筋腫・腺筋症・卵巣嚢腫の手術とは、どのようなものかと、
ネットの関連ページを徘徊しながら情報を集めていたら、
ふと、十数年前に松江の某総合病院で私が出会った、
筋腫手術後のオバちゃんたちのことが、懐かしく思い出された。
思えば、あの頃の彼女たちは、ちょうど、
今の私のような年齢や境遇だったのではなかろうか、と思った。
コトの起こりは、私が妊婦になりたての頃、
週数でいうと6週目くらいで、原因不明の出血を見たのが始まりだった。
・・・こうして省みると私は常になんだか出血しているようだが、
そのときも、痛くもなんともないのに微量の出血が止まらず、
受診したら「切迫流産」と言われ、即、入院させられてしまった。
本人は出血以外の症状がなく、というかツワリすらもなく、
妊婦である自覚が全然なかったのだが、
とにかく安静にする以外にないから寝ていなさい、
と医師に言われて、病棟で案内されたのが、分娩待機室(爆)。
「ごめんなさい、今、ここしかベッドが空いてなくて」
と看護師さんが申し訳なさそうに言った。
産科病棟の普通の部屋が空いたら、すぐ移って貰うから、
と説明され、諦めてベッドで『パタリロ!』を読み始めたのだが、
周囲は皆、カーテンが引かれて、唸っている人ばかりだった。
隣のベッドの人が、だんだん呼吸が荒くなって来た気配を聞いて
大丈夫なのかなと心配で、私のほうが血圧が上がりそうだった。
分娩待機室では、普通の見舞客も皆無で、
外部から来るのは産婦の家族だけだった。
隣人の呼吸法を一昼夜聞かされた私の身にもなって欲しかったが、
看護師さんや助産師さんたちは、皆、診察や介助で大忙しで、
ごろごろ寝ているだけの私のことを思い出すほど暇な人はいなかった。
こんなところにいたら、アタシは本当に流産するのではないか、
と私は真面目に思った。胎教に悪いことこのうえないぢゃないか。
微弱陣痛で、途中からいびきをかいて寝てしまう人がいたり、
なんでこんなにエラいん~~と泣きながら頑張る人がいたり、
悲鳴をあげ続けたあと分娩室に運ばれていく人もあったが、
やはり壮絶だったのは私の隣人だった。
彼女は、苦痛に耐え続け、とうとう帝王切開が決まった。
医「お姉さんもここで帝王切開しとるよね」
隣「は・・・い・・・」
医「あなた、血液型がRhマイナスですね」
隣「・・・はい・・・・うぅぅっ」
医「お姉さんもマイナスだったっけ」
隣「・・・プラス・・・です・・・・」
陣痛の最中に、姉の血液型を確認することが必要だったのか?
私は心底、隣人に同情した。大変な苦痛だろうに。
おまけに、世にも珍しいRhマイナスなのか。
『赤い疑惑』やんか。手術も不安だろう。なんて気の毒な。
そのときの私は、自分自身もそのRhマイナスであることを
まだ、知らなかった(爆)。
結局、私自身は、張り止めのダクチルという薬を内服し、
あとは血液検査と血圧測定がときどき行われただけで、
特に何の用事もなく、様々な分娩事情を否応なしに見学させられ、
合間に『パタリロ!』『ガラスの仮面』の既刊本を読破し、
三日目に、ようやく、「ベッドが用意できました」と言われた。
荷物を持って(切迫流産の妊婦に持たすか普通)、
行った先は、今度は産科ではなく、婦人科病棟だった。
「ここしか空いてないんだけど、待機室より、いいわよね?」
とまたしても看護師さんが申し訳なさそうに言った。
六人部屋で、患者は、筋腫を手術したオバちゃんが三人、
あとは卵巣嚢腫の高校生と、何かわからぬおばあちゃまで、
当然だが妊婦は私だけだった。
ここは全員が元気だった。
筋腫のオバちゃんたちは皆、既に術後で退院が近く、
卵巣腫瘍の高校生だけは手術待ちで、怖がってはいたが、
声の大きなオバちゃんたちが慰めるので、よく笑っていた。
おばあちゃまも話は多少ズレていたが、愉快な優しい方だった。
私が看護師さんに呼ばれていきなり起き上がったり、
スタスタ歩いたりするのを見て、隣のオバちゃんが、
「あなた妊婦さんに見えない~。そんなに乱暴に動いちゃダメ」
と気遣って下さったりした。すみませんでした<(_ _)>。
あの頃、これから無事に出産できるかどうかの私と較べ、
既に子育てを終わって、良性疾患の手術のために来ている人は、
なんて気楽なんだろうと私は勝手に羨んだりしていたものだった。
今になって考えてみると、まだ腹腔鏡が普及していなかった当時、
オバちゃんたちは皆、開腹手術で、年齢的にも全摘だったろうし、
それなりに大変な時期を乗り越えて来られた方々だった筈だ。
手術以前の状態だって、きっと辛いものだったに違いない。
決して私が考えたほど簡単な状況ではなかったのだ。
だのに皆、しょっちゅうオモロいことを言って笑わせてくれて、
本当に良い方々だったなあと今にして思う。
そう、あの頃の私は、いずれ自分が筋腫と卵巣嚢腫になり、
手術を勧められる状況になろうとは、
想像してみたことも、なかった(^_^;。
ちなみに、そのとき切迫流産しそうになったのが、
今の、転娘みーちゃんである。
初期の出血で私が騒いだだけで、胎児の心拍はとても安定しており、
その後の経過は、ごく順調なものだった。
オマケに、私の出産は「案ずるより産むが易し」の最たるものだった。
虫歯治療より出産のほうがずっとラクだというのが実感だった。
なるほど出産は病気じゃない!こんなお気楽なことだったんだ!
これなら何人産んでもOK!と私は目からウロコが落ちた思いだった
(注:初産があまりにも簡単だった人は、結構な確率で、
二人目以降が早産になりやすいと、当時の主治医にクギさされました。
同じような経験をなさって二人目計画中の方は、どうかご注意を)。
なお、このあと、転勤につぐ転勤で時機を逸し続け、
娘が一人っ子になろうとは、そのときは考えもしなかったことだった。
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