
今年の八月に買った、発売されたばかりの、
サリンジャーの新訳本のこと、内容についてはまだ、書いてなかったよな。
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」
全体として良かったんだけど・・・・・。
翻訳の内容について、二、三、引っかかるところがある。
まずタイトルだが(「このサンドイッチ・・・」の方ね)
原題は THIS SANDWICH HAS NO MAYONNAISE なのだ。
旧訳では「マヨネーズ抜きのサンドイッチ」だったはず。
思うに、「マヨネーズ忘れてる」、というのはあくまで翻訳者の推測だ。
サンド製作者が意図的にマヨネーズ塗らなかったのかもしれないし。
そういう意味で、旧訳の方が正確ではないだろうか。いや、「この」っていう言葉は原文にあるから・・・・・
新旧ミックスして「このサンドイッチはマヨネーズ抜きである」ってのはどうか?
「我輩は猫である」的ニュアンスも加味されてるのだが。名前は未だ、無い。
・・・・・・・・・・・・とか言って嘘。却下。
もうひとつ、タイトルについて。
この短編集(サリンジャーは基本的に短編作家だった)に収録されている、「ぼくはちょっとおかしい」という作品。
「ライ麦畑」の中の一つのエピソード、みたいな短編。
これは旧訳では確かタイトルは、「きちがいのぼく」だった。
原題は「I'M CRAZY」だ。
「きちがいのぼく」の方が切実で、ちょっと怖い。
作中のホールデン少年の心情には、旧訳タイトルのほうが寄り添っている気がする。
思うんだけどこの作品が書かれた1950年代のアメリカでは「CRAZY」って言葉、
現代よりも「キツく」使われたのではないだろうか?これは僕(片山道郎)の推測なのだけれど。
それこそ「きちがい」に近い感じで。
でも現代ではけっこうラフに日常的に使われてるので、言葉のキツさが磨耗してしまったのではないだろうか。
現代の感覚なら「ぼくはちょっとおかしい」くらいの感じかもしれない。
だから・・・これも旧訳タイトルのほうがいいと思う。
「ぼくはちょっとおかしい」ってなかなかカジュアルでお洒落なのだけど。
そういえばサリンジャー(特に「ライ麦畑」)を「お洒落アイテム」に使うような風潮が昔、あったなあ。
でも中身の翻訳の文章に関しては、全体的に「良い」という感想を持った。
読みやすいし、ソリッドな感じがする。
ただ「ハプワース」において・・・ひとつ、これは駄目だ、という部分があった。
原文では、シーモア少年は、父と母に「レス」「ベッシー」と、ファーストネームで語りかけているのだが
新訳ではこれを「父さん」「母さん」に変えてあるのだ。
7歳の子供が、父親と母親に、手紙においてファーストネームで語りかける、というのは確かに、
訳者があとがき で書いてるように「英語でも日本語でもありえない」(←あとがきから引用)
かもしれないが、
この「ありえなさ」こそがシーモア・グラースなのだ、ということを訳者はわかってない。
逆に僕なんかは、シーモアが「父さん」とか「母さん」とかいう言葉を
手紙で使ってることに違和感を覚えた。
旧訳を何度も読んだ、という経験のせいかも知れないのだけれど。
そう、シーモアが「父さん」「母さん」と呼びかけるのは、絶対にあり得ない。
うれしい。
それだけお伝えしたくてコメントさせていただきました。
どうもありがとう。
「ハプワース」はみなが言うほど、難解な作品ではないですよね。
これに、同感な人って、けっこういる・・・と思うんですが。
「ハプワース」は、難解ではないけれど、共感しやすい作品ではないと思いますが、どうでしょう。
シーモア好き、もしくはグラス家好きなら、共感できるんですが(僕は、そうです)。
あ、でも、みんなそうなのかな?