魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

一抜けた

2014年05月26日 | 新鎖国論

やはり時代は、昭和初期に巡ってきている。ただし、歴史は繰り返すが、同じ事を繰り返すわけではない。今度のアジアの主役は、日本ではなく中国だ。

CICA(アジア信頼醸成措置会議)で、習近平は「アジアの安全はアジアで守る」と、集まった周辺国の前で、中華皇帝のように振る舞って見せた。
「力によらない」と言う習近平の言葉を、集まった周辺国の首脳はどう思いながら聞いていたのだろう。

天王星84年周期では、現在は昭和4、5年頃にあたり、5年が午年だが、漠然と「この頃」と考えた方が良いだろう。
切羽詰まった大日本帝国が、米英と対抗するため、日独伊三国同盟や、日ソ中立条約を画策するのは、まだ先のことだが、最終的に大東亜共栄圏構想へと続く、鼻息の荒い大日本帝国を彷彿させる。
日本も、この頃はまだ、欧米とも表面的には良好な関係だった。

今もまた、政治的に対立する中で、中国企業がアメリカに上場し、アメリカは大歓迎している。自由主義経済のグローバル化はアメリカの理想だが、中国共産党の理想はそうではない。
領土、覇権、経済、ナショナリズム・・・世界は綾なす糸のように絡み合って、先が全く見えなくなってきた。

84年前と比べれば、世界の人口はすでに4倍に近づいている、それでも人口が足りないと思い込み、誰も抑制的な未来社会を考えない。

極まれば転ずる
世界秩序の動揺に、誰もが感じる大混乱の予兆は、人間の「サガ」を知る人間自身だからこそ、感じるものだ。
誰も止まろうとしない、止まろうとしても押し流される。もう人間自らでは止められないエネルギーで走り続けていく欲望列車だ。
このままでは、必ず、脱線転覆し激突する。

この弾丸特急を止めるには、エネルーギーを断つことだが、誰もがガス欠だけを恐れている。そして、運転の権利を得るためにエネルギー争奪戦を始めた。
「一抜けた」と、飛び降りたくても、このスピードでは降りられない。
しかし、「われわれは降りる、下ろしてくれ」と叫ぶことはできる。

先頭車両に乗っていた日本が、「降りるー」と叫びながら、後ろに走って行けば、「しめた!」と思う人もいるだろうが、「そうか!」と気づく人も出るだろう。そういう人が最後尾車両に集まって、連結を切り離すこともできるかも知れない。

時代は再び、ブロック経済時代の様相を帯びてきた。
不況、不作、恐慌、生産消費圏の確保、戦争・・・は、産業革命パラダイムの「構造」そのものだ。ここにいる限り、避けることはできない。

新鎖国主義
狭い地球で、地産地消の鎖国は今や不可能だ。
何かを売って物を買わなければ、生きていけないのなら、日本は食糧自給率100%の独立採算の上で、資源に関わらないもの、学術、芸術、娯楽を売って、物を買えばいい。
さらに言えば、付加価値製品を排除する思想も必要だ。
今、世界中が欲しがる、「豪華な刺激物」をよく見れば、バカらしさの象徴そのものだ。

人口と資源に依存した、暴走列車から、どこに降りるのか考える時だが、誰かが、実際に降りて見せなければ、誰も降りようとしない。
元来、資源もなく、人口減少も進む日本こそが、それを実現させなければならない。

今もし、「日本列島以外全部沈没」したとしても、日本は生きて行かれるはずだ。その時どんな暮らしをするのか、原点に帰るべきだろう。
外界と全てを共有しなければ生きられないと思うのは、大航海が生んだ国、アメリカの黒船によってもたらされた強迫観念だ。
「資源の無い日本は加工貿易でなければ生きていけない」という言葉は、日本人の胸を打つが、それは黒船後のことだ。

日本が、限られた資源で、知性にあふれる豊かな蓬莱の島を実現すれば、それは狭い地球で暮らす人類の、手本になる。
日本人は、日本文化は、小さな地球に手本を示す責任を負っている。
そして、それを示す宣言と行為は、日本は軍国主義だと自己投影する国への、大きな反証となるだろう。

産業革命パラダイムからの脱却。永世中立、国民皆兵、食料自給、学芸文化、観光立国・・・
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