イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

この1年を振り返る。

2019年12月30日 | Weblog
今年もあとわずか。この1年を振り返る。

今年はとにかく釣行回数が多かった。その数なんと66回。僕の会社の年間休日数というのが百十数日なので休日の約半分は釣りに行っていたことになる。逆にいうと約半分の休日は釣りに行っていないことになるのだが、その釣りに行かなかった休日、山菜を採りに行ったことはよく覚えているけれども、ほかには何をしていたか大した記憶が残っていない。それではせっかくの限りがある休日だ。せっせと釣りに行って記憶に残そうではないかとも思うのだ。
と、言いながら、結構疲れる。数うちゃ当たるではないのだから回数を減らして内容を濃くしなければならないとも思うのである。

去年に比べると12回も釣行回数が多くなったのはやはり今年の天候がすごく安定していたからだろう。これにつきる。確かに勤務地が地元になったということもあったのかもしれないが、それの影響は読んだ本の数の減少に出てしまった。去年は72冊で今年は55冊、こっちは17冊も少なかった。
ボウズも意外と少なかった。今年は14回。率にして2割1分。去年の1割減だ。ちょっと運がよかったのかもしれない。
そして台風が少なかったのもありがたかった。船のロープを増し締めしに行った回数は1回ほどではなかっただろうか。


去年の暮はかなり暖かかったけれども新年は打って変わって急に寒くなった。初釣行は真鯛となぜか釣れてしまったチヌでスタートした。



魚種別に書いていくと、その真鯛はあいかわらず1匹、2匹で終わっている。周りの人たちは大量に釣り上げているけれども僕にはなかなか回ってきてくれない。船の釣りはこれが釣れなければこの辺で船を持つ資格がないのではないかと思っているから悲しくて仕方がない。秋になってもそれは変わらず、鉤を変え、竿の持ち方を変えいろいろ工夫をしてみるけれどもやっぱりダメなものはダメなのである。
たくさんの名人にどんな釣りをしているのですか?と教えを乞うのだがそれが見事に全部異なる。まあ、本当のことを教えてくれていないから適当が集まってでたらめな技がいっぱい出てくるのかもしれないが、僕はそのせいで余計に途方に暮れるのである。

 

コウイカは去年の暮れからの不調を引きずっていたけれどもなぜだかコチがよく釣れた。そして今年の秋を迎えて例年並みの釣況になってくれたのがうれしい。3年ぶりにイカが帰ってきたという感じだ。

  


 

イカというと今年は久々にアオリイカが釣れた。なんと5年ぶりの釣果であった。



久々というとスズキではないがセイゴが釣れたのもうれしかった。




夏を迎え、チョクリが始まったが、今年はこの時期に鼻血事件が勃発した。鼻血が治まって最初の釣行で再び船の上で血が出てきたときには焦った。



これが理由ではないけれどもチョクリだけで行く釣行は少なかった。

  

逆に初島への釣行が多くなった。タイラバではホウボウやコチが釣れるし、今年ははじめて飲ませ釣りでも釣果を見ることができた。これはこれでおもしろくなってしまったのだ。

 

キスは全然ダメだった。浜の宮の沖は完全に死んでしまったのではないだろうか。もう3年くらいはまともな釣果を得ていないような気がする。マリーナシティの観覧車の前では少しは釣れるけれども爆釣とまではいかない。天ぷらをたらふく食べたいと思うけれどもその望みが再びかなうのはいつになるだろうか。

 

タチウオはよくも悪くもという感じだった。紀ノ川の河口は数は少ないものの大きな型を見ることができた。あまりにも大きいので仕掛けを大量にロストするという弊害もあったけれどもそれを凌駕していい釣果であった。かたや洲本と小島の沖はまったく振るわなかった。せっかく新しい竿を作ったにもかかわらず活躍の場を与えてあげることができなかったのだ。初めて洲本沖へタチウオを釣りに出たのは5年前だけれども、それ以来平均的な釣果はどんどん落ちているような気がする。僕の腕が悪いということもあるだろうが、のべつまくなしあれだけの船がやってきてタチウオを釣り上げていたらいくら大量に生息しているタチウオとはいえ絶対数が減ってきているのじゃないかとも思うのである。あくまでも僕の腕が悪いのを棚に上げておいてという見解ではあるけれども・・。

 

タチウオというと、新たな定番料理を確立した。お手軽で美味しいので来年もどしどし作りたいと思う。もちろん釣果があればという前提だが。




新しい試みは少なかった。唯一成功したのはコウイカのスッテにアシストフックを取り付けたことだ。これで秋以降、2匹のマゴチを釣り上げた。




初めて釣った魚もある。ヨコワとハモだ。僕にとってはもう、魚屋さんでしか見られないような魚だった。ヨコワは小さかったけれどもそのまんまマグロの味がした。ハモはやっぱり素人が調理してはダメだ。骨切りをしてみたものの口の中には大量の小骨が残ってしまった。

