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若い頃はドラマの連続でした。すべてが自分にとって一生を左右しうる出来事でした

2020-10-04 | いかなる差別もあってはならない
[インタビュー]
「私たち世代の前半は運命的な現代史ドラマの連続でした」

登録:2020-09-29 09:26 修正:2020-10-03 18:23


      

イ・ジョンシク米国ペンシルベニア大学名誉教授=イ・ジョンシク教授提供//ハンギョレ新聞社

 「自叙伝がとても長くなりますからね。どこかにまた書くことに備えて、ネタを残しておかなければなりませんから」

 今年89歳のイ・ジョンシク米ペンシルベニア大学名誉教授が最近出版した『イ・ジョンシク自叙伝ー満州原野の少年家長、アイビーリーグ教授になる』は、著者がロバート・スカラピーノ教授(1919~2011)と共著で出した『朝鮮共産主義運動史』(Communism in Korea)で1974年にウッドロー・ウィルソン・ファンデーション賞を受賞した時点で終わる。イ教授の生涯の前半部だけを紹介した同書には、中日戦争や国共内戦、太平洋戦争、朝鮮戦争の渦で生存のために奮闘した一人の人間ドラマが描かれている。

 米国のフィラデルフィア近郊の自宅で妻と暮らすイ教授と、今月22日(現地時間)午前、電話でインタビューを行った。

 最も記憶に残る人生の瞬間を尋ねると、彼は「1948年に家族と一緒に中国から鴨緑江(アムノクカン)を渡った時」だと答えた。「当時は北朝鮮が中国側の国境を塞いでいました。漁船に乗って北朝鮮の地を踏んだ私たち家族を、機関銃を担いだソ連のある少年兵が受け入れてくれました。ほかの人からすると何でもない瞬間かもしれませんが、私にとって画期的な出来事でした」。渡江に失敗していたら、人生はどう変わっただろうか。彼はおそらく中国朝鮮族として暮らしていたかも知れないと話した。「私の人生は様々な面で政治的影響を受けました。若い頃に違う選択をしていたら、人生がどう変わっていただろう、そういう予測はできません。それが可能なのは小説だけです。私たちの世代の運命はまさにそういうものでした。誰かが書くとしても、あれほどドラマチックには描けないと思います。若い頃はドラマの連続でした。すべてが自分にとって一生を左右しうる出来事でした」

 日本軍部が満州を侵略した1931年、平安南道价川郡北面(ケチョングン・プクミョン)で生まれたイ教授は、わずか3歳の時に“満州流浪”に出て、小学校3年生まで中日戦争の最前線だった漢口で過ごした。家族とともに平壌(ピョンヤン)に戻った1941年には、日本の真珠湾奇襲で太平洋戦争が勃発した。1年後、両親は中学入試を控えた長男のジョンシクを(彼の)叔母の家に預け、再び満州に向かった。しかし、彼は平壌第2中学校の受験に失敗し、1944年に家族が新たに定着した満州の遼陽に向かった。1945年春、遼陽工業学校に入学した彼は、その年の夏、日本が退いた後、遼陽で中国国民党と共産党の間の内戦を目撃する。最初は共産党の八路軍が入ってきたが、共産党が戦略的に都市を放棄したことで、遼陽は国民党のものになった。彼は自叙伝で、中国共産党の八路軍治下で朝鮮義勇軍10人余りがトラックに太極旗をつけて朝鮮語で軍歌を歌う姿を見て「とても誇らしかった」と書いた。

          

イ・ジョンシク教授の自叙伝の表紙//ハンギョレ新聞社

 1946年3月、朝鮮人避難民救済に献身した父親が行方不明になり、15歳のジョンシクは突然満州の「少年家長」になった。彼は無免許医師の下で助手をしたり、綿花工場労働として母親と3人の弟を養いながら父親を待ったが、結局父親には会えず、1948年に鴨緑江を渡った。再び戻ってきた平壌では、叔母の米屋を手伝いながら家計を支えたという。この時代、抗日運動家として名高かった武亭(ムジョン)将軍の自宅に米一俵を配達した記憶もある。

