イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

ワカメ採り1回目と焚き火の練習3回目

2022年02月28日 | Weblog
今日はいよいよ春になったというような穏やかな天気だ。しかし、午後一で病院に行かねばならないし、加太はあまり釣れていないらしい。加太は1年で一番厳しい季節に入っていくようだ。新兵器の仕掛けを試したいと思っていたのだが、これでは新兵器が釣れないのか条件が悪いのかの判定ができない。しかし、物事は解釈のしようでどうにでもなるので、この悪条件で魚を釣り上げることができればこの仕掛けは超電磁砲並みの破壊力を持っていることになる。うん、次回、加太に行くときには絶対に試してみよう。



といいなが、3月はワカメの季節だ。天気のいい日は基本的にワカメを採りに行くから新兵器の試用は少し先になりそうだ。

2週間前はまだまだ小さすぎるというような状態だったので今日もまだ様子見という気持ちだ。それに加えて明日は雨の予報になっている。少量だけ採ってきてこれも新しい方法として考えた翌日が雨でもワカメを干せる方法というのを試してみようと思っている。


今日の干潮時刻は午前11時08分。朝ゆっくり起きたとしてもかなり時間がある。そして今日は渡船屋の休業日。これはもう、焚き火の練習をするしかない。確実に火を熾せるようになるまでにはまだまだ練習が必要だ。
今日の課題は火打ち石を使って火を熾すこと。



いよいよレベルが高くなってきた。前回の焚き火の練習で作ったチャ―クロスに火種を点けて育てていくというものだ。実際に火を着けるときは時間との闘いであるのと両手がふさがっているので写真を撮れないのでイメージだけだが画像にするとこんな感じである。



前回同様、港の近くの保育園の前でススキの仲間の枯れ穂を切ってきてその他の枯葉と混ぜ合わせて火床を作りスタート。



チャ―クロスには意外と簡単に火種が点る。さっそく火床に置いて息を吹きかけるが煙は出るものの火が着かない。そのうちに火種は小さくなり一度断念。再度チャ―クロスに火種を点けてトライすると今度は勢いよく燃え始めた。朝が早かったので火床に使った材料が朝露で少し湿っていたのかもしれない。
火皿に置いて小枝をくべ始めると火が大きくなってきた。



今日も成功だ。そして火は暖かい。今日は穏やかで温かい1日であったが、やはり朝はまだまだ寒かった。普段着で来ているので汚すと奥さんに叱られるから防寒着の上下を着ての作業だったが、途中で落とした薪を拾いに火のそばを離れると一気に寒さが押し寄せてくる。焚き火は偉大だ。
それに、焚き火の煙には殺菌効果があるのでこれを適当に吸っておけばきっと対ウイルス効果もあるに違いないと思っている。スモークした食材が腐りにくいのがなによりの証拠だ。などとこんなデマを書いても僕のブログなんて読んでいる人は限りなく少ないから変に拡散することもないだろう。

次回からはいよいよ調理実習に入っていこうと思っている。そのために、調理器具を入れる木箱を作らねばならない。今日はその材料も買いに出かけた。3月は荒れる日が多いので1日くらいは製作に当てられる日があるだろう。

午前9時を過ぎてきて少し潮位が下がったのでワカメ採りに出発。



まずは安全策として生育が早い大島の北側に入ってみた。



海面から底の方を覗くと、ワカメの茎の白い部分がはっきり見える。かなり大きくなってきているのだ。さっそくカネを突っ込んでグリグリやると大きなワカメが上がってきた。たった2週間で3倍以上の大きさになっている。
ところどころに見えるワカメらしき部分にカネを突っ込みながら順調に採り続ける。今日はたくさん採るつもりがないので場所を変え、一番いいワカメが採れる場所だと勝手に思い込んでいるポイントに移動。



ここも順調に育っている。大島の北側よりも少し小さいので品質としてはやはりこっちのほうがよさそうだ。
叔父さんの家に持っていく分を引いてもこれだけあれば今日の試し干しに使えるだろうという量を採って今日は終了。



家に持って帰って干してみると物干し竿に1本半。



夕方まで干してから縁側に移して平面で干してみようというのが今日の試し干しだ。この時点である程度水分が抜けていればワカメ同士がくっつかない。ただ、夜になって気温が下がるとどうしても再び湿気てくる。それを克服できるかというのが今回の課題だ。去年もザルに置きながら干してみたが、これは2日ほど外で干した後だったのでそれを早めても大丈夫かというところなのである。



乗り換え待ちの駅の地下の100均で見つけた季節外れのすだれを利用してみたがあまりたくさんは干せないことがわかった。普通ならこれの倍以上の量を採ってくるのですだれも縁側の面積も足りない・・。やはり普通の民家でこういうことをやるのには限界がありそうだ・・。
とりあえず干しあがりを見て今後の展開を考えよう。

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加太沖釣行

2022年02月25日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:長潮 6:19干潮
潮流:6:27転流 9:09 下り1.2ノット最強 12:05転流
釣果:サバ3匹 マアジ11匹

ここ3回は週一ペースで釣りに出ることができている。しかし、燃料代がどんどん上がってきている。記録に残している過去の価格を調べてみると2000円を超えたのはかつて一度しかなかった。



ロシアのウクライナ侵攻が進めばもっと価格が上がってゆくかもしれない。戦争が始まるのは民族、宗教、資源、領土が原因となるそうだが、今回はイデオロギーが原因のようだ。ウクライナがNATOに加盟したら西側諸国がロシアに攻め込んでくるというのだが、素人考えでは、ロシアみたいなあんな寒い国を攻めようなんて誰も思わないのじゃないかと思うのだがどうだろう。
それよりも、独裁者が自分の立場が危うくなってきたとき、「外から敵が攻めてくる、俺が立ち向かわなかったらみんな死ぬぞ。」と自国民を脅す目的のための茶番劇のように思ってしまう。そんなことに巻き込まれる現地の人たちはあまりにも不幸だ。
もしくは、異国の言葉を話す人間を不安の対象としてしまい、滅ぼさずにはいられないという人間の本能のゆえだろうか。
そしてそれに振り回されるアジアの片隅の貧乏人も不幸を被るのである。次の給油のときにはいくらになっているのだろう・・。

そんなことを考えながら午前5時過ぎに家を出た。今日は日の出前に出港の予定だ。
しかし、思いのほか寒い。今日は最高気温が10℃を超えるという予報だったように思ったがこんなに寒くて本当に10℃を超えるのだろうかと思うほどだ。しもやけの患部が破れて皮がめくれてきたので確かに春が近いと思っていたがまったく違った。



風があって体感気温が低いというのではなく、本当に気温が低い感じだ。防寒着の中に浸み込んでくる寒さと表現してもその冷たさは伝わらないだろうか・・。確かに今朝の最低気温はマイナス1.1℃だったそうだ。やっぱり寒かったのだ。先週も寒かったがこんなに寒くは感じなかった。先週の最低気温はそういえば先週は出港が午前8時を回っていた。この寒さは、その時間差と氷点下か氷点下ではないかという違いなのだろう。

しかし、風はない。海面はまったく穏やかだ。



こんな天気で釣りをするのは久しぶりではないだろうか。
今日のプランは、潮流が最強を迎えるまでアジサバを狙ってその後真鯛を狙ってみようと考えていた。
加太へ到着した時刻は潮止まりなので大和堆ポイントで様子を見ることにした。



寒さのせいか、もともと潮の動きが悪い日だからだろうか、船は少ない。船は小山から離れて少し東側に集まっている。僕もそのそばから仕掛けを降ろし始める。
さて、期待に反し、アタリはない。魚探にも反応がない。2艘ほどは漁船も混ざっているので釣れないというわけではないのであろうがやっぱりアタリはない。少しずつ小山の方に移動しながら様子を探っているとやっとアタリが出た。けっこう大きい。上がってきたのは50センチはあろうかというサバだ。やっぱり魚はいる。少しやる気が出てきた。しかし、そんなに世の中あまくはない。その後はまったくアタリがない。横を流している漁船のおいやんもアタリがないらしく、僕に向かって手を横に振っている。



