イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

船底塗装

2019年09月28日 | Weblog
大きい方の船はそこそこの速度を保っていてくれているのだが小船のほうは少しづつ速度が落ちてきた。潮は今日がいいのだが、一昨日の予報が雨になっていた。これはきっと「なつぞら」の最終回をきちんと見なさいという神様の命令なのかもしれないと諦めていたら、昨日になって曇りに変わった。作業ができる。これはきちんと9月中にやっておきなさいという神様の命令だと思い、「なつぞら」の神様をあとまわしにして港へと向かった。
前回の塗装では早く陸揚げの段取りをしすぎたのか、進水させるのが午後4時を回ってしまったので、潮汐表をにらみながら午前7時開始とした。

スロープにアプローチしたときはこんな感じ。



ここから潮が引いていくのを待つのだが、待っているとなかなかこう、潮が引いていってくれない。渡船屋の船頭とちょっとしゃべっているとその間にスッと潮が引いている。なんとも時間というのは主観的だ。じゃあどこかで少し時間を潰そうかと三輪車を駆ってツーリングに出発。今日の海はなんとも穏やかだ。



約1時間後、ちょうど後ろの方も着底していた。完全に干上がっている前の方からカキを落としながら艫が干上がるのを待つ。



そこからは一気に作業を加速し午前10時半に作業を終了。道具を片付けて船をコロにセットして午前11時。



午後2時ごろには進水できるはずの計算で、「なつぞら」の最終回を昼の放送でリアルタイムで見た後港に舞い戻ったがどこで計算を間違ったか、全然潮が満ちていない。これじゃあ2時間は待たなきゃならないのじゃないだろうか。で、叔父さんの家で一服して、10月には大きい方も上架したいのでその相談にちからさん仕事場を訪ねてから午後3時、港に三度舞い戻りやっと進水。



塗りたての船は相変わらず恐ろしい速度で海面を疾走してゆく。これで秋の釣りの準備ができた。


家に帰ってあらためて「なつぞら」の録画を見る。記念すべき朝ドラ100作目であったが、どうも脚本がつぎはぎだったという印象が拭えない。最後は「火垂るの墓」まで出てくるとは・・。
なんとか泰樹さんの魅力となっちゃんの可愛さで持ちこたえたというところだろうか。

僕もせっかくだから主題歌の「かわいいあのこ」の替え歌を作ってみた。

♬♬
古い小舟をこぎ出したら
暗い海が続いてて
めげずに巻いていたその先も
釣れなかった世界
上りの釣れる潮すら味方にもできないんだな~
釣り上げたことのない 
悪い妄想の獲物
優しいあの子に 笑われる 
ルルル・・ルルル・・ルルル~ルル~
♬♬

今日はこれでおしまい・・。
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加太沖釣行

2019年09月24日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:若潮 8:22干潮
潮流:4:55転流 9:08 下り2.3ノット最強
釣果:タチウオ 9匹 ツバス 1匹

今朝は台風一過、空気はどこまでも澄み渡っている。友ヶ島はおろか、淡路島も間近に見える。



そして関空の建造物群や明石海峡大橋もくっきり見えるのだ。

 

若潮なので今日はタチウオだ。やっと手作りの竿の出番だ。今年の1月24日に布袋竹を切り出して乾燥、漆塗りで約4ヶ月なかなか時間がかかるものだ。



ポイントは本線航路のこっち側。タイラバとの2本立て作戦だ。朝一が転流直後なのでタチウオからスタート。マークしておいたポイントに仕掛けを下すとアタリはあるけれどもなかなか乗らない。若潮だといくらなんでも潮が悪すぎるのだろうか。竿の方はアタリがわかりすぎるほど敏感に出来上がっているようでアタリがあって即合わせをするとちょっとこの竿ではタイミングが早すぎたりするのだろうか・・。しかし、もう少し待ってからとも思うのだが、今日はそれを待っているとすぐに放されてしまう。とにかく出来上がった竿はまあ、及第点としておこう。
その後もアタリがあってもイワシのしっぽだけ食われたりボロボロになるほど食っているのに鉤に掛からずということを繰り返して2時間半ほどでわずか9匹。魔法の粉をふりかけたイワシの効果はどうだったのかは次の釣行に持ち越しだ。



午前9時を回ってテンヤを切られたのを機にタイラバに移行。こっちも潮が動かない。地の瀬戸のど真ん中でもこんな感じだ。



やっとハマチまでもう一息みたいなツバスを1匹釣って終了。

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「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」読了