  

陸路を行く釣りでは、春の乗っ込みチヌは1回だけの釣行であったけれども好釣果であった。惜しむらくは年なしが出なかったことだろう。数はいらないからでかいやつを1匹ほしいというのは贅沢だろうか・・。



渡船代も値上がりし、こっちもフェードアウトしてしまいそうだ・・。
そして何かほかのネタが伴わないと釣りに行くのが億劫になってきた。冬のフカセ釣りは一応真剣に行きたいと思う釣りではあるけれども、どんどん近場をめざし、かつ帰りに寄り道ができなければ行きたくなくなってきた。今年は久々に醤油を買いに行ったけれどもどうもこれが定番になりそして数年後にフェードアウトしてしまいそうだ。



秋の遠足釣行は釣りよりも寄り道がメインなのは数年前からだが、いい場所を見つけた。行った時期と天気が悪くてボウズで終わったけれども、来年はいい日和を選んでもう一度挑戦してみたい。



魚ではないが、今年のワカメは厳しかった。去年の台風で胞子が岩から剥がされてしまったのだろうか。これは地元だけではなく全国的にそのようだったので仕方がない。

 

今年は今のところ水温が高いようなので来年のワカメも心配だ・・。

また、どうしてだか、係留している港の水質は夏を迎えてもきれいであった。船の下や護岸のそばにはたくさんのチヌが泳いでいた。来年も泳いでくれていたらフライで狙ってやろうと考えている。船の底も汚れが少なくなるからこのままの状態を保ってくれればうれしいのだが・・。




今年もすべての釣行スケジュールを終え、形ばかりの松飾を作って今年のすべての釣行を終了。

 

中古の釣具屋さんへコツコツ拾い貯めた電気ウキを売りに行き、



薄べったくなった潮時表を処分し、デスクトップに残っている潮流表を削除して新しい年を迎えよう。


令和最初の年が暮れてゆく・・。暦なんて人間が勝手に考えた規則で自然の摂理とは全く関係がないと思うのだが、こんな名前の船を見るとなんだか時代の流れを感じてしまう。



来年も安全で魚釣りができますように・・(釣果は二の次で・・)

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加太沖釣行

2019年12月29日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:中潮8:41満潮 14:07干潮
潮流:5:05転流 9:16上り3.4ノット最強 13:06転流
釣果:ハマチ 3匹 コウイカ 1匹

今日の釣行の準備は昨日から始まった。今年最後の釣行、目いっぱい釣りをしたいと思い、修理が終わった小船を昨日の夜明け前に港に戻していた。休日じゃないので当然会社に行かねばならない。だから夜明け前に行動しなければならない。
港にバイクを置いて、信号を渡って、



トンネルを抜けて、



岬を越えた港へ歩いて移動。朝は起きぬけに家を出たのでこんな時に便意をもよおしてきた。しかしそんなときにも救世主がいる。ここにはなぜか公衆トイレがある。



まったくバブルの頃の箱もの行政の賜物というかこんな無駄なものでもたまには役に立つ。

暗い海を通り抜け港へ到着。





そして今日。

満を持して加太を目指す。

しかし夥しいほどの船が出ている。大阪南部と和歌や市内の釣り船がすべて出撃しているのかと思えるほどの数だ。



本当はテッパンポイントに入りたいのだがこの船の数では突撃する気がしない。
田倉崎の離れや沖ノ島の西端で仕掛けを下すがアタリがない。しかし午前8時を過ぎて潮の加速度が緩くなってゆく。なりふり構わずカオスの中に突進。郷に入っては郷に従え、アタリが出た。真鯛のようであったが残念ながらバラしてしまった。
その後になんとかハマチを確保。ボウズを逃れることができた。
潮が緩むに合わせて北上。再びハマチを確保するが真鯛がない。せっかくアタリがあっても途中でバラして今年の真鯛狙いは終了。

残りの時間はコウイカ狙いだ。どうしてだか潮がまったく動かず1時間かけてなんとか1匹。



これで今年のすべての釣行が終了。
まあ、ボウズでなくてよかった・・。

港にも戻って形ばかりの松飾りを作ってすべてのミッションを終了。

 

今年は大きなトラブルもなく1年を終えることができた。
来年も釣果は二の次でトラブルなく過ごしたいものだ。




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「鯖」読了

2019年12月27日 | 2019読書
赤松利市 「鯖」読了

毎年年末は毎年めったに読まない小説を借りて読むことにしている。今年も宇江敏勝の本を借りようと郷土資料の本棚を物色していると「鯖」と表紙に大きく書かれた本を見つけた。小説の本棚にあったので小説だとは分かったが、中身を見ずにタイトルだけが気に入って借りてしまった。
ストーリーを紹介するとこれから読もうと思う人に申し訳ないが、さわりの部分だけを少し書きたい。

