<1> 閉鎖社会
いじめ事件の中学に、爆破予告が入って、学校を休校にしたというニュースを聞いた中国人が、BBSで「アホちゃう?いたずらに決まってるじゃん。うちの学校なら全く気にしない」と、驚いていた。
このあたりが、日本人と中国人の違いだ。日本人の用心深さと、中国人の大ざっぱさ。どちらもそれぞれ正しく、それぞれ間違っている。
日本人の用心深さには、「もし、何か起こった時、誰かに責任を問われないか」と、事件そのものより、他人の目を恐れているところがある。
裏を返せば、責任を問われないなら、無関心になり、同時に、その責任回避意識こそが、「いじめ隠蔽」の元凶になった。
大事を取って休校にした学校と、「いじめ隠蔽」が同じ学校だったことは、当然といえば当然で、責任回避の事なかれの表れだ。
近江見聞録
学校はまた、地域文化の象徴でもある。近江滋賀県という特殊性も、全く影響していないわけでも無さそうだ。
滋賀県で見聞したことを思い起こすと、滋賀県の人は、古くて真面目で親切だ。その上、古事記時代のような、渡来人の感性を残している。
エイズが話題になった頃。昼の主婦宅に電話が掛かってきた。
「保健所の者ですが、お宅のご主人にエイズの疑いがあるので、奥さんも検査の必要があります。奥さんのいま履いている下着を紙袋に入れて、人に分からないように、自宅前の電柱下に出しておいて下さい」
これに、多くの主婦が真面目に「協力」した。(当時の週刊誌から)
よく行くファミレスが、窓側がガラ空きなのに、必ず店の内側に案内するので、「普通はどこでも窓側から案内しますが」と意見蘭に書いたら、次回から、誰に対しても必死で窓側に案内していた。
『意見欄が効き過ぎたなあ』と思うぐらいだったが、しばらくして行くと、案内しなくなっていた。見ると、客は皆、内側に座っている。
近江人にとって、窓側はフライバシーが侵害される所だと知った。
近年、他府県からの流入が増えて変化しているとは言え、滋賀県は昔から、近江商人と近江産物で、豊かな土地であり、現在も個人所得が大都市を含めて全国4位だそうだ。それだけ、「金持ち喧嘩せず」の土地であり、保守的だ。飲食店が最下位で、応接セットが全国一だそうだ。
以前、滋賀県のお父さんが、6月に結婚式をするという娘に、結婚式は(刈り入れの終わった)秋に決まっとる、と反対していた。お父さんは普通のサラリーマンだったのだが。
また昔、婚前交渉について語る滋賀県の若い女の人が、「天皇陛下だってすることやし」と言ったのには、笑いが止まらなかった。
『ここでそれを持ち出すか!』 (それほど天皇陛下を尊敬している)
この他、石田三成、井伊大老、大津事件、西武の堤一族、田原総一朗の舌鋒、日野町事件・・・
これら、一連のイメージが、古代からの渡来人であり、同時に日本文化のコアな部分を連想させる。どう、渡来人なのかは又の機会にするが、とにかく妙に「強引でくそ真面目」なのだ。解る人には解ると思う。
他人の眼を気にして、人道を忘れる
こうした滋賀県気質の特性は、おしなべて見れば、海外から見た日本に通ずるものがある。
いじめ事件にしても、海外から「やっぱり日本は」と思われたオリンパス事件や、インサイダー取引などと同じ、隠蔽体質の問題だ。
一生懸命な真面目さは、その環境の価値観にも忠実だ。
目先のつじつま合わせに真面目な人は、大局を見失う。
目の前の人や、属する社会に忠実であれば、その不正に目をつぶり、
「白いと言われたら白い」と言うことが、美徳のように思えてくる。
日本のあらゆる組織は、「使命より組織防衛」が目的化する。
学校のいじめは、こうした閉鎖社会の予備軍だからこそであり、当然、それを指導する学校という仕組みは、これを防ぐ立場には無い。
日本の学校は、人格の均質化洗脳が目的だ。オウムのスタイルが学校に似ていたのも偶然では無い。
いじめ事件に怒っている日本人も、「アホ言うもんがアホ」で、