2019年09月22日 | 2019読書
奥野克巳 「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」読了

小さいころは学校に行き、その後就職し収入を得る、お金が生活の基盤になる。選挙があって、議員たちがあれこれ話し合って様々なインフラが作られる。自分たちが生きてゆくうえで必要なことが意に沿うかどうかにかかわらず決められるとはいったいどういうことなのか・・・。
現代社会で一般常識と考えられていることは本当に当たり前のことなのか。文明の極みであるロサンゼルスからメキシコの奥地を目指して旅してきた文化人類学者である著者は目の前で行われている様々なことに疑いを持つようになった。

そういった一般常識が社会の問題を複雑化させるのではないかと考えた著者は、ボルネオ島に住むプナンと生活を共にしてその一般常識について深く考えてみようとした。プランテーション農業が入り、文明社会になじんでいるとはいえ、いまでも狩猟採集という、おそらくは人間が文明を持つ以前の生活様式をおこなっている人々は現代社会に生きる我々とは異なった価値観を持ちそれが人間本来の価値基準ではないのか、それと現代人が持っている価値基準と比較することによって人間の根元的なやり方や考え方について考えてみることはできないだろうかという思いを実践してみた考察が綴られている。


プナンの人たちは、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない。「生きるために食べる。」人たちである。彼らはまず、「〇〇のために生きる。」いう言い方をしない。対して現代人は、生きるために食べなければならないという人間的・動物的現実を他のものへと作り変えてしまっている。私たちは、生きること以外の目標を設定して生きることを自らに課している。プナン流の生き方が、私たちの生き方を照らし出してくれる。と著者はいう。

プナンは反省をしないし謝りもしない。借りたものを壊しても謝らないし、逆に、誰かが失敗したり迷惑をかけられたりしても攻めもしない。そして、得たものは必ず均等に分配し、贈られたものは再び誰かに贈り手元に残さないということが美徳とされている。それが当たり前と考えられているから、「ありがとう」という言葉がない。
プナンの死者に対する感覚は、亡くなった人を極力忘れようとする。遺品をすべて廃棄し、肉親の名前までも帰ることで忘れようとし、亡くなった人の名前を呼んだり思い出したりもしてはいけないとされている。

これを読みながら、これはいつか読んだ「正法眼蔵」、道元禅師の考え方にそっくりではないかと思った。その本には、人生とは瞬間、瞬間の積み重ねであってそれにはつながりがない。だから“今だけ”をしっかり生きなさいと書いてあった。

プナンの生き方というのはまさにそれを実践しているように思う。筆者はニーチェの「永遠回帰」「大いなる午後」という考え方になぞらえている。

こう書きながら、正法眼蔵もニーチェもいま三つくらいわからない。
プナンの生活の描写から想像するに、『 “今”というものが一番大切で、過去を悔んだり、未来を悲観するのは無駄なことである。そして隠し事をしてはいけないし、集団は公平に遇されるべきである。すべてはお天道様が見ているぞ。』という感じだろうか。

しかし、世の中をすべて看破したような人たちの最終回答がヒトの一番最初の生き方に近いものであったということはこれこそまさしく「永遠回帰」ということだな。
とわけもわからず感心するのだ・・。
著者はそれが人間らしい生き方と断定はしていない。しかし、こうやって本に書くということはなにか息が詰まりそうなこの世の中よりもプナンのほうがいいのではないかと考えているのだろうが、なかなかそれが難しい。プナンの世界でも物欲というものは子供のころからの生活の中で矯正されてゆくらしい。まあ、あくまでもこれがヒトのいちばん初期の生き方ではなかったのかと見ているだけである。

新聞の書評欄で、今でも売れている本ということで紹介されていた本なのだが、確かに考えるべきものが多い本ではあった。
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水軒沖釣行

2019年09月21日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 4:17干潮
釣果:タチウオ(小さい) 7匹

せっかくの五日ぶりの休みなのだが、予報は台風接近のあおりで雨模様だ。しかし、時間を追うごとに雨が降らないであろう時間が多くなってきた。そして昨夜寝る前、とうとう雨が降るであろう時間帯が消えてしまった。波の予報はいまだに高いのだが、雨さえ降らなければタチウオには行ける。前回の釣行でボロボロになった仕掛けはおとといの夜に修復しておいた。

