ノストラダムスの予言が示していたのはこれだ、という諸説に、そんなことを言い出したら何でも当てはまる、という否定論が多く出た。その通りだと思う。
問題は色々あるが、ノストラダムスの言葉は正しいという前提に立った、こじつけが問題なのだ。運命を肯定するとしても、神(運命)と巫女が逆転した話しだ。
占いは暗喩だが、その言語は言葉ではなく現象だ。しかし、それを伝えたものは言葉でしかない。言葉は限定されるから意味の矮小が起こり、現象を語る言葉を文字通りに解釈すると意味不明になる。
西洋占星術で「火星と太陽の合」という現象は暗喩であって、戦争や怪我や精力に限定された個々を語るものではない。
それでも、易経などは言葉そのもので語られているが、この場合も言葉は暗喩でしかない。そして、これらの暗喩は世界経済からポチの病気まで解き明かす。
まさに、何にでも当てはまってしまうのだ。インチキとしか考えようがない。しかし、占いはアナグラムや後付の予言研究とは目的も手法も180度違う。
運気とは「時空を貫く串」であり、おそらく、ユングの言う共時性と同質のものだろう。
運気は宇宙を覆っているから、巨大から極小まで同じ色に染まっている。その色世界の内にいる者には見えないのだが、占いはその色を内から見る手段だ。
見いだした色は、山も犬も染めている。
山が噴火する現象は、犬が吠えて噛みつく現象かも知れない。つまり、多様な現象も同じ背景が影響していると考える。だから、一つの現象から別の現象を察知することは、論理的に可能なわけだ。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、単なる比喩かも知れないが、星の流れ、雲の流れに世相を悟るのは「観天望気」と言い、占いでは重要な心得だ。
一つの暗喩から多様な現象に当てはめるには、対象となる事柄の性質を良く吟味しなければならない。
例えば「おちる」という暗喩の場合。どこかから落下する他に、価値が落ちる、あるいは決着が付くとも考えられる。意味としては「状況の喪失」に近い。
これを現実問題に当てはめる場合、国の問題といった漠然とした設定ではなく、条約締結について、台風災害について、景気についてというようにできる限り絞っていく。犬のポチについてなら、病気、躾、散歩と、問題を限定する。そして、その問題をさらに絞って仮定し、可否と状態を考える。
例えば、国の条約締結について「おちる」と出ていても、それが交渉前か、交渉中か、締結目前か、締結後かによってとらえ方は全く違ってくる。締結直前なら締結成立を意味するし、締結後ならむしろその締結による国家の損失を意味する。ポチの留守番の是非を考えて「おちる」なら、ポチの気持ちは寂しがり、食欲体力は落ち、抜け毛でいっぱいになるかも知れない。
では実際、何の象が「おちる」を暗喩するのかと言えば、易ならば「坎」や「困」など水にからむ卦であり、星占いなら土星が影響する状態だ。そして、さらに「観天望気」を体得した人には、雲や風の気配で察知できる。
このように、一つの暗喩は千変万化の結果を表すが、重要なことは、何にでも当てはまるわけではないということだ。様々な形の穴から同時に押し出される粘土は全て違う形だが、同じ質、同じ色の粘土だということだ。
ここに気づかない人には、何にでも適当なこじつけをしているように見えるだろう。
昔、アメリカ人から「世間の連中はステレオタイプだ」と聞いた時、そのジェスチャーもあって、笑ってしまった。
両手を両目からパーにしながら突き出し、「見たまんま、聞いたまんまを信じ込んでいる」と言う。
実はその時、初めて聞いた「ステレオタイプ」という言葉。ステレオ音声から来たものだと思っていた。だが、ステレオには当然、語源があるわけで、どうも「確固たる具現=リアリティー」の意味から、印刷銅版のステレオタイプとなり、そこから固定概念を表すようになったらしい。
固定概念、決めつけ、先入観。科学的証明法を持たない占いは、そうした迷信の親玉のように思われているし、事実、予言的な言葉は常に、聞き手によって固定化される。
しかし、占いの言葉は元来、詩的な象徴句、暗喩であり固定的な意味を持つものではない。
では実体がないのかと言えば、そうでもない。大まかな方向性と的確な真理をついている。
その「いい加減にして真なるところ」は諺に似ている。「急がば回れ」と聞けば、証明法があるわけでもないが、大筋、だれもが真理を納得する。そしてまた、諺も固定概念を増幅させる点では同じ弊害がある。ただ、曖昧ではあっても、信者だけを納得させるエセ教祖の言葉とは大きく異なる。諺には漠然とした普遍性がある。
諺は傾向と考えれば、生活の知恵として有意義なものだが、占いは、信じる人には拘束力があり、危険性すらある。
しかし、本来、占いの言葉は信じさせるためではなく、考えさせるためにある。スポ-ツの試合で、追い込まれて取るタイムのようなものだ。
頭を冷やし、「だからどうすべきか、どう生きるか」と考え直す発想転換のティータイムと考えてはどうだろう。