goo blog サービス終了のお知らせ 

魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本の奥

2010年08月04日 | 新鎖国論

No.987

フ暑い~ッ
街を行く人が、お風呂上がりのような顔で歩いている。
湯上がりは親も惚れ・・・と言いたいが、もう完全にくたびれている

夏は暑いのが当たり前だから、文句はないのだが、何か昔の暑さと、景色が違うような気がするのは、気のせいだろうか。

昔は、夏でも着物を着て歩いていた。着物と言っても浴衣ではない。
絽や紗を着ていても、内には襦袢を着ていた。
クーラーも冷蔵庫もない時代。団扇と扇子が必需品だった。
オシャレや、変わった趣味ではなく、誰でもどこでも扇いでいた。

人の集まるところでは一斉に扇ぎ出すから、講演や演芸の壇上から見ると、全体で木の葉が揺らめいているように見える。

扇子が日本で発明されたのは、何よりも高温多湿な風土に加え、日本にはコンパクト指向が、昔からあったということだろう。
おおざっぱな大陸思考では、先ず「必要」を感じない。

日本では結構、膨大なアイデア品が生まれたが、何よりも平和だったからだろう。扇子の形から思い出したが、脱穀農具の「千歯こき」もその一つだ。

扇子が、いかに日本の生活に根ざしているかは、あらゆる儀式や正装の必需品になっているし、与一が射たのも扇子だ。
直接的な接触を好まない日本人には、もってこいのコミュニケーションツールでもあり、舞の振りにして、多様な表現も見せる。

子供の頃、骨董屋の友達のうちに行くと、色々なものがあって面白かったのだが、そこで、初めて、マンガで見た鉄扇の実物を手にした。
ただの鉄の棒ではなく、実際に広げることが出来て、一枚一枚の鉄の羽板に何か解らない漢文が刻されて、ずっしり重かった。
護身、鍛錬、学問ができる、武士の必須アイテムだったのだろうか。

日本人が、普通に使っているものは、禿鷹やオウムには、何でも金になる「宝の島」だ。
確かに、異文化は互いの国で商売のネタになるが、おそらく日本ほど宝が埋もれているところはないだろう。

ところが、日本人はその価値に無自覚だから、(無自覚はお互いだが)何でも気楽に放出してきた。扇子もそうだが、幕末と終戦当時は膨大な日本文化が、物とともに二束三文で出て行った。
まあ、そのおかげで、日本文化への関心は高まったのだが・・・

産業革命パラダイムが終われば、文化そのものの価値がものを言うようになる。知的財産権など、産革パラダイムのまやかしに過ぎない。
一子相伝、門外不出方式の新鎖国主義で、板場を見せずに、おもてなしと技の美しさを、喜んでもらおう。
化粧室まで見せる女優はいない。


ビジョン(1)

2010年07月19日 | 新鎖国論

No.970

天王星。84年前のイメージはどう再現されるのだろうか。
昭和初期は政党が政争に明け暮れているうちに、世界的な利権確保のブロック経済が進み、力ずくの利権争いの中で、軍部の力が強まり、最終的に昭和13年の国家総動員法、15年の大政翼賛会と、政治が自滅した。

第一次大戦後の金融恐慌、関東大震災から大恐慌への10年。そして、その後の10年。大きな波の中で、政治は混乱するばかりだった。
結局は、軍部や財閥の生命活動に引きずられ、「祭り」ごとの茶番を繰り返した。

今の政治状況。うっとうしい歳月の中で、国民は誰でも良いから何とかしてくれと思っている。昭和初期も、軍部の暴走や国際連盟脱退などに国民は賛同し、冷静な論調が影を潜めた。

中国や北朝鮮の強引な「外交」に、日本人は非常に過敏になっている。
冷静に考えれば、軍事より、経済バランスの方が重要であるにもかかわらず、経済対策の無策への苛立ちが、軍事問題への単純化に、目が引き寄せられていく。

ビジョン
この重大な岐路で、政治は泥仕合より、国民に目標を提示すべきだ。
「所得倍増」私は嘘は申しません!
あの時、池田勇人は偉かった。

昨日のNHK「ほ乳類の戦い」でも、ほ乳類が生き残ったのは、恐竜のような大量消費体質ではなかったからだと言っていた。
産業革命パラダイムとは、まさに、恐竜時代だった。そして、所得倍増の日本は、経済大国の恐竜になった。

今、日本が目指すものは、一刻も早く恐竜を止め、鳥か、ほ乳類になるために、自己完結型のコンパクトな島国精神を思い出すことだ。
コアな日本「新鎖国主義」こそが、壮大なビジョンではなかろうか。

バカでかいアメ車は滅んだ。日本の軽自動車は誰にもマネできない。エコカーへの飛躍。
これからの時代は、「小さいことは良いことだ」が目標になる。
「小日本」とバカにしながら、遅れて来た恐竜は、やがて滅ぶ。

言霊立国


再来再見

2010年07月05日 | 新鎖国論

No.951

60年周期として、朝鮮戦争もどきが起こっているが、幸い、イメージだけで収まりそうだ。

84年周期の方は、昭和初期の「めざせ満蒙」の様なことが起こっているのが、企業の中国進出だ。ロシアと中国の国境地帯でも、中ロの権益のせめぎ合いが起こっているし、日本企業も中国で次々と難問にぶち当たっている。

