
5年生で行われる林間学校は、山のお寺へ登山して一泊する。
我々は遠足や運動会を始め、こういう大がかりな行事を心待ちにしていた。
よそのクラスの子供や先生のいる所では安全なのだ。
ホッと一息つける日だった。
楽しみにしていた林間学校の日は大雨で、登るはずの山に土砂崩れが起きた。
体育館で判断待ちをしたものの、結局その日は解散。
他のクラスと違い、我々はそんなことで騒いだりしない。
他者の目がある安心感、教室という密室にいなくていい安堵感は
山だろうと体育館だろうと同じである。
林間学校は日延べして行われたが、山寺で禅修行の真似事をするよりも
下界のほうがよっぽど修行になった。
6年生では、クラス替えも担任の変更も無いと決まっている。
それでも万が一…我々は、はかない希望を抱いた。
持ち上がりになりませんように…七夕の短冊にも書いた。
サンタさんに、プレゼントはいらないから担任を変えてくださいと
祈った者もいた。
いつもは行かない初詣に行った者もあった。
願いもむなしく、先生は恒例にしたがって持ち上がりとなった。
「転校させてくれと親に頼もう」ということになり
有志各自、家で親に願い出るが撃沈。
もちろん体罰もあった。
この先生は顔をたたく。
悪い事をした時もたたくが、そうでない時もたたく。
理科の授業で使う朝顔の葉っぱを全員見事に忘れた時があった。
前日、暗くなるまで罵倒が続くいつもの「修行」があり
遅くなったので、朝顔のことなどすっかり忘れていたのだ。
理科の授業は別の先生が受け持っていたため
「恥をかかせた」ということで、全員ビンタの刑だ。
なんだか理不尽のような気もするが、抗議してさらに興奮を長引かせるより
黙ってさっさと打たれたほうが早く終わる。
全人格を否定される暴言よりも、そのほうが傷が浅いことを
我々はすでに知っていた。
このような状態を見かねた保護者たちが
先生に抗議したことがある。
うちと違って、若く教育熱心なお母さんたちだ。
話がどうなったのか、我々子供は内容を知らない。
しかし、抗議した親の子供は「卑怯者」と罵倒されていた。
ことあるごとに「あなたもお母さんみたいに、人を傷つける大人になるのね」
と皮肉を言った。
見せしめである。
昔の田舎のこと…教師の立場は強く
先生をさらに追求するような向こう見ずの親は、当時はいなかった。
先生は時々、自分が苦学生だった頃の話をした。
最初に入学した大学は、理想と違っていたので
翌年、別の大学に入り直したという。
「お金が無くて、空きっ腹を抱えて歩いているとね…」
100円札が落ちていたそうだ。
それを拾って店に走り、食べ物を買った。
下宿に帰って夢中で食べたところで、ハッと気付いたという。
「自分は泥棒をした…」
先生はそれから毎日キャベツだけを食べて過ごし
やっとの思いで100円を貯めて交番へ持って行った。
お巡りさんはわけを聞いて、一緒に泣いてくれたという
「ちょっといい話」というやつだ。
先生はそれを話すたびに泣く。
しかし我々は、別の受け止め方をしていた。
帰り道でヒソヒソ話し合う。
「ふたつも大学へ行ったら、苦しいのは当たり前じゃ…」
「そうじゃ…わがままじゃ」
ここに我々の油断があった。
その発言を先生に密告したクラスメイトがいたのだ。
囚われの身のような毎日に、11~2才の子供は疲弊していた。
みんなで頑張ろうと誓い合っても、中には権力にすり寄る者が出てくる。
一部始終を先生に知られ、そりゃもう怒られたのなんの。
40年近く前のことだ…
「曲がっている」「腐っている」「生きている価値がない」
えんえんと続くののしりの言葉には、今では考えられないほどの威力があった。
やっと解放された時には、一同放心状態になり
「みんなで死のう…」「死んだらわかってもらえるかも…」
などと話したものである。