曇りのうえ、夜明けが少しづつ遅くなってきたので今日は午前4時10分に家を出発。出港は午前4時40分。それでもまだまだ真っ暗だ。波の様子がわからないので港内から仕掛けを下すとすぐにアタリがあった。ベルトサイズだが幸先がよい。すこしずつ明るくなってきたので沖の様子を見に行く。新々波止の北側は静かなものだ。3連休の中では今日の天気がいちばんマシなようなので、紀ノ川方面から続々と出撃してゆく。こういうのを見ているとこれだけ穏やかなら僕も加太を目指せばよかったと思うのだけれどもそれは次回の休日のお楽しみということにして仕掛けに集中する。しかしアタリがない。あってもすぐに外れてしまう。そして食っていても小さいのでそれがわかりづらい。

今までの群れとはまったく変わってしまったようだ。そういえば昨夜の釣り番組で、「ようやく大阪湾でタチウオが釣れ始めました。」というようなコメントが話されていた。この前までの群れは北上してしまったのかもしれない。それともウキの祟りだったりして・・。



アタリもなくなったので午前6時に終了。




この時間に終わると直行で家に帰るとリアルタイムで「おしん」を見ることができる。
今週は意を決して佐賀から東京へ出てくるというストーリーだ。そして東京でおしんが始めた商売が、「どんどん焼き」!。これが食べられらくなって早や半年。こんなシーンを見るとまた食べたくなった。
しかし、どんどん焼きのルーツというのがおしんにあった(かどうかは知らないが・・)というのは驚きだ。

 
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加太沖釣行

2019年09月15日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:大潮 6:39満潮
潮流:4:23転流 7:29 下り1.8ノット最強 10:33転流
釣果:ボウズ

今日はタイラバ一本で勝負をしてみたが、やっぱりタチウオを保険にセットしておくべきだった。
朝一、テッパンポイントでカスゴが釣れたのでいい感じだと思ったけれども、その後が続かない。下り潮が緩んでNさんに教えてもらったポイントも試してみたけれども、数回のアタリはほんのかすかでフッキングまでは至らなかった。



十六夜のきれいな月も慰めにはならず、



予報では間もなく風が強くなるということだったけれども帰るまではずっと穏やかな天気。これならタチウオテンヤも持ってきておけばよかったと海上で悔いても仕方がない。



残念・・。
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「黙殺  報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い」読了

2019年09月14日 | 2019読書
畠山理仁 「黙殺  報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い」読了

いつもニュースを見ていて不思議に思うのが、政治家の方々というのは、あれだけマスコミや街頭の人たちに悪口を言われてやっていてバカバカしくならないのだろうかということだ。不倫をしたり使い込んだりしましたとなるといろいろ言われてしかりだけれども、総理大臣までもいろいろ言われている。かの国では写真が踏みつぶされたり焼かれたり・・。
そしてもうひとつ不思議なのが国政選挙や知事選なんかに出てくる不思議な人たちだ。奇抜なかっこうをしたりとんでもない政策をぶち上げてほとんど得票することなく消えてゆく、いわゆる「泡沫候補」という人たちなのだが、おふざけをするにしても供託金を数百万も出してもったいなくないのだろうかといつも思うのだ。

この本は、そんな泡沫候補、この本では敬意を表して「無頼系独立候補」と呼んでいるけれども、そういう人たちがどういう思いで選挙戦に臨んでいるのかということを2014年と2016年の都知事選を中心に取材をしている。
2017年第15回開高健ノンフィクション賞受賞作なので、候補者をゲテモノ扱いしているというものではない。候補者たちの思いは、マスコミはどの候補者も公平に扱うべきだ。そして、すべての候補者は少なからず、世の中をよくしたい、不公平や不満を解消したい。この二点を広く知ってもらいたいという思いで戦っているのだということを読者に語っている。
前半はけっこう有名なマック赤坂への密着取材、後半は2014年16年の都知事選での無頼系独立候補者への取材内容という構成になっている。
朝日新聞の内部文書では大体、3ランクくらいに分けて報道するそうだ。当選が有力視される一般候補、とりあえずまじめなミニ政党などの準一般候補、それ以外の特殊候補。これには、売名や営利、自己のマニア的欲求を満足させるために立候補したと思われる候補者と書かれている。一般候補は頻繁にとりあげられて報道されるけれども、特殊候補にいたってはほとんど報道されず、ひとくくりで、「独自の戦いを繰り広げています。」なる。2016年の民放主要4局の泡沫候補に割かれた選挙報道はわずかに3%だったそうだ。

