イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

タラノメ採り2回目のち加太沖釣行

2024年03月30日 | 2024釣り
場所:加太沖
条件:中潮8:16満潮
潮流:7:37転流 10:00上り0.6ノット最強

先週の日曜日、大雨の中タラノメの調査に出かけていた。例年ならこの時期、半数以上の芽が採りごろになっているのだが今年は3月に入って寒い日が続いたので案の定採りごろの芽はほとんどなかった。



まあ、これは少し不正確な書き方で、採りごろの芽はもっとあったはずなのだかすでに盗られてしまっていた。



この場所はかなり目立つ場所だが2年間は誰にも盗られていなかったのだけれども、無防備にも、僕が採っているところをひけらかせてしまったからかもしれない。目下のところここが一番の大場所なのでかなり落胆してしまった。しかし、今年からは新たなスポットを見つけている。ここもけっこう目立つ場所なので少し盗られた形跡はあったものの奥に進むとまだまだたくさんの株が残っていた。

1週間経った今日、それぞれの場所に行ってみると、雨が降って水分の供給がたっぷり会ったことか、ここ二日の気温の上昇のせいか、芽は一気に大きくなってしまっていた。



無理に持って帰れば食べられないことはもちろんないが、それらは残しても合計4ヶ所を廻ってみるとかなりの芽を採ることができた。



今日はタラノメ採りだけにしておこうと思っていたのだがスポットを廻っている道中、なんとも天気がよい。予報では午前中は風が強いということであったのだがまったくそんな感じがしない。最後のスポットを後にした時にはまだ午前7時半になっていなかったので急いで帰ると加太に行けるのではないかと思えてきた。
いつもよりもバイクを飛ばして家に帰り、タラノメの仕分けをしてから高枝切り鋏を釣り竿に乗せ替えて港に向かった。



住金沖までは快調な航行であったけれども、(と、言っても、住金一文字に打ちつけている波は相当なものだった・・)田倉崎に近づくにつれて風と波が強くなってきた。
ああ、出発前に風速情報を見ておくべきだったと思ってもあとの祭りだ。まあ、それでも引き返すことはできない。



今日は出てくるのが遅くなったので真鯛狙いオンリーでいくつもりだ。四国ポイントの船団をやりすごしてテッパンポイントに急ぐ。



もうこの時は完全にドンブラコ状態になっていた。

早速仕掛けを下ろしてみる。この風では仕掛けを立てるのは難しいと思っていたが、そうでもない。これならなんとか釣りを続けられそうだ。
ただ、仕掛けは船の下に潜ったり前に出すぎたりとあまり安定しない。仕掛けと竿が一直線になってしまったとき、アタリが出た。しかし、この状態ではどうしていいかわからない。後から思ったら竿の弾力など気にせずリールを巻き続ければよかったのだろうがこれもあとの祭りだ。苦しまぎれに合わせを入れてみたがまったく魚の重みは感じなかった。仕掛けを回収してみると、歯形がなかったのできっとハマチだったのだろう。
しかし、魚がいることはわかった。風が強いので戦意を喪失してしまいそうだったがなんとかモチベーションを保てそうだ。

1時間くらいで風は治まってきて釣りはしやすくなってきた。潮が緩んでくるタイミングで北上を開始。10時半を過ぎると帝国軍も撤退を始めたのでナカトシタからナカトへ移動。



帝国軍の中枢であるこんな場所で釣りをするのは久しぶりだ。



ナカトの沖ノ島寄り、水深40メートルくらいのところでビニールを薄い色に替えて流しているとアタリが出た。オモリが海底に着いてすぐのアタリだった。大物を期待したが大きさは大したことがなさそうだ。それでもこれが最後の魚になりそうなので慎重にリールを巻いて無事取り込み完了。

その後はナカトの上手、カメガサキに向かってみたがアタリはなく、もう一度ナカトに戻ると下り潮が流れ始めていて僕のテクニックではまったく底が取れなくなっていてここが潮時と今日の釣りを終了した。




港に戻って和歌山城へ。
毎年のとおり菊新丸さんへタラノメを届ける。これも例年ならタラノメの時期はお城全体が七分咲きくらいにはなっているのだがほとんどの桜がちらほらくらいしか咲いていない。



気温が乱高下して植物たちも混乱しているのだろう。今日も和歌山城にやってきた午後3時前くらいの時間は暑くて仕方がないくらいになっていた。今日の和歌山市の最高気温は22.8℃もあったそうだ。ゴールデンウイークころの気温である。
そんな感じの天気だからでもないのだろうが、体力の消耗と関節の痛みが激しい。そして体の動きもぎこちない。滑りやすい斜面であったが2回ほど落ちてしまった。バイクのところに戻ってくると膝のお皿の内側が痛い。もう、歳なのだろう・・。山菜採りもあと数年で引退かもしれない・・。
釣りを終えて家に帰ってくるとへとへとになっていたのである。


このブログは翌日に書いているのだが、朝からスパンカーの補修をやってみた。所々破けているのでこれは買いかえるしかないかと思ったが、菊新丸さんに補修用のテープがあると教えてもらった。



確かになかなか強力なテープなので十分強度は出そうだが、実際に生地を見てみるとかなり劣化が激しくなっていて少し力を入れて触ってしまうと別のところも破けたりしてしまうほどだった。早晩買い替えを余儀なくされそうだが、1年持ってくれれば年間の償却費は1300円ほどだ。買い替えるよりも減価償却費は安くなる。