ま、子供のことなので、一夜明ければ忘れる。
唯一の希望は、この日々に必ず終わりがあることだ。
卒業さえしてしまえば解放される。
皆、それに向かって懸命に耐えていた。
もはや憎たらしいとか、怖いの段階ではない。
我々はただひたすら耐え、あきらめ、許し、忘れる作業を繰り返すのみだった。
6年生の秋には、楽しみにしていた修学旅行がある。
当日、待てど暮らせど我々の乗る観光バスが到着しない。
さんざん待って、先生の一人がバス会社に連絡した。
日にちを間違えて予約していたそうで、修学旅行は翌日に延期となった。
我々は淡々と家に帰り、翌朝また旅行かばんを持って家を出た。
そんなことも、全くたいしたことではなかった。
旅行は楽しかった。
続く
我々は遠足や運動会を始め、こういう大がかりな行事を心待ちにしていた。
よそのクラスの子供や先生のいる所では安全なのだ。
ホッと一息つける日だった。
楽しみにしていた林間学校の日は大雨で、登るはずの山に土砂崩れが起きた。
体育館で判断待ちをしたものの、結局その日は解散。
他のクラスと違い、我々はそんなことで騒いだりしない。
他者の目がある安心感、教室という密室にいなくていい安堵感は
山だろうと体育館だろうと同じである。
林間学校は日延べして行われたが、山寺で禅修行の真似事をするよりも
下界のほうがよっぽど修行になった。
6年生では、クラス替えも担任の変更も無いと決まっている。
それでも万が一…我々は、はかない希望を抱いた。
持ち上がりになりませんように…七夕の短冊にも書いた。
サンタさんに、プレゼントはいらないから担任を変えてくださいと
祈った者もいた。
いつもは行かない初詣に行った者もあった。
願いもむなしく、先生は恒例にしたがって持ち上がりとなった。
「転校させてくれと親に頼もう」ということになり
有志各自、家で親に願い出るが撃沈。
もちろん体罰もあった。
この先生は顔をたたく。
悪い事をした時もたたくが、そうでない時もたたく。
理科の授業で使う朝顔の葉っぱを全員見事に忘れた時があった。
前日、暗くなるまで罵倒が続くいつもの「修行」があり
遅くなったので、朝顔のことなどすっかり忘れていたのだ。
理科の授業は別の先生が受け持っていたため
「恥をかかせた」ということで、全員ビンタの刑だ。
なんだか理不尽のような気もするが、抗議してさらに興奮を長引かせるより
黙ってさっさと打たれたほうが早く終わる。
全人格を否定される暴言よりも、そのほうが傷が浅いことを
我々はすでに知っていた。
このような状態を見かねた保護者たちが
先生に抗議したことがある。
うちと違って、若く教育熱心なお母さんたちだ。
話がどうなったのか、我々子供は内容を知らない。
しかし、抗議した親の子供は「卑怯者」と罵倒されていた。
ことあるごとに「あなたもお母さんみたいに、人を傷つける大人になるのね」
と皮肉を言った。
見せしめである。
昔の田舎のこと…教師の立場は強く
先生をさらに追求するような向こう見ずの親は、当時はいなかった。
先生は時々、自分が苦学生だった頃の話をした。
最初に入学した大学は、理想と違っていたので
翌年、別の大学に入り直したという。
「お金が無くて、空きっ腹を抱えて歩いているとね…」
100円札が落ちていたそうだ。
それを拾って店に走り、食べ物を買った。
下宿に帰って夢中で食べたところで、ハッと気付いたという。
「自分は泥棒をした…」
先生はそれから毎日キャベツだけを食べて過ごし
やっとの思いで100円を貯めて交番へ持って行った。
お巡りさんはわけを聞いて、一緒に泣いてくれたという
「ちょっといい話」というやつだ。
先生はそれを話すたびに泣く。
しかし我々は、別の受け止め方をしていた。
帰り道でヒソヒソ話し合う。
「ふたつも大学へ行ったら、苦しいのは当たり前じゃ…」