マック赤坂は同じ供託金を納めているにも関わらずそれは不公平だと奇抜なコスプレや有力候補者の街頭演説に割り込んでいくなどという奇策を案ずる。タレントやスポーツ選手などは知名度があるから何もしなくても十分目立つけれども、悲しいかな、それ以外の人たちはそうでもやらないと誰も振り向いてくれないのが今の世の中であり、制度であるそうだ。マック赤坂も、スーパーマンのコスプレで、「人は売名行為だというけれどもこうでもやらないとだれも自分の声を聞いてくれないのだ。」としみじみ言う場面が悲しい。

マック赤坂はロールスロイスを広報車に使うくらいだからかなりのお金持ちのようだがもっと知名度のない候補者たちはアルバイトで貯めた貯金を使い、また、サラ金から借金をしたり別荘を売ったりして選挙に臨む人もいる。それはひとえに今の社会に不満があり、少しでも世の中をよくしたいという様々な公約を掲げて選挙戦に臨む。それでも街頭演説ひとつしない候補者もいるというのが不思議だ。
この都知事選のころは東京オリンピックや築地市場の移転問題が話題になったころだ。その他、待機児童や最低賃金についてこれはもっともだという公約を掲げている候補者もいるけれども、恋愛特区を作るだとか、独身税、肥満税だとかいうようなトンデモ公約みたいなものも出てくる。ちなみに恋愛特区案はマック赤坂の公約だったそうだ。玉石混交というのも仕方がないとは思うけれども、それがあまりにバカバカしいものになってくると、無頼系独立候補はみんなトンデモ公約ばかりを主張していると思われてきてしまうのが悲しい。しかし、逆に考えると、こういう候補者たちは我々にもっと政治リテラシーを持ちなさいと言っているのかもしれない。そいう僕も、選挙公報なんてほぼ読まない。後々になって当選した知事が採用したと(いうかパクった?)思われる公約もあったということだからやはりすべてがトンデモというわけではなさそうだ。

どちらにしても、有力候補者の公約でも、それ、ほんとにできるの?お金はどうなるの?と思えるようなものもあるのだから、有権者はもっと政治に関心をもって世の中を見ないといけないと思うのだ。一般人が選挙に無関心だというのは制度にも問題があるらしく、立候補に必要な供託金は世界と比較して日本は突出して高いそうだ。これは戦前、共産党排除のために設けられた制度がそのまま尾をひているのだと著者は言っているけれども、そのほか、他国ではもっと選挙期間も長いそうだ。その間に有権者は候補者の考えをじっくり審査できるという。アメリカ大統領の選挙もそういえば1年間続く。最終の候補者は一人に絞られるが、じつは有名無名合わせて数十人規模で立候補しいているそうだ。それだけ門戸が広いということだ。そういうことは見習わないといけないのだろうなと思う。

しかし、人の上に立とうと志すものなら、品位も必要だろうと思う。全裸の選挙ポスターやスーパーマンのコスプレで尊敬を集められるわけがない。この前の参院戦でも人をバカにしたような政見放送があったけれども noblesse oblige という言葉を彼らは知らないのだろうか。それを見て投票する人間もその品位を疑われる。政治はその国の民度を表すそうだが、この国の民度はそんなところだろう。きっと。
ただ、この人たちの言葉がすばらしい。マック赤坂は、「自分が正しいと思ったことをしろ。やりたいことをやれ。そうすれば底に責任が生まれるし、逃げ道もなくなる。だからこそ真剣になれる。」供託金が270万円足らなかった候補は、「有権者はなぜ立候補しないのか。民主主義とか選挙制度って、これまでの人たちが命をかけて得てきたものです。これを守り続けるためには文句を言ってるだけじゃダメ。」たとえ勝ち目がなくてもそれを社会に身をもって示しているのだ。

そして、民度というと、2016年の都知事選に落選したあと、地方議会の議員になった人と国会議員になった人がいる。2013年にインターネットでの選挙運動が解禁されたことで世間ではもっぱら、その拡散力が民意を掬い取ったのだと評価されているけれども、はたしてそうだろうか、SNSの世界は極論がもてはやされる、とにかくセンセーショナルな言葉を打ち放てばみんな喜ぶ。そして何かひとつのものを叩けば叩くほど一部の人間は躍起になって喜ぶ。そして広がる。
おそらくそんな人はどこかで高転びをして消えることになり、それを権力に押しつぶされたというのだろうけれどもそれは品位の問題だとはきっと自覚しないのだと思う。