日本人として自分の恥部を見せられた「後ろめたさ」への、裏返しでもある。(人を責めれば、自分は正しい側にいるような気になれる)
<2> 日本刀と青竜刀
日本人の生真面目さが、クオリティーの高い製品を生み、世界の信頼を勝ち得た。一方で、世界が何を求めているのか「現実を直視」することには鈍感で、ビジネスで負けている。
国内でさえ、消費者ニーズより、内輪の論理にこだわり、テレビ録画のコピーワンスのような流通障害を生んでいる。本を断裁せず直接コピーできるブックスキャナなども、未だに出ない。
日本企業は、夜討ちを嫌った貴族のように、ビジネスに美しい横綱相撲を夢見ている。
著作権など、過剰な権利保護が全体の経済流通を滞らせるのは、あらゆる権利問題が、日本社会全体の贅肉になって、日本の生命活動そのものを断とうとしていることと同じだ。
生真面目と大ざっぱ
「嫌がらせの爆破予告」で休校にする日本人にあきれた、中国人にとって、言葉は実体を伝えるもので、実体そのものではない。
「爆破予告」が、本気か嫌がらせかぐらい、ちょっと状況を見て、考えれば解りそうなことだ。そう思っただろう。
例えば、本気で爆破するつもりなら、予告などしない。
わざわざ前もって言ってくるのは、別の魂胆があると言うことだ。
微少な可能性はあるかもしれないが、こんな事に取り合って、休校にすること自体が相手の思うつぼに填まることになる。
前例を作らないという点でも、相手にすべきでは無い。・・・そう考えるだろう。つまり、何が何でも、形だけでも、「実体」が先行だ。
しかし、日本では、自分の判断より、責任回避の方が優先する。
実際、少しでも問題が起これば、天地がひっくり返るほどの批難が起こる。説明できない「判断」で実行すれば、それ自体が非難の対象だ。
例え上手く行ったとしても、それは偶然とされ、無謀が非難される。
「放棄して逃げる」と言う修羅場に飛び込んだ総理は、非難された。
日本の大企業が画期的商品を出せないのも、国の規制が雪だるま式に膨らんできたのも、そして、いじめや、虐待、ストーカーの事件を防げないのも、互いに非難し合い、足を引っ張り合う風土ならではの決断実行を避ける掟、非断三原則、「論拠の提示、責任回避、ミスの隠蔽」の賜物だ。
日本人が、現実対処のため「方法」にこだわるのに対し、中国人は「現実」を直視する。極論すれば「方法」などどうでもいいのだ。
極端な現実直視は、為政者のウソを見抜く反面、状況によって100%の迎合をし、状況によって全く破棄する。理屈より現実だ。
姿の見えない法や権力より、目に見える人を信じ、人間関係や金の力、そして腕力を信じる。
鄧小平の、「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫が良い猫だ」は、中国人には、リンカーンの「人民の・・・」より、心に響く言葉だったのではあるまいか。
中国政府が、何かにつけて一方的な言い分を叫びたてるのは、理屈より、「現実」の力や結果を誇示することが重要だと考えるからであり、ここに拘るあまり、非現実的なことを「断言」しているのは、日本人にとっては、滑稽で理解しがたいことだ。
論拠の無い主張は、まさに、ハッタリか脅しにしか聞こえない。
しかし、これこそが中国流現実感、「言わせてくれよ」の爆破予告だ。(実体は無い)
<3> 白髪三千丈
何度も言うが、中国が好きで中国人を敬愛している。
そして、これも何度も言うが、中国共産党は軍事独裁の古代帝国だ。
中国人の大ざっぱな感覚は、日本を中国の一部だと思っている。
中華人民共和国が強引にまとめている、いくつもの民族地域と同じように、日本も徐福の末裔が住む「中国の」一地域だと思っている。
中国人にとっては、東アジアという漠然とした大歴史地域と中国を、区別できない。近代国家と、エリア概念の古代国家を混同している。