この作業、幸いにして隣のWさんの船を利用することができた。普通ならかなり離れて係留されているのだが昨日の南風でWさんの碇が引けてしまったようで僕の船に限りなく近づいてきていた。ブームの先の方の破れは小船を横付けして作業をしなければならないと思っていたがそれの代わりになってくれたのである。
春の嵐はタラノメの採り頃を予定から早めすぎた感があるが補修にはいい条件を与えてくれたのである。

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「てんまる 日本語に革命をもたらした句読点」読了

2024年03月23日 | 2024読書
山口謠司 「てんまる 日本語に革命をもたらした句読点」読了

最近、にわかに、「マルハラ」という言葉がクローズアップされている。ウイキペディアで調べてみると、『主にチャットなどのSNSの文面において、句点(。)を使用することで威圧感を与えさせてしまうことを表す造語である。』と書いていた。僕も昔から「。」で終わってしまうとなんかだか紋切り型すぎるなと思っていたのでブログで書く文章でも「・・。」のように少しクッションを置くような書き方をしてきた。
それに加えて、本格的に文章を書くことを学んだわけではないので、「、」についてはどんな時に打てばよいのかずっと悩んできた。

小学生の頃は、国語の授業の作文というと、原稿用紙最低OO枚書きなさいと指示をされるので、できるだけ文字数を稼ぐことと原稿用紙の空白を作るため、やたらと「、」と「。」を入れるというようなことをやってきたのでまったくわからない。
読んでいるうちに、授業の中で、こんな法則で「、」と「。」を使いなさいということを教えてもらったこともなかったように記憶をしているが、そういうことを教えてくれなかった理由というも少しだけわかったような気がする。

「、」や「。」(以後、この本に倣って「てんまる」と書いてゆく)がないとどんな不具合があるかというと、これは日常生活でも実感することだが、読み間違いと誤解を招くということだ。「きょうふのみそしる」というやつだ。しかし、日本語には古来から「てんまる」が存在していたわけではなかった。日本語というのは元々、声に出して読むのが基本だったので「てんまる」がなくてもそのリズムで誤解を招くようなことはなかったのである。源氏物語にも「てんまる」はないのだが、これも、当時の女御たちはこれを声に出して読んでいたからである。
時代が下って、黙読が普通になってきたときに文章に区切りがないと読み間違いが起こってしまうので必要に迫られて付けられてきたのである。
しかし、どの時代にも声に出して済む文章ばかりがあったわけではない。公文書などはどうしていたのかというと、これはすべて定型文があったので読み間違いなどをする恐れはなかったらしい。江戸時代にはそういう定型文が7000種類くらいもあったそうで日常生活での不便はまったくなかったらしい。夫婦が離縁するための「三下り半」にも「てんまる」はもちろん付いていなかったそうだ。
手紙文などでも、大体の定型文のひな型(「往来もの」という)があって、それに倣っているから誰も不便をこうむることがなかった。それに加えて、「~候」という候文が使われ、この“候”という文字が文章の区切りの代わりもしていたのでやはり「てんまる」は必要なかった。

「てんまる」の始まりだが、まず、「、」の始まりは漢文を訓読する際の記号として生まれた。だから歴史上での登場は早く、奈良時代の写本(「文選李善注」という書物)にすでに登場しているそうだ。平安時代前期には読点として使う時は左下に、句点として使う時は右下に付けられた文章が残っている。「。」の出現はもっと遅く、江戸時代の慶安のころにヨーロッパから伝わった「,(コンマ)」と「.(ピリオド)」、平安時代前期に使われた「、」がもとに生まれたと考えられている。

その後、江戸時代後期には古活字印刷というような印刷された文章が作られ、一般庶民にも広く文章が読まれるようになったことが「てんまる」の普及につながった。
それまでも「てんまる」がまったく使われていなかったかというとそうではなく、一部の文章ではそれに替わる方法や記号が使われている文章も残っている。お経には、鎌倉時代や室町時代に「・」が使われているものがあったり南北朝時代には「てんまる」の代わりに空白を入れているものが残っているそうだ。
ほかに、文節や文章の区切りとしては、英語のように空白を入れているような文章も存在する。まあ、過去の人たちもいろいろ工夫していたということか・・。

現在の「、」や「。」はいつごろから使われるようになったのかというと、それは明治時代になってからということだ。学制が敷かれ文部省が日本語表記の基準を作ってからのことであった。この契機になったのは明治の富国強兵策の一環であった。有線、無線による伝令の正確さ、国民の国家に対する意識の統一を求めるため、「国語調査委員会」が作られる。ここで「てんまる」についてどんな議論がされたかという記録は残っていないそうだが、明治39年には「句読点法案」というものが出版されている。「。」はけっこう簡単で、「文の終止する場合に施す」というだけだが、「、」については、21の場合が決められている。けっこう細かい。ちなみに、この法案にはなぜだか「てんまる」は使われていない。まあ、案の段階だから安易に使うなということでもあったのだろう・・。

ただ、基準を作ったとはいってもどんなときにどうやって入れてゆくかということの厳格な決まりがあったわけではない。夏目漱石や森鴎外はそれぞれ独自の使い方をしていたし、前期と後期でまったくそのパターンも違っているらしい。
基準が生まれた時点からあまり守られていなかったのである。