世界中の先進国の権益争いの中で、紆余曲折の末に、結局、日本の資産をすべて置いて、悲惨な撤退をした。

朝鮮戦争60周年の現象が、全く同じではないように、84周年も、満州の権益争いと同じではないが、中国進出は、長い目で、本当に得か、よく考えてみる必要がある。
しかし、当時もそうであったように、渦中にあっては、問題に気づかないから、同じように大損失を出すと考えるべきだろう。

歴史は全く同じ繰り返しをするわけではないが、同じイメージを繰り返す。
日本企業や官僚は、今こそ、満州帝国の愚を思い起こしてみる必要がある。

やはり、新鎖国主義(土俵は日本)しかない。
コアな日本は日本に残し、外国から人を呼び、大企業は無国籍化してどんどん外国に出て行ってもらう。
日本に本社、外国に支社、の発想は企業自身の手足を縛る。日本は実家、外国が仕事場なら、実家の財布は太らないかも知れないが、人やノウハウは相互利用できる。外国で失敗しても、実家に迷惑を掛けることもない。実家はこぢんまりとやっていく。
「めざせ満蒙」の失敗は、国策だったことだ。棄民として北米南米に移民した日本人は、苦労の末に多くは成功している。どうも、日本という国は、母ちゃん(民間)の力でまわっているようだ。

このほか
アメリカのスパイ事件は、意味がよく解らないが、昭和初期の現象とも言えるし、戦後の冷戦の始まりのイメージの再来でもある。ある種のお笑い話だが、KGB出身のプーチンは怒った。

戦後の高度成長期に、日本中が旅行ブームになって、北海道がずいぶん脚光をあび、その当時、猫も杓子も北海道旅行をしたために、今日でも、多くの家庭に、木彫りの熊が生息している。

中国の高度成長期に、日本の北海道がブームになっているのは面白い。
高速無料化もあり、日本国内でも、また、北海道ブームが再来するだろう。
と、いうことは、ロシアブームがまた始ってもおかしくない。


地産鎖国

2010年05月14日 | 新鎖国論

「松阪牛」ブランドが、中国で商標登録されている上、松坂市が抗議したら、ただの肉と変わらないと回答され、それではと商標登録しようとしたら、既に登録済みと拒否され、日本政府に何とかしてもらわなければと焦っている。

ブランド・ビジネスが消える、一つの過程ではあるが、
いかにも中国。笑うしかない。

これこそまさに、新鎖国主義を考える問題だ。
「松阪牛」は中国で、それだけ認知されているということだが、
青森リンゴも、関鯖も、大間のマグロも、一切、中国の市場に出さないことを宣言すればいい。

日本産のものは、日本からの直販でないと買えないことにすれば、「絶対の本物」として、もっと値打ちが上がる。
物流、情報の時代、金持ちは何としてでも手に入れたいと考える。
日本の狂牛病を理由に輸入禁止したら、松阪牛は密輸されていた。

古代ながらの人治の国中国は、裏取引が当然のルールとして存在している。日本の「本音と立前」より、ハッキリしたルールだ。
立前の「商標」など、知的財産権は、スポーツのルール程度だ。
競技場ではとりあえず守るが、生活とは関係ない。
(だから、スポーツでもドーピングなど当たり前)

「特別なルート」という差別化のほうが、ラベルより価値を持つ。
リンゴやイチゴはどうか知らないが、「松阪牛」は、絶対量が限られることにも価値がある。狭い日本でカウボーイが追っかけながら松阪牛を育てるわけではない。

新鎖国主義の姿と価値
工業生産品なら、誰でもマネできる。なにしろ、機械が勝手に作るのだから。工業に関しては、大量生産企業は海外に出て、国内は製造機メーカや研究開発に徹すればいい。

農産品のように、ノウハウこそが商品であるものは、ベールに包み、一切、海外進出をしない。直売だけを心がけ、食べたい人は、立前上、日本でなければ食べられないようにする。
これにより、日本観光の価値を上げ、ネット購入者の満足度を高める。

「名物に美味いものなし」と言うが、実際その通りだ。
その理由は、観光客用の土産物仕様にするからでもあるが、
何よりも、料理はその風土で食べてこそ美味しく感じるものだ。

北海道出身の人が、故郷から送ってきた大好物の「ニシンの麹漬け」を「美味しいよ」と言って食べさせてくれたが、自分でも「美味しくない」と言って、悲しそうな顔をしていた。

地産地消
何でもかんでも流通させれば良いわけではない。
近年では日本国内でも、様々な名産品が、地元で食べられなくなった。良い物から大都市に出荷され、地元でも大都市と同じ割高になり、それでいて、出回った先で美味しく食べられているわけでもない。

国内でも、地産地消で、「一番美味しい物はその土地に行かなければ食べられない」という常識に戻すべきだ。
それが、国内旅行を活性化させるし、外国にも、そのルールを徹底すれば、日本観光を増やせる。

中国人が、パクったコシヒカリを、「日本のコシヒカリとまったく同じだ」と、自慢していた。
ブランド農産品を売っての儲けと、来なければ食べられない付加価値とどちらが儲かるか考え直してはどうだろう。

