魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

介護兄弟

2019年06月15日 | 兄弟関係

身内の看護や介護を受けるとき、元気になりたいなら、下の子に介護してもらわない方が良いかも知れない。
中間児も末っ子も、世話をしたがるが、多くの場合、やり過ぎによって、治るものまで治らなくなる。
下の子は、何かにつけて、親兄姉から世話をされたことが多いので、自分が世話をする立場になることに憧れている。
誰かが弱い立場になると、待ってましたとばかりに世話を焼き始める。そして、一生懸命世話を焼くのは良いのだが、その結果を考えない。
これは、人の世話だけではなく、自分の病気に対しても同じで、やれることは全てやろうとする。

変な例えかも知れないが、長子はアナログで、弟妹はデジタルだ。
長子の生い立ちには何事も、「前例」が無い。何をするのも初めてで、「こんなものかな?これで良いかな?」と手探りで、常に撤退できる「ほどほど」の勢いで進む。だから、徹底性に欠け、あまり、劇的な結果を出せない。その代わり、どの方法が良いか常に現実を見ているので、大きく、外すことはない。

一方、弟妹は、方法を探ることよりも、既存の方法の中から最も良さそうなものをチョイスする。だから、「こういう時にはこうする」と、「信頼できる」方面から聞くと、吟味することなく徹底的に実行し、中間的な曖昧さがないので、当たれば成果も大きい。
日本が長年かけて導き出したノウハウを使って、中韓が大成功するようなものだ。有機ELも曲面ディスプレイも日本が実用化したものだが、それで儲けたのは中韓だ。(日本は長子一人っ子)

介護や治療に際しても、長子は「そもそも論」で考え、対象となる人間の存在から考えるが、弟妹は、方法に囚われ、対象となる本人にとって、結果として、良いか悪いかには意識が及ばない。その上、目標値を100%で考えるので、70%のベターを上出来とは思わない。
自分自身の病気や老化でも同じで、自分で「ま、こんなものかな」とは思えず、医師などの権威ある人や、信頼する人の助言がなければ、終わりにすることができない。

親の介護についても、長子が、ほどほどの関与で、肝心なことのみ手を出そうと考えていると、弟妹が、「兄(姉)さんは無責任で何にもしない!と、自分が買って出て、自分のやり方ですべて仕切ろうとし、しまいには長子を拒否して、追い出してしまう場合まである。
親も、至れり尽くせりは嬉しいから、その子に頼るし、仮に拒否しようにも、勢いに押されて、言いなりになる。

しかも、弟妹は、親の老化した言動を直ちに、「ボケた!」と決めつける。これも実態を見ずに既存の定義に当てはめる弟妹型の認識方法で、何事にも病名を当てはめてしまおうとする。
逆に、長子の場合は既存の病名(定義)を信じず、「そうでもないだろう」と思いたがる。自分で判断したがるのは、何事も自分の経験則で成長したことによる。ただし、親が口うるさかったり過保護だった場合、自己判断しない人になるケースもある。

長子の「自己回復力」を前提とする世話に対し、他動的に手を加える世話をする弟妹の介護や看病は、それを受ける本人の気力や回復力を奪ってしまい、場合によっては、治るものまで治らなくなってしまう。
医療関係者や長患いの経験のある人は、そうでもないが、一般には、子供であれ夫婦であれ、弟妹が看病すると、一生懸命看病した甲斐もなく・・・ということが巷に溢れ、懸命に看病した人が責められるはずもないから、悲劇として語られることになる。
また、病人本人が弟妹の場合も、最大限の治療を望み、周囲は逆らえないから同じことが起こる。