転機、転機、転機。

2020-09-09 21:14:17 | Weblog

今日、トラックで東海地方のCBCラジオを聞いていたら、

「今日で東海豪雨から20年です」と言っていた。

 

20年か・・・・・・・って俺、申し訳ないけどその東海豪雨って知らなかったんだけど、

その頃って何してたんだっけ俺?

20年前・・・2000年だ。

 

1999年12月のファンダンゴでのワンマンライヴを最後に「ばるぼら」が動かなくなって、

その次の年。

 

「ばるぼら」をもう演る気がないのだから、と長居を出て、天王寺の隣の美章園に引っ越した年。

もうハードな演奏旅行とか長期のレコーディングとかもしなくていいのだから、

喰っていくための仕事も、のんびり、しかも長くやれる職種を探そう・・・とか思い始めて、

実際そうし始めてた時。

 

今考えたらこれって、大きな「転機」だったのだ。

完全にバンド中心の生活、から離れようとしていた。「もうやり切った」という思いも、あった。

 

音楽も、自分で歌うための、自分の楽曲を意識して作り始めていた。

自分がヴォーカル/ギターのバンドを作ろうと、メンバーのあたりをつけていた。

 

 

そして、考えてみたらその前の「転機」は、その、8年前だった。

 

「ランブルフィッシュ」が解散したのが1992年だったのだ。

 

高校時代の仲間と組んだバンド「ランブルフィッシュ」を、存分にやるために大阪へ来たのは1985年だった。

 

1986年の夏には佐治と二人で行った合宿免許の旅で「横浜サーベルタイガー」の奴らと知り合って

刺激を受けて、俺はデザイン学校をやめて、バンド中心の生活をするために、

アメリカ村の古着屋店員時代に入る。これも「転機」。

 

その年、我々は二十歳になった。

 

その2年後の1988年6月・・・・「ランブルフィッシュ」の創立メンバーでベーシストで大好きな友達だった

岩佐亘(イワサトオル)が交通事故で急死。

あってはいけないことだった。本当に酷い事件だった。このことで、世界のすべてが変わってしまった。

 

 

 

 

同じ年の11月、ズタボロで捨て鉢のランブルフィッシュは、

まだ出来て一年だった新しいライヴハウス、十三ファンダンゴに初出演する。

そして多くの観客に受け入れられ始める。どう考えてもこれも「転機」だ。

 

そうだ、もうひとつあった。

 

ランブルフィッシュ解散後の1993年、

俺はバイクで単独の事故を起こして瀕死の状態になってしまった。

「今夜がヤマです」と、遠くF市から親兄弟まで呼ばれたのだ。

幸運なことに、その後、後遺症もなく復活することが出来たのだが、実際、大きな出来事では、あった。

 

あの「転機」のおかげで、「ばるぼら」結成への流れができたのだ、あとで考えれば。

 

 

転機、転機、転機。

 

運命が我々を・・・いやこの場合は「俺」を、手のひらで転がすように翻弄する。

 

2007年にランブルフィッシュのヴォーカル、佐治朝吉が逝ってしまったことも、

 

今考えたら「転機」だった。

 

あのことで、我々の周りの多くのことが変わってしまったのだ。

 

俺自身は、もう大阪にいる意味がなくなった・・・・とおもって翌年、京都へ引っ越した。

 

そして新しいバンドを始めた。それが今の「ROCA’66」だ。

 

「ROCA’66」の現状に至るまでも様々な「転機」の連続だった。

 

そのことはまた、いつか書くね。

 

とりあえず近々ではラジオ「HOTEL ROCK’N ROLL」への出演が、

 

あとで考えたら、「あれが転機だったなぁ・・・・・」ということになるかもしれない、

 

と少しだけ思っている。

 

この「コロナ禍」も もちろん、世間の多くの人にとっては「転機」になることだろう。

 

俺にとっても・・・そうなのかな?

 

 

まあいいや、

 

 

とりあえずは

 

明日くらいからそろそろ、少しくらい涼しくなりそうだね。

 

 

 

待望の「初秋」が訪れてくれたら・・・・・・・・・・・・

 

 

それ以上嬉しいことって、ないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

写真は、NYのCBGB。

 

 

1998年に、「ばるぼら」で ここに出演できたことも「転機」だったかもしれない、と今は思う。

 


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