漁師のおいやんの周回遅れでやっと魚を釣るというのが僕の実力なのだからこれは期待薄だ。しかし、潮流の最強時刻まではまだ時間がある。ここである程度の魚を確保しておかねば真鯛狙いに切り替えることができない。前に読んだ本に、マアジではないけれどもシマアジは障害物にぴったりくっ付いて生活をするという言葉があったことを思いだし、小山の直上へ移動。そして確かにアタリがあった。だが、食いの悪い日は鉤掛かりも悪く途中でバレてしまった。パターンはこれかと思い小山の頂上に狙いを定めたが根掛かりを起こしてしまった。ピンポイントで根を狙うとこうなってしまう。
ここを見切り、第2大和堆ポイントへ。ここにも船が2隻浮かんでいるが魚を救い上げている様子はない。少しばかり試して時間は早いがコイヅキへ移動。



目が悪いので遠くからでは船が集まっていることに気がつかなかったが、けっこうな数の船が集まっている。北に向かって落ち込んでいる斜面の水深50メートルほどの所からスタート。アタリはすぐにあった。しかしこれはすぐにバラしてしまった。
どうもこっちの方がアタリは多そうだ。
おいやんたちが大和堆ポイントから動こうとしないので待てば釣れると思いながら我慢していたが、この時間ですでにコイヅキでは釣れていたはずである。大ベテランのはずなので当然そこに行けば釣れるのはわかっていたと思うのだが、この人たちの本拠地は西脇の漁港なので帝国軍に遠慮しているのだろうか。なんとも義理堅いというか、律儀というか、それほどまでに帝国軍のフォースは恐ろしいということなのかもしれない。

その後はしばし入れ食い状態が続き、1時間余りで今日のほぼすべての魚を釣り上げた。
しかし、このポイントの潮流は複雑極まりない。今日は本当に潮の流れのない日だったけれども、場所によると底から潮が吹き上がってくるような場所があり、そんなところに入ってしまうとその流れに仕掛けが吸い込まれてしまうのか、底がまったくわからなくなりそのままにしていると根掛かりを起こしてしまう。そんな状態で仕掛けを1本ロストし、そんな場所ではなくても急なかけ上がりに対応できずにまた仕掛けをロスト。3本目の仕掛けを失くしたところで僕の闘争心も失われてしまった。
結局、真鯛狙いの高仕掛けを出すこともなく午前10時半に終了。

思いのほか寒かったせいだろうか、それとも思い描いた釣りができなかったからだろうか、それともワクチン接種をしたせいだろうか、帰り支度のために荷物をバイクのそばに持って行くと体を動かすのが辛くなるほどぐったりしてしまった。なんとかすべての作業を終えて帰途についたが、とにかく疲れた半日になった。

今日のマアジは1匹を残して全部干物に加工してみた。サイズが小さいし、前回作ったとき、どうも塩加減が薄かったのでどれくらいの濃さがいいのだろうかと試してみたかったのだ。今回は5%のたて塩に漬け込んでみた。
さて、お味はどんなものだろうか・・。


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「そこにある山 結婚と冒険について」読了

2022年02月24日 | 2022読書
角幡唯介 「そこにある山 結婚と冒険について」読了

著者は有名な冒険家であるが、よく質問される内容に、「「どうして冒険しているのですか?」というものがあったという。それが結婚してから「なぜ結婚したのですか?」というものに変わってきたという。
そこから著者は、関係、行為、事態という三つの工程が、人間が生きてゆくうえでの本質になるのではないかということに気付く。その理由を考察したのがこの本である。

まず、本題には関係があるようでなさそうな、「冒険家が結婚をする」、「冒険者が結婚して家庭を築く」ということには違和感を感じるというのは本人も思っているようだ。そこでまず、冒険とは何かということから考察を始めてられてゆく。
その質問にはこう答えていたという。『冒険で死を取り込むことで逆に生の手応えを得ることができるんです。』この感想は、「空白の5マイル」での体験からだったということであるが、『それは端的に言えば、自然と触れあうしかない。自然というのは生と死を生み出す母なる基盤である。生きとし生けるものはすべて自然から生まれ、産み出され、やがて死して大地に立ちもどり、そして分解されてふたたび自然の中に吸収される。自然とは生命の根源的な源泉であり、生命を生命として脈動させ、宇宙そのものを成り立たせている力および動因そのものだといえる。』のだそうだ。ようは、そこには生きるという意味のすべてが内在しているのだということだ。
冒険は男がするものであるという解釈が一般的だ。それはなぜかというと、女性は妊娠して出産するからだという。『妊娠、出産とは自分と異なる別の生命体を、自分の腹の中に抱え込んで融合し、最後に産出する営みであり、実に無茶苦茶な生命現象だといえる。自分と異なるということは、おのれの意のままにならぬ、ということであり、その意のままにならぬ自然を、女は自分の身体にまるごと押しこめてしまう。』わけだからわざわざ自然の中に赴き生の手ごたえを感じる必要はないのだという。
なるほど、これは言い得て妙である。
また、冒険と女生との関係を、ポール ツヴァイクの著作、「冒険の文学」の中の言葉を紹介し、『冒険をもとめる男性原理の本質はずばり女性からの逃亡であると』書いている。
女という性が象徴するのは、っ外にむかおうとする男を囲いの内側に取り込み、おのれの支配下において管理しようとする魔力であるというのだ。なんとなくわかるような気がする。
そして、結婚というものについては、『結婚には、言葉で説明できるような論理や理屈を超えた何かがある。この人と結婚したら経済的に裕福になれるとか、おいしいご飯を食べられるからなどといった、表面的な説明を超えた何か別の要因に突き動かされている。』ものだと考えている。ここに、「なぜ結婚したのですか?」という質問に的確に答えられない理由が存在する。その理由がこの本の主題にもつながっていくのである。

ここからが本題に入ってゆくのだが、男が冒険をする、もしくは結婚をすることに至る過程には、「関係」「事態」というふたつの言葉が関係しているという。「冒険をする。」「結婚をする。」そのほか、「OOをする。」という行為の中には、能動的な意味が含まれると考えるのが一般的だ。冒険をしたいから冒険をする。この人が好きになったから結婚する。しかし、著者は、実は、そこには能動的な意志というものは介在していないのではないかと考える。
では、「冒険をすることになった」「結婚をすることになった」要因は何か。それを「関係」という言葉に求める。
人はひとりで生きているのではなく、様々な外部の何かと「関係」を持ちながら生きている。その中で「事態」として形作られるのが冒険であり、結婚であるというのである。
そしてそれを繋ぐのが「行為」である。この、「行為」というものが重要になってくる。
著者は空白の5マイルの冒険の後、北極圏への旅へと向かうが、衛星電話やGPSなどの装備を持ち込む。しかし、そこに違和感を感じる。『テクノロジーは〈結果〉をもたらすものなので社会生産性は高めるのだが、〈過程〉ははぶくため個人の知覚、能力、世界は貧層にするという構造的な欠陥を持っている。GPSという名のテクノロジーが介在したせいで、志向性はうしなわれ、関りが遮断され、結果、世界疎外においこまれた。』というのだが、そこから得た感覚が、「関係」というものなのである。「行為」を介して直接何かと触れることによって新たな「事態」が生まれるという連鎖が今の自分を形作っているのではないかと考えたのである。「事態」を招くためには必ず「行為」が必要なのである。
ハイデッカーは、人間とは、〈世界・内・存在〉であると定義したそうだ。『私たち人間は、何か世界としか呼びようのない時間と空間のもとで暮らしている。人間だけではない。鳥も蝶も花も、みな、この世の生きとし生けるもの、いや、生きていない机のような無機物でさえ、みな、ほかの人間や生き物や道具やその他もろもろの事物との関係のなかで存在している。』そうした関係の網目を無視しては生きた存在者として見えてこない。
ハイデッカーというと、「世界は輝ける闇である。」というなんとも意味の分からない言葉を語った哲学者だということくらいしか知らなかったけれども、庵野秀明がエヴァンゲリオンで語りたかったことの原点はここにあったのではないかと思わせられる定義である。

