イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『「のび太」という生きかた』読了

2014年07月31日 | 読書
横山泰行 『「のび太」という生きかた』読了

大学の先生がドラえもんを真剣に研究するというのも不思議だ。
のび太の生き方を手本に人生をうまく送るコツを解説しようというものだ。

のび太はぐうたらでなまけもので他力本願だと思われているが、無欲であきらめず、夢を持ち続けるという理想的な生き方をしている。それを学べばあなたもきっと幸せになれる。という・・・。
原作者の藤子・F・不二夫の言葉に、「夢や冒険に憧れ続ける心を持ってほしい」というのがあるそうだが、まさにそれを具現化しているのがこの「ドラえもん」の物語だというのだ。
たしかに数十年間も人気を保ち続けるのには何か魅力的なものがあるのだろうが、そんな哲学がこの漫画にあるのだろうか。

昔、遠藤周作が自分の作品が出題された大学入試問題で得点することができなかったという話を聞いたことがあるが、藤子・F・不二夫もそんなに大して哲学を考えながら物語を作っていたわけでもないのではなかろうか?
そう考えるのは僕が凡人だからだろうか。

まあ、読む人がそれぞれの価値観で読めばいいのだとは思うが・・。たかが漫画だ。
もう少し、老子や荘子、禅宗につながるような発想を期待していたが、ちょっと違った。

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夜釣り

2014年07月29日 | 釣り
場所:***
条件:中潮0:53 干潮
釣果:ボウズ

今の職場はいろいろな魚釣りをする人がいる。
いろいろお誘いをいただき、ありがたい。

今日は夜釣りだ。
夜釣りに行くのなんて何年ぶりだろうか。高校生の頃に行ったことがあるかどうかだ。一応受験勉強に明け暮れていたのでそれも怪しいものだ。
そうすると35年ぶり以上ということになる。

仕事を終え、急いで支度をして集合場所へ。
仕掛けの作り方を教えてもらい防波堤とテトラの間の隙間に落とし込む・・・。

アタリがない。本命どころかエサトリのアタリもない。
真っ暗の中、ケミホタルをつけた穂先を見ているとわずかに動いているような気がするが、どうも幻覚のようだ。
しかし、こんなヘチを探っているのだからカニでも食ってきそうなものだがそれすらない。

ビール(といってもリキュール類のパチものだが・・・)をのみながら夜風に吹かれるのは気持ちがいいが、これだけアタリがないとこれはこれで辛いものだ。
竿の先には何の変化もなく撤収予定時刻を向かえ、ロスタイム15分も何もなく終了。
専門外の釣りは厳しい。専門と思っているものでさえ怪しい限りなのだから・・・。




家に帰ってくると奥さんの機嫌が悪い。
夜釣りに行くと言って出て行っただけだったので、日付が変わる頃には帰ってくると思っていたらしい。
「そんな時間に帰ってくるのは半夜釣りと言うのだよ。」とうそぶいたらよけいに機嫌が悪くなった。
そんな言葉の違いを知っているはずもなく怒るのは当然といえば当然だ。
また当分気まずい雰囲気が続くのだろうか?
まあ、仕方がない。幸せな家庭に幸せな釣りはないのだから。


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水軒沖釣行

2014年07月22日 | 釣り
場所:水軒沖
条件:若潮 8:45干潮
釣果:マルアジ 4匹

港に着いてみると風が強い。早朝はたいがい東からの風だがすでに南西方向からだ。しかし東の空に輝く三日月に勇気をもらって出撃だ。




一文字を越える前から波が立っている。越えてみるとさらに波が高くなる。台風10号の影響だろうか。うねりはないが嫌な感じの波だ。推力がどんどん落ちてきてしまっている我が艇ではまっすぐ進むのがやっとの状態だ。
おまけに月が出ていたはずなのに空は霞か雲で覆われてしまっている。余計に不気味さが増してくる。
普通は時間が経つほど風が強くなるはずなのであまり沖へは出ないでおこうと考えて、わずか水深30メートルのところで停泊。仕掛けもすぐに撤収が可能なように1本だけとした。
まことに消極的な戦術だが仕方がない。