さらに時代が下って、現代ではどうかというと、井上ひさしがこんなことを書いていると紹介されている。それは、「てんまる」に対して、「重要だと考える派」、「単なる記号派」のふたつに分かれるというのである。句読点をきちんと使って文章を正確に、また明晰にしなければならないと考える人と、そもそも文章というのはそういうものがなくてもきちんと伝わるように書かねばならないと考える人たちの違いだ。
また、「視覚派」、「聴覚派」に分かれると考えている学者もいる。「視覚派」は文章の長さや漢字と仮名のバランスを考える人たち。「聴覚派」は音読して息継ぎをする部分に句読点を入れようと考える人たちに分かれるという考えだ。
さらにこの学者は、「視覚派」、「聴覚派」とは別に、句読点を打つツボには四大派閥があると考えている。「長さ派」、「意味派」、「分ち書き派」、「構造派」である。
ここでも基準というよりも、書く人の感性にゆだねられているということである。どれが正しいというものでもないのである。
自分の文章の書き方を顧みてみると、「四大派閥」方法をその時々で使い分けているというところだろうか。

そして、最近巻き起こっている、「マルハラ」問題の原因ではないかというものが最後の章に書かれている。それはマンガに書かれている日本語だ。最近はまったくマンガなど読むことはないけれど、マンガの吹き出しの中に書かれている日本語には一切「てんまる」は使われていないらしい。鳥山明が死んだらものすごいニュースになったが、伊集院静が死んでも一時のニュースで終わってしまっていたように、最近の若い人たちは本よりもはるかにたくさんマンガを読んでいるから「。」に抵抗を感じるのかもしれない。
しかし、面白いのが、小学館のマンガにはきちんと「てんまる」が使われているそうだ。さすが、「小学OO年生」を発刊している出版社ということだろうか。今度立ち読みしてみよう。
そんなことを気にしながら映画の字幕やテレビの字幕放送を見てみたら、ほとんどというか、まったく「てんまる」は使われていなかった。使われている記号は「!」や「?」、「…」くらいである。(いう記号を、「てんまる」を含めて「約物」という。)
きっと、多分、ニコニコ動画なんかに投稿されているコメントなどにも「てんまる」は使われていないのだろう。新聞も本も読まないでそんなものだけに慣れ親しんだ人たちが「。」に違和感を抱くのももっともだと思う。

僕はまったく知らなかったが、今では横書きの日本語では「、」の代わりに「,(コンマ)」が使われるのが普通になりつつあるそうだ。どんどん日本語が変わっている。そんなに遠くないうち、日本語から「てんまる」が無くなってしまうのはきっと間違いがないかもしれない。公文書は最後の砦になるのだろう・・。それでも僕は「てんまる」を使い続けると思うのである。
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「宇宙からいかにヒトは生まれたか―偶然と必然の138億年史―」読了

2024年03月20日 | 2024読書
更科功 「宇宙からいかにヒトは生まれたか―偶然と必然の138億年史―」読了

「138億年史」と書いている通り、宇宙の開闢から現在、すなわち人間が生まれてその138億年を振り返ることができるようになるまでの歴史を1冊にまとめている。
まあ、そういう話をたった1冊にまとめることができるのかとも思うのだが、ものすごくうまく書きあげていると思う。僕もこういった話題の本を数だけは読んできたが、うん、うん、かつて読んだことがあると思ったり、これはこういうことだったのか、これは重い違いをしていた、これは知らなかったといろいろなことを思ったりできた。
著者は僕と3歳しか変わらない分子生物学者だ。前書きには僕も使っていた「試験に出る英単語」を取り上げていた。この本には、「最も重要な単語とは?」という質問に対する答えとして、「使用頻度の多いものではなくて、たとえ、そんなにしばしば使用されないものであっても、その1語の意味を知らないと、その文全体の意味がわからなくなる単語である。これをキーワードと言う。」と書かれているそうだ。
この本も、地球や生物の進化の話について、「キーワード」となりうるものを丁寧に説明するように心がけたと書かれているがまさにその通りであった。文章も、奇をてらったり、ウケを狙ったりするようなこともなく平易な言葉で書かれていて、それは教科書を読むように無駄のないものである。かといって教科書ほど退屈するようなものでもない。

これは知らなかったとか、これは思い違いをしていたというようなことを箇条書きで書き留めていきたいと思う。

人間の体を作っている元素を原子数で並べると、水素、酸素、炭素、窒素の順でこれだけで99%を超える。微量だが、ストロンチウムやヨウ素といった鉄よりも重い元素も含まれている。

現在の月と地球の距離は約38万キロ。しかし、45億年前はわずか2万キロメートルしか離れていなかった。当時の地球はいまだ高熱で溶けた岩石が海のように地球を覆っていた。地質学的な証拠は残っていないが、月の潮汐力によって満潮の時はマグマが1000メートル以上も盛り上がっていたと想像できる。地球の自転速度も速く、1日は5時間ほど。その間に2回もこのような満潮がやってくる。まさに地獄の様相であった。

