗れた北条
仲時とその従士430余名の墓があり、長谷川伸の「瞼の
母」で有名な番場の忠太郎や、斎藤茂吉ゆかりの寺でも
ある。

 菊の御門のある開かずの山門や、大きな本堂、広い境
内のモミジやツツジが目につくが、参観は有料なので、
門前で休憩する。          (続く)


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第8次中山道ウオーク②(草津宿~高宮宿)続き

2007-10-18 12:37:16 | 中山道を歩く
 道の駅での40分の昼食時間を終え、まだ先の長い
午後のコースへ。田園地帯に出ると収穫前の黄金田
が広がる。


 コスモスの咲き乱れる西横綱集落を過ぎ、日の川左
岸から横関橋を渡って近江八幡市に入った。


 右岸を少し戻って東横関の家並みを抜け、馬淵町
を通過する。武佐宿が近づき、空き地に1本の大きな
クスノキが目につく。伊庭貞剛(いばていごう)翁生誕
地である。

 伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家。
貞剛は弘化4年(1847)生まれ。江戸末期の剣士
で、維新後は京都御所警備隊士、裁判所判事などを
経て、四国の別子銅山支配人として公害問題に対処、
銅山周辺の山の植林などを実行した人だという。


 小さな駅舎の近江鉄道武佐駅でトイレ休憩。武佐
宿には、昔の面影を残す旅籠中村屋などがあり、武
佐郵便局も屋敷風だった。


 明治19年(1886)建築で国の有形文化財に登録
された、洋風の旧八幡警察署武佐分署も目につく。


 隣の安土町(あづちちよう)に入り、国史跡・老蘇(お
いそ)の森の一角にある奥石神社で小休止。

 老蘇の森は、万葉の時代から数々の歌によまれた
名高い森とか。森の奥に鎮座する奥石神社は、延喜
式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)に記された古社
で、現在の本殿は天正9年(1581)に建てられたもの
だという。

 東近江市(旧五個荘町)には、「清水鼻の名水」と
呼ぶ湧水があり、まろやかな味わいだった。五個荘の
家並みにも、わらぶきの平屋が2つ残り、明治か大正
期の建築と思われる、銀行らしい2階建ての洋館も目
に入る。


 午後はペースがいっそう上がり、足の遅い私は、古
い建物などを撮っているとさらに遅れ、いつも最後尾
になる。

 愛知川(えちがわ)の御幸橋を渡って愛知川宿へ。橋
のたもとに古い「むちんばし」の石標が立つ。天保2年
(1831)にかけられた橋は、橋賃をとられなかったの
で、無賃橋と呼ばれたという。

 「中山道愛知川宿」と記された背の高いゲートを通
過し、愛知川宿を抜ける。

 天気は回復して青空が広がるが、日没が迫ってきた。

 歌詰橋を渡ると豊郷町(とよさとちよう)。少し先に
「江州音頭発祥地」の石碑が立つ。天正14年(1586)
に兵火で焼失した観音堂を再建したとき、再建を喜ぶ
盆踊りで歌われ、現在に歌い継がれているという。


 観音堂のある千樹寺や、近江商人の旧宅を資料館と
して公開しているという又十屋敷、大手商社の丸紅や
伊藤忠の創始者・伊藤長兵衛屋敷跡など、時間があれ
ば立ち寄りたいところも走るように通過し、校舎の保存
で話題になった豊郷小前を過ぎる。


 日没が近づき、ようやく高宮宿の彦根市高宮町に
入った。

 葛籠(つづら)町に何本か残る松並木を過ぎ、17時
41分に、今日のゴール、近江鉄道高宮駅に着く。
歩数計は6万歩を越え、さすがに疲れた。

 3分後の電車に急ぎ乗り、終点の彦根駅まで行き、
駅に近いビジネスホテル、ホテルサンルート彦根に
18時近くに入った。

〈コースタイム〉JR草津駅8・15ー花岡交差点8・44
ー今宿一里塚9・11ー東門院9・22~30ー野洲川橋
西詰9・41ー新幹線下交差10・10ー桜生史跡公園
10・31~43ー平宗盛終焉の地11・24~26ー道の駅
龍王かがみの里(昼食)11・35~12・15ー善光寺川
の橋12・31ー伊庭貞剛屋敷跡13・17ー武佐駅13・34
~40ー奥石神社14・20~30ー五個荘支所15・13~
20ー愛知川北詰15・40ー歌詰橋16・19ー豊郷小16・
49ー出町の交差点17・07~近江鉄道高宮駅17・41

