僕は風邪を・・・

2010-05-14 11:02:44 | Weblog

・・・また風邪を引いてしまった。

これで人生において何回目の風邪だろうか?


たかが風邪、とはいえけっこう苦しい。

ウイルスが俺に入り込んで、機能障害を起こさせている。


ウイルスって自己増殖を行う以外は、

生体としての特徴をもたず、まるで増殖する微小な機械のごとき

存在なのだそうだ。へぇ。

生物なのか非・生物なのかっていう定義もあいまいなんだって。


俺は多分、過去千回以上(もっとかも)風邪引いてると思うけど、

その千種類、全部違うタイプのウイルスなのね。


そういえば、英語に「風邪」に相当する単語がないって本当かな。

SICK IN BED?

「風邪」って本当によく出来た言葉だよね。

「風」の中に潜む「邪」って、

空気感染(飛沫感染?)するウイルスのことを

示唆しているとしか思えないし。

昔の人はえらいなぁ。



ところで

(作詞家の)松本隆の歌詞って嫌いなのが多いんだけど

「はっぴえんど」の

”僕はきっと風邪をひいてるんです”(「空いろのくれよん」)

っていうフレーズは 例外的に好きだな。



よるれい~よろれいひぃ~よろれいぃ~♪





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生はレコードのように

2010-05-13 15:06:36 | Weblog




人生というのは実は、同じことの繰り返しなのではないか。


俺は死んだら次の瞬間に俺としてまた産まれる、

1966年の9月4日の新宿の区立病院で。

そしてまったく同じ経験をひとつひとつ繰り返すのだ。

そして何十年か経ってまた死が訪れて

次の瞬間にまた66年に戻って産まれ・・。


よく言う輪廻転生みたいに

他人に生まれ変わったりはせずに、

俺は俺のままで。君は君のままで。

「それ以前」も、「それ以後」もなく、

ただ繰り返すだけ。何度でも。


これは昔からよく思っていた、

全く何の根拠もない俺のモーソーなのだけど。

最近読んだ本で、ニーチェという人も

同じような事を考えていたらしいことを知った。


世界はそんな風に、

必然という糸でがちがちに縛られている

・・・・のかも知れないんだぜ。



もしそうだとしたら、

人生はレコードだ。

人生は映画だ。

いや、それどころか

人生はオルゴールそのものじゃないか。


永久エンジンのついた、巨大なオルゴール。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄昏時についての歌を

2010-05-12 09:36:58 | Weblog


季節は春・・・・・を駆け足で抜けて、まるで飛行機のように

初夏の街へと墜落した。


誰が何と言おうと 俺は眠りっぱなしだったし、

恐らくはこれからもそうなのだ。


深い倦怠感は停滞気味の脳下垂体のあたりでいつまでも、

夜の訪れを待っている。


でも本当のことを言えば、

俺は夕方ってのが一番好きなんだ。


日の暮れるちょっと前、

周防町の入り口にあった古めかしい喫茶店の二階で

君と二人でぬるいビールをちびちびと飲んでた時のことを

今でも思い出す。


「夕方」には素敵な別名があってさ、

「カクテル・アワー」ってのもかなりいいけど、

「魔ヶ刻」ってのも相当いいだろ?

「黄昏時」って言ったりもするよね。


昼を夜が侵食して行き、

光と闇のせめぎあいは

やがて どこかで一線を越える。


それはもう、二度と戻って来ないし、

俺だってそればかりを願っているわけではない。



そんな風にぼんやりと考え事をしてる間に、

俺はまた眠ってしまうのだ。





そういえば

黄昏時についての歌を

作ったことがあったよね。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不思議なのは

2010-05-10 10:08:09 | Weblog


不思議なのは心の動きである。


本当に、あまり考えずに自然にやっているのだが。

俺が心を開いて・・・表現に向かった時に

出てくるものはいつも、

"痛み”に近いものなのだ。


ツワモノのミュージシャンが二人、

俺と手を組んでくれたおかげで

俺は”表現力”という巨大なエンジンを手に入れた。

それで現出した世界は

”手ひどい痛み”とでも言う他ないものだった。


でも思うのは、

”生きる悲しみ”は”生きる喜び”なので、

”手ひどい痛み”は一種、暴力的なほどの

”生きてるって感じ”なのだ。



どこまで行っても逆説的だが、

それでいいのだ。


昨夜のライヴ、

来てくれたひと、共演バンドのみなさん、

ハードレインのスタッフも。

どうもありがとう。

5組も出演するの???と思ってたのだけれど、

全バンドよかったと思う。

みんな表現欲求も濃かったし、楽器も上手い!

本当に、関西のライヴハウスって素晴らしいよな。

(外すときも、そりゃあるけどさ。)

ライヴハウス文化、みたいなのが厳然とあると思うし

その充実度、というか成熟度がすごくいいと思う。


それぞれがそれぞれに好き勝手に、

歌いたい歌を作って、楽器鳴らして、

大声でわめき散らし合ってるのってすごく素敵だ。





いつもながらの

”あてずっぽの神様”に感謝。



本当にどうもありがとう。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自由」・・・明日の夜は「ロカ」が梅田ハードレインに登場する。

2010-05-08 20:43:03 | Weblog



「自由に生きる」ってどういうことだろう?と考える。


好きなことしかしない・・・嫌なことは一切やらない?

仕事もしないの?

そうすると収入がなくなって・・・・・・・・

ホームレスの人々が「自由に生きる」って生き方の、

なれの果てなのか?

いや、きっと違う。違うよな?