新鎖国主義とは、地産地消立国のことでもある。


生き残る

2010年04月27日 | 新鎖国論

牡羊座の時代だ、DOCOMOは最近「iコンシェル」「ヒツジの執事」とか言って、待ち受け画面に牡羊のキャラを使い出した。

それはさておき、牡羊座は「荒野」。前回を見てみると、
1926~1935年(昭和元~10年)
1932年の満州国建国に到るまでの、軍部支配に転換していく過程であり、牡羊座ならではの、軍人興奮時代と言える。
当時、「満蒙」が合い言葉のようになっていたが、「蒙」とは童蒙、蒙昧など、ワケのわからない未開発を表す。つまり、荒野だ。

84年後の今日、食糧確保と、資源確保のために、各国が競って土地を求めている。中国に到っては、アフリカを中心に資源と市場を確保しようと、露骨な植民地政策に乗り出している。新たな「荒野」ブームが起こっているのだ。しかも、中国は元々、軍事政権だ。

中国はいわゆる先進国、産革パラダイムの先輩国とまったく同じ手法を踏襲して立国しようとしている。
確かに、先進国の手法を見習うなら、アフリカには最後のチャンスが残っている。今回の「荒野」は、アフリカだ。

しかし、環境問題も含め、先進国が崖の向こうを見てしまった道だ。
「ダメだ、危ない、近づくな」と言っても、
新興国は「なんでやねん!お前らばかり良い思いをしておいて」と、かまわず駆け上ってくる。

先進国は、もう邪魔をしない方が賢明だ。
「どうぞ!」と道を空けて、崖に突っ込んでもらった方が身のためだ。
新興国の突進力を利用しようというのが、マネー屋さんだが、中国もバカではない。直ちに、自分たちも国営のマネー屋を始めた。

このままだたと、結局、道を空けたつもりの先進国も、新興国とダンゴになって崖から転げ落ちる。その前兆が、リーマンショックだ。
面白いのは、新興国に先を越され、マネー屋にもなれないでいた日本が、ショック時点で、比較優位に立った事実だ。

新興国の目先の勢いに、「このままでは、取り残された日本は滅亡する」と皆焦っているが、本当にそうだろうか。
麻雀は上がるばかりが能ではない。振り込まないことも実力だ。
野球も、ホームランばかりが野球ではない。

パラダイムシフトの時代。100年、200年先を見越した、戦略を立ててこそ、生き残れる。

また、新鎖国主義
小さくなった地球で、自分を見失わないためには、日本から出て行かない。世界中から人と情報を呼び集める。
製造大企業にはグローバル企業になって出て行ってもらい、日本をそっくり、知的産業と観光の国にする。そのためには、「将来の非武装を目指す武装中立」を選択し、東洋のスイスのような形をとるしかないだろう。
非武装中立は美しい言葉だが、現実に、既に日本はそうではない。

物を作って売る時代は終わった。世の中には様々な生き方がある。
日本は、ホテル業をやればいい。
ホテルには色々な人が、色々な目的で出入りする。
企業を誘致するより、学校や研究施設、イベントや娯楽施設を積極的に建設しその道の人間を呼んでくる。文化コンテンツや方式の発信地になればいい。
シンガポールなどとは微妙に違うのだが、本日はこれまで。


島国

2010年02月11日 | 新鎖国論

原色のツートンカラーのジャケットを羽織って、お土産物屋に来た、韓国なまりの流ちょうな日本語を話す中年女性。
何にでも興味を持って、手にとってひねくり回しながら、大きな声で矢継ぎ早に質問をする。
そのうち、商品のお茶を取り上げると
「これ、原価いくら?」
店員は初め、言われた意味がわからなくて、
「そこに書いてあります。600円です」
「そやし、原価いくら?」

だんだん意味がわかってきて
「売値は、600円です」
と答えたものの、後で、猛烈に頭に来て、
「日本人だったら、想像もつかないことを言う!」と、カンカンになっていた。

確かに、日本文化ではあり得ない言動だ。いや、駆け引き文化の中東でもあり得ない。
日本人でも、商売を知らない家庭で育った人には、時々、『原価で売ってよ』と思う人もいるが、そんなことを口に出す人はいない。

商売人は値ざやで生活をしている。
時には原価を切る商品もあるが、その場合は、見切りバーゲンで商品を処分し、他の商品で埋め合わせをして利益を出す。
そうしなければ商人は生きていけないのだが、収入は給料として入ってくるものだと思っている人には、それが解らない人がいる。
同時にそういう人は、就職先がなければ生活できないと思っている。

そのように、日本の中でも、生き方の原理の違いはあるものの、それなりに互いが察しあって、秩序と文化が保たれている。

しかし、国や民族が違うと、日常の常識がまったく通用しない「カルチャーショック」がある。
冒頭の、土産物屋の客は、相当、流ちょうな日本語だから、10年や20年は日本で暮らしているのだろうが、どういう環境であれ、生い立ちの文化のまま暮らしているようだ。

