魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

中学卒業

2018年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

日本のW杯ロシア大会が終わった。
スポーツ観戦の習慣は無かったが、両親が相次いで他界し、少しボーッとしていた頃、「日本が初のワールドカップ進出!」とテレビが騒いでいた。それにつられて、何となく、試合を観た。それが「ドーハの悲劇」だった。
この時から、日本サッカーの魔法に掛かってしまった。

その後四半世紀、世代交代を重ねながら成長する日本サッカーを、親バカのように応援してきた。様々な局面での成長を観るたびに、毎回、「さあ、今度こそ」と、這えば立て、立てば歩けと、思わず応援してしまう。
何でこんなに気になるのか。単に勝ち負けなら、ある程度予測できる。しかし、勝てないとわかっても、そんなことを信じるより、生きものが、生きようとする姿を見たいのだ。歴史を知っていても、歴史ドラマを観る、それと同じだ。そこで何があったのか、もしかしたら、違う展開もあったのかも知れない。歴史の…たら…れば、以上に、現在進行のドラマには、常に無限の可能性がある。結果に意味はない。

占いは7割当たればプロという。つまり、3割は外れるということだ。だから、結果が見えたとしても、現実の人生は無限だ。占いで人生が決まっているなら、努力する意味が無い・・・のではなく、情熱の前では、結果の方が意味が無いのだ。
最低の成功と最高の失敗は、ほぼ同じようなものだ。
50点で落第と51点で合格は、全く違うように見えるが、実力には大差なく、そのことが解れば、次の人生が待っている。牛後となるよりも鶏頭となるほうが恵まれることが多い。合格と落第があったとしても、それがすべてではない。占いが示す結果と、意味する未来は同じではない。
だから、占いを信じても頼らない。人生もサッカーの試合も一瞬一瞬に意味があるのだ。

卒業
「ドーハの悲劇」が、小学校の卒業だったとすれば、今回の悔しい8強の壁は、中学校の卒業だ。ドーハも最後の一分でW杯初出場を逃した。あの日から日本は大きく成長し、トーナメント進出のために「パス回し」までできるようになった。しかし、ベルギー戦で、優勝を狙うチームの、格の違いを見せつけられ、高校レベルへの進学を決意させた。
ベルギーに敗れた理由を、体格差の壁と見る向きもあるが、それなら女子が優勝したのは何だったのか。サッカーは文化対決だ。弁慶を倒す小さな牛若丸の日本は、独自の力を秘めている。これから日本は、世代交代を経て、また一段階、成長しなければならない。
日本サッカー協会は2050年の優勝を目標にしていると、川淵氏が言っていた。その日を見ることはできないだろうが、そう信じて死にたいものだ。