登場人物は、紀州は雑賀崎の漁師。その中で、日本中を船団を組んでその場その場で漁獲を売りながら暮らす人たちだ。漁法はもちろん一本釣りだ。カッタクリと書かれているけれどももうこれはほぼチョクリ仕掛けだろう。まあ、チョクリ竿を使った釣りではなさそうなのでカッタクリということになるのだろうけれども、せっかくだからチョクリ釣りという言葉を採用してもらいたかった。
そんな時代遅れ(と書かれている)な漁師たちも一人減り、二人減りし今では船団と名ばかりの1隻での操業だ。旅から旅への漁では先がないと見た船頭はなけなしの資金をはたいて日本海に浮かぶ小島を買い、そこを拠点にした。
一本釣りでは早朝におこなわれる市場のセリに間に合わない。そんなときに拾ってくれたのが地元の料亭の女将であった。そこへ中国からやってきたビジネスウーマンが鯖のヘしこビジネスを持ちかけてくる。
へしこの漁獲とビジネスウーマンの過去、船団を復活させたい統領や女将の思惑が交錯し物語は進んでゆく・・・。という感じだ。
著者は作家でありながら「住所不定」だそうだ。エリートサラリーマンから実業家そしてホームレスへと転落し、1週間で書き上げた短編が大藪春彦新人賞を受賞した経歴を持っているそうだ。「金と色に狂った人間を書き続けたい。」という言葉通りのストーリーである。

そして、物語の語り部であり主人公の名前は、「水軒新一」。“ミズノキシンイチ”と読むけれでも、この名前はまさしく僕が釣りの拠点にしている水軒の集落がもとになっているにちがいない。作家は香川県出身とのことで雑賀崎ともましてや水軒という土地に何の縁もなかったのだろうけれども、きっとここにロケハンに訪れてこの変わった地名に気付いてくれたのに違いないと思うとうれしくなる。「雑賀丸」という船名や「海の雑賀衆」と言葉にもそそられる。
しかし、主人公たちを雑賀崎の漁師にしてみようとどうして思い立ったのだろう。それも知りたい。
日本人も食べない(こともないだろうが・・)マイナーな食材がビッグビジネスなるのかとか、貧乏漁師が島を買えるのかとかということと和歌山弁をしゃべらない雑賀崎漁師に違和感があることはさておいて、登場する漁師の面々の無頼さや土曜ワイド劇場っぽいストーリーはちょっとわざとらしいけれども普通に面白い。
和歌山が舞台の物語ではないけれどもこの書架になければまずは読むことのないジャンルだ。この本をここに分類してくれた司書に感謝だ。
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水軒沖釣行

2019年12月24日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 5:18満潮 10:48干潮
釣果:コウイカ 5匹 コチ1匹

今日は「おだんごクラブ」の会長さんである岩さんとそのご友人に乗ってもらってのコウイカ狙いだ。まずは「おだんごクラブ」というものから説明しよう。僕が今よりももっと紀州釣りにのめり込んでいた頃、「おだんごクラブ」というサイトを見つけた。僕よりも激しく南部の磯を中心に活躍されていたのがおだんごクラブの面々だったのだ。ちなみにクラブの名前の由来はその名のとおりでヌカ団子をまき餌にする紀州釣りをする人が集まるサイトであったからだ。まあ、クラブと言ってもクラブ活動をするわけでなく、サイト上で釣果の報告や情報交換をするという活動だけではあったのだが・・。このブロクの過去の投稿には会長さんと管理人さんとご一緒した記録も残っている。
会長さんと管理人さんはいまでは紀州釣りを卒業し、加太を中心にした船釣に転向され、今でもいろいろ教えを乞うているのだが、今回は逆にコウイカ釣りについてポイントや仕掛けを教えてほしいとのご依頼があった。教えるなんておこがましいが同行していただいた。今日ご一緒した会長さんのご友人は釣り船を所有していて週に3回は海に出ているそうだが、コウイカがなかなか釣れないということだ。
では、一度乗ってみてくださいということで今日の計画となった。



客人をお招きするとまずは釣れるかどうかが心配になる。今日は指南役なのでよけいにプレッシャーがかかる。仕掛けを下して約10分後、まずは僕にアタリがあった。これで、とりあえず、ここでイカが釣れるということを証明できた。あとはふたりの客人に釣り上げてもらうだけだ。
しかし、なかなかこの仕掛けが一筋縄ではいかない。両氏の感想では海底をこするオモリの感覚とアタリの違いがわからないとのこと。そんな中、岩さんにヒット。流石だ、岩さんは帝国軍の傭兵として抜群の腕前を発揮されているがその腕前が発揮されたようだ。しかしあとが続かない。僕はその間に3匹釣り上げていたが岩さんはやはりアタリがわからないというので、御坊のほうで使われている仕掛けに変更するとうまくアタリを取り始めた。合計4匹。僕が追い越されてしまった。指南役としてはなんとか体面を保ちたい。その一心で2匹を追加。4匹目はかなり大きい型であった。
そしてアシストフック作戦も成功。40センチほどのマゴチも釣り上げた。一応アシストフックの効用も示せたけれども、釣ってもらわなければ指南役じゃなくてパフォーマーじゃないかと指導力の無さを痛感したのである・・。

