入梅になったものの、しばらくの間、まとまった雨は降っていなかった。
その日は、朝から雨模様だったが、昼過ぎには小降りになった。
彼女は思い切って出かけることにし、雨対応の服装といつもより薄化粧で、めったにつかわないがお気に入りの傘を選んだ。
JRから地下鉄に乗り換え、銀座駅についたのは2時少し前だった。
A2出口を昇りかけてふと足を止めた。
「お香の匂いがするのね」
湿度が高く、空気が皮膚や耳や目や鼻にまとわりつく。
階段を昇りきると、そこは鳩居堂である。
そのとき、グループ展を見る時間をはやめにきりあげて、立ち寄ることを決めた。日本画のグループ展は、2年おきにひらかれている。
ギャラリーは、鳩居堂の隣のビルの6階なのだから。
知人が描いた日本画は、お義理で眺めてそそくさとギャラリーをあとにした。
雨はほとんど止んでいた。一瞬、視線がとらえられた。
中年婦人が三人、連れ立って歩いてくる。そのうちの一人の姿に思わず笑いを堪えた。
「あの人、歩き方の練習をはじめたばっかりみたいだわ」
道路に直線のイメージを描いて、つま先を外側に向けてその線上を歩く姿勢は、テレプシコーラでも読んでいるように見えたからだった。
さすが銀座だ、服装に抜かりはない。
ほんの何秒かの出来事だったが
「アラッ、職業意識が……」
おかしみが胸の中心に小さなハート型を描くのを感じていた。
時節柄ウインドウには、団扇や涼しげな小物が飾られている。
鳩居堂のなかに一歩入ると、女性客で賑わっていてぶつかりそうになる。
店内を一巡する。
栞・便箋と封筒・はがき・ぽち袋や熨斗袋・扇子や団扇・いちばん奥には万年筆コーナーが設置されている。
その前をまわり込むように階段が二階へと人を誘導する。一間ほどの広めの階段は、途中で踊り場があって、その正面には大きなガラスケースがある。見事な硯に筆が展示されている。
さて、二階はお香の売り場だ。
香炉・色紙・文鎮・筆・硯・篆刻用の玉類等々、ずっしりと重々しい歴史がそこには鎮座してる。
一階の華やかさや軽さはない。
女性客の年齢も一気に20年は高くなる。
ここは、見るだけ。
A2出口の階段で嗅いだ香の所在を、彼女は確かめにやってきたのだ。
「凄いものだわ、香が階段の中ほどまで漂ってくるなんて」
彼女の脳裏に、街の匂いの記憶が次々に浮かんでは消えていく。
たとえば御茶ノ水駅から駿河台を抜けて神保町まで、昼時の町の匂いはカレーだ。そこは学生街なのだ。
町の色と町の音と町の匂いが混ざり合った「風の景色」のなかを歩くことが、彼女は好きなのである。
鳩居堂をあとに、四丁目の交差点を渡り京橋方向へ、はじめての信号機を越すと、そこがApple Store,Ginza、お目当ての場所である。
その日は、朝から雨模様だったが、昼過ぎには小降りになった。
彼女は思い切って出かけることにし、雨対応の服装といつもより薄化粧で、めったにつかわないがお気に入りの傘を選んだ。
JRから地下鉄に乗り換え、銀座駅についたのは2時少し前だった。
A2出口を昇りかけてふと足を止めた。
「お香の匂いがするのね」
湿度が高く、空気が皮膚や耳や目や鼻にまとわりつく。
階段を昇りきると、そこは鳩居堂である。
そのとき、グループ展を見る時間をはやめにきりあげて、立ち寄ることを決めた。日本画のグループ展は、2年おきにひらかれている。
ギャラリーは、鳩居堂の隣のビルの6階なのだから。
知人が描いた日本画は、お義理で眺めてそそくさとギャラリーをあとにした。
雨はほとんど止んでいた。一瞬、視線がとらえられた。
中年婦人が三人、連れ立って歩いてくる。そのうちの一人の姿に思わず笑いを堪えた。
「あの人、歩き方の練習をはじめたばっかりみたいだわ」
道路に直線のイメージを描いて、つま先を外側に向けてその線上を歩く姿勢は、テレプシコーラでも読んでいるように見えたからだった。
さすが銀座だ、服装に抜かりはない。
ほんの何秒かの出来事だったが
「アラッ、職業意識が……」
おかしみが胸の中心に小さなハート型を描くのを感じていた。
時節柄ウインドウには、団扇や涼しげな小物が飾られている。
鳩居堂のなかに一歩入ると、女性客で賑わっていてぶつかりそうになる。
店内を一巡する。
栞・便箋と封筒・はがき・ぽち袋や熨斗袋・扇子や団扇・いちばん奥には万年筆コーナーが設置されている。
その前をまわり込むように階段が二階へと人を誘導する。一間ほどの広めの階段は、途中で踊り場があって、その正面には大きなガラスケースがある。見事な硯に筆が展示されている。
さて、二階はお香の売り場だ。
香炉・色紙・文鎮・筆・硯・篆刻用の玉類等々、ずっしりと重々しい歴史がそこには鎮座してる。
一階の華やかさや軽さはない。
女性客の年齢も一気に20年は高くなる。
ここは、見るだけ。
A2出口の階段で嗅いだ香の所在を、彼女は確かめにやってきたのだ。
「凄いものだわ、香が階段の中ほどまで漂ってくるなんて」
彼女の脳裏に、街の匂いの記憶が次々に浮かんでは消えていく。
たとえば御茶ノ水駅から駿河台を抜けて神保町まで、昼時の町の匂いはカレーだ。そこは学生街なのだ。
町の色と町の音と町の匂いが混ざり合った「風の景色」のなかを歩くことが、彼女は好きなのである。
鳩居堂をあとに、四丁目の交差点を渡り京橋方向へ、はじめての信号機を越すと、そこがApple Store,Ginza、お目当ての場所である。