羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

伝書

2007年06月12日 14時52分24秒 | Weblog
 野口三千三先生を失って、9年と3ヶ月が過ぎようとしている。
 野口先生没後のこと、野口体操の本は岩波同時代ライブラリー『原初生命体としての人間』をのぞいて、市場から消えていた。
 どのような事情があったのか、まったく想像もつかないことだが、柏樹社がたちゆかなくなってしまっていたからだ。

 手も足ももぎ取られた状態に近かった。
「本を残したい」
 その思いを何年も持ち続けていたある日、春秋社の編集者の方から、メールが入っていた。その一通のメールが、今日まで野口体操の本が増え、また書店で求めることが出来るようになったきっかけだ。

 なぜ、そこまで本にこだわるのか、と聞かれたことがある。
 一つには「本が好きだから」と答えたところで答えになっていない。
 動きは文字では伝えられない。写真でも伝えられない。
「動く映像なら、いいわよね」
「お言葉を返すようですが、そう簡単なことではないんです」
 言われた方は、キョトンとなさる。
「レッスンをじかに受けても、受け取り方で真意が伝わないことだって往々にしてありますから」
 さらに怪訝な顔を向けられる。
「何事かを伝えるということは、どのような表現媒体をもってしても、難しいということなのです」

 今では活字とは言わなくなって久しいが、私の感覚としては「活字文化」が、からだにしみこんでいる。で、その活字によって伝わること、残ることへの愛着と信頼は、今でも私のなかで失われていない。

 昨日のブログに書いた『秘花』が出した答えは、瀬戸内寂聴さんが考えるところの”もの書きとしての一つの答え”だとしてももっともだと思う。
 世阿弥の能は、世阿弥が鬼籍に入れば、二度と見ることは出来ない。しかし、書き残された能の台本や芸論は、書いたものが残されてさえいれば、後世の人々に読まれ語られ演じられる可能性がある。事実、現代においても能楽堂に足を運べば、鑑賞することが出来るのだから。
 世阿弥が演じたそのままではないかもしれない。しかし、世阿弥がそこに顕したかったこと、命を懸けて作品をつくりあげていった「真実」は、伝わると信じている。

 野口体操も同様で、本の形で残していくこと、今の時代ならDVDとして記録を残していくこと、その仕事に私自身誇りをもってすすめている。おそらくその思いは一緒に行動をともにしてくださる方々に共通の思いに違いない。

 完璧はありえない。これですべてよし、ということもありえない。しかし、出来る限りの方法をもって、出来る限り伝えていきたいと、没後10年たってもその思いは変わらない。

 唐突だがホームページのリニューアル作業も、ゆっくりだが着実にすすんでいることをご報告。
コメント (2)
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