(天気 曇一時雨後晴、距離 40㎞、歩行地 草津
 市、守山市、野洲市、竜王町、近江八幡市、安土
 町、東近江市(旧五個荘町)、愛荘町(旧愛知川町)、
 豊郷町、彦根市)
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第8次中山道ウオーク②(草津宿~高宮宿)

2007-10-17 21:32:23 | 中山道を歩く
 2007年10月11日(木) 第2日
 =草津から高宮まで=


 
 ホテル近江守山での朝食を済ませ、JR守山駅から
上り電車で草津駅まで戻り、8時15分に霧雨模様の
草津駅前をスタートした。今日の参加者は18人である。

 いつも背中のゼッケンに、ユニークなメッセージを記
されるWさん。

 今回は、コース前半の旧国名を盛りこんだメッセージ。

 今日のコースは、滋賀県内をほぼ北東に向けて、平
地歩きが中心だが距離は長い。日暮れまでに高宮宿
到着を目指し、スタートから早いペースで進みそう。

 草津宿を抜けて隣の栗東(りっとう)市に入る「綣(へ
そ)」という珍しい地名のところを通過する。

 それにしても、古い家並みの残る街道筋も、電線や
電柱が景観を大きく損ねているのが残念だ。

 一角に大宝神社もある大宝公園には、元禄3年
(1690)、この地に足を留めた芭蕉の、「へそむらの
まだ麦青し春のくれ」という句碑があった。


 江戸日本橋から草津宿まで、中山道に129か所あ
った一里塚の128番目に当たるという今宿一里塚に
は、先代の脇芽が成長して太くなったエノキが、大き
く枝を広げていた。


 古い家並みの残る守山宿へ。右カーブ点にある東門
院はりっぱな本堂。緑豊富な境内の一角に太いイチョ
ウが立ち、下にびっしりとギンナンが落ちていた。


 そばの石造の五重塔は、鎌倉時代の造立と考えられ
たとのことで、滋賀県重要文化財である。

 山門を入ったところには、しめ縄を付けた大きな石
造のカエルがいる。


 守山宿を東に抜け、野洲川橋を渡って野洲(やす)市
に入る。橋から見える西側の低い山の上部は、雨雲に
隠されていた。


 かやぶき屋根の唯心寺や、鎌倉時代のものという背
くらべ地蔵(上の写真)の先で、左に朝鮮通信史ゆかり
の朝鮮人街道を分ける。


 東海道新幹線のガードの手前と先に、造り酒屋など、
かやぶき屋根の家が残っていた。

 
 家並みが途切れたあたりには、滋賀県下でただ1軒
という、本藍(あい)染めを伝承している森義男氏宅がある。

 中山道が東海道新幹線に接した南側は、6世紀中頃
の円墳という甲山(かぶとやま)古墳。一帯は桜生(さく
らば)史跡公園になっていて、そばの二つの古墳も紹介
するガイダンス施設があり、トイレ休憩を兼ねて参観
した。

 1㎞足らずで、天井(てんじょう)川である家棟川の下
を抜けるはずだったが、川の堤防は崩され、道路の拡
張工事中。流れは無くなったらしい。


 すぐ先で国道8号に入ると、車の交通量が急に増え
てきた。

 国道の南に500m近く続く、西池の堤防に沿って進
む。雄略天皇の時代(413年ころ)、近江の国に作ら
せた48の池で最大のものというが、のぞく暇はない。

 さらに1㎞余り、南側の林のすそを200mほど入る
と、平家最後の最高責任者、平宗盛終焉(しゆうえん)
の地。

 そばの案内板によれば、平家が滅亡した地は壇ノ浦
ではなく、ここ野洲市で、宗盛父子は源義経にここで
切られたのだという。


 少し先には「義経元服の池」の石碑があり、道を挟
んで、新しい「道の駅龍王かがみの里」が出来ていた。

 レストランや農産品販売所などがあり、ここで昼食
とする。                  (続く)
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第8次中山道ウオーク①(京都・三条大橋~草津宿)

2007-10-16 11:04:03 | 中山道を歩く
 第3回の2003年から毎年、区間参加している中山道
ウオーク。今年は10月10日(水)に京都・三条大橋を出発
し、途中、3日間のぶらり探訪日を含み、22日目の10月
31日(火)の、東京・日本橋ゴールを目指してスタートした。

