魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

年寄念仏(2)

2014年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

「繰り言」の中に『何か』を発見するのは、聴き手の問題だが、話す事はもっと難しい。
言葉で表現できないことを、解って貰うには、本当は何も言わないのが一番かも知れない。目に見えることについて話せば話すほど、誤解が広がっていく。

硬くて、甘くて、砕けて、溶けて、形があって、時に形が無い・・・
何じゃそれは? 色々言っているが、結局、矛盾したことをウダウダ言っているだけじゃないか。

硬いと言うが何と比べて硬いんだ。甘いは辛いとどう違い、どの程度違うんだ。硬いものがなぜ砕けるんだ。しまいには溶けるだと?・・・話せば話すほど、際限無く疑問が広がる。

砂糖を全く知らない人に、角砂糖について説明しようとすれば、おそらく百万言を尽くしても理解されないだろう。
最初の説明だけで、角砂糖と解るとすれば、砂糖を知っており、角砂糖も知っているからだ。

想像力が豊で、一を聞いて十を知る、行間を読めるような人なら、最初の言葉でイメージするだろうが、言葉にこだわる論理的な人ほど、疑問の迷路に入り込み、挙げ句、「バカも休み休み言え」となる。
多くを語ることは、決して上策ではない。雄弁は銀だ。

沈黙が金なのは、少なくとも、他者に疑問や葛藤を生じさせない。相手の思い込みを乱さない。黙っているだけで、結果的に「あなたの考えは正しい」と言っている事になるから、気に入られる。
他人と葛藤を生じてまで、言わなければならないことなど、実は、世の中には無い。信号程度の鳴き声だけで、複雑な言葉を持たない動物は、黙っていてもコミュニケーションがとれている。

ナショナリズムは短絡自己中
しかし、人類は言葉を持つことで生活圏を広げ、繁栄した。
言葉の効用は、客観認識の共有だろう。他人が、体験していないことを伝達することで、人類として巨大な体験知を持つ。それが人類に、脳のサイズ以上の力を持たせた。

さらに、文字によって、知は時間の壁まで越えたが、映像の出現によって、それは、一時的な退化をもたらしている。
目に見えるものだけの理解は、動物と同じで、他人が体験する内面への想像力を劣化させる。言葉に対して、「聴く耳」を持たなくする。

近年、ネット上での諍いが拡大し、言語圏同士の争いが拡大しているのは、映像時代の中で、言葉に対する想像力が劣化しているからだ。
言葉の裏を読む力が無ければ、表に出た言葉だけでしか理解できず、『何か』を理解できない。相手が何故、何のためにそれを言っているのか、真意を考えようとしない。

乳房を切り自殺する
先日、背の低い人の方が長生きをするという研究結果が発表されたが、例えば、このような情報を聞くと、「身長を測れば寿命がわかる」と短絡する。DNAに乳がん遺伝子があるから乳房を切り取るのも、同じ発想だ。将来をはかなみ、自殺する人まで現れる。

こういう情報は、断片的な情報に過ぎず、これらの知識の集大成の背後に、初めて、『何か』が見えてくるのであって、そのことが解らない人が増えている。

しかも、そういう人ほど言葉には、即物的に敏感で、「背の低い人が長生きする」と、さまざまに証明しようとする研究者に、「背の高い俺が早死にするというのか、このデタラメ野郎め」と罵り始める。

言葉による情報を、言葉だけしか理解しない人は、「お前の母ちゃんデベソ」と言う人の言葉に激高する。
『この人は何故こういうことを言うのか』までは考えたとしても、もしかして、自分も同じ事を言っているのではないのか、とまでは考えようとはしない。それが、ネットの諍いだ。


年寄念仏(1)

2014年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

念仏
「念仏のように唱える」と言うと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と唱えるように、同じ事を繰り返して言うことだが、南無妙法蓮華経も同じように繰り返すから、正確には「念仏のように」ではないかも知れない。

大体、お経というものは、繰り返しを重視する。有名な大経典でも繰り返しを多用するし、ポピュラーな観音経・偈文などでも念彼観音力を十回以上繰り返す。そもそも、偈文そのものがその前段の要約の繰り返しでもある。

お経の繰り返し技法は、単純には読誦のリズムの良さで、憶えやすいことだが、釈迦の精神の間接的な継承ではないかと思う。
人を見て法を説けという言葉があるし、また、お釈迦さんはたとえ話の名人だと言った人もある。

お釈迦さんの仰りたいことは一つだが、人と状況が違えば、同じように解いても理解されないから、さまざまに説かれた。だから、表面上の言葉だけ比較すると、矛盾だらけと思う人もいる。

しかし、その矛盾だらけの言葉を全部並べてみると、どの言葉にも共通する、そして、どの言葉でも説明できない世界が見えてくる。見えなくても、総てを繰り返し唱えていると、何かそのようなものを感じることができる。

繰り言
お経とは関係ないが、「繰り言」という言葉もある。これは言っても仕方ないことを繰り返して言うことで、「世迷い言」を意味する。
しかし、本来の意味は単に、繰り返して言うことだから、仕方ないこと、無意味なこととは限らない。

年寄りは心配性だから、同じ事を何度も言う。その上、昔話をしたがるから、どんな話も繰り言に聞こえる。
好奇心で生きる若者には、同じ話はくどいだけで、無意味に感じる。「その話は聞いた」と、聞く耳を持たない。

年寄りが同じ事を言うのは、若い頃、解ったつもりでいたことが実は少しも解っていなかった、思いがあるからだろう。
だから、自分自身も解らない『何か』を解って貰おうとするのだが、それは一言で解るようなことではない。自分でもうまく説明できないから、「あなたも年取れば解る」と言う人もいる。

年寄りの繰り言も、百に一つぐらいは価値があるし、全体を通して聴いていると、気づきや発見をすることもある。
読書の達人が口をそろえて言うのは、「大方の本はどこかで聞いたようなことで埋め尽くされているが、たった一言でも新しい知に出会えれば、その本には価値がある」だ。

また、本でも、映画でも、繰り返して読んだり観たりすることで、新しい発見をする。昔読んで、残酷な話だと思っていたものが、読み返してみると慈愛に満ちた話だったりする。

自分で会得
年寄りの話にも、根底には漠然とした悟りがある。
お釈迦さんの話が矛盾だらけに聞こえるように、言葉にとらわれて聞いては、その本質が解らない。言葉を聞くのではなく、聴く行為によって、自分自身が『何か』を発見をすることに意味がある。
たとえ話に意味があるのは、その話と現実との間にある、『何か』を発見することだ。

占いでも、星と現象の一致(的中)に意味があるのではなく、『何か』の存在に気づき、それを会得して、生きる指針とすることに意味がある。
このブログは、それを会得してもらえればと書いている「繰り言」だ。