魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

大歩危・小歩危

2009年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

四国には大ボケ・小ボケという地名がある。

ボケ(惚け)は認知症と言わなければならないそうだ。
「惚け」をいけないことだと思っているから、こういうくだらない欺瞞がまかり通る。

「惚け」は良くも悪くもない。ただの現象だ。
「恍惚のブルース」では、相当楽しそうなことだと言っている。
「忽」は無に等しいようなことの意味だから、「惚」は心が無に等しいことだろう。
心を奪われたら「惚れちまった」ことになる。
すてきなものを見聞きすると、我を忘れて「惚れ惚れ」する。
だから、「惚け」は、心が無になっている状態だ。

心が無になっていけないなら、酒を飲んだり恋をしたり、学問に没頭したり、ましてや、寝てはいけないことになる。
しかし、誰も悪いことだとは思わない。
酒や恋を禁じる考え方もあるが、あまり人気のない考えだ。

人間には、惚けることも必要だ。
合理性や功利性を求めて、社会貢献、滅私奉公と、自分を失うより、社会の役に立たない没我の方が無害かも知れない。
戦時中は、滅私奉公で本当に命まで捨てていたのだから。

いつの時代であろうと、我を殺してひたすら生きてきた老人が、浮き世を逃れて「惚ける」ことを、悪いことと言えるだろうか。

「惚け」は悪いことだと思っている人が「この!惚け老人」と思う。
自分の悪意を隠すために「認知症」と言い換えよと、他人まで強制する。あんたこそが、悪意の人だ。

惚けは老人のごほうびだ
年寄りが死ぬより恐れるのは、寝たきりになることと、惚けて恥ずかしい様をさらすことだ。
中でも嫌がるのは、色惚けだろう。ほぼ誰にでもある欲望なのに、社会的にもっとも抑制されているから、自分の本当の姿がバレてしまったらどうしようと、正常な感覚ではそう思う。

しかし、本当に迷惑な惚けは、欲惚けや、被害者惚け?だ。
「通帳を盗まれた」とか「ひどい目に遭わされた」とか言い出されると、通常社会でも起こることだから、信憑性が無くもないので、人間関係に混乱が起きる。

横暴惚けというのも、やたら怒鳴り散らしたり、人のいうことをまったく聴かなくなったりするが、これは本質的には大きな迷惑ではない。ただ、ルール無視の傾向がでると、自動車の運転などの社会生活に重大な問題を起こすことになる。

こういうのに比べれば、色惚けなど、実にかわいいものだ。
以前、某大学の横で深夜、80過ぎのばあさんが、大学生に、にこにこ笑いながら「にいちゃん、チOチO・・・たろうか」と言うので、大学生が恐怖の顔で逃げていたが、さすが、おっさんには声を掛けなかった。

ただ、見ていて思ったのだが、これは色惚けと言うより、大学生のかわいらしさに思わず、からかってみたくなったのではなかろうか。(徘徊でもなさそうだ)
それでも、まあ普通は言わないが。

さまざまな「惚け」は酒癖と同じだ。
日本は酔っぱらいに甘いと言われるが、日本人が酒に弱いとしても、平和で優しい社会だったからではないのだろうか。昔は失敗も「酒の上だから」で許された。
酔拳」でも言ったような、神の憑依という意識もあるのかも知れない。

年寄りの惚けにもまた、神の境地に対するような寛容があった。
複雑でもろい現代社会では、酔っぱらいや惚け老人の横道(おうどう)を許すわけにはいかないかも知れない。
しかし、惚けは、酔っぱらいの奇行とくらべれば、本人には罪がない。
積年の抑圧から解き放たれた恍惚を、社会の害にならない限り、温かい目で見守ってあげてはどうだろう。
優しい気持ちで見守ることができれば、自分が惚けたときの心配も無くなろうというものだ。

易経の「離」の卦、三爻には・・・
日昃之離。不鼓缶而歌、則大耋之嗟。
(日傾くの「離」。ホトギを打ちて歌わざれば大テツの嘆きあらん)

「もう日が沈もうとしている人生。酒を飲んで歌い、余生を楽しまなければ、ただ辛いばかりの晩年になるぞ」
と言っている。
酒を飲まなくても、恍惚の余生が送れるのは幸せなこと。
そう悟り、すべてを受け入れることができる人のみが救われる。


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