 全コースを歩きとおすのは、男子6名、女子2名の計8名。
区間参加を含めると延べ420人を超える参加者が見込まれ
ている。

 私は、出発の京都~関ヶ原までの3日間と、最終日の大宮
~東京・日本橋に参加する予定である。

 2007年10月10日(水) 第1日
 =京都・三条大橋~大津宿~草津宿=



 午前中は雨も予想された予報が外れ、朝から快晴である。
集合時刻の9時30分前に、東北から九州まで各地からの
参加者約30名と見送りの方数名が、鴨川にかかる三条大橋
西詰めに集まった。

 今回の隊長は、大阪市のHKさん。1999年1月から2年か
けて全国1万1千㎞余りを歩いた伊能ウオークの本部隊員の
一人。現在は、日本ウオーキング協会の専門講師などの立
場から、ウオーキングの普及に尽力されている。

 Hさんの挨拶の後、ストレッチ体操や、日本橋への完歩を
目指してのげきを飛ばし、記念撮影後、9時35分に三条大
橋をスタートした。


 今日の行程は、大津宿、草津宿を経て守山宿までの32.
1㎞。ちなみに京都から草津まで、中山道は東海道と同じ
道筋である。

 三条通を東へ1.5㎞ほどで東山山ろくの蹴上(けあげ)へ。
ここで琵琶湖疎水(そすい)のそばに上がる。

 レンガ造りの浄水場と満々と流れる疎水を見下ろすところ
で、Hさんから、「明治2年(1869)に、都(みやこ)が東京に
移った京都振興のカンフル剤として計画された、疎水事業
について」の説明がある。

 市の年間予算の十数倍の費用を投入して、知事が託した
若干21歳の主任技師の手により、すべて日本人の手により
行った、わが国最初の画期的な大土木事業だったことを知
った。

 蹴上から1㎞余り、中山道を外れて北へ回り、琵琶湖疎水
のレンガ積みのトンネルも見る。


 さらに疎水の左岸沿いに天智天皇陵のそばまで進み、そ
のレンガを製造した場所という御陵の家並みを抜け、JR
東海道線の南に出て中山道に戻った。

 間もなくの、京阪電車とJR東海道線の山科駅前で休憩し、
各自弁当を調達する。


 京阪電車の南側を並行する旧道を進み、名神高速道路と
京阪電車に並行して谷間を緩やかに上がり、京都と滋賀の
府県境を通過した。

 逢坂山(おうさかやま)関跡付近から下りとなり、国道1号
から国道161号へ。


 大津市の市街地に入って大津駅前を左折、裁判所のそば
にあった小公園の芝生で昼食をする。


 公園からは西に、昨年同じころ上がった比叡山がよく見
えた。


 ここまでで帰る女性三姉妹と、Hさんのもとの会社のOB
3人が紹介された後、出発する。

 きょうは琵琶湖畔を行こうということになり、公園の通りを
真っ直ぐ進んで湖岸に出た。

 雲ひとつ無い青空の下に、広々とした琵琶湖の湖面が広
がり、車の通らぬ遊歩道なので安心して歩ける。湖面から
のさわやかな風が心地よい。

 ふり返ると、比叡山がまだゆったりとした山容を見せて
いた。

 城のような造りの琵琶湖文化館や、巨大なびわ湖ホール、
超高層のホテルのそばなどを通過し、琵琶湖南岸をまたぐ
近江大橋下を抜ける。

 その先は膳所(ぜぜ)城跡の公園。松の木陰などの緑陰で
休憩した。

 すでに時刻は14時半過ぎ。スタートが遅かったので、守山
まで行くと暗くなると予想され、予定を変更し、今日は草津
までとする。

 さらに湖岸の遊歩道を進み、JR東海道線と国道の瀬田
川大橋下を通過、瀬田唐橋際で中山道に上がり、大きな擬
宝珠(ぎぼし)の欄干が並ぶ日本三大名橋、瀬田唐橋を渡る。

 
 大江の住宅地を進んで一里山にある一里塚跡を過ぎ、住宅
に囲まれた月輪池の横を抜ける。


 野路町に入ると、国道との交差点近くに草津市の保存樹木
になっている樹齢150年のアベマキと樹齢百年のエノキが、
双子のように並んで立っていた。 

 間もなくの、東屋(あずまや)のある小公園、野路上北池公
園には、新しい野路一里塚の標識がある。


 かやぶき屋根の山門がある立木神社を過ぎ、草津宿に入
った。

 街道宿らしい建物が残る町並や、アーケードのある本四
商店街を通過する。「草津宿がわかる歴史館」や脇本陣の先、
天井川(てんじようがわ)になっている草津川のトンネル手前
が、中山道と東海道との分かれ道。