確かに、幾度もモンゴル人に支配されてきた中国にとっては、どうでも良いことなのかも知れないが、借用漢語を除けば日本語はモンゴル系で、中国語とは抜本的に違う。
尖閣問題は中国の「縄張り」全体に関わる問題だ。
中国共産党の国土は、国境の杭打ち(腕力)で決まる。彼らにとっては、現実に手の届くところがすべて国土となる。しかも、世界は中華だと考えているわけだから、グローバル化とは、世界の中国化としか理解できない。現在の世界地図は、単に軍事バランスの形に過ぎないと考える。中国人にしてみれば、これは古代からの常識だ。(いまだに)
現に先日、『国連海洋法公約』は無意味だと公言したし、国際ルールや取り決めなど、便法に過ぎないと考えている。
逆に、日本人が国際法や筋道論に拘るのは、周囲に同調する、良く言えば協調することに慣れてきたからであり、.皆が同意しているルールなら、必ず守られるし、守らなければならない。そう考えるからだ。
しかし中国でなくとも、世界は、ルールそのものを決めるのは力だと知っている。スポーツのルールさえ、自国に不利になれば、協議や議決の形式を取りながらも、自由に変えていく。
中国が、海洋法など無意味というのも、ルールそのものの背景に「力の論理」があるからだ。
明治の日本は、その立前と本音を認識していたから、国際法を逆手に取ることができたが、それが高じて、軍部は、外交とは結局、力の論理そのものだと解釈した。
戦争に敗北した日本が、他人の腕力を活用し、繁栄する方法を知ったのに対し、軍人が建てた中国は、日本の軍部と同じで、どうしても鎧を脱げない。
欧米のように、夜会服を身にまとった駆け引きを知らない。
尖閣について、日本は、国際法の論理で、日本のものだと考えるが、中国は、国際法などしょせんは力の論理の便法であり、中国大陸の形から見れば、どう見ても中国のものじゃないかと考える。
これは、中国人の現実感、日本人のスジ道論から見れば、どちらから見てもそれぞれに正しいことになる。
日本人の認識方法では、どうひっくり返っても日本の物のはずだが、中国人の感覚と常識では、やはり当然、中国のものになる。
中国人でも国際教養のある人なら、世界のルールを認識しているだろうが、十億以上の中国人は、見たまんまの方が理解しやすいだろう。
それだけではない。日本が領土問題で争っている国の人々も、同じ大陸に住んでいる。つまり、日本人とは違う感性、価値観で考える人達であり、日本人なら当然、理解できる「スジ道」を、全く理解しないという事実を、日本人は相手の実感に立って認識しておく必要があるだろう。
日本人が怒っているのは、「法」の観点から、「スジが通らない」からであり、彼らが怒っているのは「見た目の正しさにいちゃもんを付けられている」からだ。
無限国土
互いの感性や価値観が違う時、どんなに説得しようとしても、話は通じない。利害の絡む国同士なら戦争しかない。
こういう場合、人間同士なら、「この話はまたにしよう」と一杯飲むか、誰かに立ち会ってもらって判断して貰うか、取引をするだろう。
日本は最初に、「一杯飲もう」をやってしまった。それが間違いだった。
中国国民は、政府の言う「見た目の正しさ」に納得してしまっているが、中国政府は当然、国際ルールと力の論理の両方を心得ている。
つまり、国内で勝手に決めてしまった領土や列島線は、中国式十カ年計画「白髪三千丈・無限国土」の努力目標だ。
営々と目標に向かってはいるが、今は自分のものではない事も知っている。日本の顔色、アメリカの顔色、世界の顔色を見ながら、大声を上げたり、押してみたりしながら、様子が悪ければ直ちに引っ込む。スキがあれば一気に突っ込む。これが中国式、論理無用の「融通無碍リアリズム」だ。
ほんとうに、こういう古代メルヘンに本気になる中国文化が大好きだ。
悠々、茫洋、漠々として、千秋一刻の夢を長江の流れに見る
嗚呼 昴よ 北斗よ ・・・
だが、龍や麒麟が夢から飛び出して、座敷で暴れられては困るのだ。