残念ながらご友人はボウズで終了。本当はひとり8匹は釣っていただきたかったが船頭の腕が腕がわるいのかこれだけの釣果で終わってしまった。残念。



途中、南海フェリーの新造船が入港してきた。ブルーのラインがきれいだ。
これに乗って僕もどこかに行きたいなと思ってしまうのである。




今日の獲物はコチの薄造りと定番をちょっと工夫してイカのスペイン風中華味にしてみた。



“中華味”だったら“スペイン風”じゃないじゃないかというのはまあ・・。

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「生き物の死にざま」読了

2019年12月23日 | 2019読書
稲垣栄洋 「生き物の死にざま」読了

生き物がその寿命を終えるその時を追いかけている本である。その死に方は壮絶で、まさに「死にざま」である。
そして、その死にざまを見せるときというのはオスであってもメスであっても次の世代に命をつなぐ場面であるというのが自然界の掟のようだ。

ハサミムシのメスは卵を守り子供が生まれると自分自身を最初のエサとして子供たちに提供し生きながら死んでゆく。タコのメスも卵を産むと絶食状態で守りきり孵化を見届けて息絶えるそうだ。
メスの最後というのは壮絶さの中にも神聖さが感じられる。それに対してオスというのはなんとも悲しげだ。
カマキリのオスはすべてではないがメスに頭を喰われながらでも交尾をやめない。アンコウはメスの体にとりついたのちそのまま溶けて精巣だけが残る。アンテキヌスというネズミは成熟すると男性ホルモンの分泌が過剰になりひたすら交尾できるメスを探し回り、交尾したいというストレスのせいで毛が抜け目も見えなくなるほどになるそうだ。
ちなみに、カマキリのオスはやり得で逃げ切れるやつもいるそうだが、オスを食ってしまったメスの卵は食べられなかった時よりも2倍の大きさの卵塊を生むそうだ。メスも必死だし、子孫を残すという意味ではオスも食べられた方が本望ということらしい。
こう見てみるとオスというのはかなり損な役回りをしているような感じがするのだがこれが自然界では一番効率がいいからそうなってしまっているのだという考え方があるそうだ。メスは交尾のあとも卵を産まねばならないがオスは精子さえ手渡すことができればもう体は必要ない。そんなところだろうか。これは人間にも言えそうでなんだか寂しくなる。

どちらにしてもオス、メスとも次の世代に命を手渡すことができればあとは死を待つだけ。それがまさに「死にざま」であるというのがこの本の本質である。

生物が子孫を残す戦略にはふたつある。大量に子供を産んで生き残る数を増やそうという戦略。子供を産む数は少ないがそれを丁寧に育てて子孫を残す戦略。大半の生き物は前者の戦略を取るのだが哺乳類、究極は人間だが後者の戦略だ。
そして著者は、後者の戦略は、生き残る価値のある強いものだけにその権利が与えられると書く。これは手厳しい。人間の中にもその格差が存在しているのだということを暗に示しているかのようだ。はたして僕はどっちなのだろうかと不安になるのだ。

著者の職業は生物学者だそうだが、文章はかなり文学的だ。以前に読んだ、「鮭サラー その生と死」を思い出した。昆虫にそこまで感情がないのはわかっているけれどもきっとそう思いながら死んでいっているのに違いないと思えてくるような臨場感のある文章だ。
特に、「蚊」が命がけで家の中に侵入し人の血を吸って卵を産む行為が書かれた章はあまりにもリアルだ。そう思っていても夕べ、季節外れのこの季節、僕の血液を狙って顔の周りに危険を冒しながらも飛んできた蚊には敬意を払うことなく殺虫剤をおみまいしてしまうのだ。
少なくとも人間以外の生物の世界には“老衰”というものはない。それが必死で生きる生き物の世界なのである。

しかし、動物の中には、人間のエゴというか欲望というか、そういうもののために命を落としてゆくものもある。この本に掲載されているのはブロイラーと実験用のマウスである。彼らは次の世代に命をバトンタッチするために死ぬのではない。また、ゾウが持っているかもしれない生死観、老化しないハダカデバネズミを例にあげて、ヒトは死に対して本当に正しい感覚を持っているのだろうかと疑問を投げかける。


僕もこういうことには興味があるほうだからこの本に出てくる生物の大半についてはその死に方を知っていたけれども、題材の編集と文章力の前に僕の知ったかぶりは吹き飛んでしまったのだ。
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加太沖釣行