国際化
日本は外国移民を受け入れなければやっていけないと言われているが、多くの日本人はカルチャーショックに慣れてないし、「原価いくら」みたいな、生存権に関わるショックには我慢できない。
ところが逆に、状況によっては、『答えなければいけないのかな』と思ったり、『答えたらいい人に思われるかな』の思惑で答えてしまう。

この場合、聞く方は魂胆も期待もない。言ってみているだけだ。だから、答えを聞いても、ありがたがりもしないし、「しめた!」とも思わない。たまたま、そういうもの(答え)にデッ食わした、自然環境だと思うから、バカにする気もないが、こちらに感謝もしない。
だから、こちらの「つもり」に拘ると、イチャ文を付けられたと、逆ギレする。恩が帰ってくると日本流の期待をしてはいけない。

日本と中韓の文化が大きく違うのは、相手を人と見るか景色と見るかだ。
狭い日本で暮らしていると、自分と相手は同じ人間だと思わなければ、すぐ自分に災いが来る。日本は、察しあい、思いやりの文化だ。

しかし、大陸文化は、目の前の人は家族や身内ではない。行きずりの自然環境だ。
自然環境は、自分に都合の良いように扱わなければならない。おだてたり、なだめたり、おどしたり、時には穴をこじ開けるダイナマイトとして、最も効果的な賄賂を使う。

相手のためを思ってするのではない。あくまで自分のためであり、相手もそうだから、相手を得させて喜ばせなければならない。
それが自然とのつき合い方だ。
台風や地震には逆らわない。強い者にはへつらい裏切り、とりやすい木の実はむさぼりとる。
権力と無秩序が同居するワイルドな大陸文化に、穏やかな島国育ちの日本人はとても太刀打ちできない。

しかし、日本人はもともとそういう文化を何度も受け入れて、今日の日本文化を築いてきた。少し、忘れてしまっているだけだ。

世界大移動時代に、江戸時代のようには異文化を拒否できない。
拒否すれば反って抹殺され飲み込まれてしまう。
日本文化を守り発展させるためにも、
異文化を受け入れ、かつ、鎖国する。

それには、日本がひと塊で一色になるのではなく、徹底してローカル色を出していく。地域の自治が堅固であれば、日本全体が、一斉に外国に飲み込まれることはないし、地域、地域の変質が、徐々に全体的な変化を生み出すことにもつながっていくだろう。

島国というものは流入者があるので、案外、ローカル色が強く残る。イギリスもインドネシアも、フィリピンも、台湾も、統一が難しかったし、統一された日本でも今日まで、お国や、なまりがあった。
それが、一斉に塗り替えられることのない島国の強さだろう。

もう一つ言うと、日本は東北アジアの一員として考えるより、ASEANや、海洋国家連合として考える方が、心情的に良い関係が保てるような気がする。


一即多・多即一

2010年01月23日 | 新鎖国論

近代国家は、産業革命パラダイムの基盤になってきた。
しかし、もはや、明らかに人類にとって弊害になりつつある。
国家間の調節をするはずの国連も、矛盾だらけで、国家連合、世界統一などの、役割を果たせないことが見えてきた。

もともと、権益のエゴのための国家が、和解し融合することなど大きな矛盾であり、初めから不可能なのだ。

先ず国家を解消しないかぎり、次の時代へは進めないが、現状を見れば、そんなことができるわけがない。
EUのように、近代国家を形成してきた国同士なら、利害を共にすることで統一が可能になるかも知れない。

しかし、アジアのように、いまだに「家」という血統主義のタテ型社会では、利害だけでは共存できない排他性がある。
大東亜共栄圏の発想も「世界は一家」であり、いずれかが、親であり、兄である、というタテ型の秩序意識が前提になっていた。

共産主義の看板を上げている中国でも、共産党が父であり兄であるという考え方は、帝政と何も変わらない。共産主義など、実はどうでも良くて、内に支配権、外に覇権の、タテ型構造さえ守られるなら、たちまち資本主義を取り入れる。

その単純で、露骨な雛形が北朝鮮だ。大国中国は自立するしかないが、北朝鮮は寄生とタカリで、氏族国家を維持している。大から小まで、アジアは頭が古代のままだ。

日本人は、日本は民主主義国家と信じているが、国の基本の戸籍も、完全な血統主義であり、やはりアジア頭であることはどうしようもない事実だ。何しろ戸籍そのものが、中国を見習った律令に根ざすものであり、千年以上も続けてきた。

こういう、アジアの氏族世界を統一するのは、強力な統治能力だと短絡するが、そんなことは不可能だし、互いに迷惑なことだ。

ここでまた持論だが、そんなにグループにこだわるなら、むしろ際限なく小さなグループに分けた方がいい。新鎖国論だ。

徹底したローカルは、グローバル化に直結する。(グローカル
情報化社会の発達により、地域は国家を必要としない。いきなり、世界に情報発信ができる時代だ。徹底した地域の充実こそが、世界レベルになれる。

治安と権力は地域で確立し、警察力も地域連合で考えればいい。これには例えば、西部開拓時代の保安官が参考になるかも知れない。
これまでの国家間の争いのようなものは、姉妹都市を強化した組織連携で複層的に繋がっておけば、利害や関係が複雑だから、いきなり集団がぶつかることはない。
近代国家連合の国連のような、国の寄り合いは、コツンと叩けばバラバラッと割れるが、小さな縒り合わせの塊は大崩がなく、どのような形にも収まる。