変なことをしないと目立たない。そして変な行動がすべてを変なものとして認識させてしまう。そしてまっとうな小さな意見は日の目を見ない。きっとこの国はそんなことにしかならなない国になってしまったのだろう。
著者はどんな候補者にもそれなりの思いがあるというけれども、どんな思いも好き勝手にやっていいわけではないと僕は思うのだ。
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「絶滅危惧の地味な虫たち」読了

2019年09月11日 | 2019読書
小松貴 「絶滅危惧の地味な虫たち」読了

NHKで香川照之が扮する「カマキリ先生」が、昆虫の数は30年前と比べると80%減っているというデータがあると言っていた。
環境省が発行している生物絶滅に関するレッドリストでは865種類の昆虫が絶滅危惧種としてリストアップされているそうだ。そのうち、160~170種は蝶やトンボ、大型の甲虫類で、残りの700種類足らずは見るからにどうでもいいような風貌のハエや蚊、ハチにアリ、カメムシ、ハナクソサイズの甲虫といった地味な虫によって占められている。
これが多いかどうかというのはわからないけれども、確かに自分の周りの虫は少なくなったような気がする。
この本はそういうレッドリストに掲載されている地味で、絶滅したとしてもだれも絶滅したことさえもわからないような、とるに足らない、小さくて生息域もごく限られているような虫たちに愛をそそいで書かれている。
それをこういう言葉で表現し、また人間たちを揶揄している。
「これらの昆虫は、一般人の同情を誘うような外見ではないため、大して保護されることもない宿命を負っている。」「小さな洞窟に住む暗くて湿度が高い場所を好む虫は、そこが観光開発されてライトが点けられコンクリートで歩道が作られると人知れずそこから消えてゆく。そこに住むコウモリなどの生態については説明のパネルがあるけれども、かつてそこにいた虫のこと、そしてそれを観光開発のせいで絶やしてしまったことに関して説明するパネルはひとつも見当たらない。」

これは著者の責任ではないけれども、愛があるわりには、「メクラチビゴミムシ」とか、「アオスジミゾドロムシ」とか、「クロモンマグソコガネ」とか、どう見ても愛情が感じられない名前が多い。名前をつけた人たちも、おれはどうしてこんな虫を相手にしているのかと半分やけになって名づけたようにしか思えない。しかし、それも味方によっては名付けたひとの愛?を感じることができるような気もする。

前に読んだ本のところでも書いたが(上記カマキリ先生のリンク)、小さいころはご多分にもれず虫が好きであった。夏になるといつも虫かごと安い補虫網を持ち歩いていたような気がする。住んでいたところは、今、船を係留している港からほんの少しのところで、海辺はすでに貯木場として埋め立てられてはいたもののだだっ広い広場が続いていて雑草が生え放題で大きな水たまりもあり、バッタやトンボがたくさん飛んでいた。コウロギなんて山のように捕れたものだ。足首くらいの深さしかなかったけれども水たまりにはヤゴが泳いでいたりして、捕まえてはアゴを伸ばして遊んでいた。まだ、蓮池というのもところどころにあって、そこではごくたまにミズカマキリやタイコウチを見つけることができた。さすがにタガメというのは見ることがなかったけれども、鉤のようになった前足にはドキドキしたものだ。
家の中にもたくさんの虫が入ってきた。コメツキムシはよくいじくって遊んだし、直径10センチはあろうかというクモなんかもよく畳の上を歩いていた。

家の近所ではどの家も仏壇用の花を植えていて、アゲハチョウやなんとかシジミというような蝶がたくさん飛んでいた。アゲハチョウだけでなく、クロアゲハやアオスジアゲハなんていうのも普通に飛んでいた。虫の死骸や飴が落ちているといつもアリが群がっていたし、犬のフンには必ずギンバエがたかっていた。

アメンボは小学校の近くにあった、あれは養護学校かなにかだったのだろうか、蓮の浮いた小さな池が並んでいる中庭にいくとたくさん浮かんでいた。この本を読んでいて、そうそう、あれはマツモムシっていう名前だったとカヌーみたいな小さな虫を思い出した。