2019年12月21日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:長潮 7:46干潮
潮流:5:41転流 8:49下り1.7ノット最強 11:37転流
釣果:チャリコ 2匹 ハマチ1匹 サバ1匹

やっぱりここのところ休みと天気がうまくかみ合っている。昨日はちょっと風が吹いていたが、今日は雲がおおいけれども風がまったくない。お正月の睨み鯛を釣り上げるべく加太へ向かった。
港へ向かう道中には4個の信号があるのだが最後の1個までノンストップで来ることができた。こんな日はなんだかいいことが起りそうだと期待をしてしまう。

潮は早くに止まりはじめるので少し早い目に出港。といっても明日は冬至、すこし辺りが明かるくなる時刻を待っていたら午前6時半を回っていた。潮は下りになっているので今日は非武装ポイントを目指す。帝国軍の軍港前を通り過ぎるころに朝日の影が見えてきた。



ポイントに到着するとたくさんの同盟軍の船が出ている。しかし帝国軍の艦船は見えない。ちなみに今日の帝国軍はカミテのほうに集結していたようだ。潮流が遅い日なのでやはりナカト周りがいいのだろう。しかし、そんなところに殴り込んで行こうものなら袋叩きに会うのが必至なので同盟軍はここで釣りをせざるを得ない。スターウォーズでも前作は圧倒的な帝国軍の勝利で終わったのだ。昨日公開のスターウォーズでは同盟軍の巻き返しはあるのだろうか・・。



仕掛けを下してみると早速アタリがあった。しかしごく弱いアタリだ。すぐにビニールを放したようだ。その後も小さなアタリが続くけれども鉤に乗るようなものではない。魚探の反応はすこぶるいいのだがこれの大半は多分クラゲなのかもしれない。時たまクラゲの破片と思われるものが鉤にくっ付いてくる。




それにもめげずに仕掛けを下していると本格的なアタリ。真鯛でもハマチでもなさそうな魚はサバであった。それほど大きいものではないけれども今日もきずしにありつける。その後にチャリコ。お正月の睨み鯛を確保できた。本格的にアタリが出始めたのは最強時刻を過ぎてからだ。同盟軍は朝の位置からほとんど動かないけれども僕はジノセトに近い所に移動した。それがよかったのかここでハマチとチャリコを追加。
午前10時を過ぎて潮も止まりかけというタイミングで今日は終了。

けっして大した釣果ではないのだがお正月の鯛を確保できたことと天気が穏やかだったこと、信号がずっと青かったことでなんだかイライラもピリピリもすることなく釣行を終えることができた。

あえていうなら、「天に神しろしめし。なべて世はこともなし。」というところだろうか。お正月の鯛も神様が遣わしてくれた獲物に違いないと思うのでありがたく頂戴したいと思う。




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「ほろ酔いばなし 酒の日本文化史」読了

2019年12月20日 | 2019読書
横田弘幸 「ほろ酔いばなし 酒の日本文化史」読了

日本酒にまつわる文献や言い伝えをエッセイ風にまとめたものだが、なかなかいろいろなものが盛りだくさんである。古事記の時代から現代の日本酒事情までよくぞこれだけ調べられるものだと思う。

酒は百薬の長として、1日に摂取するアルコールは20グラムが健康を保つには最適でまったく飲まないよりも飲んだ方がいいというのが今までの定説だったそうだが、最近の論文では飲まないに越したことはないそうだ。
今年の5月に血圧が高いと言われ、これではお酒が飲めなくなるのではないかと温存している高価なお酒(と言ってもワインは1500円、日本酒は2000円までなのであるが・・)から飲んでおこうみたいなことを考えているけれどももうここまで来たら別にあとはどうなっても構わないだろうとも思ったりもするので、僕はきっと医者から止められてもこそこそ飲んでいるのだと思う。
葛西 善蔵と言う作家は、「酒は美味しくていいものだ。実に美味しくて毒の中では一番いいものだ。」と言ったそうだ。まさしくそのとおりだ。

お酒を飲んで衣服が乱れるほどどんちゃん騒ぎをするのは日本だけだそうだ。もともとアジア人種だけが酒に弱いというところもあるのだろうが、ヨーロッパではまずそういうことがないそうだ。そういえば、昔BSでやっていた、「世界入りにくい居酒屋」と言う番組でも、ヨーロッパの国ではどれだけ酔っている人でも相手に酒を押し付けているシーンは出てこなかった(飲まないなんて残念だというようなことを言う人はいたけれども。)。

