魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

運転年齢 2

2019年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

杉良太郎(74)が免許を返納した。有名人の責任として、啓発しなければと思ったのだろう。立派な考えだ。
ただ、杉良太郎は運転しなくても、運転してくれる人もいるだろうし、どんなにタクシーを利用しても予算の心配も無いだろう。
ところが、運転免許を簡単には返納できない人もいる。公共交通機関が発達していない地方では、タクシーを使うにも覚悟がいる。

都会では電車やバスがあるし、駐車場の料金を考えればタクシー代など安いものだが、地方の生活水準では異常に高い。その上、過疎化で、乗せてくれる若者も少ない。バスや電車など異世界だ。
何時でもどこでも動ける車だけが頼りで、駐車場料金など考える必要も無い。これでは、自家用車と運転免許は簡単に手放せない。

また、都会に暮らしていても、車と運転免許を手放せない人がいる。公共交通機関を使わないまま老いた、ほどほどに裕福な自由業や偉い人は、今更、人混みの中に入っていけない。老いればなおさら、新しい環境は避けたい。
逆に、年金では暮らせない運転手が働こうと思えば、運転しかない。
このところの高齢ドライバー事故は、医師、弁護士、高級官僚、そしてタクシーだ。これまでも、送迎バスなど、再就職ドライバーの事故も少なくない。

杉さんが桜吹雪の片肌脱いでも、自主返納は進まない。そもそも、自主返納しようと思う人は、その時点で意識の高いカクシャクとした人ばかりで、ほとんど、安全な人だ。肝心な「運転してはいけない人」ほど、返す気がない。
だから、やっぱり、法律で一応の上限を定めるべきだ。そうすれば、誰も悩まなくて済む。どうしても運転したい人は、高齢者用の免許試験を受ければ良い。

自動車産業の責任
何故、こんな単純なことが定められないのかと言えば、自動車産業の問題だろう。
運転人口が減れば、車が売れなくなると考えるからだろうが、それは自動車産業の怠慢だ。
自動車産業は、外圧から、今頃になって自動運転に注力しているが、それ以前から、ブレーキやアクセルの仕組みを全く変えないで、マット事故や踏み間違い事故が頻発しても、政治力で解決してきた。運転上限が無いのも、同じ理屈だろう。
しかし、自動車産業もとうとう、アグラをかいていられなくなった。エネルギー問題に加えて、運転人口が減少し、シェアカーやウーバーのように、車社会そのものが激変しているからだ。

機関車が生まれた時も、馬車にこだわった人の方が多かったが、今や馬車で通勤する人などいない。
自動車に座を奪われた鉄道だが、近年、息を吹き返してきた。
自動車産業が生き残ろうと思えば、物流の観点からも、鉄道、自動運転と連携した「交通システム」産業でなければ、馬車と同じ運命をたどるだろう。

将来は、車の運転などする人はいなくなり、車を呼べば(念ずるだけかも知れない)移動ボックスがやって来て運んでくれる。長距離であれば、ボックスごと鉄道に乗り移動する。貨物も同じ仕組みで、長距離トラックなどは無くなり、コンテナ輸送のために、高速道路も鉄道になるかも知れない。そして逆に、健康レジャーとして、巡礼道や旧街道が復活する。
この目では見られないが、そう遠い未来でもなさそうだ。