なので、そこには自分の意志とは関係のない、別のものの力が働いているのではないかというのである。著者はそれを、「中動態」というものに例えている。これは、主語と動詞の関係の三つ目の分類らしいのいだが、現代の言語ではほぼ使われなくなっているものだ。能動的でも受動的でもなく、何か別の力学、偶然であったり、思いつきであったりする。しかし、それも突然現れるものではなく、それは過去から現在に至るまでの経験の積み重なりがもたらすものなのである。
これにも腑に落ちるものがある。人間の脳のシナプスというものは、昔は年齢を重ねるごとに結合箇所が増えることによって脳内のネットワークが複雑化し様々なことができるようになると考えられてきたそうだが、それは全く逆で、もとからあった複雑なネットワークの中で自分に必要のないものをそぎ落とすことによって得意なもの不得意なものができあがっていくらしい。歌舞伎の俳優の子供が歌舞伎役者になるのは、その世界の中にいることによって歌舞伎の脳内ネットワークが残るので歌舞伎役者にふさわしい人間ができ上るのである。
著者はきっとそれを「事態」と表現しているのだと思った。

そして、著者は、この原理は結婚にも当てはまるのではないかと考察を広げる。男と女が結婚に至る過程にも様々な「関係」が関わり、その「関係」の連鎖が結婚という「事態」に呑み込まれるのであるというのだ。確かに出会いは偶然ではあるが、その出会いの場に居合わせるためにはそこにたどり着くための「関係」が必要なのであるとは納得できる回答だ。
僕の奥さんとは30年近く前に紹介をされて出会うことになったのだが、それは父親が港で出会った知人に言った、「うちの息子にだれかいい人いないかな?」だった。父親が釣り好きで船を所有しているという「事態に」がなければそういった出会いもなかったことになる。父親が釣りが好きというのは祖父が漁師をしていたからで、それもすべて「関係」であったといえる。そしてその息子がまた釣りが好きで釣りを通してたくさんの人たちと知り合うことができたというのもまさに「関係」から出ずる「事態」といってもいいのかもしれない。
ひるがえって、僕の職業を考えると、これはまったく逆で、できるだけそこに「関係」という行為を持ち込まないような生き方をしていたように思う。当然ながらそこには「事態」に呑み込んでもらえることができずに窓際に座っているという結果になる。この本を読んでいると、今のことは必定であったのだと改めて納得した。こういうのを、「男は仕事を間違えると一生不幸になる。」というのであろう。しかし、これも平日に休めるという条件で選んだ職業なら釣り人生に関していえば「関係」になるのであろう。「事態」に呑み込まれなかった結果である。
人生は複雑怪奇だ・・。

著者は最後に、人生の固有度と自由について語っている。こうやって事態に呑み込まれてゆくうちに人生の選択肢は狭まり、自由度という面では不自由になってゆくはずであるが、そうはならなかったという。
僕は魚釣りを選んだおかげでその他諸々のことを犠牲にしてきたことは確かだ。旅行にも行かない、スキーにも行かない、当然スポーツもやらない。そうやっていろいろなものを切り捨てた。かといって魚釣りに膨大なオカネを投入できる身分でもない。でも、意外と好きなことをやっていると思っているし、これで十分じゃないかとも思っている。結婚もそうだ。港で父親があんなことをつぶやかなかったら僕は自分の収入の大半を自分の好きなことに費やせただろう。100均の棚の前で、これを買おうかやめておこうかと悩むことはなかったし、近くのドラグストアで表示価格から3割引きの紙パックのお酒を物色することもなかったのかもしれない。でも、まあ、この人でなかったらこんなことやらせておいてくれないのだろうなとも思っている。ただ、うちの奥さんにしてみては、自分の子供を医学部に入れられるほどの能力を持っているのならこいつみたいなクズと結婚しなくても死ぬまで普通乗用車に乗っていられる身分の男と結婚できたんじゃなかろうかと思っているんじゃないかと思ったりしている。事実、彼女の妹は開業医の奥さんにおさまってハイブリッドのスカイラインに乗ったりしているのだからその格差は半端ではない・・。しかし、著者はそんなことはないというのである。
外的に不自由と思われていても、自律的、内面的には独自の経験に濃密な手ごたえを感じることで得られること、独自のモラルで人生を見ることが出来るようなったことで得られる自由が真の自由であるという。これも連綿と続いてきた「関係」の結果であるというのだ。僕の奥さんもそう思っていてくれることを願うばかりだ。

著者は僕よりも12歳も若い。40代半ばにしてこれだけのことを悟れるというのだから、もう、負けたとしか言えない。そして僕はこの歳になってそれをやっと知るというのではかなり遅すぎるのである。その違いは何か?それもこの「関係」と「事態」という言葉に隠れているのだと思う。
すなわち、様々な関係を素直に受け止め、その流れてゆく先々で新たなことを受け入れてきたことの結果が会社に縛られず、自由に、すなわち、自律的な生き方につながったのだろう。そこにはリスクもあるのだろうが、合理的に考えないという心の持ちようもやはり「関係」ということなのだろうか。
どうせ自分には無理だ、そこに踏み込んだら失敗したときに取り返しがつかないと思うと会社にしがみついておく方が危なくない。かといって、会社からも距離を置き「関係」を拒むというのはまったく矛盾した生き方だ。幸いであったのは、周りもアホだからリストラされずにここまで来ることができたということだけだったような気がする。

僕も30代でこの本に出会っていれば違う人生を歩めたのだろうか・・。それとも、何度繰り返してもポンコツはポンコツのままだったのであろうか。とりあえず、人生は1回だけだからやり直さなくてもいいというのも幸せなことなのかもしれない・・・。
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焚き火の練習2回目とワクチン接種3回目

2022年02月22日 | Weblog
今日も午後一で病院に行かねばならない。それに今日も強風が吹いている。もとより船は出せない。この寒気がこの冬最後の寒さになるらしい。

なので今日も焚き火の練習をするべく港に向かった。このネタはブログに書くほどのものではないとは思うのだが、今日は2022年2月22日という“2”が連続して続く日ということなのでこの日付を記録に残すために無理やり書くことをひねり出したのである。世間では「スーパー猫の日」と言われているらしい。
次に2が連続するのは、西暦2222年2月22日ということになる。さすがにその頃までは生きていないのでこれが最後だ。西暦2222年というと、宇宙戦艦ヤマトが人類の歴史のなかで初めて光速を突破してから23年後だ。この頃には猫を連れての恒星間飛行というものが普通の旅ということになっているのだろうか・・。そういえば、現実世界では最近やっと飛行機の客席にペットを連れて乗り込めるようになったそうだ。

そんなことはどうでもよく、今日の焚き火練習の課題はふたつ。ひとつはライターを使わずに火を着けるということ、そしてもうひとつは「チャ―クロス」というものを作ることだ。
チャ―クロスもライターを使わずに火を着けるための材料なのだがこれについては後ほど書きたいと思う。

午前11時には家に帰らねばならないため、朝7時過ぎに家を出た。風が強いので寒い。なんですき好んでこの寒さの中、焚き火に行かねばならないのかと思うのだが、生の火というのはこれはこれで魅力的だ。それを、文明の利器を使わずに熾せたとなるとなんだか自分がものすごく自由になれる気がするのでなんとかマスターしたいと思っているのである。
船に燃料を入れておかねばならないのでガソリンスタンドとチャ―クロスを作るための塗料缶を買うためにホームセンターへ寄りながら港へ向かうと雨が降ってきた。あらまあ、これでは薪が湿ってしまうではないかと思ったがこれはすぐに止んでくれた。雨が降っていると給油ができないので先に薪を拾いに防風林の中に入っていく。適当な太さの木を拾ってきて焚き火の準備。
今日、マスターしたいのは、ファイヤースターターというやつだ。マグネシウムの棒に金属をこすりつけて火花を出すというあれだ。
僕のテクニックでそれができるかどうかわからないがヒロシもやっていたのでやっぱりこれはソロキャンパーとしては十分条件になるものだろう。



