我が家の前も桜が咲き始めました。
早朝の会社で、口論となったピカチューと夫。
「酔うて電話すな、言うとるんじゃ!」
「酔うのはワシの勝手じゃ!」
「パワハラじゃ!」
「お前らの自業自得じゃ!」
怒鳴り合う二人に、やがて決定的瞬間が訪れた。
「ワシの言うことが聞けんのなら、辞めえ!」
ピカチューは、わめいた。
逆上した夫は、間髪入れず怒鳴った。
「おう!辞めたるわい!」
語彙の少ない夫は、持久戦に慣れていない。
ここまで食い下がる人間は、今までに誰一人いなかったからである。
その点、夫はまんまとピカチューの術中にはまったと言えよう。
辞めると聞いたピカチューは、勝ち誇ったように言い渡した。
「月曜日に辞表、持って来い!
ワシの言うことが聞けんモンは皆、辞めえ!
息子らにもよう言うとけ!」
社内の者に向かって辞めろと言うのは、完全なパワハラである。
この言葉を言質に、後からジワジワといじめる方がよっぽど楽しいと思うが
逆上した夫にそんな余裕は無い。
夫は暴力を避けるため、事務所の鍵と
会社から支給されている携帯をピカチューの前に置いて事務所を出た。
長男はダンプがちょうど車検に入っていたので休みだったが
事務所の外には、出勤してきた次男と社員たちが立ちすくんでいた。
そのまま家に帰って来た夫は、一部始終を私に説明し
「そういうことじゃけん、辞めることになった」
と言った。
かなり興奮している様子だ。
こういう時、私の反応は決まっている。
「あんなヤツと働かんでええ。
仕事より、父さんの尊厳の方が大事よ。
今までよく頑張ったね、お疲れ様でした」
この12年だか13年だかに、同じことが何回あっただろう。
ほとんどが、アレら営業所長とのイザコザである。
夫を排除しようとした松木氏は、やがて癌になり
藤村はパワハラとセクハラで左遷された。
夫に楯ついたから、そうなったと言いたいのではない。
色々なことがあっても夫が辞めたことは無いし
分のわきまえを忘れた人間がたどるのは、たいてい厳しい道である。
ピカチューには、どんな運命が待ち構えているのか。
明日からの暮らしより、私にはそっちの方が興味深い。
とりあえず我々夫婦は、その日の有休をゆっくり楽しむことにした。
同じ頃、「大変なことになった」と思った次男は
河野常務に電話をして事情を説明。
…と言ったら良さげに聞こえるが、要するに告げ口である。
腰の手術を数日後に控えて入院中の常務は、話を聞いて驚いたという。
「板野は、そげなヤツか!
酒癖が悪いのは聞いとったんじゃが、そりゃあいけんのぅ。
わかった、誰か行かせるわ。
親父に早まったことするな、言うとけ」
いやもう、早まったことしてるし。
1時間後、常務の差し向けた永井営業部長がやって来た。
次男はその人選に軽く失望したが
また一方で、常務の次に地位が高いのは彼なので
常務がこの問題を重く受け止めていることがわかった。
永井部長、ピカチュー、次男の3人は事務所で話をした。
が、解決には至らなかった。
仲裁役の永井部長が無能というのもあるが、肝心な話になるとピカチューは
「酔っていたので忘れました」
そう言ってとぼけるため、話し合いにならないのである。
ピカチューは危なくなると「酔っていた」で逃げる…
この時、それを知った次男は
彼の電話を録音していることを言わなかった。
永井部長から消去を求められたら、隠し球が無くなるからだ。
この件がもつれた場合、つまり訴訟に発展する最悪の事態に備えて
保存しておく必要がある。
永井部長ごときに聞かせて、満足していてはいけない。
事実をわかってもらえたと、勘違いしてはいけないのだ。
上の人間は本能的に、会社を守るために動く。
それが自分の地位と収入を守ることになるからで
シモジモの不利益に興味は無い。
よって、聞いた後は必ず消すように命令する。
会社支給の携帯なので、拒否はしにくい。
消さない権利もあるにはあるが、そうすればさらに揉め
問題を起こした下手人が、ピカチューから自分へとすり替わってしまう。
本社と合併して以来、次男も学習したのである。
ピカチューから事実を聞き出せず、諦めた永井部長は
「酔って社内の者に電話をかけるのは良くない」
そう言って帰って行った。
夜になった。
夫の興奮は冷め、落ち着いてきたようだ。
彼は感情を顔に出さないタイプだが、かなり凹んでいるのは感じ取れる。
「辞める」と言ったことを後悔しているのだ。
そうさ、辞めるべきはピカチューであって夫ではない。
翌日の31日は日曜日なので
あと1日ぐらいはそっとしておきたかったが
我々夫婦は早急に話し合っておくべきことがあった。
手術が翌週の木曜日に迫っている河野常務は、数日中に必ず動く。
それまでに、できるだけ多くのことを夫から聞き出し
事態が動いた時に備えて、受け答えの指導をしておく必要があるからだ。
ピカチューが、都合が悪くなると
「酔っていた」で逃げる人間と判明したからには
このままでは済まない気がしてならない。
酔っていた…それは一種、見事な逃げ方だ。
トカゲは危険を感じるとシッポを切り離し
一目散に逃げて自分の身を守る。
世間ではそれを“トカゲのシッポ切り”と呼んで
都合の悪い人間をいとも簡単に切り離す冷淡を表現するが
今回はその逆バージョン。
どういうことかというと
「酒に酔って電話をかけた」
周囲の非難をこの一点に集中させ、他の重要案件を
「酔っていたから忘れた」で終わらせれば
公になる事実は、酔って電話をかけたことのみ。
先に「ごめん」で済む小さい傷を負っておき
他の大きな危険は「酔っていたので忘れた」で回避する…
なかなか高度な手法である。
一見、朴訥なピカチューにそんな能力があったとは…
私は感心する一方、彼の言動に疑問を感じていた。
まず、突然、酒に酔って次男に強気の電話をしてきたのがそうだ。
これを逆に考えると、酒の勢いを借りなければ
言いたいことが言えなかったということになる。
そして酒を飲んでまで言いたかった事柄というのが
「言うことを聞かない」。
これを逆に考えると
彼にはぜひとも従って欲しい事柄があるらしい。
その従って欲しい事柄とは一体、何ぞや?
酔っ払いの電話や勝手な退職勧告の裏に
もっと大きな問題があるような気がしてならない。
ピカチューの言動は、それほど不可解なものなのだ。
夫からちゃんと事情を聞いてデータを集め
次の一手を決めておかないといけないが
私は夫が何かを隠しているような気がした。
肝心なことを隠して説明するから、不可解ばかりが目立つ。
では、夫が私に隠している事柄とは…
女絡みに決まっとるやんけ。
おそらくそれが、この一件のキモだ。
《続く》