「そうじゃ…わがままじゃ」
ここに我々の油断があった。
その発言を先生に密告したクラスメイトがいたのだ。
囚われの身のような毎日に、11~2才の子供は疲弊していた。
みんなで頑張ろうと誓い合っても、中には権力にすり寄る者が出てくる。
一部始終を先生に知られ、そりゃもう怒られたのなんの。
40年近く前のことだ…
「曲がっている」「腐っている」「生きている価値がない」
えんえんと続くののしりの言葉には、今では考えられないほどの威力があった。
やっと解放された時には、一同放心状態になり
「みんなで死のう…」「死んだらわかってもらえるかも…」
などと話したものである。
ま、子供のことなので、一夜明ければ忘れる。
唯一の希望は、この日々に必ず終わりがあることだ。
卒業さえしてしまえば解放される。
皆、それに向かって懸命に耐えていた。
もはや憎たらしいとか、怖いの段階ではない。
我々はただひたすら耐え、あきらめ、許し、忘れる作業を繰り返すのみだった。
6年生の秋には、楽しみにしていた修学旅行がある。
当日、待てど暮らせど我々の乗る観光バスが到着しない。
さんざん待って、先生の一人がバス会社に連絡した。
日にちを間違えて予約していたそうで、修学旅行は翌日に延期となった。
我々は淡々と家に帰り、翌朝また旅行かばんを持って家を出た。
そんなことも、全くたいしたことではなかった。
旅行は楽しかった。
続く
みりこんさんの小学生時代、本当に大変だったんですね(泣)
私も病んでた時はあったけど、こんな事はしなかったぞぉ〓
某国の権力者、みたい。
この先生、今はどうなっているんでしょうね?
私も5、6年担任だった先生が大嫌いで6年への持ち上がりが発表された時は嫌で泣きましたが・・・
この話聞いてたら、逆に嬉し涙を流していたことでしょう(^-^;
担任も担任なら校長も校長だたってことですよね。。。こわっ!!
しかも!この先生、他の先生にはいい顔してたなんて許せない!!!
全員忘れたなら、私が言うのを忘れてしまったからすみません!くらい担任なんだから言えそうだけど(≧ヘ≦)ムス~
こんな教師許せなーい○Oo (9 ̄^ ̄)9 メラメラ
生きてたら同窓会計画してみるとか・・
こんな女に限って、本当のストレスって溜まらないと思うから、生きてるんだろうな。
性悪なばあさんになってるのだろうな。。
二度と行きたくないわ!
大人になって大人と戦っても良くなってほっとしているわ
子供の時代は幸せって言うけど
私は大人になってほっとしています。
まっ 私も「この先生 ばか?魅力ないね・・」
って眼で見ていたのだろうけど・・
この退屈な日がいつまで続くのだろうと
辛かったなぁ・・・
子供の授業参観に行って余りのつまんなさに
一時間もたない私でした・・
子供に 「えらい 毎日学校に行って!」
と言った私です。
粛清の恐怖と隣り合わせ(笑)
昔だもんで、先生ってやりたい放題でしたね。
本当に大変でした~(笑)
先生の今?たいしたことないけど、次に出て来ます♪
先生と合わないと、学校へ行くのがつらいですね。
でも、人生のどこかでそんな目に遭っていたほうが
大人になってから断然楽と思います。
探しに行く必要があったので、忘れましたね。
光合成の勉強だったと思います。
長いものに巻かれろ主義…子供でもちゃんといました。
10人いたら3人はそうですね(笑)
ほんと、こういう人って、わりと長生きするんですよね。
自分の言葉に酔っている時もありましたが
自分の放った言葉に自分が傷ついているような
痛ましい感じも受けていました。
子供には難しい相手でしたね(笑)
絶対帰りたくない!
私も大人になってホッとしてるクチです(笑)
うちもよく子供に言ってました~。
「あんな退屈なとこ行って、エライ!」って。