火をつける材料としてはいろいろあるようだが、これも自然素材を使いたい。これには水軒川の護岸に生えているススキの仲間の枯れた穂に目をつけていた。目の前が保育園なのでおっさんが川に降りてへんなことをしていると通報されかねないけれどもこれは仕方がない。しかし、本当に通報されると、持っているものが鉈であったりノコギリであったり、ポーチにはピックとナイフと双眼鏡では完全に不審者として連行されてしまいそうだ・・。

小枝に加え、薪を細く割り準備完了。
穂を地面に置いてファイヤースターターをこするといとも簡単に火が着いた。燃える速度が速く、風も強いので小枝に火が移る前に消えてしまうのだが、3回目で火が大きくなりはじめた。



これはちょっと感動ものである。人生もうすぐ58年、火を着けるとなるとマッチかライターか、ノブをひねるだけであったが生まれて初めての体験である。
それもいとも簡単に・・。魚の神経締めもそうであったが、こんなのできそうにないと思わずになんでもやってみるべきだということの典型のような気がする。
その他の装備も充実してきた。



これはほぼヒロシの装備をまねているだけだが、確かにこれだけあればどこでも焚き火ができる。斧については1000円で買ったものを研ぎ直し、カバーを母親に作ってもらった、張り切って凝ったものを作ってくれたがもうすぐ87歳。これが遺作にならないことを祈る。



少しずつ火を大きくし、チャ―クロスを作る準備。これも火を熾すための道具だと先に書いたが、これは火打石を使って火を熾すために必要なもののひとつだ。モノは何かというと簡単にいうと炭化した布である。これを少し取って火打石の上に置き、火花の火をチャ―クロスに移し、それを手のひらの上に準備した枯れ草の上に置き息を吹きかけて火を大きくするというおそらく最も原始的な火おこし方法のひとつだと思う。
綿の布を小さく切り、塗料缶の中に詰め込んで焚き火の中に放り込むだけでこれが出来上がるという。無酸素状態で炭素化合物を熱するという、要は炭をつくる工程をここで再現するというものだ。

缶を火にくべると小さく開けた穴から白い煙が勢いよく出始めた。10分ほどでそれもなくなりこれで完成・・?かどうかはよくわからない・・。
缶が冷めたところで蓋を開けてみると、確かに真っ黒になった布ができあがっていた。これは多分完成したということだろう。



火打石も事前にメルカリで調達しておいた。ブッシュクラフトが使う火打金というと、メリケンサックのような形をしたものだが、安く買うとなるとそうはいかない。僕が買ったのは、暴れん坊将軍に出てくるめ組の辰五郎が出入りの前におかみさんに打ってもらうやつなのである。まあ、機能的にはそんなには変わるまい・・。ただ、けっこう大きいサイズのメノウが二つも付いていたのでこれはけっこうお買い得だったのではないかと思っている。



これも試しにやってみると、確かに火花の付いたところからチャークロスがメラメラと燃え始めた。これも楽しそうだ。次は絶対これを使った火熾しに挑戦してみよう。

しかし、こんなことをやり始めると、枯れ草を見ただけで火を着けたくなってくる。これではやっぱり危険人物と思われても仕方がない・・。


午後からは病院へ。今日は消化器外科だ。いつもの人気のない先生のほうなので時間通りに診察が始まりすぐに終了。



夕方からワクチン接種に向かう。かなり混んでいるという話であったがそんなことは全くなく、5分ほどの待ち時間で接種が終了。



世間ではファイザーが品薄でかつモデルナは敬遠されているということであったが、今日はファイザーだった。べつにブランド信仰を持っているわけではないのでどちらでもよかったのであるが、まあ、世間のひとが渇望しているほうを打ってもらったというのはちょっと書いておきたくなるのである。



副反応がどうでるかというのは心配なところではあり、このブログは翌日に書いているのだが、この時点では針を刺されたところが少し傷むのと、のどの渇きがあるくらいで済んでいる。熱が出てきたら本当に休んでやろうと思っていたけれども、表向きには3月に入って摂取することにしておいて、ワカメを取りに行くためのずる休み用に取っておこうと考えている。

僕は最初の接種をフライングして受けたのでかなり早い時点で3回目も接種できたが、世間ではなかなかこれが進まないと言われている。自治体は過去の接種記録を見ながらデータを抽出して3回目の接種券を郵送しているのだろうがそこが人海戦術だとそれは大変だ。
せっかくマイナンバーがあるのだから、それと接種記録を紐づけしておけば難なくやれるのではないかと思うのは素人考えだろうか。政府はマイナンバーカードの普及に躍起になってマイナポイントなどを大盤振る舞いしているけれど、そんなことをしなくても、マイナンバーカードを持っているひとは素早くワクチン接種できますよと宣伝して、大規模接種会場の横にマイナンバーカードの申し込みの受付窓口を作っておけばよかったのだと思う。
少なくとも、番号は国民全員が持っているのだからそんなことは十分可能だったのではないだろうか。そうやって脱税するやつらを監視していれば財政難も少しは回避できただろうにと思う。難にありて機をうかがわなくてどうするのだとそう思った次第だ。

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「木地屋幻想 紀伊の森の漂泊民」読了

2022年02月20日 | 2022読書
桐村英一郎 「木地屋幻想 紀伊の森の漂泊民」読了

この本の著者は、宇江敏勝の本の付録の文章を書いた人である。その中でこの本のことが紹介されていた。
木地師という職業を知ったのはずいぶん前のことだ。山の中を転々として轆轤を回して木材からお椀や皿を削りだしてそれを売る。定住先を持たず、放浪のような生活だが、なんとも自由な生活だと子供心に思った。もちろん、それはうわべだけのことで、それがどんなに過酷なことであったかということは知る由もなかった。
それよりも、カンナを回転する木材に当てると見る見るうちにきれいなお椀が出来上がるという光景に見惚れたというほうが大きかったのかもしれない。僕もあんなことをやってみたいと・・。
おそらくそれの延長でウキを作り始めたというところもあったのだと思う。

この本は、紀伊半島に残る木地師の痕跡を追った本である。実は、もう少し木地師という仕事とはどんなものであったかというようなことが書かれているのかと期待して読み始めたのだがその期待とは大きく外れている内容でもあった。

木地師にはそのルーツというものがある。その祖は、惟喬親王という人物だと伝えられている。この人は第五十五代文徳天皇の第一子として生まれたが弟(清和天皇)に皇位を奪われた後各地を転々として京都で亡くなったという人だ。母は紀氏の出身だと書かれているが、これはきっと紀州の豪族の紀氏のことだと思う。和歌山にも縁がある人だったのかもしれない。
ちなみに弟の清和天皇は清和源氏のルーツだそうだそうだから源頼朝のご先祖ということになる。
その惟喬親王が今の滋賀県東近江市にある蛭谷、君ヶ畑で暮らした時、法華経の経車をヒントにした手回し轆轤を考案し、その技術を村人に伝えたという。
その人々が全国に散らばって山中に入り食器を製造したということだ。その時に役に立ったのが、どこでも通行してもよいという、天皇の綸旨、時の有力者の免許状、往来手形であった。これを持つことにより全国どこに行っても仕事ができたというわけだ。
その道を切り拓いたのが惟喬親王であったので木地師の祖と崇められるようになったのである。
また、蛭谷、君ヶ畑周辺は小椋谷と呼ばれるので、木地師をルーツに持つ人たちには小掠、小倉という苗字が多いそうである。

近江を離れた木地師の名前やどの辺りでいつごろ生活していたかというのは、蛭谷、君ヶ畑にあった寺社が勧進のために送った氏子狩(氏子駈)の記録からある程度わかるそうだ。しかし、祖地を遠く離れてもお金を集めにやってくるというのも困りものだ。ただ、納める人たちもその見返りに往来御免の証文をもらえたということにもなるのだろう。