 朝鮮戦争の時は間一髪で米軍の爆撃を避けて一命をとりとめたという。「人民軍の徴兵を避けて隠れていた平壌の家が爆撃を受けた瞬間、素早く縁側の下に隠れました。後で見ると、残ったのは床だけで、家の壁や扉がみんな吹き飛ばされていました」。彼は平壌に進軍し民家の捜索をしていた国軍兵士と言葉が通じず、「奇妙でもどかしい思いをした」という記憶も打ち明けた。

 中国共産軍の介入で戦況が逆転した後は、越南し、国民防衛軍士官学校を経て、中国共産軍捕虜審問通訳官として働いた。「当時、中国共産軍の審問担当米軍の大半が日系2世でした。中国共産軍の捕虜たちは、多くが揚子江以北出身で標準語の北京語を使っていましたが、中国人2世の米軍はほぼ100%広東語しかできないため、コミュニケーションが取れませんでした」。中国人が経営する綿花工場で中国語を覚えたうえ、(日本の植民地時代に)日本語を母国語として学んだ彼が通訳官に採用されたのも、そのためだった。

 1954年に米国に留学した彼は、3年間でカリフォルニア大学ロサンゼルス校で学士号と修士号を取得し、1957年には偶然ハリウッド映画『祖国への反逆!第5捕虜収容所』(1957、カール・マルデン監督・出演)に人民軍兵士役として出演したこともあった。修士号を取得するまで生き残ることが唯一の目標だった彼を学問の世界に導いたのは、師匠スカラピーノ教授だった。「カリフォルニア大学バークレー校の先生が中国語と日本語の実力を見込んで私を研究助手に採用してくれました。立派な先生(スカラピーノ教授)が私を学問に導いたんです。師匠に会う前までは、とにかく生き残るのが重要でした。韓国の歴史についてあまり知らず、関心もありませんでした」

 彼は自叙伝で、師匠が送った『朝鮮共産主義運動史』の草稿2章を12歳年下の弟子である自分が突き返したというエピソードも載せた。1980年代半ばに韓国語版も出た『朝鮮共産主義運動史』は、朝鮮半島における100年に近い共産主義運動史全体を一貫した流れでまとめた著作で、国内では北朝鮮の実態を正しく知るための必読書に挙げられる。「礼に反する行動でしたが、師匠は何も言いませんでした。師匠の文章を批判する習慣は、皮肉なことに、スカラピーノ教授の自宅で開かれたセミナーから始まりました。日本の労働運動などについて討論していましたが、ここで同僚のチャルマーズ・ジョンソン(1931-2010)は師匠に『この部分はあなたが夜明けに居眠りしながら書いたようだ』と批判したこともありました」。『朝鮮共産主義運動史』を執筆する際、師匠とどこで見解の違いがあったかについて尋ねると、彼は「覚えていない。ただ師匠と衝突するようなことはなかった」と答えた。

今年89歳…43歳までを振り返った自叙伝 
「満洲の少年家長、アイビーリーグ教授になる」 
中国で父親が行方不明、朝鮮戦争で九死に一生を得る 
「1948年、鴨緑江に渡った時が最も記憶に残る」 
 
中国共産軍捕虜の通訳官を経て米国に留学 
「師匠スカラピーノ教授との出会いで学問の道へ」

 彼が師匠と共著で出した英文論文「朝鮮共産主義運動の起源」を2編に分けて発表したのが1960年と1961年だった。韓国で共産主義や共産主義運動を学問的対象にすること自体が危険な時代だった。さらに、彼はシベリアで始まった朝鮮半島の共産主義運動が抗日独立運動の一部だったという観点を示し、北朝鮮の最高指導者が抗日武装闘争をした金日成(キム・イルソン)だと記述した。「論文が韓国で出版されたとき、警察が私と同姓同名の東国大学教授を訪ねたそうです。私があの時、査察係に連れて行かれたら、どんな目に遭ったか想像もできません」

