行って来た。1年9か月ぶりの歌舞伎座。
まず、9日(火)午後に東京に着いて、第二部から。
コロナ禍以降、歌舞伎座は一日が三部構成になり、
それぞれが2時間~2時間半程度、完全入れ替え制で、
館内も様々な感染対策がとられるようになった。
何しろ、舞台の上も下も年齢層の高い芸能だからして(汗)。
まず、入り口では切符を係員に見せたうえで、自分でもぎり、
検温と手指消毒を経て、入場となる。
イヤホンガイド・カウンターは劇場の外に場所が設定されており、
以前あったオペラグラス・膝掛け・座布団等の貸し出しは無し。
マスクは観客全員、例外なく着用することが定められており、
鼻から口まできちんと覆うよう、繰り返しアナウンスがある。
ロビーや客席では、飲食は禁止、会話もしないようにと放送があり、
会場スタッフさん方も座席案内以外は原則として無言で、
上記の内容の注意書きのある大きなボードを掲げて、
客席通路やロビー等に立ち、観客に示している。
座席はひとつおき(部分的に二席連続を設定したブロックもある)で、
販売されていない席は最初からバンドで固定され、
勝手に座ったりできないようになっている。

というわけで、劇場内に人が少なく、どこに行っても静かで、
両隣も誰もいないし、広々と座れて、私には大変快適であった。
そのような中でも第二部は、三津五郎追善でもあり、配役も華やかで、
全体三部構成のうちでは、最も賑わいのある部となっていた。
私にとっては、今回の一番のお目当てであった『寿曽我対面』。
三津五郎の長男である坂東巳之助が曽我五郎時致を務めるのだが、
菊五郎による工藤祐経を初め、菊五郎劇団ほぼ総出演の豪華さで、
一度では見切れないほど見どころが多かった。
三津五郎追善、還暦にもならずに彼岸に逝かれ、早七回忌。
このたびの巳之助の、覇気の漲る大きな舞台姿を、
三津五郎はあの世から眺め、きっと喜んでくれたことだろう。
曽我五郎らしく、力のあふれる台詞回しと、勢いのある動き、
更に要所要所の決まり方が小気味よくて、さすがは坂東流の若き家元と
感じ入った場面もいくつもあった。
菊五郎の工藤祐経は、「高座、御免」の挨拶などは無し。
最初から上手に座っていて、ほぼ動きのない構成になっていたが、
ふと視線を動かすだけで睨みが効いてしまう存在の大きさが圧巻だった。
まさに貫目で見せる工藤祐経!
それに加えて、匂い立つような色気のある祐経で、
武人としての面だけでなく、男として深さのある祐経の人生が見え隠れし、
私にとってこれまで見たことのない祐経であり興味深かった。
松緑の小林朝比奈もまた期待以上。
声の魅力に加えて、こちらは藤間流家元の面目躍如の所作の数々、
更には全体に風格さえ備わっていて、なんとも見事な朝比奈だった。
道化役であると同時に、朝比奈は立派な侍であり、祐経にさえ一目置かれ、
更にこの場では、中立的な立ち場でその目配りの良さを発揮する役だ。
松緑の演じ方からは、多面的な朝比奈の面白さがふんだんに伝わって来た。
そのほか、時蔵が十郎として巳之助の五郎に寄り添い、
忠義の家来・鬼王新左衛門で左團次が出て来るという贅沢さ。
大磯の虎は雀右衛門、化粧坂の少将は梅枝で、眼福ここに極まれり。
私はこれまで、『寿曽我対面』という演目には、
主に儀式美のほうを強く感じていて、
あまりドラマ性については感じ入ったことが無かったのだが、
今回は、登場する人々のそれぞれの心の綾や人間模様を加味した、
芝居としての面白さを初めて感じ、奥深い物語として味わうことができた。
それは、これからの巳之助を守り立てようとする、菊五郎劇団としての
皆の力の結集によって、実現された部分であったかもしれない。
第二部の後半は、仁左衛門と孫の千之助による『連獅子』。
千之助も既に21歳!ときの経つのは早いものだ。
かつて、戦後初の祖父・孫共演による『連獅子』を披露してから10年、
このたびの千之助は、体幹のしっかした鮮やかな動きを随所で見せてくれた。
仔獅子を、実年齢でなく踊りの表現として見せる段階に到達したのだ。
その精進はさぞやと思われた。
この世のものと思われぬほど神々しい、仁左衛門の一挙手一投足を
目の当たりにして過ごす日々の記憶は、
千之助の心に生涯、刻み込まれることだろう。
間狂言(あいきょうげん)の「宗論(しゅうろん)」は
又五郎と門之助で、これまた豪華かつ見目麗しい配役だった。
芝居は文句なしに楽しかったが、又五郎がとてもスレンダーになっていて、
遠目に歌六とよく似て見え、こうなってみるとさすが兄弟だったのだなと
本筋とは違うところで感心したりもした。
後シテは親獅子・仔獅子の精の踊りで、眩いばかり。
かつて三津五郎も、巳之助とともに『連獅子』を踊ったものだった。
坂東はそもそも踊りの家だから、
先代三津五郎の親獅子、八十助だった三津五郎の仔獅子、という時代があって、
やがて巳之助が成長してからは、三津五郎・巳之助の父子で踊り……。
それを思うと、仁左衛門と千之助の『連獅子』の意義もまた格別であった。
各々の道で芸を極め、息子へと繋ぎ、更に次代が継承し、
誰も彼もが皆、そうやって彼方へと行き過ぎて行くのだなと。
ただ、すみません、一点だけ、親獅子の小鼻の隈取りは、
あったほうが良いという判断なのだろうが、
私は個人的には、チラシのようなひたすら真っ白い親獅子のほうが好みだ。
仁左衛門が美しいだけに、なるたけ素に近いところを、
存分に見ていたかったという気が、する(汗)。
申し訳ありません、煩悩ダダもれです(逃)!
あとはもう、本当に、何も、何一つ、申し上げることはございません!
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