著者はそういった文書をたどったり、昔のことを知っている人々を訪ねるのだが、やはりそこは断片的なことしかわからない。大正時代になれば木地師たちは里に下りてしまったそうだし、元々が共同体というよりも分散してしかも移動生活をしていた人たちなのだというのだから痕跡というものはほとんど残っていない。土地も資産も持っていない人たちだったから子孫に残すようなものもなかったのであろう。静かに生きて静かにこの世から消えていった人々というのはなんと潔い人々であったのだろうと思う。
山の中には木地師だけではなく、炭焼きやサンカ(農具の箕を作ったり、川魚を売ったりする人)、踏鞴師(たたらし:製鉄に従事したひとたち)などが転々と場所を変えながら暮らしていた。まさしく宇江敏勝の作品の世界になるのだが、著者は、里人(定住している農民たち)は彼らを差別や偏見という特異な目で見ていただろうが、それは好奇心やある種の憧れも持っていたに違いないと書いている。
まさしく僕が見ているのと同じ目線だ。憧れるけれども自分じゃできない。でもやってみたい。いや、今の世の中ではWi-Fiと水さえあればなんとかやれるんじゃないかとか、週に2、3日ならやってみたいとか、自分の生活のどこかにそういう部分を取り入れたい、もしくは残しておきたいと思うのは先人に対して失礼に当たるだろうか・・。

木地師たちが作ったお椀やお皿はその後どうなっていくかというと、木地師を束ねる人たちが現れ、紀州では黒江に集められそこで漆を塗られ全国に出荷されていたという。黒江では漆の代わりに柿渋と炭を混ぜたものを塗った安価な商品が大量に生産されていたそうだ。日本でも有数の漆器産地であったらしい。
僕の母方の祖父も黒江で木地師をやっていたそうだ。おそらくはその下請けだったのだろうが、僕もよく泊まった借家の2階が作業場だったと聞いたことがある。
この頃にはすでに轆轤を使ったものものは少なく、硬い段ボールみたいなMDF材を型抜きして作っていたらしく、その抜かれた後をどこかからもらってきたのだろう、風呂の焚きつけ用に風呂釜の横に山のように盛られていたことを思い出す。
大分様子は違うが実は僕も木地屋の血を受け継いでいたりするのである。

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加太沖釣行

2022年02月18日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:中潮 7:46満潮
潮流:8:49上り2.8ノット最強 12:20転流
釣果:真鯛1匹 ハマチ1匹 マアジ6匹 サバ8匹

昨日は極寒のような寒さで、今日も寒くて風も残りそうな予報だったから安息日にしようと思い、酒かすチーズケーキを作るため昨日の帰宅途中迂回して近所のスーパーでヨーグルトを買ってきておいたのだけれども目覚まし時計が鳴らなくても午前4時に目を覚ましてしまった。
昨夜は変な夢を2本立てで見てしまった。ひとつ目は電車の中で大量に飲んだ粉のかぜ薬を咳とともに吐き出してしまい、その場から逃げたのはいいけれど後から駅のホームで捕まって賠償金を請求されるという夢だ。もうひとつは、CHAGE and ASKAのASKAが飛び込み自殺をしたというので見に行ったら一緒に死んでいた女性と目が合ってしまったというものだった。
夢判断ではどういう心理状態だと診断されるのだろう・・。こんな具合だから一度目を覚ましてしまうと寝付けなくなる。とりあえず外に出ていつもの煙突をみてみるとやっぱり風が吹いている。ふとんに戻ってじっとしているといつの間にか眠っていて次に目が覚めたのが午前7時。新聞を取りに表に出てみると風が弱くなっている。



加太のリアルタイムの風情報を見ても5メートルくらいの風だ。これなら行けるかもしれない。多少無理でも来週の休日は全部病院に行かねばならないのでできれば今日、行っておきたい。
急いで準備をしてカムカムエブリバディの主題歌だけを聞いて家を出た。

明日は雨水の日だそうだが、それでも寒い。ただ、昨日の寒さがあまりにも強烈だったので今日はあまり寒さを感じない。それにこの時間だと霜も消えていてデッキも乾いているし、バケツの水も凍っていない。
港を出たところもまったく波がなく穏やかだ。



しかし、そんな感じだったのは紀ノ川を越えるまでであった。そこからはやっぱり風が吹いている。しぶきを浴びるというほどではないけれどエンジンの回転数を落として走らねばちょっと怖い雰囲気だ。
田倉崎の沖に到着したのは午前9時頃。潮が緩み始める時刻だ。今日のプランは、潮が止まるまでは真鯛を狙ってみてその後下りに転じてからはアジサバを狙おうというものだ。
大和堆ポイントには船団ができているのできっと青物が釣れているのだろうが、今日はダメ元でもまずは真鯛を狙いたい。釣りに貴賤はないというものの、やはり加太では真鯛を釣ってこそなのだと思っているのだ。

少しは風を避けることができるだろうと思い、第2テッパンポイントからスタート。



仕掛けを入れ始めて間もなく幸先よくアタリがあった。ちょっと大きい。真鯛のように思えるがあまり首を振らない。青物対策として5号のハリスの仕掛けを選んだが大分前に作ったものだったのでよく曲がってしまう鉤を使っている。大丈夫だろうかと慎重に仕掛けをたぐり寄せるとちょっと大きめのハマチだった。タモで掬いあげるとまだ魚が掛かっている感じだ。さらに仕掛けをたぐり寄せると真鯛が掛かっていた。なので、よく引いて頭を振っているようで振っていないという感覚だったのだ。
ハマチが掛かった鉤はやっぱり曲がってしまっていた。よくぞ持ちこたえてくれたものだ。前回のメジロもそうであったが、これはクッションゴムのおかげなのかもしれない。

今日は調子がいいと思ったが、アタリはこれだけ・・。さらに北上をしてみたが、それでもアタリはない。魚探にはけっこうな反応があるがこの魚たちが最後の時合であったのかもしれない。船は北風に押され、次第に南に流れるようになってきた。もう、これでは釣れる気がしないのでかなり早いがアジサバ狙いに変更。
下り潮になるのでコイヅキがいいのではないかと思ったが、そっち方面にはまったく船が見えない。逆に大和堆ポイントにはまだ船が残っている。あそこに行ってしまうともうこっちには引き返せないがとりあえず獲物はあるのでアタリがなければそのまま帰ろうと向かった。
島の陰から離れると風と波が強い。デッキに置いていたカゴや番重があちこちに動いて生け簀の中に落ちてしまっているほどだ。
船は大和堆直上から少し東に集まっている。僕もそのさらに東側に位置を取り仕掛けを下す。そのまま高仕掛けを下してみるが風で船が流されるので仕掛けが立たないのですぐにサビキ仕掛けに変更。アタリは間もなくあった。サバだ。ここにも魚はいた。その後にまた1匹。船はすぐに流されるが直上付近の30メートルラインの反応がよさそうだとわかってきた。しかし、船はどんどん減っていく。気がつけば僕を含めて2隻が残っているだけだ。風は強いし、潮はほぼ止まる時間だしみんな朝一でかなり釣り上げてホクホクで帰ってしまったのだろう。



ぼくとしては遅れてやってきているし、今日は2時まで残業だと思っているのでそのまま続行。魚の反応を見ていると、30メートルラインから徐々に深いところに移動しているのがわかる。それに合わせて船を移動させるとアタリは続いてゆく。ほぼ入れ食い状態が少しの時間続いた。風が一瞬治まると仕掛けはまっすぐ立っているのでおそらく潮はまったく動いていない。仕掛けや魚探の音波のプレッシャーがないからなのか、こんな条件でもアタリが続くのだ。
もう、これだけ釣れれば十分だろうと、今日一番の大物鬼アジを釣り上げて午後12時30分、早い目に終了。今日の具合だとこのまま釣りを続けていればずっと魚が釣れ続けそうな感じであった。

釣りをしている間は風が強くて寒くて指の感覚もないほどで、釣り鉤が指を貫通したことさえ一瞬わからなかったくらいなのだが、無理をして船を出してみてよかったと思える1日であった。