古代のポリス国家はそれぞれ軍隊を持っていたが、現在の近代国家が存在しているうちに、つまり、大きな治安に依存しながら、都市や地域、NGOなどの、人的経済的な関係を深め、警備会社を拡張した傭兵による軍隊を世界中に配備していく。
そして、いつの日か世界警察会社が、各国の軍隊を吸収する。

郵便局よりクロネコがアテになったように、警備会社が警察よりアテになる側面があることは、巨大警備会社が国軍解体を可能にすることが、まんざら不可能でもないことを暗示している。
これを強化させるためには、単なる会社ではなく、NGO軍の必要があるだろう。国境無き軍団のような。
国家戦争は反対でも世界警察は必要だ。


舟歌

2009年12月13日 | 新鎖国論

太平洋でもクロマグロ保護措置が決まった。全面禁止になる前の対抗予防策として日本が提案したらしい。

魚は好きで、マグロも好きだが、明日から無くなっても何も困らない。
味にこだわりもなければ、贅沢にも縁がない。

四方海に囲まれた日本。これとこだわらなければ、魚は何なりととれる。
また、逆に、日本人は今ほど魚が食べられていたわけでもない。
沿海で捕れる魚しかなかったわけだから、鯛の「尾頭付き」と言えば大変なご馳走だったし、農村では川魚が中心で、ドジョウなども喜んで食べていた。

沿岸漁業が発達してからも、山間部では干物しか食べられず、今のように、当たり前に生魚を食べるようになったのは、保存技術が発達した戦後のことだ。

テクノロジーというものは、何でもそうだが、
出来ることと、して良いこと」は違う。
イチゴを冬食べても嬉しくない。

産革パラダイムは、地球のあらゆる資源を片っ端から変質させ、地球環境を変えて来たわけだが、漁業も例外ではない。

漁法、保存、輸送手段の発達で、金にまかせて世界中から奪い合う。
成金の中国人が魚の味を覚えたのだから、今までのように日本人の食べたいものを世界中から集めることは出来なくなる。

例え漁獲制限をしても、欲望原理の産革パラダイムは、破滅するまで止まらないだろう。
捕鯨禁止だろうが、マグロ漁規制だろうが、
アンバランスな欲望と人間の偽善(これも欲望だ)によって、どんな制御をしようと、結局は転がるところに転がって行くのだろう。

人間がいる限り生態系は破綻する。これがおそらく、人類の使命なのだろう。
後は、人間の意志と関係のない自然の自己回復を待つしかない。

もし、これを止めようと思えば、産革パラダイムの転換しかなく、
反グローバル化の地産地消、グローカル、新鎖国主義しかない。

♪さかなはあぶったイカでいい・・・


立場

2009年11月14日 | 新鎖国論

人には生い立ちによって違う物の見方がある。
貧乏・金持ち、上流・下流といった、階層のことではない。
大人になる過程で身につける価値観や論理だ。

農家で育てば、自然を崇拝するようになるが、恵みを漏らさず受け取ろうとするようになる。
職人の家で育てば、ウソも駆け引きもできないが、個人主義で勝手になる。
医者やお寺で育てば、真面目で素直だが、プライドが高くなる。
商家で育てば、持ちつ持たれつの人づきあいを大切にするが、利にめざとくなる。
サラリーマン家庭で育てば、努力と向上心は育つが、階級意識が強くなる。

そして、それぞれの家庭で育った者同士は、なかなか理解できない。
例えば、少し昔なら、
商売人の家にサラリーマン家庭から嫁に来たとすれば、生活リズムや収入の不規則さに驚く場合が多い。また、日常生活と商売の現場が一体になっていることが理解できず、耐えられない。お父さんやお母さんが実権を握っていて、夫が使われている場合も多い。

逆に、商家からサラリーマン家庭に嫁に行くと、家庭内秩序の融通が利かず、世間づきあいも夫の立場を配慮しなければならず、夫の給料が上がらなかったり下がったりした場合も、それを運命とあきらめて暮らすことにいらだつ。

現在では、男女がかなり対等になってきて、家という具体的な環境と衝突することが少なくなってきたが、それでも、各々、生い立ちによる論理そのものは変わっていない。

日本は長い間、士農工商でやって来た
管理する「士」が一番偉いということが既に、ダイナミズムに欠ける世界観だが、次に、「農」「工」という生産者を位置づけ、運命に従い、ひたすら真面目に生きることを美徳としてきた。

そして、おまけのように「商」をやむを得ず付け足した。
それができたのは、恵まれた自然と、外敵の少ない恵まれた地勢だ。
ひたすら真面目でさえあれば、お天道様は見ていなさる。
そういう価値観が染みついた。

実際には、雨や嵐という不測の現象が、生産の役に立つように、人間の生産と文明は、戦争や侵略を含めた「商」行為が担っていた。

世界の原理は「商」であると言っても過言ではない。
開国後、世界の「商」に巻き込まれた時、日本人はまた、士農工で対応し、失敗と成功をしたが、結局、「商」はいまだに身に付いていない。

