魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

絶体絶命

2018年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム

また、緊急通報のあり方が問題になった。
多くの人が「避難指示」に緊急性を感じなかったと言う。
もう、何度も言うことだが、以前は「避難命令」だったものが、「避難指示」に変わったことで、リアリティーがなくなった。「命令」が、高圧的で民主主義に反すると感じる風潮から、「放送禁止用語」のような言葉狩りにあったのだろう。

これも一つの、理想主義の行き過ぎ現象だ。思想の根本が理解できない人は、表面的な言葉や態度に反応する。言葉狩りや不測の行為を責め立てる。悪いことに、こういう浅薄な人の方が大勢であるために、本来の理想と真逆の結果を招く。ネットという大衆コンセンサスがそれに味方する。
それを恐れる「識者」が「衆愚」に迎合する。その結果の一つが、「避難指示」という曖昧模糊とした標語だ。

東日本大震災の時、緊急性を伝えたい町長の決断で「避難命令」を連呼した大洗町は、皆助かった。その言葉だけが原因かどうかはわからないが、少なくとも高齢層には、緊迫が伝わったはずだ。
「命令」は、戦時中の軍による支配を思い起こさせるのだろうが、災害時の「命令」とは、「天をして担当者を語らしむる」ものだ。高圧も支配もない。天からの命令だ。

それでも「命令」はダメだと言うなら、ストレートに、「死んでも誰も保証しません」と言ったら良いかも知れないが、やっぱり、四文字熟語でなければ、まとまりが悪いので、
「緊急避難」、「絶体絶命」のように切迫感を伝えるか、「最後通告」、「絶対避難」のように、これ以上のレベルは無いことを直観的に理解できる言葉にすべきだろう。
言葉一つが、多くの生死を分かつことを肝に命じて、再考してほしい。