魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

海千山千

2020年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
このブログのテーマでもある「占い的見方」は、非科学的視点の再考だ。経験と勘による大局観で、もう一度、世界を見直してみれば、どう見えるのか。
科学の発展で、世の中は何事もデータで「知る」ようになった。人の価値も健康も経済も防災も、全てが数値で知られ、数値に合わせて実体が存在すると信じられている。
しかし、世界の大半は数値化できないもので充たされている。あるいは、数値化が意味をなさないものもある。

人の心は数値化できないものの代表だが、それが社会や自然に与える影響は計り知れない。ビッグデータで描き出せるのは結果であり、人の心そのものの実体を観ているわけではない。
天気予報も、あくまで過去データが基準だから、温暖化で地球環境が変われば、どんなビッグデータがあっても、予報できなくなる。
太陽系の果てまでカメラを飛ばしてみられるようになった現代でも、人類はお釈迦様の掌の孫悟空のように、何も解っていないのだ。
にもかかわらず、現代人は全てが解ったようなつもりでいる、何でも解るように思っている。
今回のコロナパニックは、まさにそうした現代人の傲慢の虚を突いた。

どこで発生!、感染者何人!、死者何人!・・・と、次々と報道される数値データに、ゴジラの出現だ!と慌てふためき、水槽の中を泳ぎ回るマグロのように、衝突を重ね、自滅しようとしている。
もし、コロナウイルスの存在を知らず、多くの発病者がいても、「風邪が大流行しているから気いつけてや。横町のジイサンも死んだらしいで」と暮らしていたら、死者は多く出たかも知れないが、経済崩壊や社会崩壊は起こらなかっただろう。

角を矯めて牛を殺す
医療の現場にいて、正体の分からないウイルスと戦っている専門家にすれば、真っ先に最悪の事態を考えるから、とにかく「水ももらすな!」と、叫ぶのは当然だ。
そして当然、素人は専門家の意見を最大限信用する。メディアはそれを拡声器でかき鳴らす。水鳥の音で大敗北した平氏でなくても、パニックが引き起こした大量死は古今東西、枚挙にいとまがない。
コロナによる死者を一人も出さないつもりで、感染者を一人も出さないということであれば、完全封鎖しかないが、それで精神異常を来した殺人が絶対に起こらないと、誰が約束できるだろう。会社倒産、失業で、自殺者が出ないと誰が約束できるだろう。
コロナ事態が始まって以来の、日本の総死亡数は果たしてどれぐらい増えたのだろう。むしろ減少しているとも聞いた。

集団免疫獲得のため、特別なことをしない対応をしたスエーデンは、多くの死者を出して失敗したと揶揄されたが、多くの死者が出たのは老人施設など特別なケースで、今、スエーデンは、何事もなかったかのような日常を送っている。
毎日、「感染者数」が驚愕の伸びを示している日本だが、他の国と比べ、死亡率が倍以上少ない。無症状の感染者数もどんどん伸びている。日本式の対応も、他の国から「とんでもないと」バカにされ非難されたが、果たして、今の結果はどうなのだろう。

麻生大臣のように「民度」を自慢するような話ではないが、取りあえず、今のところ大敗北というわけではない。
今更、感染を抑えるためだけに、あれこれ対策を打たない方がいい。受入体制確保は必須だが、数値データで満点を取ろうとすれば、「角を矯めて牛を殺す」事になる。
むしろ日本は、死者、重傷者の数と比較して、良い形でコロナが拡散しているのではないか。「With Corona」とは、こうして普通の風邪にしてしまうことではないのか。

数値に囚われる現代人は、数値に反応して震え上がるかも知れないが、数値と関係ない現象や、過去の歴史と比較する大局観で眺めれば、コロナ事態の過剰反応の方がよほど怖い「病気」に見える。
テレビを見ながら、やたら怖がっている老人がいる反面、トランプを始め、多くの社会経験の豊富な老人ほど(結果的に男性)が「騒ぎ過ぎだろう」と思っていることも事実だ。経験的に、その実体を把握しているからだ。身の危険は承知しているが、世間の常識に逆らい、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老人にとっては、「コロナがなんぼのもんや」だろう。占いの視点も、この経験的大局観に通じる。
ただ、海千山千の老人は、この風潮の中で、そう言い出すことの危険も体得しているから、口には出さないのだが。