「無礼講」などというくだらないものを始めた人は後醍醐天皇だったそうだ。隠岐の島に流されたあと、再度北条家が牛耳る鎌倉幕府打倒を画策したとき、臣下の腹の内を探ろうと身分の上下なく自由に何でも話せる場を設けたということだが、要は裏切り者は誰かを知りたかっただけのことであった。何かしゃべらせようと無理やり飲ませる習慣がここから始まりそれが延々と続いているのが会社でやってる宴会ということになるのだろうか。腹の探り合いをしながら飲むお酒の味なんて想像するだけでお酒に申し訳ない。逆に、二宮金次郎は献酬を禁じたそうだ。人によって飲める量はまちまちだ。人から注がれるより自分で適量を飲んだ方がお酒は美味しくいただける。まったくそのとおりで、おまけに仕事の話をしながら飲むお酒なんてどう考えても美味しくない。

こんなにたくさんのお酒にまつわる本を読んでおきながら僕は相当お酒には弱い。和歌山県では下戸の割合が約50.3%で全国では43位であるという統計があるそうだが、悲しいかな僕はその半分の確率に入ってしまっているので宴会の席で人から注がれるのが迷惑なのだ。そしてそう思っているから人に注ぐことをあまりやらない。そうなってくるとこういう場合は孤立状態ということになってしまうのでよけいに困ってしまうのである。
ちなみに上戸、下戸というのは律令制の時代の家が大きいかそうでないかの違いを表す言葉であったそうだ。男子がたくさんいて収入が多い家は上戸、逆が下戸。お酒をあんまりたくさん買えないから下戸となる。
宴会のテーブルにはたくさんのビール瓶が並ぶけれどもビールはお腹がすぐに膨れるからあんまり飲みたくない。人と飲むなら趣向が同じで尊敬できる人と飲みたい。あこがれは「竹林の七賢」だ。血圧を意識し始めてからはなおさらだ。
しかし、この血圧が高いので経過を見ているというのはいい口実になる。
家で毎日、コップに一杯分のお酒をちびちび飲んでいるというのが一番なのである。

今のように澄んだ品質のよい日本酒が造られ始めたのは室町時代のころからだそうだ。「諸白」と言い、麹も酒米もすべて白米を使うようになってからだそうだ。これは米の生産量が増え、お酒造りに回せる米が増えてきたからという理由なのだが、せっかくいいお酒が造れるようになったのに、当時は「飲み比べ」というような、味わうという趣向のまったくない飲み方も流行したそうだが、以来、その飲み方については500年以上まったく変わっていないというのがこの国のお酒の飲み方のようだ。戦後は三倍増醸清酒というような粗悪品が生まれたのもこういう、味わいとか趣というようなことをともすればないがしろにするという国民性は昔から変わっていないような気がするのだ。
流されたくないものだ。
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水軒沖釣行とオイル交換と雑賀崎へ。

2019年12月16日 | 2019釣り
場所:水軒沖
条件:中潮2:41干潮 9:30満潮
釣果:コウイカ 12匹

今日の休みも天気がいい。ローテーションどおり今日は小船に乗ってイカ釣りだ。9時半には満潮を迎えるのでちょっと潮的には厳しいかもしれないが今年の状況ならおかず分くらいはなんとかなるだろう。

来週には冬至になるので夜明けが遅い。今日は午前6時半過ぎに出港。そして予報通り寒い。特に船外機の船に乗ると風を遮るものがないからとにかく寒い。スロットルを握る手は千切れそうになるので今日はワークマンで買った防寒手袋を持ってきた。運転中だけ使おうと思ったのだが釣っている最中も使ってみたらなかなか調子がいい。スッテの仕掛けなので特に仕掛けも触らないので指が出ていなくても問題ない。全部の指が手袋の中なのでかなり快適だ。分厚い生地なのでアタリがわかるかどうかが不安だったけれども今日については特に問題がなかったようだ。次からもこれでいこう。



まずはいつものポイントからスタート。流れはそこそこあるがアタリがない。潮が止まるまでそれほど時間がない。転々とポイントを攻めようと新々波止に沿って沖へ移動したのだが、これがよかったようだ。沖に行くほどアタリがある。
4匹目くらいまで順調に釣れていたところでバッチ網が登場。僕のポイントの真上を引いている。


コウイカは網が通ったあとでもあまり関係なくアタリがあるが今日はどうもそうではなかった。でも、少し防波堤から離れて仕掛けを下すとまたアタリが続いた。
午前10時過ぎに終了し。イケ〇マリンへ電話を入れてみる。夏頃(7月16日)に電話して頼んでおいたのにまったく音沙汰なしでとうとうチルトが壊れる寸前になってしまったのだ。今日はこのまま強引に船を預けようという魂胆であったが昼から戻るからということで侵攻作戦はお預けになった。
和歌山ではマリン〇ームオ〇タというところがヤマハの代理店なのだが、どうもここは好きになれない。一度部品を買いに行ったことがあるのだが、何か人をバカにしたような対応が気に入らなかった。雑賀崎にあるここはズボラだが近くて無駄な修理をせずに安くあげてくれるしもちろん修理自体もきちんとやってくれるのだ。ズボラなところがなければ言うとこなしなのだけれども・・。まあ、落語でも水戸黄門でも腕のいい職人は頑固でズボラというのは定番だから仕方があるまい・・。

