「繰り言」の中に『何か』を発見するのは、聴き手の問題だが、話す事はもっと難しい。
言葉で表現できないことを、解って貰うには、本当は何も言わないのが一番かも知れない。目に見えることについて話せば話すほど、誤解が広がっていく。
硬くて、甘くて、砕けて、溶けて、形があって、時に形が無い・・・
何じゃそれは? 色々言っているが、結局、矛盾したことをウダウダ言っているだけじゃないか。
硬いと言うが何と比べて硬いんだ。甘いは辛いとどう違い、どの程度違うんだ。硬いものがなぜ砕けるんだ。しまいには溶けるだと?・・・話せば話すほど、際限無く疑問が広がる。
砂糖を全く知らない人に、角砂糖について説明しようとすれば、おそらく百万言を尽くしても理解されないだろう。
最初の説明だけで、角砂糖と解るとすれば、砂糖を知っており、角砂糖も知っているからだ。
想像力が豊で、一を聞いて十を知る、行間を読めるような人なら、最初の言葉でイメージするだろうが、言葉にこだわる論理的な人ほど、疑問の迷路に入り込み、挙げ句、「バカも休み休み言え」となる。
多くを語ることは、決して上策ではない。雄弁は銀だ。
沈黙が金なのは、少なくとも、他者に疑問や葛藤を生じさせない。相手の思い込みを乱さない。黙っているだけで、結果的に「あなたの考えは正しい」と言っている事になるから、気に入られる。
他人と葛藤を生じてまで、言わなければならないことなど、実は、世の中には無い。信号程度の鳴き声だけで、複雑な言葉を持たない動物は、黙っていてもコミュニケーションがとれている。
ナショナリズムは短絡自己中
しかし、人類は言葉を持つことで生活圏を広げ、繁栄した。
言葉の効用は、客観認識の共有だろう。他人が、体験していないことを伝達することで、人類として巨大な体験知を持つ。それが人類に、脳のサイズ以上の力を持たせた。
さらに、文字によって、知は時間の壁まで越えたが、映像の出現によって、それは、一時的な退化をもたらしている。
目に見えるものだけの理解は、動物と同じで、他人が体験する内面への想像力を劣化させる。言葉に対して、「聴く耳」を持たなくする。
近年、ネット上での諍いが拡大し、言語圏同士の争いが拡大しているのは、映像時代の中で、言葉に対する想像力が劣化しているからだ。
言葉の裏を読む力が無ければ、表に出た言葉だけでしか理解できず、『何か』を理解できない。相手が何故、何のためにそれを言っているのか、真意を考えようとしない。
乳房を切り自殺する
先日、背の低い人の方が長生きをするという研究結果が発表されたが、例えば、このような情報を聞くと、「身長を測れば寿命がわかる」と短絡する。DNAに乳がん遺伝子があるから乳房を切り取るのも、同じ発想だ。将来をはかなみ、自殺する人まで現れる。
こういう情報は、断片的な情報に過ぎず、これらの知識の集大成の背後に、初めて、『何か』が見えてくるのであって、そのことが解らない人が増えている。
しかも、そういう人ほど言葉には、即物的に敏感で、「背の低い人が長生きする」と、さまざまに証明しようとする研究者に、「背の高い俺が早死にするというのか、このデタラメ野郎め」と罵り始める。
言葉による情報を、言葉だけしか理解しない人は、「お前の母ちゃんデベソ」と言う人の言葉に激高する。
『この人は何故こういうことを言うのか』までは考えたとしても、もしかして、自分も同じ事を言っているのではないのか、とまでは考えようとはしない。それが、ネットの諍いだ。