魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

老人便り

2009年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

凛とした梅の花
風に漂う沈丁花

蕾をふくらませた桜の枝も、目に見えて太くなってきた。
もう春だ。

ほんの、ちょっと前、満開だったのに、また桜が咲く。
歳と共に一年が短くなる。
走馬燈のように、あっという間に春がめぐり来る。

春の訪れは、秋の名残より、よほど寂しい。

子供の頃は一日が長かった。
一月が永遠のように感じられ、夏休みの終わりに初めて、時に限りがあることを知った。一年の長さなど考えることもなかった。

歳をとるということは、無感動になることだろうか。
何を見ても、目新しさがないから、
ゆたかな時間を、歳月に刻むことができないのだろうか。

今日
初老期を迎えた知人に会った。
技術だけ学ぼうとする新人を嘆いていた。

「技術は人間の行うものだから、人間としての在り方も同時に学ばなければ、本当の技術は身に付かないのだけれど・・・」
「そりゃ、歳をとったから解るようになったんだよ」
「近頃の若いモンは、かな・・・」

そんな会話をしながら、思った
若者批判は「近頃の」を付けるから、世代間ギャップになる。
しかし、歳をとれば、若い時には見えなかったものが見えてくる。
見えなかったものを見ることが、「時を超越」するのではなかろうか。

普遍的なものが見え始めると、世の移ろいには目がいかなくなる。
変わりゆく季節の中で、変わらぬものを見ているうちに、時は過ぎてゆく。歳をとるほど一年は短くなる。

若い時は、早さや正確さを追求するが、歳をとると普遍性を重視する。
歳をとってパワーを失えば、細部より本質を考える。
剛速球でなくても、アウトを取って、試合に勝てばいいということが解ってくる。

若者のパワーと老人の達観。世の中には、どちらも必要なのだ。
老獪か老人ボケか、どちらも大いに結構ではないか。

ホー、ホケキョ