その前に大きい方の船のオイル交換だ。1年に1回おこなっているのだが気が付けば1ヶ月超過している。最近、オイルが黒くなってしまったな~と思っていたが1年以上経って去年よりかなり乗っているのだからさもありなんだ。




約40分でオイル交換と燃料の補給を済ませいざ雑賀崎へ。陸路を行ってもジロリと睨まれるところだから海路で入るとどうなることやらと思っていたけれどもすんなり桟橋まで到着。

 

なんとかチルトが壊れる前に船を預けることができた。「モーターも変えなきゃダメですか?ついでにインペラも好感した方がいいですか?」と聞くと、「そんなのは壊れる寸前まで使えるから大丈夫ですよ。」という心強いというか、無駄なことはもったいない精神というか、多分マリン〇ームオ〇タなら、全部とっかえましょう!!(想像ですが・・)となるところだが、たかっさんと同じ系統のメカニックなのがありがたい。

今日の獲物はイカのスペイン風ブラックバージョンにしてみた。
いつもよりコクが増してこれはこれで美味しい。口の中が真っ黒になってしまうのであるが・・。





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加太沖、水軒沖釣行

2019年12月13日 | 2019釣り
場所:加太沖、水軒沖
条件:大潮 7:16満潮 12:46干潮
潮流:8:18 上り3.4ノット最強 12:13転流
釣果:真鯛2匹 カスゴ1匹 ハマチ3匹 コウイカ4匹

ここ数回の休日は毎回天気がいい。うまく休みのサイクルと天気のサイクルが合うとこんな感じだ。休みごとに釣りに行っていると、バカじゃないかと思われるかもしれないが天気が悪くて釣りに行けないよりもましだ。ちなみに今の予報では次の休みもいい天気だ。

そして12月の半ば、やはり正月用のにらみ鯛もほしい。決戦は金曜日、今日は頑張りたい。潮も僕が好きな上り潮だ。

朝はちょっと早く午前6時半に出航。

湾内では巨大なクレーン船が早朝から何やら作業をしている。ライトに照らされた姿がきれいだ。



そして今日は満月。この時期の満月はコールドムーンと呼ばれるそうだ。そして令和元年最後の満月なのである。



まずは船団ができている田倉崎の沖合からスタート。



ここではアタリが出ない。ほかに船はなかったが大型漁礁のそばに行ってみたけれどもここでもアタリがない。次に移動したのはテッパンポイントの少し南側。ここにも船団ができておりここで今日最初のアタリ。
これは少しドラグを緩めすぎたようだ。かなり底の方でばらしてしまった。最初のアタリでばらすとへこんでしまう。しかし、今日はけっこうアタリがある。再びアタリ。今度はうまく取り込めた。40センチを少し超えたくらいだろうか。いい真鯛だ。
潮は少しずつゆるくなってゆくのでそれにあわせて北上する。
今日の船団はずっとこの場所から動くことはなかったが、僕の移動は吉とでるのか、凶と出るのか・・・。テッパンポイントまで北上したときアタリがあった。よく引く魚だったが道糸が6メートルところまできてばらしてしまった。この魚は間違いなく真鯛であったがふつうならこのくらいの水深まできたら観念しておとなしくなるはずだ。油断してしまったのだろうか。気落ちしたままで仕掛けを回収すると鉤が折れていた。



今年の秋からよく刺さる針を使っているのだが少し軸が細い。たまに鉤が伸びているときがあって気になってはいたのだが折れてしまうとは悲しい。結構いい値段で、仕掛けを1丁作るのに鉤代だけで100円もするのだが・・・。

気を取り直してまた北上。Nポイントの少し南で反応がでてきたのでそこからスタート。海底から15メートルくらいまでびっしりと反応が出ている最中にアタリ。この群れはハマチに間違いがない。少しいい型を取り込んだがまだ魚が付いていた。ほぼツバスサイズだが一度に2匹ゲットだ。
そして今度はカスゴ。にらみ鯛にするのにはちょうどいいサイズだ。またカスゴが掛かりその姿が見えるところまで上がってきたがそこからさようならしてしまった。これを釣っていれば僕の家と叔父さんの家の2軒分のにらみ鯛を確保できたのだが我が家の分はまたお預けだ。その次にまた最初と同じサイズの真鯛。そしてハマチ。