こんな釣り方だからまったくアタリがない。魚探にはわずかだ反応があるのだが・・・。やっと小さなマルアジが1匹・・・。
波は予想に反して少しずつ治まってきているような感じなので少しだけ沖へ移動。
そこで一瞬だけだったがアタリが連発して少しましなサイズを2匹、あと2匹は残念ながら目の前でバラしてしまった。
もう少し粘るべきか、燃料を無駄遣いしないために撤収すべきか。
眠気と揺れで少し気持ちが悪くなってきたのでやっぱり撤収。よく考えたら、7月に入って今日で5回目の釣行だ。7回の休みで5回は朝だけの釣りとはいえちょっと体に堪える。

夕べはあまりよく眠れなかったのでそのまま寝てしまおうかと思ったが、前回のシイラが気になっていた。強力な引きとジャンプは魅力的だ。
そんなロマンを掻き立てるようなことを考えるとやっぱり結果はよくないのだ。僕の釣りは魚が釣れるか釣れないか、どちらかでいいのだ。
何はともあれなんとか魚の姿を見ることができた。
台風が消えるとひょっとしたらまた回遊があるかもしれない。

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「家霊」読了

2014年07月21日 | 読書
岡本かの子 「家霊」読了

この作家は岡本太郎のお母さんだ。
何かの本でこの短編集に出てくる「鮨」というタイトルの小説の話が載っていた。物を食べる光景の表現がすばらしいということだった。
昭和14年に亡くなったということなので著作を見つけるのは無理だろうと思っていたら、文庫が出版されていた。

読んでみると、“食べる”シーンの表現は絶賛されるようなものではないような気がしたが、何気ない日常に少しだけ割れ目を入れた切り口は純文学のはしりのようなものであったのだろう。
4編のすべての主人公が女性であるのは大正デモクラシーの現われか、この時代の女性の強さというか、これから自由に生きるのだという強さがにじみ出ている。
著者の生まれは明治22年。蓮様より4歳年上なだけだ。蓮様も花子さんもこの時代を生きた強い女性であったが、著者も来るべき新しい時代を切り開いた女性だったのだろう。
お互いの著作や人となりも目にすることがあっただろう、それぞれどんな印象を持ったのだろうか。

文明の発展と相まってものすごい期待がみなぎっていた時代がうらやましいと思える。今の時代、将来にこれほどの期待を持つことができるだろうか。それとももっと若い人たちはやっぱり無限の期待をもっているのだろうか。

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双子島沖釣行

2014年07月20日 | 釣り
場所:双子島沖
条件:小潮 6:15干潮
釣果:カマス17匹

今日も午後から出勤しなければならない。
小船を駆ってスズキを狙ってみる。サッと行ってサッと帰ってくることができるしそろそろ例のテッパンポイントが気になる。
と言っても、キス釣りに行くたびにとりあえずルアーを投げてみるがいまだ沈黙したままではあるのだが・・・。

去年の釣行を参考に、暗い時間からキャストできるように出港。




ペンシルベイトをキャストするがアタリはなし。
明るくなってくるとボートの回りでカマスがあふれてきた。
なんでもかまわないから釣れるものを釣らなければと一番小さなミノーに変更して釣りを再開。
それでもルアーが大きいのか、アタってくるがフックには乗らない。
3回に1回くらい魚をとりながら気がつけば17匹になっていた。
けっこう明るくなってきてもカマスは釣れ続けた。これだけの数で水面下を制圧されてしまえばスズキも浮上できないのかもしれない。

道中、紀ノ川にしようかテッパンポイントに行こうか迷ったが、紀ノ川のほうが可能性が高かったのかもしれない。
魚釣りには迷うということがいちばんダメなのかもしれない。
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「学校では教えてくれない宗教の授業」読了