家に帰って作りかけの酒かすケーキの生地を作って魚をさばき始める。酒かすをもらったので以前にテレビで見たレシピをたよりに作ってみたが、ほぼチーズケーキの味がするのでもう一度作ってみた。
今回もうまく出来上がった。1㎏のホットケーキミックスがあれば20個作れるというお手軽さとコストパフォーマンスだし、酒かすも日持ちがするので食べたいと思ったときにすぐ作れる。食物繊維や乳酸菌もたくさん入っているので健康にもいいはず・・だ。



そして、釣ってきたハマチは照り焼きにしてもらった。ここにもひと工夫があって、たれにスイートチリソースを混ぜている。もちろん僕のひと工夫ではなく、土井善晴がテレビで作っていたものだ。食材は鶏肉だったが、これは魚にも使えるだろうと思い、次にハマチを釣ったら作ってもらおうと考えていた。
これも期待以上の味だ。洋風なのか和風なのかよくわからない料理だがコクがあって美味しい。
スイートチリソースというのはそんなに高価なものではないのでとりあえず買ってみるけれどもいまいちどう使っていいのかわからないというところがある。以前、マヨネーズと混ぜたものをコゴミの和え物に使ってみたら美味しいと思ったくらいだ。
これでひとつ使い道を見つけたのだ。



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「江戸釣百物語」読了

2022年02月17日 | 2022読書
長辻象平 「江戸釣百物語」読了

この著者の本を読むのは2冊目だ。「釣魚をめぐる博物誌」はかなり面白い本だったのであとから買ってしまった。
この本は内容的には「釣魚をめぐる博物誌」だぶっている部分もあるが、この本を書くためにどれだけの文献を漁ったのだろうかと感心してしまう。

日本で趣味としての魚釣りが本格的に始まったのは五代将軍の綱吉が亡くなって後のことだそうだ。綱吉は、「生類憐みの令」に加えて、「釣魚釣船禁止令」を出したので釣りが広まらなかったというのはわかるが、それ以前でも、仏教の殺生戒という思想から趣味でやる釣りというのは広まることはなかった。
なので、文献といっても大したものはない。当時の人が残した日記の中に釣りをしている光景がたまに見えるくらいだ。著者はそういったものを拾い集めてこの本を書いている。当時、どんな釣りがなされていたかということがよくわかるのはその後、いくつかの専門書が発刊され始めてからのことなのである。
綱吉の元禄の時代、太平の世になり武家社会の中心であった江戸では、時間をもてあましてきた武士たちが趣味で魚釣りを始めたというのがこの本のタイトルなのである。

そんな時代が来る前でも、釣りが面白くないわけがなく、戦いに明け暮れていたはずの戦国時代の武将も釣りを楽しみ、生類憐みの令が出されている間でも死罪を覚悟?のうえで釣りをしていた人もいた。

戦国時代の釣りバカは徳川家康のいとこ、松平家忠だ。「家忠日記」という著作の中には武田信玄との戦いや本能寺の変の記述に加えて川狩りや網引きの記述が1577年から1589年の間に80回も出てくるという。この時代は釣りというよりもほぼ漁に近いという感じだがそれでも本職でない人がこれだけやっいてれば立派な釣りバカだろう。しかし、この人も関ヶ原の前哨戦で命を落としたらしい。
織田信長の比叡山の焼き討ちは1571年。宗教の思想に重きをおかない信長の天下ではすでに殺生戒という思想も軽んじられてきていたのかもしれない。

生類憐みの令の御触れのさなかに釣りを楽しんだのは尾張屋藩士の朝日文左衛門だ。城代御本丸御番という名古屋城の警備係だった。勤めは宿直を伴うものの、9日に一度でよかったというのだから釣りはし放題だ。「鸚鵡籠中記」という日記の中には、ひと月に4回の釣りや漁の記録が残っているというのだからなかなかだ。
もともと尾張と江戸の徳川家というのは仲が悪かったようだから藩士も江戸への当てこすりのような思いも含めて釣りをしていたのかもしれない。この人の日記には綱吉への痛烈な批判も書かれているそうだ。また、遊興や藩内で起きた喧嘩、斬り合い、はたまた芝居見物など、さすがひと月のうち、9割休みだとそうとう遊べるということだろうか。まあ、今の僕もそんなに変わりがないからこの人をろくでなしとは言えないのである。ただ、籠の中のオウムというタイトルはなんだか意味深である。津軽采女の「何羨録」というタイトルもそうだが、どうも釣りが好きということと世渡り上手ということには相反するものがありそうな気がする。

幕末の動乱期にも釣りを愛していたひとがいた。
山本正恒という幕府の御家人だ。将軍の身辺警護をする御徒で、幕臣ではあるがそれほど高い身分でもなく、収入も大したことはない。その人が書いた「正恒一代記」にも時代の大きな流れとそれを横目に釣りを続けた記録が載っている。
手長エビを釣っている日記のそばでは桜田門外の変のことが書かれている。本人も慶喜の警護のため、京都に単身赴任したり、大政奉還のあとは慶喜について大阪城へやってきてと、歴史が作られるその現場を目撃していた。鳥羽伏見の戦いの際、慶喜が家来たちを置いて突然江戸へ帰ってしまったあとは命からがら江戸へ逃げ帰った。それでも慶喜が謹慎生活を送った静岡へも同行するという忠義も見せながら、時代に翻弄されながら人生を送った。しかし、そんな動乱の中でも書いているのが、江戸に置いてきた釣具の心配であったり、静岡時代は途中で篤姫の警護のために江戸に戻るというようなこともあったそうだが、その勤務中にメセキ網(目狭網)という投網を編み、静岡に戻って仕上げをしたと書いている。こんな混乱の世の中でもこんなことをしているといのが面白い。
維新のあとは新政府の役人になるという道もあったような身分でもあった人らしいが無給でも慶喜に付き従っていったというのは義理堅いというのもあるだろうが、ややこしい世界を離れて静かな場所で魚獲りをしたかったというのもあったのではないだろうか。その主人である慶喜もかなりの釣り好きであったそうだからなおさらこの人についていこうと思う気持ちになったのは僕にもよくわかる。

葛飾北斎の冨嶽三十六景の中に「神奈川沖浪裏」という作品がある。そこには船が3艘浮かんでいるが、この船は押送船という8人で魯を漕ぐ高速船だそうだ。
この船は一体何をしているかというと、神奈川沖で釣られた初鰹を沖で直接漁船から買い取り急いで江戸まで運ぶ途中なのだそうである。(なんだか向きが逆のようにも思うのでこれから買いに行くところなのかもしれない。)昼間に買い付けた鰹は夜通しで江戸まで運ばれ早朝には市場に並ぶという段取りだったそうだ。初物にこだわる江戸の人々の欲望がこの絵の裏には隠されているということだ。また、波の模様は鰹の縞模様を表現しているそうである。


こうやって魚釣りの黎明期の話を読んでいると、平和な時代だからこそ魚釣りという文化が花開くというのがよくわかる。釣具の発達もそうで、錘は鉄砲の玉を作る技術から、釣竿は弓矢を作る技術から生まれてきたそうだ。平和な時代になり、武器の需要がなくなりその技術の転用先のひとつが釣具であったのだ。これも平和な時代を象徴している。
ちなみに、テグスはちょっと違って、中国から大阪へ送られてくる薬草の梱包に使われていたものを淡路の漁師が釣り糸に転用したそうだ。本国でも釣りに使われていなかったものを転用するとやはり日本人は創意工夫の能力に優れている。実際は、中国では川の魚を食べることが多く、そこは濁っているので透明な糸の需要はなかったということらしいが、これは釣り師の執念でもあるような気がする。津軽采女の「何羨録」には、ハマチを釣っても切れない糸があるらしいという記述が残っているそうだ。

コロナ禍の今、釣りがブームらしい。これは平和な時代だからというのではなく、単に人に近づくことなく遊びができ、室内ではないので感染リスクが少ないという理由らしいが、それでは釣り文化の元の元である、「平和」というキーワードがどこかへ行ってしまっているではないかと何か不自然な感じがする。そんなにわか釣り師は水辺に来てはもらいたくないと思うのはあまりにも心が狭いのだろうか・・。
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ワカメ採り調査