日本人の中国好きは歴史と文明の成果にある。しかし、「商」の本質を全く理解できず、中韓の態度を毛嫌いする。
今、中韓がパクリで大成功していることを、不快に思う日本人は少なくないが、商品(生産技術)を右から左に動かして、客を喜ばせて金を儲けるのは「商」の論理であって、欧米のように、あたかもルールに沿った慈善行為のような店構えをしていないだけの話だ。

日本の価値観はいまだに士農工だ。日本に商人がいないわけではないが、社会の価値観として尊重しない。そのくせ、職人も農家も、商売人に良いように儲けられてしまう。江戸末期には完全に逆転していた。

今後、日本が「負けない」ためには、産直にした方が良い。
商品を仲買に見せない渡さない。産直だけの持つ価値で勝負するには、市場に行かない。経済競争に巻き込まれない。
やっぱり、鎖国しかない。

どうしても、直接商売をしなければならない場合は、出島の代わりに経済特区を地域に任せる。そのためにも、道州制よりさらに細分化されたポリス連合にするしかなさそうだ。日本には「OO商人」のように渡来人の風土が色濃い地域もあるから、きっと上手く商売をやってくれるだろう。


撤収と展開(3)

2009年10月06日 | 新鎖国論

自然に調和した生き方のカギは「知恵」だ。
高速道路や飛行場、ジャンボジェットのような「力まかせ」の方法は人類の「若気の至り」だった。
交通ルールや鉄道の組み合わせを変えることで、金も物も使わない、スマートな文明が生まれる。

アニメの殿堂を建てなくても、過去の無駄な箱物を使えばいい。
土建屋時代が終わったことを、みんなが認識する必要がある。
このサイバー時代には、役所さえ要らない。役人も在宅で良いし、役所はサイバーで間に合う。
まあ、どうしても実物役所が必要なら、小さな賃貸オフィスで充分だ。
駅ビルや学校内なら便利だろう。

産業転換として、様々な業界から農業に参入し始めたのは良いことだし、工業生産の空洞化も、考えようによってはチャンスではないか。
戦後、ニーズに応じて物作りをしてきたことは成功したが、ニーズを生み出す力は育たなかった。

ニーズを生み出す力とは、生き方を提案することだ。
対応技術だけが先行していたために、製品が飽和状態になると、次の一手に技術屋が主導権を握り、「こんなことも、あんなこともできます」だけで物作りをした。その典型が「ガラパゴス携帯」だ。

韓国や中国に出し抜かれた原因は、彼らに技術が無く、「売れる物は何か?」だけを追求したからだ。
日本も、昔はそうだったが、それに合わせて工夫した日本の時代と、飽和技術をパクれる時代の差もある。

パクリ産業がそれ以上成長することはない。日本の戦後は「物まね」と言われたが、基礎技術と、損得抜きの職人文化の伝統があった。

日本の再興に「ものづくり」を言う意見は多いが、元来が、競争のための物作りではなく、生活を楽しむための物作りだった。技術屋と違い、職人にはノルマがない。技術を使う商品を考えるのではなく、目的に合わせて技術(わざ)を開発する。
日本が復権するには、新興国と売り上げ競争をしては「絶対に」勝てない。
日本の生き方を再興すること。にっぽん」の提案だけが、物作りの生きる道だ。

だからこそ、日本は「心の鎖国」をしなければならない。
マイペースで、自分たちが真に楽しいことを追求することが生き残りの道であり、手の内は見せてはいけない、神秘のままで良い。
同時に、その魅力で常に、良い友達を選ぶことも大切だ。

えてして、良い友達は、いつも遠くにいるものだ。
クラスの人気者より、学校の人気者になることだ。


修道院

2009年08月01日 | 新鎖国論

タケシが昔、「好みのタイプは?」と聞かれて
「やらしてくれるねえちゃん」と答えていたが、男の本音だからみんな笑う。
屋敷の中6

大店の放蕩息子アメリカは、「都合のいい女」のつもりで、安い中国とやり続けていたら、いつの間にか、フンドシも財布も握られていた。

結婚相手は、いいなずけの欧州か、気だての良い日本で、どこの馬の骨ともわからない中国など、目ではなかったのに、どうも、中国と結婚するしかなさそうだ。

やらせてくれれば誰でも良かったのだが、結婚となると、簡単にはいかない。
いとこのロシアや、弟の暴走族、北朝鮮など、とんでもない一族だ。

結婚すれば骨の髄までしゃぶられて、家中支配されてしまいそうだ。
欧州も日本も、「話が違うじゃない」と抗議したくても、自分たちの家も中国に下水の栓を握られている。

いとこのロシアにはガスの栓を握られ、弟の北朝鮮はイランやパキスタンと暴走を繰り返す。近頃はミャンマーやアフリカにまで手を伸ばしている。

中国の方は、わたしは自分の生き方まで犠牲にする気はないんです。とは言っているが、売掛を払ってもらわなければ生活ができない。
勘当寸前の若旦那は、「結婚しよう」と、売り掛けのチャラをねらっているし、中国も大店に入り込めば、乗っ取れるかもしれないと虎視眈々。
どちらも互いに、泥船の呉越同舟だ。
まわりでは、「泥船」に乗り遅れるなの大合唱が起こる。