海の水はいつごろから塩辛かったか?答えは最初から塩辛かったらしい。地球が生まれた頃、大気は水蒸気が100気圧以上もあった。二酸化炭素も数十気圧あり、他には硫化水素や塩化水素も含まれていた。地球が冷えてくると水蒸気は液体の雨になり、硫化水素や塩化水素を溶かし込み強烈な酸性であった。この雨が海を作ってゆく。これだけ酸性が強いと、岩石に含まれるナトリウムやカリウムを溶かして今以上に塩辛かったかもしれないという。こういう事実は、炭素系コンドライトという隕石に含まれるガスから推測できるらしい。この隕石は太陽系が生まれて以来熱変成を受けていないので昔の太陽系の情報をよく保存しているということだ。
ちなみに、現在の雨というのは大気中にある0.035気圧の二酸化炭素のせいでpH5.6くらいの「酸性雨」だそうだが、これくらいでは酸性雨とは呼ばないらしい。

温室効果ガスは二酸化炭素以外に代表的なものにはメタンがあるが、他の条件を変えずに温室効果ガスをすべて無くしてしまったら、現在の地球の平均気温はマイナス18℃になってしまうらしい。温室効果ガスは人類の敵だと思われているが、実はこれがないと人類はまともに生きてゆくことができないのかもしれないのである。

ここからは生物が生まれるきっかけとは何だったのかということだ。
結論からいうと、それはいまだにわからない。しかし、きっかけが起こったその後についてはいくつかの説が考えられている。
地球上の生物の遺伝子はすべてDNAでできている。これをもとにしてRNAを合成し、RNAの情報をもとにタンパク質を合成する。このタンパク質が生命現象の主役である。
この一連の流れを、生命現象の「セントラルドグマ」と呼ぶ。
この流れで考えると、まず、DNAが地球上でできてRNAが作られたんぱく質が生まれたとなるが、DNAというのは複雑な分子で、DNAの材料を煮たり焼いたり放電したりしてもDNAを作ることはできない。では、生物の細胞のなかでは何がDNAを作っているのかというと、これがタンパク質(酵素)なのである。じゃあ、最初の最初、どちらが先に地球上に現れたのだろうか・・。
その答えのひとつが「RNAワールド仮説」というものだ。
RNAというのは、自分自身で切れたりつながったりをすることができるらしい。RNAの形が変わるといろいろなタンパク質を合成することができるということだ。
普通はこの役割は酵素が担うのだがそれがRNAだけでもなんとかなるとなると、生命の初期の段階ではRNAが遺伝子としても酵素としても働いていたのではないかというのが「RNAワールド仮説」である。
しかし、「RNAワールド仮説」にも矛盾がある。RNAの材料であるリボヌクレオチドにはアミノ酸が含まれている。アミノ酸からリボヌクレオチドを作るのは難しく、簡単なタンパク質を作るほうが簡単なのだそうだ。だから、RNAやDNAよりも先にタンパク質があったのだという考えも存在し、これを「タンパク質ワールド仮説」という。
アミノ酸自体も合成は簡単で、グリシン、アラニン、アスパラギン酸というようなアミノ酸は材料があれば放電するだけでも簡単に作れるそうだ。こういうアミノ酸が結合して簡単なタンパク質が生まれ、そこから複雑なタンパク質が生まれていったのではないかというのである。
「RNAワールド仮説」にも「タンパク質ワールド仮説」にも一長一短があり、どちらが正しいのかというのはよくわからないというのが現在の状況である。
どちらにしてもDNAとRNAとタンパク質が生まれてそこから生物が生まれた。現在の地球のすべての生物はこれらの物質からできているのでただ1種の最終共通祖先から生まれたと考えられている。その最終共通祖先のことを「ルカ:LUCA (Last Universal Common Ancestor)」という。多分、同じ時代にはまったく異なった構造をもった生物もいたはずだがそれらは子孫を残すことなく絶滅してしまったと考えられる。人類が1種類しかいないということになぜだか似ている。地球という星ではその時代の高度に進化した生物は1種類しか存在できないのかもしれない・・。

化石の種類について。 3種類に分類できるそうだ。体化石:生物の遺骸、生痕化石:生物が活動した跡、化学化石:生物に由来する分子や原子。生物を構成する炭素原子のうち、炭素12の割合は自然界に存在する割合(約99%)よりもさらに多い。すなわち、選択的に炭素12を取り込んでいる。
生痕化石くらいまでは知っていたが、今では分子レベルまで化石として見分けることができるらしい。

光合成をする生物が生まれたのは生命が誕生して10億年後。それまで地球の生命は太陽光をエネルギーとして利用することはできなかった。光合成で使用される二酸化炭素は初期の地球上には現在よりも数千から数万倍もあったはずだがそれを使う生物は現れなかった。光合成をするラン藻類が登場したのはやっと27億年前頃からであった。これには地球の磁場が関係している。この頃から地球の磁場が現在のレベルまで強くなり、有害な太陽風がカットされるようになった。そのおかげで生物が浅い海に進出し、太陽の光を浴びることができるようになった。とはいっても、最初に光合成を始めた生物は酸素を発生させることができなかった。光合成には700ナノメートルの波長の光を吸収する光化学系Ⅰと680ナノメートルの波長の光を吸収する光化学系Ⅱの2種類があり、酸素を発生しない光合成をする生物はそのどちらかしか持っていない。