2022年02月14日 | Weblog
朝起きると、あまり風がない。夕べはかなり雨が降ったので朝一は風が吹くと思っていたので今日は普通に寝ていた。

加太まで行けそうだが、今日も昼前に病院に行かねばならないので今からではまったく時間がない。今日は月曜日なのでこんなときは焚き火の練習ができると思ったけれども、この雨では薪になる木は濡れてしまっていて火が着かないだろう。
さて、病院に行くまで何をしようかと考えていると、ワカメの生育具合を見てきてやろうと思いついた。
マリーナシティの桟橋にはすでにワカメが生えてきているらしいし、スーパーではすでに新ワカメが並んでいる。港の裏の養翠園の林の中からはメジロの鳴き声が聞こえるし同じく港の近くにある緋寒桜のつぼみも膨らんでいる。



港への道中の民家の梅の木にも花が咲き始めた。



今朝もかなり寒いが着実に季節は春に向かっている。例年なら調査といってもあと1週間は先だろうと思うのだが、燃料を入れるついでに小船を出してみよう。

おそらく一級ポイントはさすがにまだまだ早いはずなので大島の北側のテラスを目指した。
午前8時過ぎというと、満潮からやっと潮が引き始めた時刻だ。おまけに雨が降っていたので水が濁り、日も差していなのでほとんど底が見えない。しかし、目を凝らしてみると所どころに黒い影が見える。あれはきっとワカメだ。大体の見当をつけてグリグリやってみると小さなワカメが巻き付いてくる。
本当に、まだ芽を吹いたばかりといってもいいくらいの大きさだ。しかし、ワカメとしてはこれが一番美味しい。今日はおかずの分だけしか採るつもりがないのだが、あまりにも小さいのと底が見えないのとで採る作業にはかなりてこずる。30分ほどグリグリしてやっとスーパーのポリ袋1個分ほどだ。幸いにして長けてしまっている部分などはまったくないので全部持って帰れる。



まあ、これだけあれば叔父さんの家に持っていく分を除いてもワカメのしゃぶしゃぶをやれるだけの量はある。

午後からは歯科口腔外科へ。
ここ何週間は毎週月曜日、入れ歯を作るために病院通いをしている。しかし、入れ歯を作るのにはこんなに手間がかかるのかと思うほど通った。
最初は型を取るための型を作り、その型を元にして精巧な歯型を作る。それを元にして仮の入れ歯(歯茎の部分が蝋でできている。)を作って微調整。と、今日までの作業が続き、来週にやっと本物の入れ歯が出来上がってくるという流れだ。
まあ、僕も数年後にはこんなものにお世話にならねばならないのだろうから、こういうプロセスも記録に残しておこうと思うのだ。



しかし、母は元気だ。
夕方、ワカメを干すための竹竿の支柱を立てに庭に出てみると、パトカーが4台・・。一体何が起こったのかはまったくわからないけれども、事件のようだ・・。
家に飛び込んで母親に、「パトカー来てるで!」と言うと、何も言わずに一目散に表に出て行った。その素早さたるや、腰が90度に曲がっているとは思えない速さであった。人の不幸は蜜の味とはいうけれども、僕の母親も人の不幸を吸いながら元気を維持しているのかもしれない・・。




毎年、最初に採ってきたワカメは必ずしゃぶしゃぶにして食べるというのが僕の心の中での鉄則なので今年もそのとおりにしてもらった。
お湯の中に入れたときにさっとエメラルド色に変わる瞬間と独特の香りを嗅ぐと、今年も春がやってきたのだと感じるのである。





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九段理江 「Schoolgir」読了

2022年02月13日 | 2022読書
九段理江 「Schoolgir」読了

表題の作品は、第166回芥川賞候補作の候補作である。ほかに一編、「悪い音楽」という作品が収録されている。
純文学を読むと、いったいこの作品のテーマは何なのだろうといつも悩んでしまう。「Schoolgir」については、女子中学生とその母親の心の平行線を太宰治の「女生徒」という作品を通して描き、「悪い音楽」では中学の音楽教師がもつ自意識が表面に出た時の周りの反応を描いている。

特に「Schoolgir」はどこに焦点を見るかで何通りにも読み方ができそうだ。少女の心の内に焦点を当てれば、未完成な人間のエゴであったり、一番近しい同性である母親に対する憧れと拒絶反応、そういったものが見えてくる。母親の側から見てみると、自身も通ってきた少女の道であるにも関わらずその心の内がわからないという葛藤と、また、心の内の醜い部分への自己嫌悪のようなものが見えてくる。ふたりの関係から見てみると、それはおそらく人間の永遠のテーマである、「人と人は分かりあえない。」というものを取り上げているような気がする。
「悪い音楽」のほうはもう少しわかりやすいかもしれない。これはもう、自分の内面の一部が外部に漏れ出てしまうと精神の崩壊をきたしてしまうのだというストーリーである。
こうみてみると、はやり芥川賞の候補としては「Schoolgir」が選ばれるだろうなというのがよくわかる。「Schoolgir」のほうが深い闇を抱えていそうだ。

もう少しストーリーを詳しく書いておくと、「Schoolgir」では、子供がヴィーガンになったり、環境問題に傾注したりする中、そんなことに理解がない母親を子供は軽蔑するようになる。そして母はその思いを密かにユーチューブを通じて知る。あまりにも頭でっかちな考えだと思うものの、自分も不倫をするような中ではそれを否定することはできない。子供は母を否定しながらも心のどこかで母のことが気になる。母のクローゼットの中から「女生徒」を見つけたからだ。そこには「お母さん」という言葉が大量に出てくる。それは自分も同じであると。自分は母を憎んでいるのか、慕っているのか・・・。わからないまま物語は終わる。
「悪い音楽」は、有名な音楽家の父に背いて音楽教師になった主人公が、やりがいを感じない教師生活の中、生徒とのトラブルも加わり出会い系サイトを使ってアブノーマルな遊びを妄想する。そんな内面を友人に知られることになり、さらに、生徒からも先のトラブルを通して心がない教師であるというレッテルを貼られ、追いつめられる。その先には精神の崩壊しか待っているものはなかった。というような内容である。


両作品を通じて共通することは、先に書いた、「人と人は分かりあえない。」ということと、「表面に出ている自分と内面の自分とはまったく違う人格である。」ということのように思う。
人のことがわかっているふりをするとか、自分がいい人を演じるということは精神に負担をかける。そしてそれがエスカレートすれば精神を崩壊させる。
母親は、『自分の娘と小説の話がしたい者、二十も歳の離れた女の子と、数少ない共通の話題で、どうにかコミュニケーションをとろうと、努力する者。』と言い、
教師は、『多くの人は自分以外の人の心も、自分の心と同じような素材からでき、同じような動き方をするという幻想のもとで、人の気持ちを想像したり共感しようとしたりしてくる。』と考えるのである。
ひとは、他人の中にいる自分を自分だと演じ続けようとする。カミングアウトしてはいけない、本当の自分のことは他人にばれてはいけないのだというふうに。
そんなことも考えていると、多目的トイレで不倫をしていた芸人を思い出す。あの人も、きっと内面は多目的トイレが好きな人なのだけれども、外面では知的でグルメで人の心がわかるひとということを演じ続けていたのだろう。それが世間に暴露されたとたんに人生が狂った。その危機は誰にでも訪れるのだというのがこの2作品が表現している一部分だろうと今回は思ったのである。

集団でしか生きることができないとされている人間は、おそらく、他人の中にいる自分を自分だと演じ続けることが唯一の生きる道であったに違いない。つい数十年前まではそれしか方法がなかったけれども、経済が成長して、集団で生きなくても、おカネさえあればひとりでも生きてゆける時代になった。ひょっとしたら、むかしむかしのひとたちは、他人の中にいる自分と自分の中にいる自分は違うのだ、それは相手も同じだ。だから他人の心の中を覗いてはいけないのだと理解していたけれども、その必要がなくなった今、逆にそれを暴いて楽しむようになってしまったのではなかろうか。ひとりのひとが違う人格を持っているのはおかしいじゃないかというように・・。それが現代であるのだ。

