萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

花鳥風月を考える

2007年06月02日 | 散歩

<熊野川の河原>

西行に関連した本を読んでいると「花鳥風月に遊ぶ」「花鳥風月を愛でる」など“花鳥風月”という言葉が歌びとの基本であるかのように随所に出てくる。辞書を引くと
「①自然の美しい風景。(―を友とする)②自然を相手に詩・絵画などをつくる風雅な遊び。風流。」とある。

積極的に公園などを散歩するようになって気がついたのであるが、“自然の美しい風景”に接してまず一番最初に感性を刺激するのは、色とりどりの花であり、それを支える木々の緑である。花は季節毎に次から次へと咲いては散る。

丁度二月中旬頃から散歩し始めたのだが最初は可憐な紅白の梅の花、それからモクレンの白い花、そして桜。その後も、チューリップ、パンジー、黄菖蒲と続き、今、アジサイが花を開き出している。短い間の栄枯盛衰が花にはあり、それがもののあはれを誘う。花に比べれば木々の緑の変化は緩やかである。

花の次に感性を刺激するのが“鳥”である。このブログでも取り上げたが、カイツブリや鴨、ヒヨドリ、写真には納められなかったが、ウグイス、シジュウカラ、ツバメなどの動きやさえずりが感性をくすぐる。興味を持たざるを得ない対象だ。また、鳥の場合はその飛翔による“自由さ”が人間にないものとして、歌びと達の羨望の的になっていたのではないか、と思う。

“花”“鳥”が感性を刺激するのはなんとなく解ったのであるが、なぜ次が“風”なのか。目に見えない風が三番目にあるのが、正直言ってよくわからなかった。確かに風は香りを運び、雲をなびかせ、浪を立てる。春風は花を散らし、秋風は紅葉を散らす。常に自然の中に“動き”をつけるのは風の役目である。しかし、それだけでは自然の中の脇役に過ぎず、主役とはなりえないのではないか、と思っていたのである。

先日の「熊野詣の旅」の途中、自転車を降りて、熊野川の河原に下りてみた。疲れた身体を休めながら、川の流れの行く方向をぼんやり眺めたり、囲まれた山の新緑に感嘆したりしていると、ふゎっとした、なんともいえぬ心地よさを覚えた。強くもなく、弱くもない初夏の風が上流の方から吹いていたのだ。そうか、これが“風”か、と漠然とではあるが体感できた。自然の中で感じる“風”の心地よさを歌びとたちは重要視したのではないか。その風が自然に「動き」を与え、目を楽しませてくれ、それを歌にしたり、絵に表現できた時に“風流”という言葉が生まれたのかもしれない。

上流の山間から一羽の鴨が風に乗って勢いよく熊野川の上空を一直線に飛んでいく。その鴨はまことに気分よさそうに下流の山あいに消えて行った。



“月”。これはむずかしい。現代のように夜も明るい時代ではなかなか感性を刺激する場面に出くわす機会は少ない。真っ暗な闇がないと月の神秘性やありがたさはわからないと思う。また、太陰暦での生活習慣と月との関係は無視できないだろう。

満月の晩に山でも登ってみるか。
コメント
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