 このような記憶のためだろうか。彼は「韓国文化は過度に教条的で独善的」だという。「韓国は歴史の中で朱子学の影響を多く受けました。朱子学の理論と態度は非常に教条的です。何に対しても、そういう考え方が身についているようです。西洋や他の国の文章を見ると、『これが絶対正しい』というより『こういうこともあり得る』という態度が前提になっています。しかし、韓国では“正しい”か“正しくない”かがとても重要です。他の国の文化を見ると、懐疑心を持って疑問も提起します。韓国の歴史と文化はそれを許さない傾向があります。一度口を滑らすと袋だたきに遭います。学問的な論争ではなく、党派の争いになり、いろいろと複雑な状況になります。ある理論が新たに出て既存の理論を批判すると、異端だと攻撃されます。しかも、そのやり方が非常に激しい。韓国では論争が命がけの論争になります。私が金日成がにせ物ではないと言った時も、大騒ぎになりました。私は、外国で(学問的な)構想を描き、それを文章にしましたが、韓国国内にはそんな余裕がありませんでした。韓国の学者たちは、(学問的論争を)自分が属するグループの問題としてとらえます。周りの同僚や先輩、後輩を意識して、他の意見を許しません」

 彼が解放政局の指導者の中で呂運亨(ヨ・ウンヒョン)に特に人間的好感を覚えるのも、このような認識の反映だろう。李承晩(イ・スンマン)と朴憲永(パク・ホニョン)は教条的だったが、呂運亨は開かれた心の持ち主で、他人の話にも耳を傾けた。イ教授は、解放政局で左右合作運動を率いた夢陽(モンヤン、呂運亨の号)と尤史・金奎植(キム・ギュシク)の評伝を書いた。「夢陽はとても人気がありました。活動分野が広かったし、人間的にも尊敬されました。人々に期待を抱かせるような性格でした」。しかし、当時の状況で夢陽が夢見た左右合作は不可能だったというのが彼の考えだ。「彼らにできる範囲がどれほど広かったかを考えると、(左右合作は)不可能なことでした。共産と反共陣営が合作することは、昔も今も難しいことです」

 若い時代に彼が数多くの“ドラマ”の中の人物になったのは、強大国の間で板挟みになった弱小国という祖国の影響が大きかった。朝鮮半島の未来について尋ねると、老学者は「楽観している」と答えた。「国際政治というのは一人でできることではないから、思う通りに進まないことも多々あります。だからこそ能力のある指導者の役割が重要です。ところが、最近の韓国人たちを見ると、かなりの自負心を持って国際政治の舞台で努力しているように見えます。荒波の中でも生き残ったことから、自負心が生まれたのかもしれません。今は比較的強い国になったではありませんか。韓国が歩んできた環境を見れば、今のように発展したは驚くべきことです。今後もうまくいくと期待しています。私は結構楽観的な人ですからね」

 近況を尋ねると、彼は「まだ元気な方だと思います。近く“老人ホーム”に引っ越す予定で、それを準備しています」と答えた。また他の著述計画があるのか聞いた。「昔から抱いてきた疑問があります。何かというと、朝鮮戦争の際、米軍の介入で金日成が非常に困難な状況になったでしょう。金日成の戦争計画を承認したスターリンもかなり当惑したと思います。そのとき金日成はスターリンに懇願したんです。早くソ連軍を送って、米帝を退けてほしいと。スターリンの立場からすると、朝鮮戦争が終わる頃に米軍が介入して苦境に陥りましたからね。しかし、金日成の支援要請にスターリンは返事をしませんでした。4~5日連絡が途切れたのです。金日成はかなり気をもんでいました。その時、スターリンの状況がどうだったのか、健康問題があったのか、それとも政治的な理由があったのか、誰も知りません。健康問題なら医療者らから報告があるはずなのに、私はまだそのような記録を見たことがありません。歴史には重要で面白い質問がたくさん残っています。『スターリンの4~5日』はなぜ重要なのか? スターリンの行動の根本条件に対する答えを見つける鍵かもしれません」

 『朝鮮共産主義運動史』は多くの称賛を受けたが、多少反共的だ、派閥争いを強調したなどの批判も受けた。改めて書くとしたらどの部分を書き直したいのかと尋ねると、彼は「そんなことは考えたことがない」と答えた。「私たちは最初にスケッチを描き出す段階でした。荒れ地から開拓したのです。今になって他の人の叙述を見て、こう書くべきだったのにと考えることはありません。私たちは資料を見た通りに書いて、資料に表れたものを解釈しました。同じ資料でも色々な角度から解釈できます。解釈は資料が豊富であってこそ様々な理論を持って書くことができます。当時はそんな段階ではありませんでした。時間的な余裕もありませんでした」
カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


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