転流時刻は正午過ぎだが、この頃を過ぎてアタリがなくなった。帝国軍も帰投を始めており、僕も次の釣りに向かって一度帰港するのだ。

午前11時半ごろに港に戻り、小船に乗り換えコウイカポイントへ。大きな船で帰りがけにそのまま釣りをすればいいじゃないかというものだが、小船にも長らく乗っていない。それに決戦は金曜日。最上の態勢でイカ釣りにも臨みたい。
しかし、いつもの場所は潮がまったく動いていない。干潮時刻に近づいているのでダメなようだ。加太もそうだったが、大潮のわりに潮が動かない。
これではまず釣れない。新々波止の先っちょまで行けば少しは潮が動いているかもしれないと移動したが、これが当たった。



今日のコウイカはすべてこの付近で釣り上げた。しかし、今年はイカが多い。前回に引き続き真昼間の1時間半でこれだけの釣果だ。
1日の間に船を乗り換えての釣行というのはドタバタでかつ欲張りすぎているのではないかと思っていたが、確かにたくさんばらしはあったもののどちらの船でも釣果を得ることができたのは決戦は金曜日作戦、すこし成功としてもいいのではないだろうか・・。

今日も風がなく日差しがあったのでちょっと動くと暑いくらいだ。ヒートテックもネックウォーマーもなしでも快適に過ごすことができた。年末まで休日はあとわずか。こんな天気に当たり続けてくれると嬉しいのだが・・。


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「同窓会に行けない症候群」読了

2019年12月10日 | 2019読書
鈴木信行 「同窓会に行けない症候群」読了

50代を中心に同窓会に行けない人が増えているという。どうしてそういう人ができてしまうのかということを現代の日本の労働環境の分析を交えて書かれている。ただ、著者は、「宝くじで1億円当たった人の末路」というなんだか月刊宝島風のタイトルの本を書いているような人だから中身はあまりたいしたことがなさそうだ。

同窓会に行けない人はこんな人だということで四つの類型を取り上げている。
①会社で出世できなかったから。②起業して失敗したから。③「すき」を仕事にできなかったから。④「仕事以外の何か」をみつけられなかったから。という理由でそれがどんな原因から生まれるかというのが以下のとおり。

①の、「会社で出世できなかったから」については、バブル崩壊以降、企業の年功序列の制度が崩れた。上司が年下ですとはなかなか言えない。②の「起業して失敗したから。」については、日本では、一度失敗したら二度と立ち直れないほど復活するのは難しい。贅沢を覚える暇もないほどの猛スピードで爆発的な成功を遂げる起業成功者もいるけれどもそれは例外中の例外でその裏には何倍、何十倍の鳴かず飛ばずの例がある。③の『「すき」を仕事にできなかったから。』では、好きなことを仕事にして十分な収入を稼ぎ続けられる職業は限られていてそこで従事できるのは才能に恵まれた一部の人だけである。④の『「仕事以外の何か」をみつけられなかったから。』では、そもそも日本では労働時間が長くて趣味や家族サービス、子育てなどに割ける時間が諸外国に比べれば極端に少ないのだ。

と、なるのだが、これらの理由そのものがこの国の社会構造や労働環境の問題点を表しているのだというのがこの本の大まかな趣旨である。

そして、そこから導き出せる同窓会へ行けない人の心理状態というのが、承認欲求が満たされていない。または、自信を失っている。ので、「今の自分を見られるのが恥ずかしい。」という言葉でくくられる。
ここのところはなかなかうまい分析だとは思う。僕がこの本を手に取ってみたのはまさに僕自身が『同窓会に行けない』人間だからなのであるが、こうやって具体的に文章に書かれてしまうと、うなだれるしかない。高校時代の同窓会というのが5年に1回実施されているらしいのだが行ったことがない。必ず正月2日に実施されるので、仕事がありますとうまい理由を作って必ず断っているのだが、本心のところはまさにこのとおりだ。出世もしていない、かといってひとりで飯の種を得る能力も度胸もない。釣りは好きだがそれが仕事であるわけではなく浪費の種でしかない。子育てなんて面倒くさかっただけだから今では他人のようだ。
そう思うと、同窓会に行って、僕の今はこんな感じですなんて人に言えるものがない。それに、当時から記憶力というものがまったくなかったのでクラスメートでさえ名前と顔が一致しない。というか、名前さえもほとんど思い出せない。たとえ出席したとしても会場の中で呆然と経ちつくすしかないのである。だからやっぱり同窓会へは行けないのだ。

そしてそんなひとがどうしたら同窓会に出席できるようになるかという回答が、自分は自分、他人は他人という動じない心=「悟り」を開きなさい。となっているのがこの本の月刊宝島っぽいと思う所以なのである。
そして、ところどころ、コラムと称して「○○な人の末路」というのが出てくる。とりあえずは本題に関連したようなコラムにはなっているのだが、よほど“末路”が好きな人らしい。
同窓会に行かないと孤立化や老齢クレーマー(これは現実に僕も悩まされたことがあるが・・)になってしまうという恐れがあるという指摘のところでは身につまされながらも、読み物としては何の知性も感じられず、図書館に蔵書するほどの価値は絶対にないのではないかと思う本であった。

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