魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

鶴亀鶴亀

2015年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

雪溶けにセメント白し猫の足
コンクリを歩いて猫の大仕事

今年の正月は、めずらしい大雪だった。一週間ほどしても日陰には雪が残っていた。
塀ぎわで、溶け始めた雪の下からのぞいたコンクリートに、猫の足跡があった。
猫の寿命は長くても20年ぐらいだから、この足跡を残した猫はもういないだろう。
意図せずして、後世まで足跡を残すことになった猫だが、
それも、人の営みの限りで、早ければ次の代には立て替えられ、跡形もなく消えてしまう。恐竜のように大自然に残す足跡と比べれば、はかない。

名声も勲章も、ごく限られた歴史的人物の他は忘れられる。その人類の歴史もせいぜい千年単位で、この先人類が、千年も万年も繁栄するとは考えにくい。

街にあった建物が取り壊されると、不思議なことに、翌日歩いてもその建物の姿を思い出せない。毎日当たり前に見ていた景色なのに、実はどうでも良かったのだ。
自分が思うほど、他人は自分に関心が無い。自分も他人にそれほど関心を持っているわけでも無い。だが、人間は互いがいなければ成り立たない。

被害者がいなければ加害者はいない。互いがいるから営みが生まれる。嫌なヤツも困ったヤツも、人類生々の原動力だ。誰もが良い人、良き社会、豊で平和な天国のような社会は、やがて、アンゴルモアの大王に滅ぼされる。外敵ばかりではない大自然こそが大きな脅威だ。
悪人も善人も奇人もいるから、いざという時の対応力が生まれる。
無礼者や、ハラスメントが全く無い社会は死んだ社会だ。

加害者を全て駆逐しようとする人は、すなわち、その人こそが加害者だ。
人間社会も大自然も、互いが利用し合い、互いが邪魔し合って成り立っている。そのことを我慢できない気持ちは誰にでもあるが、適度に間を取り、許し合っているから、互いに生きることができる。

成長期の若者には、そこがなかなか解らない。逆に、年寄りはまっすぐ伸びようとする気力が無い。
若者の意見だけで世の中を動かせば良いわけでもないし、年寄りの頑迷固陋では何も始まらない。強者を押さえるために弱者が横暴になれば良いものでもない。
何事も、ほどほどが大切だ。

そうして、何となく何となく営みを続けていれば、人類は案外、千年も万年も繁栄するかもしれない。