2014年07月18日 | 読書
ひろ さちや  「学校では教えてくれない宗教の授業」読了

この入門書は、宗教を神(または仏)と人間、そして神を中心にした人間同士の関係について重点を置いて書かれている。
ユダヤ教を含め、キリスト教、イスラム教は個人と神が契約を結ぶことで幸福を得ようとする。かたや、仏教は人間どうしの関係に重点が置かれている。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は神との契約のもとに戒律を決め、それを守っていれば神のご加護と祝福があると考える。だから周りの人がどうであれ神様との関係が良好に保たれればいい。
人の顔色を窺うようなことは考えにないのだ。
仏教というか、東洋(きっとアジアの人々だと思うが)の人々は横の関係をものすごく気にするそうだ。隣は何をする人ぞ・・・。というところだろうか。
釈迦が説いたのは、そうやっていると他人と自分を比べ続けていると幸せになれない。だから人のことが気にならないようになるために修行をしなければならないという解脱の心だそうだ。“出家”というのは世間から離れてしまうことを意味する。

この二つの違いから、“愛”についても考え方の違いが出てくる。
ユダヤ教系の宗教は、「自分にして欲しいことを相手にもしてあげなさい。」となる。寄付やボランティアなどというのはこういう精神が根底にあるからやれることなのだろうなと思う。
仏教では、「自分がして欲しくないことを人にしてはいけない。」となる。みんな自分自身を愛しているのだ。それを邪魔するな。という心が垣間見える考えのような気がする。
そこには、こんなことをしてあげたらきっと喜んでくれるだろうという期待があって、そういう喜びの表現を相手がしてくれなかったら落胆や憎しみが生まれる。そんな心を無くすために人には関わるな、強い心を持つために修行をしなさい。という考えがある。
蓮子さんが帝大生と駆け落ちをしても、その原動力の“愛”という力はいずれは嫉妬に変わるのだと思ってしまう僕はまったく解脱のこころが備わっていないのだろう。でも、有働さんもあさイチの受けで同じようなことをポロっと言っていたので、僕だけじゃなくて、解脱が必要な人はいっぱいいるのだと思うと少しうれしくなった。

どっちがどうかというのはないのだろうが、こんな考え方の人々たちが国際政治をやっているんだから、世界に平和がやって来ないのも無理もないと思わせられる。



戒律を守っていても不運なことも起こるし、不幸な目にあうこともある。
そんなときは、神様がそうなんだと言っているんだからあきらめなければならないんだと考える。これが西洋の宗教を信じている人々の考え方である。
約束の時間に遅れるのも、魚が釣れないのも、神様の思し召しということだ。
僕も魚が釣れないことの究極の言い訳としてこれを使わせていただこう。僕はお寺の檀家だが・・・。
東洋の宗教は修行をする宗教だから、そんなことになると、もっと修行をしてもっと自分が理想とする姿に近づかなければならない。
研究して、勉強してそれを克服して釣具屋さんに無数の商品が並べられる・・・。考えてみると日本人は仏教の考え方の典型ではないのかなどと思えてくる。
おそらく釣具の品質では完全に世界を凌駕してしまっているのはそんな努力の賜物なのだろう。僕はその恩恵にあずかれればそれでいいということにしておこう。

月末近くになって、今月の売上はいくらになるんだ?などと予想を一所懸命に考えるのも仏教的だ。多分、西洋の宗教だと、「神様がこれだけ売れると決めてくれ分だけ売れますよ。」となるのだろう。
僕はこの予想をするのは大嫌いだ。そこだけ西洋的だ。

まあ、修行や戒律などということに関しては、ぼくはずっと無宗教でいたいなと考えさせられる1冊であった。
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片男波沖釣行

2014年07月15日 | 釣り
場所:片男波沖
条件:中潮 7:18満潮
釣果:キス 85匹 マゴチ 2匹

午前3時に起きてみると、夜のうちに雨が降ったようだ。
キスは真水を嫌うというが、寝る前に準備した道具を変更するのも面倒だし以前にも雨の後でそれなりに釣り上げたことがあったので予定通りキス狙いで出発。