 道しるべの大きな常夜灯が立っていた。

 トンネルを抜けると、今日のゴールとなったJR草津駅は
近い。17時12分に着いた。

 通勤帰りの乗客で混雑する東海道本線下り快速電車で守山
駅まで行き、駅に近いホテル近江守山に入る。

 18時半からホテルロビーを借り切りで結団式のパーティを
開催し、20時半頃まで賑やかに顔合わせの歓談をした。


〈コースタイム〉京都・三条大橋9・35ー蹴上10・00~15ー天智
天皇御陵際11・05~10ー山科駅前11・29~50ー京都・滋賀府
県境12・12ー大津裁判所横の公園(昼食)13・00~30ー武道館
14・11ー膳所城跡公園14・35~40ー瀬田唐橋西詰15・14ー
一里山の一里塚跡15・55ー野路の玉川16・25ー立木神社前
16・55ーJR草津駅17・12

(天気 快晴、距離 28㎞、歩行地 京都市、大津市、草津市)
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第7次中山道ウオーク(須原~三留野)

2006-10-21 18:24:26 | 中山道を歩く
 06年10月14日(土)(須原~三留野)
 今朝も青空で1日好天の予報である。6時45分から食事をして、
7時半発の宿の送迎バスで須原駅まで送ってもらう。

 土曜日なので参加者が増え、41名が8時39分に駅を出た。

 車で来て今日から参加の愛知のTさんに、次の宿まで荷物運搬
をしてもらえるので、皆さんは軽装。今日までの私は全荷物を持っ
て行く。


 須原宿には、「水舟」と呼ぶ木でつくった水場が幾つかあり、旅人
の乾いたのどを潤してくれる。


 宿場の西はずれには、木曽の名刹といわれ、桃山時代の建築で
国重文の建物が残る定勝寺があるが、今回は通過した。

 JR中央線の南に回り、橋場集落の山際にある岩出(いわで)観音
堂に寄る。木曽の清水寺(きよみずでら)と呼はれ、栄泉の中山道
六十九次の浮世絵にも描かれている。

 岩を背にした懸崖(けんがい)造りのお堂に上がり参拝していた
ら、管理人の方が特別に扉を開けて中を見せて下さった。

 内部壁面には奉納された古い絵の額が並び、天井画も描かれて
いる。何回も歩いている人も初めてのことで、貴重な機会だった。

 次の大島の先で、中山道は木曽川から離れ、東から中集落へと、
南側に大きく迂回する。東集落には、珍しい形の火の見やぐらが
残っていた。


 中山道が南から西へ、90度カーブする地点にある中部保育園
は、運動会で賑わっていた。

 その先左手に、大きな寺院が見える。地久院天長院で、寛文年
間(1662~)にこの地に移転してきたという。


 寺の周辺は、山を背にした棚田や屋敷林などの、のどかな山村
風景が広がっている。

 大桑駅の西側で国道に出て、1kmほど先の道の駅大桑で休憩
する。


 国道と線路の間や、線路沿いなど車の少ない道を進んで野尻
宿に入り、野尻駅前でも休憩した。

 野尻の家並みを進んで行くと、向こうから三重のKさんが現れた。
予定を聞いてなかったので、皆ビックリしつつ歓迎する。

 中央線と国道の間をしばらく進む。木曽川が近づき、ダムで淀
んだ流れの向こうに、一昨年の宿泊地、フォレスパ木曽の独特の
建物が見える。

 11時35分に十二兼(じゅうにかね)駅に着き昼食。今日も宿
から届けてもらったおにぎり弁当をいただいた。


 その先、4km余り、JR中央線と並行する国道沿いを、木曽川
の流れを見下ろしながら南下する。


 昨日よりは気温が低いのか、汗の出は幾分少ない。三留野(み
どの)宿に入り、法務局出張所のある本陣跡で休憩した。

 さらに1kmほどで南木曾(なぎそ)駅が見えてきた。私の今回の
中山道ウオークはここまで。やはり今日で帰宅される群馬県高崎
のHさんとともに皆さんと分かれ、13時45分に南木曾駅に着いた。

 14時11分発で中津川まで行き、中津川で、塩尻方面に向かう
Hさんに別れ、名古屋経由、次の目的地・京都に向かった。

(コースタイム)須原駅8:39-岩出観音堂9:11~-大桑駅西(国道
へ)9:55-道の駅大桑10:06~18-野尻駅10:44~47-大桑村・南
木曽町境11:23-十二兼駅(昼食)11:35~12:15-三留野宿本陣跡
13:13~18-南木曾駅13:45

(天気 晴、距離 18km、歩行地 長野県大桑村、南木曽町)
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