魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

酔拳

2009年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

中川大臣のヨレヨレ会見。魚座の時代もとうとうここまで来た。
酒や薬の話題が注目される時代だ。

むかし達人は、居眠りや酔っぱらいの姿をしている話がよくあった。
大酒を飲んでごろごろしているみすぼらしい老人が、絵筆をとって、さらさらと絵を描き残していく。やがてそのその絵から老人が名人であることが解る・・・そんな話だ。

ジャッキーチェンの「酔拳」は、酔えば酔う程強くなる拳法だ。
しらふでは力が出ないが、酔ってヘナヘナになると、俄然強くなる。

達人は酔っぱらいである・・・というイメージは、どこから来るのだろう。
ミュージシャンなどが、薬物に頼るのは何だろう。

薬物に関してはいろいろに言われているが、昔、そういうミュージシャンに直接聴いてみたら、超現実体験をすることによって、ヒラメキが得られると言う人がいた。
「それを自分の力で得るのが真の能力じゃないのか」と言うと、
「なるほど、そうする人は尊敬するが、同じものを手軽に得られるなら、その方が確実に受け手の期待に応えられるじゃないか」・・・と、言うことだった。そのヒラメキが同じものかはわからない。

酔っぱらいの達人」に関しては
酔っぱらっても、軽々とこなすぐらい達人、と言う意味なのか、
酔うから達人になる、と言う意味なのか?
良くわからないのだが、

常人を超えた能力は、異常な状態のはずだ・・・という、「畏怖」の心を納得させるからではなかろうか。
神懸かりや稚児の言葉を、神の言葉と受け止めるように、古今東西、神の力は「有り難い」異常な姿をしている。

これを逆手にとって、超能力を演出するために、新興宗教の教祖や占い師は、わざと異常な姿をする。
ひげや髪をボウボウに伸ばしたり、白衣に身をまとったり、御簾の向こうに姿を隠したりして、猫だましをしかける。先ず、相手を異常な心理状態に引きずり込んでしまう手口だ。
こういう姿を見ただけで、感心して信用してしまう人が結構いることを見ても、やはり、人間には「超常」への信仰心があるらしい。

しかし、普通ではないものがみなインチキかと言えば、そうでもない。
天才科学者や作家などには、実際に、左右が違う靴下をはいていたり、ズボンをはき忘れて電車に乗った人もいる。
その人の能力の中核が、世間的な常識を置き忘れている場合は、まるで、異常だから天才なのだ・・・とさえ思える風貌になるからだ。
異常な言動の酔っぱらいは、時には天才や神懸かりの姿に見えなくもない。

また、あまりにも複雑思考をしていると、かえって集中力や判断力を失い、むしろ少し酔っぱらった方が、まとまった良い考えが出ることもある。
そういうことも「酔っぱらい信仰」にあるのだろうが、これは芸術家や勝負師など、技術の達人の場合だ。

現代の政治家は、どちらかと言えば商売人や役者など、サービス業だ。
達人や天才ではつとまらないが、中川大臣は、神懸かりの「お告げ」をしようとして失敗したのだろう。