第1関門はエサの確保だ。
自動販売機にはエサが残っているだろうか・・・。といつもの餌屋に行ってみると珍しく明かりが灯っている。
今日もそうだが、自販機に無造作な字で「石ゴカイは店内で売っています。」となっている。
500円分の石ゴカイをくださいとお願いすると、40円消費税がかかりますとのこと・・・。分量も多いような少ないような・・・。寝巻き姿で店頭にいるおばさんの何もかもが胡散臭く思えてしまう。
活きが悪くてブツブツ切れるようなことはないのだろうな~。


そんな心配をよそにアタリはバンバン続く。
前回よく釣れたポイントは今日も好調だ。
釣りというより作業になってきた。
エサを付け仕掛けを投入。最初に投げ込んだ仕掛けにはすでにキスが掛かっている。回収して魚をはずしてまた仕掛けを投入。前に投げこんだ仕掛けにはすでにキスが掛かっているので回収して魚をはずして仕掛けを投入・・・。
4時間足らず、ほぼこれの繰りかえし。オートマトンの部品と化してしまったようだ。
誘いをかけて釣り上げたのは多分10匹ほどだっただろう。
匹数では自己最高を記録してしまった。

今の片男波の海底はキスの絨毯だ。
ある意味、キス釣りとはこれでなければならない。

海の底はまったくヘドロらしきものがない。だから仕掛けを取り替える必要もまったくない。
多分、今年好調なのはこの海底がきれいなおかげだろう。
当分この調子が続いてほしいものだ。


帰りの道中の海も穏やかそのもの。暑い盛りになるとこの時間でも南西の風が強くてしぶきを浴びながらの帰港になるのだがそういうこともなく、大団円の釣行であった。

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「空白の五マイル」読了

2014年07月04日 | 読書
角幡唯介 「空白の五マイル」読了

開高健ノンフィクション賞の作品を読むのは「インパラの朝」以来2作目だ。
世界最後の未踏地と言われるチベットのツアンポー渓谷を単独で踏破した記録が綴られている。
人が入ったことがない藪やジャングルをダニに悩まされながら、凍傷の危険にさらされながら、飢えながら、死ぬかもしれないと思いながら歩いてゆく。

ところどころに、「自分は一体何のためにこんなことをしているのか。」、「苦労してこんな地の果てまでやってきても楽しいことなどひとつもない。」というような愚痴なのか自分への問いかけなのかのような言葉が出てくる。
自分に振り返ると、仕事って何のためにやってるんだろう?
給料をもらうため?それ以外の何か使命感のようなもの?使命感が生きること? 
自己実現?実現して何になる?そもそも実現することが生きること?
経営者というのは事業を拡大することが人生の目標なのだろうか?拡大しきったその先に一体何があるの?

考えれば考えるほど一体何が楽しくて生きているの?そもそも生きることは楽しいこと?
堂々巡りになってくる。
著者は冒険の中には生きてい意味を感じさせてくれる瞬間があると書いている。
いったいそれはどんな瞬間なのだろう。
冒険ができない僕たちは生きている意味を感じる瞬間がないのだろうか?
仕事は冒険の替りになりうるのだろうか?

やっぱり堂々巡りだ。
多分ずっと考えが堂々巡りをし続けるのだろう。
そして結論を出すには人の一生というのはあまりにも短すぎ、ほとんどの人々はそれがわからずに死んでいくのだろう。

師の言葉に、「釣り師はみんな心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれがどんな傷であるかを知らない。」と言っている。
生きる意味がわからないということが心の傷であるのならば、僕が釣りに行き続けるということにも何か意義があるのではないかと今日のところは悟ったふりをして明日からまた、堂々巡りの生活を送り続けるのだ。



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水軒沖釣行

2014年07月04日 | 釣り
場所:水軒沖
条件:小潮4:28干潮
釣果:マルアジ22匹 サバ4匹


マイミクのちからさんの情報では再びマルアジが回遊してきたとのことだ。このところ休みのたびに釣りに行っているので天気が怪しい今日は安息日だと思っていたが、予報は回復傾向だしこんな情報をもらってしまってはやっぱり行くしかない。
気持ちだけ出発時間を遅らせ、午前4時に家を出発。

