みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

真木悠介著「時間の比較社会学」 その7

2012-12-09 06:23:57 | 

第5章 近代社会の時間意識ー(Ⅱ)時間の物象化 は次の3節で構成されています。
 1 内的な合唱と外的な合唱
 2 時計化された生ー時間の物神化
 3 時間のニヒリズムー時間意識の疎外と物象化

近代社会は貨幣システムと時間システムに 現実の生活を依存し、・・客体化された時間が過去へも未来へも延びて、・・現代人の生活の枠組みをなしている・・・

確かに私達の生活そして人生は、この通りですね。

貨幣システムにおいては、商品価値が再生産にとっての<社会的必要労働時間>という抽象化された時間の尺度へ還元されていることを踏まえた上で、著者は語り続けます。

そもそも資本はその本性上時間との闘いである。・・そしてこの資本の論理が、この「奴隷」たちのさらに支配下にある労働者とその予備軍、およびその家族たちの生活時間の、すべてに浸透してゆく・・・

 ・・・抽象化され、それゆえに無限化された時間の意識は、翻ってまた、我々の生の時間を、無限に短いものとして感受させる。

ここで著者は再び、あの敬虔なパスカルの恐怖を引用します。すなわち「この世の生の時間は一瞬に過ぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ・・・」、それは、幾何学の精神」の抽象する時間の意識と、「繊細の精神」の実存する自我の意識との矛盾である、と。

・・・ひとつの共同態とそれを取り巻く自然の固有性に対する「(執着、すなわちプルーストのいう)深い信仰」からの解放ということが、・・実は執着の個我自身への凝集に他ならない・・・

無限の中で個我へ凝集した意識が立ち竦む現在~私自身の心の風景が見えてくるような感じがします。

抽象的に無限化する時間意識と自我の絶対性との矛盾ー<死の恐怖>と<生の虚無>とは、近代理性のこの矛盾の表現に他ならない。

本書の頁の大半を使って<生の虚無>の由来を圧倒的な論法で語ってきた著者が、その始点と終点で<死の恐怖>を持ち出し、<生の虚無>と同列に言及していることに、私は共感と違和感が相半ばしています。

・・・我々の人生が、完結して充足しうる構造を喪い・・無限性にかつ(餓)える有限性としての実存の非条理の直視ということだけが、一切の自己欺瞞を斥ける近代的自我の最後の到達点となる。

では<時間のニヒリズム>は必然なのか? 著者は反証を仄めかして、本章を結んでいます。