光合成の逆の化学変化は酸素呼吸である。この酸素呼吸、光合成を始めた生物が生まれたと同時に始まったと考えられている。酸素のない世界でなぜ酸素呼吸を始める準備ができたのか・・?
水に紫外線が当たるとヒドロキシラジカル(OH⁺)という毒性の強い物質が生まれる。これに対抗するためにはシトクロムオキシターゼと言われるような抗酸化酵素を進化させねばならなかったのであるが、これが酸素呼吸の起源であった可能性があると言われている。事実、ラン藻類は光合成をしながら酸素呼吸もおこなっていた。

ミトコンドリアと葉緑体との関係。 初期の光合成細菌のような酸素非発生型の光合成細菌もミトコンドリアと同じくα-プロテオバクテリアに含まれる(ちなみにラン藻類はプロテオバクテリアに近縁なグラム陰性菌である。)生化学的に考えれば、ミトコンドリアがおこなっている酸素呼吸は、光合成を同じ部品を使っていることが多い。光合成の部品を逆向きに動かせば、酸素呼吸の部品として使えるものが多い。おそらくミトコンドリアの祖先は光合成細菌であったと考えられる。分子系統学の結果によれば、紅色光合成細菌の仲間が光合成能力を失って酸素呼吸を始め、ミトコンドリアの祖先になった可能性が高い。
ミトコンドリアより先に光合成をする生物が生まれていたというのは驚きである。
多分、ミトコンドリアを喰った「ルカ:LUCA」は動物に、葉緑体を喰った「ルカ:LUCA」は植物に分かれていったのだろう。

生物の多様性の拡大としては「カンブリア爆発」が有名だが、その前に、アバロン爆発というものがあった。これはトニア紀とカンブリア紀の直前のエディアカラ紀の間に起こった多様性の拡大だが、この時に海綿動物のような生物の種類が急激に増えてきたという。
その引き金になったのが地球の全球凍結だったと考えられている。二つの時代の間に挟まる、7億2000万年前~6億3500万年前のクライオジニア紀には連続して2回の全球凍結があったという。その後のエディアカラ紀の初期にも氷河期が続いた。
全球凍結の原因はわからないがこれが地球の酸素濃度の上昇に一役買った。寒冷化で生物の数が減り、熱水噴出孔などから放出された栄養塩類は消費されず、また全球凍結が解消されてゆくと急激な気温上昇を引き起こす。今の地球温暖化の逆でそれが極端になったようなものなのだろう。この温度上昇が陸地の風化を促進しリンなどの栄養塩類が大量に海洋に流れ込み、海水中の富栄養化が進む。その栄養を使ってシアノバクテリアが大量発生して酸素濃度が上がりその酸素をエネルギーにして生物の多様性の爆発がおこったというのである。

陸上にあがった最初の動物はイクチオステガだと言われている。立派な四肢を持っていたらしいが、この四肢、すでに水中にいるときから発達していたらしく、上陸するために進化したのではなかったと考えられている。それではなぜ四肢が進化したかというと、繁殖のため、オスがメスを抱きかかえるためだったという説がある。エッチは進化を加速させるらしい・・。
肺も同じく、浮袋から進化したとものだと考えられていたが、それは逆だったらしい。肺呼吸を始めた魚類が肺の機能を失っていったということだ。現在でもハイギョという魚がいるが、彼らのほうが原始的な特徴を持っているそうだから間違いはなさそうだ。

生物多様性の爆発とは逆に大量絶滅の時代もあった。最も有名なのは白亜紀の末期の大遺跡の衝突であるが、その以前、ペルム紀と三畳紀の間の「P-T境界絶滅」というものもあった。大きな背びれを持ったディメトロドンが生きていた時代がペルム紀だ。
その原因を作ったのは地磁気の異常や、雲や火山灰によって太陽光が遮られた結果起こる寒冷化がであったと考えられている。
いずれもプレートの移動が原因と考えられている。温度の低いプレートが大量にマントルに沈み込んでいくと液体の鉄の対流パターンが変化し地磁気が異常をきたし宇宙線が降り注ぐ。電荷をもった粒子は雲をつくり太陽光線を遮る。沈み込んだプレートがあるとその分どこかでマントルが上昇しなくてはならない。それが巨大な噴火を引き起こし、同時に大陸を寄せ集める原因となり浅瀬が少なくなり海洋生物の居場所を奪っていったと考えられている。こんなことは今起こり始めてもおかしくはないのではないかと思うと少し怖くなる。まあ、人間が生きていられるよりももっと長い時間を要する変化だろうからそんなことが起こっていても気がつかないのかもしれないが・・。

白亜紀の大絶滅のあと、哺乳類が進化してゆくのだが、寒冷化によって勢力を伸ばしたのはイネ科の植物である。イネ科の植物の葉は堅いのでそれを食べる哺乳類の歯はどんどん釣り減ってしまう。それに対応するため歯が長くなるという進化が起こる。高冠歯というそうだ。しかし、いちばん奥の歯はだいたい目の下にあるので危険なほどに目と歯が接近してしまう。これを避けるためには歯を前に出さねばならず、ウマやシカやウシの顔は長くなっていったのである。

う~ん、なんとも、不思議というか、奇跡的というのか、偶然と必然の積み重ねが現在を作っているという感じだ。
著者は、地球のことが「奇跡の星」と言われることに違和感を感じているという。それは、人間も含めて地球の生物は、地球でうまく生きてゆけるように進化したのだから当たり前であると考えているからだそうだが、こういう本を読んでいると、やっぱりこれは奇跡でしかないと思うしかない。