だがもう、産業革命グローバリズムの営業にのせられて、婚活協奏曲に踊らされるのは止めよう。

世の中がどう騒がしかろうと、自給自足で、清く貧しく美しく生きていく覚悟をもって、世間づきあいをしていく方がいい。
野合の結婚式を繰り返す教会から離れた、日本修道院。

ドアを閉ざすわけではない。日本のコアを大切にする、
心の鎖国に入ろう。


明日へ舞い上がれ

2009年05月08日 | 新鎖国論

北野武とは意見がよく合うが、先日は少し意見が違った。
不況のために若者が欲をあきらめさせられている。車が要らないと言うのは本当は買えないからだ、と言っていた。

タケシだけではない。若者の心配をする番組が多い。
無欲な草食系の安全主義の若者が増えて、日本の将来は大丈夫だろうか。周りの国は、若者がギラギラしているのに、と大人が心配する。

確かに、近代を振り返ると日本には、今のアジアの周辺国の若者の活気があった。このままでは、日本はあっという間に追い抜かれてしまう。年寄りが心配するのは無理もない。

若者なら、必ず車は欲しいはずだ。きっと、魅力的な車を売り出せば、また、若者がそれにあこがれて購買意欲がわくに違いない。世界中の自動車会社は、競ってオープンカーを売り出しているという。

日本の若者が去勢されて、沈滞をしていると思うのは、消えゆく老兵のノスタルジーと杞憂だ。
何時の時代も様々な趣味はあるから、高級オープンカーもそれなりには売れるだろう。新興国の富裕層も飛びつくだろう。

しかし、老兵には見えない。
自分たちが大量生産、大量消費時代の「時代の子」であったことが。
日本の若者は去勢されているのではない。進化しようとしている。
産業革命パラダイムから脱皮して、次の何かに生まれ変わろうとしている。

新興国の若者が次の時代の勝者になるか、シベリアの氷土に閉じこめられるマンモスになるか。
むしろ日本には、迫り来る氷河期に気づいて、いち早く南に向かう大人と若者がいるかに掛かっている。
いくら若者が新しい世界を求めても、大人のリーダーが足を引っ張っていては、群れは、逃げまどう大集団に踏みつぶされ、ともに氷土に眠ることになるだろう。

新しい世界へ
大転換の時。最後のパイに新興国が群がっている時。
自己完結型の経済循環を目指し、経済鎖国*モデルを急ぐ必要がある。

恐竜は小鳥になって生き延びた。
すべてのモノが完成期には、ムダをそぎ落としコンパクトになる。
日本は元々、小さくまとまって完成していた。近代の荒波にもまれた後は、もう一度、いかにコンパクトな文明モデルが可能か、世界に示す必要がある。
大量消費の熱に浮かれていた「消えゆく世代」は、むしろ、若者の価値観に学ぶべきだろう。

狭い日本そんなに急いでどこに行く
狭い地球ゴミも家に帰れるかい


誤解されそうだが、経済鎖国とは、輸出に頼らない地産地消のことで、植民地主義のブロック経済や保護貿易ではない。


箱庭と盆栽

2009年04月16日 | 新鎖国論

飛行機が墜落しそうになったら、未熟な操縦士は慌てて操縦桿を引く。
すると飛行機は一転、機首をあげて上昇する。しかし、無理な上昇はスピードを失い、一気に墜落する。

世界中がパニクって、過剰な経済対策で、景気を取り戻そうとしている、効果はやがて出るだろう。
一見、景気が戻ったように見える時こそ、すべてが瓦解する前兆だ。
それが大恐慌の本番だろう。

温度が前日と3度変わると、ばったり人出が途絶える。
冬の-3度。夏の+3度。(虫人間

偉そうに小難しい理屈を並べても、結局、人間は「虫」と同レベルの単純原理で生きている。

異変が起こると、蜂の巣をつっついたような大騒ぎをして、その騒ぎで大惨事が起きる。慌てなければ起こらない事故であり、始めから人混みに参加しなければ被害にも遭わない。

マネーだ、投資だと人混みに参加し、破綻だ暴落だとパニクる。
「時代に乗り遅れるな」と言うかけ声で走り出したら、災害に乗り合わせる。

グローバル化という満員電車に乗ってしまったら、一蓮托生、運命共同体だ。
幸い、電車が信号待ちで止まった。飛び降りるなら、今しかない!

しかし、
「なーに大丈夫だ、もうすぐ次のグリンニューディール駅で車両を連結して広くなる。もう少しの辛抱だ」と、みんなが言っている。

飛び降りるか、我慢して待てば本当に楽になるのか。
ここが正念場だ。

多くの兄弟の中で育った人間は、ワイワイ行けば、何とかなるさと頑張れる。しかし、一人っ子は、このワイワイに慣れてない。

一人っ子の日本は、ここで飛び降りる方が身のためだ。
みんなと同じ、ご馳走にはありつけないかも知れない。
だが、とにかく安寧は保てる。平和で穏やかな暮らしができる。