ふたつの物語にはもうひとつ共通点がある。それは災害だ。「Schoolgir」では、どこかで世界を騒がせるような大災害が起きているというのにどうしてそんなに世間から無責任でいられるのかとなじられ、「悪い音楽」では、音楽の発表会の途中で起こった小さな地震が教師の精神崩壊の引き金となる。ギリギリのバランスは小さなアクシデントでバランスを崩す。著者は、そんな不安定な時代をみんなが生きているのだとも言いたかったのかもしれない。
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加太沖釣行

2022年02月11日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:若潮 5:18満潮
潮流:7:18転流 9:56 下り1.3ノット最強
釣果:メジロ1匹 サバ2匹

今日は久しぶりに病院に行かなくてもよい日だ。数日前からの予報でも風は吹きそうだが釣りにならないというほどでもないということだったので久しぶりに時間を気にせず釣りができると思っていたが、昨日の予報でいきなり風速が8メートル以上の風が吹くと変わってきた。ただ、風向は北からというものであったのでとりあえず朝は起きてみようと思った。

午前4時半に起きて外に出てみると、風が吹いている感じはない。しかし、いつもの煙突の煙を見てみるとやっぱり吹いている。



海保のリアルタイム風速情報では友ヶ島灯台は9メートル前後の風が吹いている。僕の家の周りでは北風はあまり感じないのだ。ただ、西の風が混ざらないかぎり、北風の吹く日は早朝は陸風が混じるので少しは風向きが東に寄る。少しでも東寄りに風が吹けばとりあえず船を出すことができる。最悪でも田倉崎の陰で仕掛けを下すことができそうだ。そして、今日も金星がはっきり見える。



雲が飛んでいるという天気でもないので爆風というのでもないだろう。
暗いうちに出港するのは控え、ゆっくり家を出る。港に到着しても風を感じない。ここでもゆっくり準備をして明るくなってから出港。ゆっくり準備をしているというのは、あまりにも寒いから体が動かないからなのだ。毎年バレンタインデーの頃には雪が積もる日があったりするので、おそらく年中で一番寒いのがこの頃なのだろうと思っている。船のデッキの上を歩くと霜が分厚く降りているのでザクッザクッと音がする。シールドも凍り付いていて前が見えない。



バッテリーの電圧も上がらないのかセルモーターが一瞬息をつく。ついでにいつも目眩の原因のひとつではないかと思っている僕の心臓も一瞬息をつく・・。ロシアのフィギュアスケートの選手がドーピングに使った薬は心臓の動きを助ける薬らしい。ぼくもそういう薬を飲むと少しは目眩がしなくなるのだろうかと思ったりするのである。

一文字の切れ目を超えても波は穏やかだ。今日の潮では朝一はコイズキで潮が動き始めてから大和堆ポイントだと思っていたので、この感じではコイズキまでも行けそうだと思ったが、やはり加太は甘くない。田倉崎を超えた途端に思い切り北風が吹いてきた。これはあまり遠くまで行くのは危険だ。だれもがそう感じているのか、船団は田倉崎のすぐ前にできている。
とりあえず様子見で僕もここからスタート。



魚探にはわずかだが反応がある。今日はアジサバを狙いながら、あわよくばメジロ、ブリまで狙ってみようと考えている。

しかし、アタリはない。魚がいないのではなく、隣を流している漁師のおいやんはホイホイとアジらしき魚を釣り上げている。このひとはおそらく西脇の漁師だと思うが、この周辺でいつもアジサバを釣っている人だ。よく見ていると、ほぼ同じ場所を行ったり来たりしている。そんなにピンポイントの場所でないと釣れないのか、それとも仕掛けに何か違いがあるのか、今日も謎を含みながら時間だけが過ぎてゆく。



少しは潮が動き始めたかというとき、大和堆ポイントにも船団ができ始めた。ちょっと風は怖いがほかの人も行ってるのだから僕の船でも大丈夫だろうとドンブラコ状態でポイントに向かう。小山になっているポイント周辺に船が密集している。風が吹いていてもやっぱり祝日だ。平日とは密度が違う。
ど真ん中に入るのは控えて少し離れたところからスタートしたが、間もなく大きなアタリが出た。間違いなくメジロ以上のサイズだ。去年も何回となく糸を切られたが、今年はクッションゴムを装備している。少しは持ちこたえられるはずなので慌てず魚が走りたいときは走らせる作戦で弱らせていこうと腰を構えた。幸いにして船団からは少し離れている。周りを見る限り船の姿もない。リールを巻いては糸を出されを繰り返しながら道糸が20メートルを切りかけたころ、ふと後ろを見ると乗合の遊漁船が近づいてきていた。彼らが近づいているというよりもおそらくは僕が流されるままに近づいていったというところだろうが、魚を掛けているのは見ればわかることなのだからそれを避けてくれてもいいものをどんどん近づいてくる。そして案の定、そいつらの仕掛けと絡まってしまった。



僕の仕掛けは一番上の鉤を残して消えてしまっていて、相手の仕掛けが上がってきた。「すみません・・」というような声が聞こえるが、こっちは落胆の思いの方が強い。おそらく僕の仕掛けを切り刻むと相手の仕掛けは無傷で残るのだろうが、腹が立っているのではさみで切ってやった。錘も残っていたのでぶつけてやろうかと思ったがこれは僕が使うことにした。
結局、残った鉤にはサバが1匹くっ付いていたのでボウスはなくなった。しかし、5分以上振り回されていたのでサバはほぼ仮死状態だ。締めても血も出ない・・。これは鮮度に問題が出そうだ。

気を取り直して再度仕掛けを下すがアタリはない。ときおり真っ赤な反応が出るがまったくアタらない。



あれはいったい何の反応なのだろうか。シラスでも泳いでいるのだろうか・・。
次にアタリがあったのは同じくサバだ。これで2匹。叔父さんの家にも1匹持っていける。

その次はまた大きなアタリ。ブログ用に写真を撮っていた時だ。気がつくとスプールから道糸が引き出されている。これも大きい。しかし、これはあっけなくバレてしまった。仕掛けを引き上げると枝素のチモトの所が切れている。鉤のくくり方が悪かったようだ。残念。

その後にまたアタリ。今度も周りに船の居ないのを確かめながらやり取りをする。しかし、これは最初の獲物よりも小さそうだ。竿をためているとなんとか浮かび上がってきてくれる。クッションゴムをつかみ、ここからが慎重に行かねばならないが無事に取り込むことができた。ブリとまではいかないが十分メジロサイズといっていいだろう。
鉤を外して見てみると、ベントのところが大きく延びている。もう少し時間をかけていたらこれもバレてしまっていたかもしれない。危機一髪だった。



この時点で午前10時半を回っていた。あとひと流しして終了しようと最後は船団の中に突っ込んでいったがアタリもなく終了。

港に戻ってくると真冬とは思えないほどの温かさ。帰り支度は防寒着を全部脱ぎ捨てての作業になった。間違いなく春は近づいている。


魚がこれだけ大きいと内臓も食べることができる。肝と心臓と胃袋をきれいに取り出した。



胃袋を開いてみるとしわしわの柔毛突起?が見える。去年の年末、母親は大腸がんの摘出手術を受けたが、その時に見せられた大腸の患部とうりふたつだ。こんなのを見ていると、魚も人間もきっと同じ遺伝子でできているのだろうなと思えてくる。
家に帰ってからテレビを見ていると、コロナで低酸素状態になった人への対処策として、高酸素濃度の液体を浣腸して大腸から酸素を吸入させるという治療が治験にはいるという話をしていた。エクモが足りないので十分な治療を受けるまでの時間稼ぎに使えるのだということだが、これのヒントになったのがドジョウの呼吸法だったらしい。ドジョウは水中の酸素が少なくなると水面に口を出して空気を吸ってそれを腸までもっていき、腸から酸素を取り込むのだそうだが、人間にもそんな能力がのこっているらしいのである。えらいことを考える人もいるものだ。
そんな話を聞いていると、ますます人間の遺伝子も魚の遺伝子もそんなに変わりはないじゃないかと思えたのである。
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