生物はいずれ死んでゆく。僕もいずれは死んでゆくのだが、それまでに、自分自身を含めた生物はどうやって生まれてきてここまで来たのかということを知りたいと思っていろいろな本を読んだりテレビを観たりしているのだが、僕の人生の長さ程度ではまったく足りそうもないのである・・。

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加太沖釣行

2024年03月17日 | 2024釣り
場所:加太沖
条件:小潮9:01干潮
潮流:6:19下り1.1ノット最強 9:45転流
釣果:マアジ2匹

今日は還暦という日だった。しかし、朝から何も変わったこともなくいつものとおり釣りに行く準備をし、いつものとおり家を出て、いつものとおり船を出す。



海、川、池に棲む魚たちは自分の誕生日がいつだったかということを知る由もなく、僕も同じ心境なのである。しかし、身体はそうもいかない。ここ数日はバックペインがひどく、足元もおぼつかなく船に乗り込むのが少し怖い。目も見にくくなり、物忘れはもっと前からだが、今日も手袋を忘れて家を出て、スーパーから家に逆戻りしたのである。
還暦とは、〝もとの暦に還る〟という意味だが、確かに何もかもリセットされてゆくような感じにはなる。そこは魚の心境とはちょっと違うのである。
ちなみに、今日はアサヒスーパードライが発売された日だそうだ。発売された年は1987年。僕が社会人になった年である。そして明後日、その社会生活に一応の区切りをつけるのだが、こんなことを初めて知ったというのも何か還暦がもたらしたもののような気がするのである。これも魚の心境とはちょっと違うのである。多少は人間の心も持っているらしい。

元々は、午後から雨という予報だったので早く戻ってワカメを家の中に取り込まねばと近場でアマダイでもと思っていたのだが、昨日、ガソリンスタンドの爺さんから加太のテッパンポイントでハマチが爆釣しているという話を聞いた。
これは行くしかないと昨日の夕方にワカメを取り込んで雨に備えておいた。

朝はとりあえず四国ポイントでアジを狙ってみてその後にテッパンポイントに移動しようと考えていた。休日は土日に固定されてしまっているので潮流表を見ても意味がなく、昨日の満潮はお昼前だったから今日は上り潮だろうと思っていて、船の上で潮流表を見てみたら午前中は下り潮であった。それもほとんど動かない。これは厳しいなと思っていたらその通りになってしまった。

四国ポイントにはたくさんの船が集まっていた。



釣れているのか、それとも妥協の産物なのかはわからないがとりあえず仕掛けを下ろしてみる。潮は思っていたよりも速く流れている。少しは期待が持てるか・・。船はかなり狭い範囲に集積しているので同じ場所を行ったり来たりして僕も船団の動きに合わせる。横を流れる船が1匹釣り上げた。魚はいるようだ。しばらくして魚探に大きな反応が出たと思ったらアタリが出た。大きいマアジだ。しかし、その後も時々大きな反応が出るもののアタリはない。毎度のことだが、一体これは何なのだろうか・・。
反応は船団の西の方によく出ているので僕は少し離れたところで粘ってみるが同じようなことをみんな考えているのかしばらくすると船団に飲み込まれてゆく。
他の船も同じようであまり竿は曲がっていないがその中で1艘だけダントツに魚を釣り上げている船がある。いつ行っても必ず浮かんでいるガンネルが緑色の船外機の船だ。たまたま近くに位置した時、魚探に大きな反応が出た。アタリが出るか!と思ったが竿が曲がったのはこの緑の船だけであった。間違いなくこの船のオーナーは釣れる術を持っている。それも他人とは違う圧倒的な術だ。何が違うのだろう・・?サビキの素材?長さ?糸の太さ?誘い方?魚の心境がわからない・・。
ベンチマークにさせてもらおうとしばらくの間後をついて回らせてもらったが、形而上でわかることは誘い方くらいだ。よく見ていると竿を大きくあおってゆっくり下ろしている。ヨガの呼吸のようだ。
僕も真似てみたがまったくダメで、挙句の果てに仕掛けを根がかりさせてしまった。

一度船団を離れ、ハマチを求めて移動してみることにした。テッパンポイントにはまったく船の影はなかったが田倉崎の沖にジギングをやっている船が数隻浮かんでいる。ガソリンスタンドの爺さんの情報はきっとこれだろうと思いその近くにいってとりあえずサビキを下ろしてみた。魚探には何の反応もなく当然アタリもないのですぐにまた元の船団に戻ることにした。
ベンチマークの船とは何が違うのだろうかと小さな脳みそを回転させるが何の知恵も浮かばない。今日の潮の速さでは操船技術の差ではないだろう。今できることと言えばサビキの長さを変えることくらいかと半分カットしてみた。ベイトがヒイカならこのくらいの長さなのではないだろうか。
誘いは同じくヨガの呼吸だ。そうやっているとアタリが出た。1匹目と同じくらいのマアジだ。誘い方か、サビキの長さか、どちらのファクターが奏功したかはわからないが貴重な1匹となった。
しかし、潮の流れも遅くなってきたのか緑の船も竿を曲げている様子もないので午前9時半に終了。