受験勉強中は窓からたくさんの虫が飛んできてノートの上に落ちてきた。蚊は当たり前だし、周りに田んぼが多かったせいか、緑色のヨコバイというやつが僕の勉強をよけいにわからなくしてしまうのだ。わからない数学の問題を解いていると腹が立ってきて、まち針を取り出して串刺しにしたりしてしまった。

そういう思い出があるけれども、本当に最近は虫を見ない。老眼が進んで見えなくなってきたというのもあるだろうけれども、アリもハエもしかり、家の周りでアゲハチョウなんてついぞ見ることがなくなった。港の周りにも何もいない。空地は工場になり、除草剤や殺虫剤が撒かれて消えてしまったんだろう。ハンミョウが走り回っていた、わずかに残っていた砂浜もとうの昔に消えてしまった。
セミは相変わらずうるさいほど鳴いているけれども少なくとも僕の生活圏では間違いなく昆虫は減っているようだ。

僕が唯一自然と交わることができる場所は生石山だけになってしまった。行く時期は春先で緑も少ない時期だけれども、まだあそこだったら盛期になればたくさんの昆虫たちが飛び回っているに違いないような気がする。しかし、それは昆虫たちの世界としてそってしておいてあげよう。
僕ひとりがそっとしておいてあげてもあげなくても何の変りもないことなのだが・・。

はたして、今度の内閣改造で環境大臣になったホープはこういった虫たちに愛を注いでくれるほどの器量はあるだろうか・・・。

惜しむらくは、この本、カラーのページがほとんどない。せっかくたくさんの虫が紹介されているけれどもそれをはっきり見ることができない。と、思っていたら、この本に出てくる虫たちをネットで調べていると、おそらく著者か書いているだろうと思われるブログを見つけた。

http://sangetuki.blog.fc2.com/

ここには地味とは言いながらそこにはきれいな虫たちの画像が掲載されている。ぜんぜん地味ではない。こんな造形を作り出した自然はやはりすごいと思うのである。
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紀ノ川河口釣行

2019年09月09日 | 2019釣り
場所:紀ノ川河口
条件:若潮 9:30干潮
釣果:タチウオ 1匹

そろそろ小船にも乗っておかないと2週間のブランクが空くことになる。今日もスズキを狙ってみてからタチウオに転進という計画を立てた。ついでに、タコ釣り用のエサが残っているのでそれも使い切ろうと考えている。
午前4時半にポイントに到着し、40分間ルアーを投げ続けたけれども今日もアタリなし。少し明るくなってきたので青岸の沖へ移動。
今日はいつもの仕掛けではなく、ワインドを使う。少し趣向を変えてみようというところだ。
しかし、夕べ、準備をしていたら、ワインド用のワームが見当たらない。ものを整理するのがすごく苦手だから、釣りの種類ごとに入れ物を変えてそれだけを持って出れば忘れ物がないようにしているのだけれども、いつものカバンに入っていない。家の中で心当たりを探してみるけれどもやはり見当たらない。ひょっとしたら、カバンのポケットに入れていたワームをバイクで移動中に落としてしまったのかもしれない。僕は同じようなことをして、双眼鏡も落としてしまったことがあるのだ。
仕方がないのでありあわせのワームを使ってスタート。
1投目でベルトサイズが釣れたので、この仕掛けでもまあまあやれるじゃないかと思ったけれどもあとが続かない。やっと1匹釣ってそのあとにリーダーを食いちぎられてその後はアタリがないまま終了。

再び紀ノ川の中に入ってタコ釣り。



これもアタリがないまま終了。

沖の方を見るとべた凪なので、いっそのこと洲本に行っておけばよかったかとも思うけれども、この暑さでは体がまいってしまう。8月の末に少し涼しい日があって、やっぱり秋はちゃんとやって来るな~と思っていたけれども、9月に入ってのこの暑さはいったいどうなっているのだろう・・。
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紀ノ川河口釣行

2019年09月05日 | 2019釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 4:14干潮
釣果:タチウオ 28匹 ツバス 2匹 ヨコワ 1匹

前回の釣行では同じ場所で釣っていたNさんにしてやられたのが悔しくてもう一度同じルートで加太へ向かおうと考えた。
まずは保険のタチウオだ。午前4時半に出船したが、港への道中、南西の空で雷が光っている。それも頻繁に。確かに予報では「ところにより雷雨」となっていたけれども、今日の天気はどうなるのだろうと不安になる。



