魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

文明紀末

2018年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃は、ニュースサイトの固有名詞に対し、「敬称をつけろ」と抗議するコメントが多い。世の中、変わったものだと思う。

政治家や著名人は、社会の構成部品であり、歴史上の人物と同類のアイコンだ。歴史上の人物を、一々、卑弥呼様とか徳川家康征夷大将軍などとは語らない。
社会に発信する人物にはプライバシーと公の顔があり、公の言動に対して個人的な関係は存在しない。
にもかかわらず、敬称をつけるのが当然だと考える裏には、タレントのプライバシーを叩いたり、炎上したりするのと同じ公私混同がある。

噂話から、瓦版、新聞、テレビ、ネットと、人の関係性が広がり、自分と全く関係ない人間を、同じコミュニティの存在と認識するようになった。サイバー上の存在を、リアルに考えるほど、今や、自分自身の存在が希薄になっている。
実際、ネット上で知り合った人間と、出会ったり恋をしたり喧嘩したり出来るから、サイバーこそが実態だと信じるようになるのもムリはない。
しかし、少なくとも噂話の時代までは、人と人は、直接、人を介して知り合っていた。

記号や文字の出現以後、人は五感を通さない認識を持つようになった。
文字や映像を通しての人間関係には、大きな利点の裏に重要な欠落がある。
文字は、言葉に次いで得られた人類発展の大きな力ではあるが、同時に、生物本来の能力を失わせる。人は昆虫の視力、犬の嗅覚、鳥の翼を持たない代わりに、ついには、センサーを発明し、飛行機に乗るようになったが、進化は「感性の退化」をもたらした。
さらにAİの出現に至っては、第六感のような統合的な認識力がますます失われていく。

自己喪失
言葉を話すまでは、人はおそらく自分を客観視することなど出来なかっただろう。
ところが、言葉という、肉体を離れた存在を通して他者と認識を共有するようになり、その過程で、自分という他者の存在を知るようになった。そしてさらに文字を通し、時間、空間を超えて、自分の置かれた位置を認識できるようになった。
同様に、自分の姿を鏡によって知った古代から、さらに映像の出現した現代に至ると、時空を超えた現象を、具体的に見ることができるようになった。

抽象概念を通して思考する事がどんどん広がり、五感による実感が希薄になり、五感の本体である自分自身が希薄になると、すべてのものの価値が等しく重要になる。
自分の属する人類より、鯨やペットの方が大事になり、可能性で乳房を切除し、今の友好より古代の恨みが優先する。
今、世界中に見られる、現実を無視した理想主義は、知識の氾濫、抽象概念に溺れた「優先度の喪失」によるものであり、こうした現象は文明の飽和の度に現れてきた、いわゆる世紀末現象だ。

今は世紀末ではないが、冥王星250年の文明紀末と言えるだろう。
産業革命パラダイムが生み出した、生産、労働、帰属集団などの新社会秩序が、伝統的な秩序と完全に入れ替わろうとしている。そしてこの間に生まれた情報の肥大が、価値の拡散による消失を生み、個々は自分が何に属しているのか解らなくなっている。
そのことが、宗教やナショナリズムへの狂奔を呼んでいる。

サイバー世界に没入するほど、何を信じて良いのか解らなくなる。当然のことだ。始めから仮想の世界だから、本来、信じるものなど存在しない。
言葉に始まった仮想知は、ついに、発信の本体である、人間の存在を失わせようとしている。
実物の人間関係が存在しない世界では、仮想の人間を好み、嫌い、尊敬し、軽蔑する。
実物の世界では関係の無いはずの著名人に、暴言を浴びせたり、尊敬して敬語を使ったりする。
「敬称をつけろ」と叱責するネット世界の住人は、街で出会ったタレントに「久しぶりやね、どこ行ってたん?」と声をかける、オバチャンの進化形で、自分の立ち位置を失っている。
「アブナイ人」より、もっとアブナイ。