午前8時半を過ぎた頃から水面に雨粒が見えてきた。港に戻るころには顔に雨を感じるくらいになっていた。予報よりも早く雨が降ってきて、午後からは小雨と思えないほどの雨になってきたのでワカメを昨日のうちに取り込んでおいたのは正解であった。
このブログは翌日の夜に書いているのだが明日はまた午後から雨が降るらしい。
家に帰ってきてご飯を食べて、早朝暗いうちから干していたワカメの取り込み作業。日中の日差しと強い北風のおかげでよく乾いている。明日の雨の湿気を避けるためビニール袋の中に押し込めておいた。
とにかく今年のワカメは手がかかる。美味しく干しあがってくれているだろうか・・。


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ワカメ採り 2回目

2024年03月16日 | Weblog
前回のワカメ採りから4週間も過ぎてしまった。春の天気は不安定とはいえ、今年の天気は異常だ。2月に20℃を超える日があったと思ったら、3月には寒くて風の強い日が続いてワカメを採ることができるような環境ではなかった。

3月も後半に入り、タイムリミットが近づいている中、やっと休日と天気がうまく合致した。「春に三日の天気無し」というとおり、明日はまた雨が降るようだがダメもとで出かけた。
というのも、先月採ったワカメはその後の雨続きで腐らせてしまったのである。こんなことは初めてであった。だから、今回もダメもとなのである。

午後からのほうが潮は引くが風が吹くだろうし、乾燥させる時間を少しでも確保したいので午前5時半に家を出てカネの補修をしてから午前6時に出港。

いつもの場所でせっせとワカメを採る。採っている場所なのか、今年の天気のせいなのか、やたらと長いものが多い。それも茎の部分が長い。やはり、ほとんどのワカメは先っちょが溶けてしまっている(これを僕の辺りでは「たけてきた」という)がゴワゴワしている感はない。
誰も採っていない場所なのでホイホイ採れる。
途中で仕分けをして状態の良いものだけを残し、長けてしまった部分を切り取ったあとでもう少し補充して午前8時半に港に戻って午前9時から干す作業に取り掛かる。
軸の太いものもあるので半分に割って干すと思いのほか大量になっていた。



我が家では寄生虫がいるとかダニがいるとかうるさいことを言うようになったので食べることはできなくなった。医者になった息子が言い始めたことらしいのだが、どんなエビデンスを元にこんなことをいうのかがわからない。それが本当なら雑賀崎のワカメを食った人は少なくとも半数はワカメを食べたことが原因で死んでいることになるが、警鐘を鳴らしている人がいるという話を聞いたことがない。
だからこれは全部、知人に送るためのものになるのだがそのためには十分すぎるほどの分量である。まあ、少しは自分で食べるために残しておこうとは思っている。ワカメを食べて死ねたら本望である。

明日は午後から、にわか雨になるという予報に固まってきたので夕方に縁側に回収しておいた。いつものワカメの香りが家の中全体に漂っている。これを食べたら死ぬというのはなんとももったいない話である。

港に戻ると、護岸の片隅にリールが捨てられていた。見た目には綺麗であったがカウンターが作動していなかった。これは電池を交換したら作動したのだが、今度はレベルワインドが動かない。カバーを開いてみるとレベルワインドのギアが1個欠けている。
しかし、こんな場所のギアが樹脂製というのはあまりにもチープだ。調べてみると6000円ほどで売っているリールらしいが、この安さで持ち主は簡単に捨ててしまったのだろう。



午後からは、「「刀剣乱舞」という映画を観ていたのだが、この映画のテーマが、物には人の想いが封じ込められているというものだ。このリールにも何らかの思いが宿っているのだと思うと、簡単に捨ててしまったやつはきっと何かの厄災に見舞われるに違いないと思うのである。しかし、船の釣りに使うリールがこの場所に捨てられているというのも奇妙だ。
この場所に船を係留している人も少なくなって、こんなリールを使う人もほとんどいないはずなのだが・・。

古来から、海からもたらされるものは蛭子といって神様からの賜りものであると考えられてきた。これがエビス信仰となってゆくのだが、きっとこのリールも海からの賜りものなのだと思って部品を探して再生してみようと思っている。
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田辺湾釣行

2024年03月04日 | 2024釣り
場所:田辺湾 カグラ
条件:小潮 4:02干潮 9:58満潮
釣果:チヌ3匹 グレ1匹 真鯛(間違いない養殖もの)1匹 マアジ1匹

今日は年に1回の田辺湾への釣行だ。本当ならもっと後に予定をしたかったのであるが、3月中に平日の休みを取れる日は今日と明日しかない。乗っ込みチヌの季節はもう少し先、おそらく2週間以上先だろう。それでも平日を選ばないと混んだ磯での釣りは嫌だ。
釣果の前に気持ちよく釣りをしたいのである。
それでもこの冬は相当な暖冬であった。2月中に最高気温が20℃を超える日があったのだから3月初旬でも快適な釣りができるのではないかと思ったけれども、定年退職前最後の連休を取った頃から気温が低くなってきた。元々、2月29日に田辺に行こうと考えていたが昼前から雨が降るという予報だったので諦め、残りのチャンスは今日しかなくなったが、3日くらい前から予報を見ているとそれなりに行けそうな天気であった。しかし、直前では相当風が吹くという予報に変わってしまっていた。