ポイントに向かう途中には東の空でも雷が光り出した。天気がいいのはこの辺りだけのような感じだ。まあ、紀ノ川河口なら何があってもすぐに港に逃げ込める。しかし、人生の中で2回目に見た稲光は怖い。それも船の上からだとものすごく怖い。
こんな日に果たしてタチウオが釣れるのだろうかと不安な気持ちで仕掛けを下したが、アタリが出始めると怒涛のアタリラッシュだ。今日も1本鉤を食いちぎられたけれども、残り4本の鉤にほとんど複数のタチウオが掛かってくる。ベルトサイズも少し混じるけれども、今日も型はまずまずだ。小さくて元気そうなやつは逃がしながらも28匹だ。
やはり型が大きいと歯も鋭くなるのか、最後の方は仕掛けはズタズタになっていた。前回は3本の鉤を取られたので今日は補強の糸の長さを長くして仕掛けを組んだのでそれが奏功したのだろうか、なんとか幹糸は持ちこたえてくれた。僕の親指もズタズタだ。もうすこし深く引っかかれると血が止まらなくなる・・。



アタリが遠のき、さて、これからどうするか。加太に向かうか、それとも帰るか。西の空を見てみると沼島の方に雨雲が見える。多分、あれが雷の巣になっていた雲だろう。しかし友ヶ島はくっきり見えているから雨は降っていないようだ。とりあえず行ってみよう。
僕の小さいクーラーボックスはこの時点でほぼ満タン状態になっているので(もちろん、氷もかなり入っているけれども。)真鯛を1匹釣ったら帰ってくるつもりだ。それ以上魚は入らなさそうだ。



しかしながら住友沖に差しかかったころに雨が降り出した。土砂降りとまではいかないがけっこう降っている。沖の方でも降っているらしく、きれいな虹が出てきた。



海面から海面まで、くっきり180度見えている。



これで諦めが付いた。夜明け前の雷を見ているので少し怖くなっている。帰るぞ。そのまま帰るのはもったいないので仕掛けを下しながら移動しているとツバスとヨコワが食ってきた。ヨコワを釣ったのは初めてだ。どんな味がするのか、楽しみだ。



魚はそこそこ釣れたものの、勇気を振り絞って加太まで行かなかったことでなんだか不完全燃焼なのである。

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「西洋哲学の10冊」読了

2019年09月04日 | 2019読書
左近司 祥子 著, 編集 「西洋哲学の10冊」読了

僕の今までの人生でインプットした資源量と、アウトプットした資源量(=社会に貢献した度合)を比較すると、それはもう明らかにインプットした資源量が圧倒している。要は、社会貢献というものがまったくできなかったのだ・・。人生も第3コーナーを回りきって第4コーナーにさしかかろうかという頃に差し掛かると、それに対してなんとか言い訳をしなければならないと考え始めるのだ。

仏教の本を読んでいると、「諦めること」が肝要であると書いているけれども、それは日々をそう生きていると心が安寧になるということで、人生に対する言い訳ではないような気がする。そして、僕がほしい言い訳の答えが心理学や哲学にあるのではないかと検索をしていたらこんな本を見つけた。
哲学の入門書で、しかも分類は児童書となっているけれどもほぼ中身はわからなかった。僕の知能は高校生以下のようだ。

この本には10人の哲学者が書いた書物の解説が掲載されている。その解説がさっぱりわからない。
なんとかいくらかの部分を拾い出してつなぎ合わせてみる。
まず、人はなぜ哲学をするか。それは、「この世に不満を感じないでいることができるのであれば哲学は必要ない」からである。それでは不満を感じないということはどういう状態であろうか。アリストテレスは、「それは幸福になること。」であるという。
しかし、ハイデッカーは、「不安は常につきまとう。」という。それに加えて、「問い続けることが人間としての存在そのものである。」とも言っている。

ああ、哲学も僕の疑問には答えてくれない。それどころか、“問い続けることが・・・”なんて言われると、永遠に堂々巡りをしていなさいと言われているようなものではないか。
しかし、ラッセルはこうも言っている。「不幸自慢をしている人もそれはそれで幸福なのだ。」今週の「おしん」もそんな心境なのだろうか。少しは心強くなる。

2500年も前から延々と人々が悩み続けていることをたった1冊、それも児童書で理解しようとしたということがもともと無理なことであると、それだけは理解することができたのだ・・。
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