江戸のような鎖国はできないが、生き方の鎖国はできる。
列強から身を守るために、やむなく始めた開国、殖産興業は、そろそろ止めても良さそうだ。
貿易立国は苦肉の策だった。時代は変わった。小さな国でも発言できる時代に必要なものは、生き方の哲学だ。
世界の手本になれるような「姿」だ。

自立採算の箱庭文化をもう一度整え直し、世界の人に見てもらおう。
日本の箱庭は、地球の箱庭化の手本になるのだと。


族からチ-ムへ(2)

2009年03月30日 | 新鎖国論

世界が一つになるには、世界がチームになることだ。
宇宙人が攻めてくれば、対抗するチームは組めるかも知れないが、
多分、そのときは手遅れだろう。

世界中が、何か一つの目的をもてば結束できるが、互いが内向きの「族」の論理で生存競争をするかぎり、本質的には殺し合いだ。
戦争の歴史を見れば誰でも、
「人類は、いつまでこんな馬鹿なことを続けているんだ」と思う。
誰でも思うのに、一向に争いは無くならない。

結局、結束する目的がなかったからだが、地球温暖化とか世界恐慌とか、誰にとっても死活問題なら、結束できる。
ところが、それが、本当に死活問題だと認識できればよいのだが、それを信じない、理解できないのが、人類の大半だ。

地球温暖化のような、目に見えないことを理解できないのは解る。
しかし、今、目の前で起こっている経済問題ですら、
「みんなが慌てているうちに、抜け駆けしてやろう」と、虎視眈々狙っているのが、これまた大半だ。

家族は大切だと言えば、世界中の人が納得するようなレベルでの、生き方を続けている限り、「族」の利害戦争は無くならないだろう。

地域や族が勢力拡大をしないしくみを前提にしなければ、地球規模のチームは組めない。
グローバル化と言われるような経済のしくみは、人、物、金が流れているうちは、うまい方法のように錯覚するが、一度どこかが滞れば、今回の経済危機のように、たちまちドミノ倒しに全滅する。

グローバル化が悪いわけではない。グローバル化の「在り方」が問題なのだ。
ごちゃ混ぜに一つにするのではなく、むしろ、個々の地域の単位が、シッカリ確立し、そのネットワークによって成り立つ世界なら、どこかの単位がつぶれても、他の地域が補完できる。

何度も言う「鎖国」は、地産地消、独立経済、独立文化の確立が、世界連邦の礎になると思うからだ。(先ず日本から)

地域の確立と、単位間の情報交流。個人単位の世界交流。そういうネットワークが、侵さず侵されず、隔てず連携することを可能にする。

個人が自立し、地域が自立すれば、地域単位のネットワーク、個人単位のネットワークが、チームとして様々なプロジェクトを可能にする。そして、世界を制御するシステムも可能になる。

欧米型のルツボは、個があるから成り立つ。また、個を持たなければ生きていけない。
同じように、世界をルツボ=一つにするには、人間の個と同様、地域の個々が先だ。
地域の個を確かにするためにも、個の単位は小さいほどいい。
限りなく小さくなれば、エゴの単位は限りなく無になる。


伏せ字の時代(上)

2009年01月10日 | 新鎖国論

天王星84年。今は昔、昭和初期、文化面で二つのことが共通している。

●短歌俳句など、和歌ブームで、万葉集が注目されている。
●うかつにものが言えない。

いずれも大正ロマンの自由な雰囲気の反動として起こった。

和歌ブームは軍国主義の精神的なバックボーンとして、神国日本の復古に共鳴し、もてはやされた。
ことに、古代武官の家系の大伴家持が編んだ万葉集がブームになり、日中戦争が始まると万葉集にある家持の歌から
「海行かば」が作曲されるまでになった。
この時代、記紀が聖書なら、和歌、万葉集は賛美歌だった。

一方、こうした雰囲気の中で、思想統制のため検閲が厳しく、自由にものが言えない時代でもあった。そして、さらに「非国民」という言葉が生まれ、自由な言葉は完全に封印された。
現代人が想像するのは難しいが、今なら北朝鮮が近いだろう。外から見れば滑稽だが、中にいれば大まじめなのだ。

この昭和初期と現在は、一見、違うように見えるが、やはり似ている。

政治経済は誰でもわかる。歴史に文字として記録されているからだ。
しかし、世相の空気は残っていない。

空気が時代を作る
記紀や万葉集の文学的価値とは関係なく、戦前の日本人はそれを聖典に祭り上げていった。
和歌、万葉集ブームとは、「日本人が世界で最も優れている」証明の一つだった。

80年後の今。日本の中にはそういう空気が生まれ始めている。
漫画、アニメ、ゲーム、日本食、etc.・・・が人気していることに悦にいる報道があふれている。
小さな島国が経済大国になったことの自負も、様々な国際貢献や立場の要求として膨らんでいる。

思いがけない日本人気に舞い上がり、日本は昔からすばらしい、と古典が注目されている。古典尊重は良いことだが、なんでもブームにする日本のことだから。たいていは、度を超すことになる。

文化を守るために鎖国すべきだと思うのは、鎖国すれば、「日本食認定」のような文化の押し売りに走らないからだ。
日本的なるものの評価は、しっかりした日本があってこそ保てるのであって、これが日本だと押しつければ、イヤみとなり嫌われる。

伏せ字の時代(下)