魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本方式

2015年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

白鵬が全勝で33回目の優勝を飾り、大鵬を抜いて単独新記録を打ち立てた。
いろいろな国からの力士が増えて、相撲が多彩で面白くなった。
その中では、モンゴル出身の力士は、ほとんど違和感がない。神に捧げる儀式としての日本の相撲のルーツは、モンゴル相撲と同じではないかと思えるし、モンゴルと日本の間には感覚や価値観に、通じるものがありそうだ。
戦前を知るモンゴル留学生の祖母が、日本人は礼節をわきまえ、まともだと言っていたそうだが、価値観が通じたのだろう。

日本の若者が、相撲よりも他のスポーツに傾倒する中で、モンゴルの勇者が次々と来日し、上位をほとんどモンゴル力士で占めるようになった。
朝青龍全盛時代、日本の相撲フアンの中には、日本人ガンバレと対抗意識を燃やし、何かに付けて、朝青龍をこき下ろすムードがあった。朝青龍は末っ子でハチャメチャなところがあり、脇が甘いことも事実だったが、結局、追い出されてしまった。

白鵬は中間児で如才なく、実直なところがあるから、双葉山や大鵬の日本人力士の先達を敬い、日本人に好感を持たれた。
そして、相撲界の偉大な記録を次々と塗り替えたわけだが、当時、朝青龍を追い出した、日本人びいきの素朴なファンは、日本人の記録が全て破られたことを、どう思っているのだろうか。もし、朝青龍が体力の限界まで横綱を張っていれば、果たして、白鵬はこれだけの記録を残せただろうか。小さなナショナリズムの皮肉が面白い。

白鵬の大記録は、相撲を根源的に面白くしたと思う。日本の伝統に従って、日本に来て日本語を覚え、日本の習慣を身につけて、日本人の出来ない日本の美を打ち立てた。
日本刀の美しさには輸入の鮫革(エイ)が使われたことも一因であったように、日本の流儀に異国のものが混ざって、少しも不自然ではない。日本人、日本の文化自体が、混成の極致だからだ。

白鵬の記録が相撲を活性化させ、モンゴル相撲のテクニックもやがて、相撲そのものを多彩に面白くしていくだろうし、日本人の中からも、そこに立ち向かおうとする意欲もわいてくるだろう。
また、力士の構成が国際的になれば、相撲そのものの認知度が上がり、日本文化の価値が一段と上がる。もちろん柔道のように、外国に迎合していく必要もない。日本文化は日本でのみ生きることが出来る。興味があるなら来れば良い。

あらゆることに言えることだが、日本のオリジナリティーは、先ず、日本で生息することで、初めて価値が出る。