情報どおり双子島沖水深40メートル付近から釣りをスタート。



情報は確かなようで、釣りを開始してからまもなくアタリ。
最初はサバが釣れてきた。これはうれしい。今夜もサバ寿司だ。

うねりも気になっていたが、そんな心配はなくむしろ空気は透き通り遠く明石方面まで見渡せるし、



空に残っている雲からは天使の梯子が下りてきて今日の釣果を約束してくれているかのようだった。



沖に見える沼島は遠い航海の末にやっと見つけた島影のような雰囲気だ。



アタリは間断なく続き2時間ほどで画像の釣果を得ることができた。
チョクリでこれだけの魚を釣り上げるのは久しぶりだ。“釣った”という気持ちになれた。

そして今日の海はすごかった。
間断なく続くアタリといい、船の下はさまざまな魚であふれているかのようだった。
海面ではナブラが現れ、その直後魚探が真っ赤に染まった。機械が壊れているのではないのなら厚さではどうだろう、20メートル近くの層になっている。仕掛けにもカタクチイワシが掛かってきた。

 

1メートル近いシイラが仕掛けを切っていくし、やっと真夏の海が海が戻ってきた感じだ。
前回のキスと一緒にあとひと月は楽しませてもらいたいものだ。




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片男波沖釣行

2014年07月01日 | 釣り
場所:片男波沖
条件:中潮 8:00満潮
釣果:キス39匹


そろそろ浅場にも出てきているのかと考えて今日は片男波沖へキス釣りだ。
まずは和歌浦の蓬莱岩の沖からスタート。
アタリは渋が海の底は藻やバイオフィルムのようなゴミも無くかなりきれいだ。
これは少し期待がもてそうだ。
しかし同じ場所で釣っている小船はひんぱんに移動を繰りかえしている。
ここで時間を費やすのはもったいないのかもしれない。
本命の場所は浜の宮の沖だが相当数のバッチ網が出ている。
そこを避けて片男波の沖から再スタート。
ここも底はきれいだ。小さく渋いながらもアタリはそこそこある。
もっと浜の宮に近づけばもっとアタリがあるかもしれないと移動してみたが、今日は片男波の沖のほうがよかったようだ。

午前8時の潮止まりの時間までほとんど飽きることなくアタリは続いた。アタリが無くなったころにエサも底をついて今日は終了。
今日のエサで、3時間ほどの時間で39匹ならまずまずではなかろうか。

今日のエサはスーパー赤イソメ。聞いたことのないゴカイだ。



いつもの自販機に行くと石ゴカイが売り切れだ。というより、「石ゴカイは店で売っています。」と無造作な殴り書きの字で自販機に貼ってある。しかし店にはシャッターが下りている。
釣りエサを売っている店が午前4時を回って営業していないとはどういうことだ。もともと開いていてもおばさんはソファーで寝ているような店だが、これは困ったものだ。
とりあえず販売中なのは青イソメとこの赤イソメ。
使ってみたことのないやつを使ってみようと思ってボタンを押してみた。
「赤」というよりアルビノの青イソメという感じだ。かなり堅く体液も少ない感じだ。鮮度が悪いのかそれともこんなフォルムなのか、尻尾のほうが極端に細い。
エサ持ちはよさそうだが喰い込みは悪そうだ。今日のようなアタリが渋い日には間違いなく不利だろう。
石ゴカイを使っていたらもう少し釣果はよかったのかもしれない。


天気は上々。
帰りの時間には水面は鏡のようだ。



そして今日は片男波の海水浴場の海開き。
いよいよ本格的な夏の始まりだ。
ここ2年ほど厳しかったキスの釣果だが今年は少しだけ期待が持てるのかもしれない。



少しだけうれしい今年の折り返しのスタート日であった。



やっと僕の塩コレクションが役割を発揮することができる。
今日はどの国の塩で天ぷらを味わおうか・・・。







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