”好きなことをやって成功”すれば、

「自由な生き方」が出来る(かもしれない)から、

みんながそれを目指してるのかな?


でも前に読んだインタヴューでミック・ジャガーが、

「来年の今日、何処で何をやることになってるか・・ってことも

決まってるんだよ」って言ってたのを思い出す。

日々のスケジュールが一年以上先まで、全部決まっているのだそうだ。

・・・まぁ、好きでやっているのだろうけど、

それって、「自由」って感じがしないなぁ。

「成功」したらしたで、「成功」を維持するために

必死にならざるを得ないみたいだし(知らんけどさ)。

それって「自由」か?


でも例えば封建時代みたいにきっちりとした「身分制度」があって、

自分の仕事すら自分で選べないような状況が、

かつて本当にあった・・・というようなことを考えると、

現在の俺ですら、”ものすごく自由だ”と言うことが出来る。


好きなところに住むことが出来るし、

「何でも」ってわけにはいかないけど、

仕事だって選ぶことが出来る。


俺はとにかく・・・・・・・・

バンドが出来ればそれでオッケイだ。

何処に住んだって大して変わりはない。

関西を離れるつもりはないけど。


「スタジオ」と「ライヴハウスのステージ」と、

「酒のある場所」が自由なら、それでいいよ。

(・・・あと、本屋も。)

そのことで最低でも、

俺は自分が「自由に生きている」と思える。


やりたいことだけをやって生きていくことは出来ないけど、

やりたいことを手離さずに生きていきたい。


そして、明日はライヴだ。

俺としんちゃんとあきらくんでやってる、「ロカ」。

梅田・ハードレインに登場する。

俺達の出番は、5バンド中・・4番目。






俺はまたきっと、粉々になります。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カテゴライズ

2010-05-07 18:37:52 | Weblog

俺はヘビメタではない。

言っておくけど、オタクでもない。

ヤンキーなんかではもちろん、ない。

って言うか不良ですらない。


そして俺はヒッピーではない。

フォーク野郎でもない。

ヒップホップなんかじゃない。

プログレも冗談じゃないし、

ロカビリーもちょっと違う、

サイコビリーにしてもそうだ。

ニューウエーヴなんて知りもしない。

ポストロックって一体何なんだよ。


あ、ビートニクでもないぜ。



勝利者でもないけど、敗残兵でもない。

だからって全てに、絶望したつもりもない。




俺はただ 街の中で、・・・


君の事や、君の微笑みや、

君の言った言葉とか、素敵だったメロディとか、

消えてしまった夜とか。


そんなことを思い出しながら、

淡々と生きていくだけなのだ。










他に何が出来る?





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カラフル

2010-05-05 21:29:44 | Weblog





人生はカラフルに過ぎてゆく。

あれから膨大な時間が経過したはずなのに、

僕がまだ何気ない顔をして、生きていることは不思議。


誰もが忘れてしまっても・・・

逆に、

僕が誰も彼もみんなを全員、忘れてしまっても。

そんな事とは何の関係もなく、

僕はまた一人で電車に乗るのだ。


親しい人の数は年々、減って行き、

だんだんと心を開くのが億劫になってきたような気がする。

頑なに、偏屈に、

世間に向けて斜めに構えたままで

僕はただ、

日々が悲しみを培養するのを見ている。


永遠に続く倍音は 鏡の中に吸い込まれてゆき、

僕にそっくりな僕の影が

生きるという行為のあさましさに絶望的な溜息をつく。


”恥ずかしげもなく生きる”のはみっともないぜ、

って

誰かが言った。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女は存在、男は現象

2010-05-04 09:26:36 | Weblog


「生命の意味論」という本を読んでいた。

生物学者のひとが書いた、ちょっと学術寄りの本で、

はっきり言って難しかった・・・・・。

三分の二以上ちんぷんかんぷん(笑)だったのだが、

とても興味深かった。


いろいろと面白かったのだがその中でも・・・


”女は「存在」で、男は「現象」にすぎない”というのがあって。


以下引用。

「人体が発生していく途上で、何事もなければ

人間はすべて女になってしまう。ある時点で、

貧弱なY染色体が、たったひとつのtdfという遺伝子を

働かせることによって、無理矢理男の方に軌道修正をして

男という体を作り出す。」

中略

「人間の自然体というのは、したがって女であると言える。

男は女を加工することによって、ようやくのことに作り出された

作品である。」

中略

「私には、女は”存在”だが、男は”現象”に過ぎない

ように思われる。」

多田富雄著「生命の意味論」新潮社

引用終わり


男って「不自然」なのか。

やたらに「男なら」とか「男はつらいよ」とか

言いたがるのはそれでかな。


でもそう言われれば・・・

確かにそんな気はする。


男より女性のほうがはるかに

自然に生きているように見えるのだが。


そうでもないのかな。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶望を測るものさし

2010-05-03 09:39:13 | Weblog


"ひとの絶望の深さを測るものさし”

などといったものは、存在しない。


だけど実際には

”深い絶望”と、

”そう深くない絶望”

があるように思える。


「絶望を知らない人間に希望が歌えるわけがない」

と言ったのは渋谷陽一だ。

だけど、本当に深い絶望は

”明けない夜のようなもの”なので、

希望など

歌う気もしないようなものでも、あるのだ。


挫折や絶望を知らない人間は往々にして、

わがままで、自己中心的だ。


”幸福な少年(少女)時代”といったものが

彼ら(彼女ら)をスポイルしてしまった結果、

そんな嫌な人間が出来上がるのなら、

人間にとって「幸せ」って一体、


どんな意味を持つんだろうね?




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする