魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

お釈迦様の手のひら

2006年09月04日 | スタンス

孫悟空の大飛行も、お釈迦様の手のひらの中だった。
神も仏も宇宙の果ても、もちろん運命も、わかると思ったり、わかったと思う時にはわかっていないだろう。だからこそ、それでもわかろうとする真摯な気持ちは尊いのではないか。

だが世間は、不確かなものをガマンできない。これぞ絶対確かなりと、業績を誇る研究や権威の誇示。知識応用の金儲け。みのさんの香具師口上。
求める者がいるから、提供する者が現れる。しかし、時がたつとメッキはハゲて、また次の真実を求め群がっていく。

世間の、表舞台ですらそうなのだから、市民権から遠く離れた占いなどは、言った者勝ちの好き放題だ。当たる当たったと思わせるために、耳慣れぬ言葉や見慣れぬ異形で権威付け、煙に巻き、人の心の弱みにつけ込み、依頼者の願望を察知してあなたの未来と告げ(これを「合わせ鑑定」と言う)、あるいは、恐怖の未来や見えない憑きものを宣言して、判断力を奪う。そうしているうちに、自分でも特別な力があるように思い込み、しかも、世間もその力を期待する。
しかし、運命の探求となると、降霊や千里眼のように世間受けする便利なものではない。むしろ、彼らが語るものの実体を知ろうとする基礎研究のようなものだ。運命の「実用」は本来の目的ではない。占いの探求はむしろ、人生に似ている。

人生には答えがない。答えのない営みを無数の命が繰り返す。答えがないから無意味かと言えばそうでもない。答えの存在を信じることに意味がある。あずかり知らぬところで、われわれの営みが求められているのだと信じるところに安堵がある。だから、それを求めていく・・・ヌエのような話だが。