日程に余裕があれば見送りたい天気であるが上記の理由で今日行くしかなかったのである。天気図を見る限りはどちらかの高気圧が北か南にずれてくれたら風は弱まると思っていたのだが・・。



おまけに気温も低い。予報では最低気温は5度ということになっていたが車の温度計では3℃。紀州釣りはとにかく体が汚れるので防寒着は着たくないのだが仕方がない。古いカッパも持ってきていたのだがこの寒さには耐えられそうもない。昔は一番温かい時間帯に合わせて着る服を選んでいたものだが、今では一番寒い時間帯に合わせて服を選ばなければならないほど体力も落ちたということだろうか・・。

一番船は午前5時半。高速道路は道程のほとんどが2車線になったので1時間をみておけば田辺に着ける。エサとパンを買う時間を入れても1時間半あればよい。30分前に渡船屋に到着するつもりで少し余裕をもって午前3時20分に出発。

こんなに寒くて風が出る予報で季節的にも中途半端な日なら人は少なくてゆっくり釣りができるだろうと思っていたが思いのほか人が多い。おそらく20人はいるのではないだろうか。月曜日というのもよくないのであろう。
これでは希望の島の希望の場所に座れないかもしれない。すでに船頭が表に出ていたのでカナヤに行く人数を聞いたら、団体で9人だという。中乗りのお兄ちゃんは今日も、「荷物を船に置いておいて先に磯に飛び降りろ。」と言ってくれるのだが、今のところ二人しか乗らないというカグラに行くことに決めた。出港前で操縦席に座っている船頭の目線も、「今日はカナヤはやめておけ」と言っている。
この磯は北風には弱いので今日のように強風が吹く日は釣りづらい。多分、今日で磯の釣りは最後にしようと思っていたのでここ数年いい釣りができた場所に行きたかったが諦めも大切だ。そして、カグラは田辺に通い始めた頃に一番たくさん乗った磯でもある。天気の悪い日や人の多い日に当たるのはただの確率の問題であるはずだが、なんだかこれも運命のように思えても来るのである。

カグラは最初に船が着く磯だ。逡巡していた分、出遅れて磯に乗るのは殿になってしまった。これでは一番のポイントに入れないのではないかと危ぶんだが、人それぞれ好みがあるのか、僕が一番入りたかったポイントが空いている。左に紀州釣り、右にカゴ釣りの人がいての真ん中でのスタートだ。



これもただの確率の問題なのだが、神様からの餞だったのかもしれないと思えてきた。
今日もヘッドライトを忘れてきてしまったのでリュックの中に入っていた懐中電灯を口に咥えて仕掛けとヌカ団子を準備。深さがどれだったかという記憶もとうになくなってしまっているのでとりあえず去年のままのウキ止め位置でスタート。ウキがはっきり見えるようになってきたのできちんとウキ下を測り直すとカナヤよりも1ヒロ以上も浅い。あれまあ、こんなにここは浅かったとは知らなかった。

今のところは無風で潮の流れもごくわずかなので底にピッタリと合わせて再開すると、最初はエサがそのまま残っていたがしばらくするとエサがなくなるときが出てきた。間違いなく魚がいると思っているとアタリが出た。ゆっくりとウキが沈んでいくアタリは間違いなくチヌだ。それほど大きくはないが最初の獲物だ。ハリスは2号なので慎重に巻き上げたがタモ入れの直前でバラしてしまった。ウキが完全に沈んでから合わせを入れたがかなり喰いが浅いようだ。しかし、左隣の紀州釣り師はかなり沖まで投げていて、完全に投げ負けていると不安になっていたが、とりあえず魚を見たのでホッとした。
しばらくして今度は竿先を持って行くアタリが出た。この時間帯はまだ太陽が目の前にあり海面が光っていたのでウキを見失っていた。よく引くのでこれは大きいと思ったが、大きいのは大きいのだが真鯛であった。それも完全に脱走養殖真鯛だ。お腹を開いてみると胃の中には昨日の釣り師のエサがたっぷり入っていた。せっかく娑婆に出てくることができて昨日の釣り師からも逃げ延びてきたのに僕の鉤に引っ掛かるとはあまりにも不運だ。なんだか他人には思えないのである。

その頃から少しアタリが出てきた。小さいながらチヌが来てその後はグレ、少しましな型のチヌだ。この時までは穏やかな水面とゆっくりとした流れでテキスト通りの紀州釣りのシチュエーションであった。
しかし、それも午前9時までで、その後は一気に風が強くなってきた。沖の方ではウサギが飛んでいる。



早朝の様子では防寒着を着てきたのは失敗であったと思ったが風が強くなってくると日差しはあっても防寒着でよかったと思えてくる。船頭と「釣り天気」の予想に軍配が上がった。
こうなってくると最後の磯チヌに際しての卒業試験のように思えてくる。潮の流れというよりも風によってウキだけが流されている感じであったのでそれに合わせてウキ下を長くしてゆくがアタリはない。そのうちに底がまったくわからなくなる。そしてまたウキ下を短くする。そんなことを繰り返しながら約3時間。もう一度ウキ下を見直し、ダンゴ爆弾を大量に投入してみると長い沈黙の末にアタリが出た。今日一番の47.5cmだ。画像ではもっと小さく見えるが、渡船屋の計測では47.5cmだった。年に1回しか行かなくなってしまってもいまだに名前を憶えてくれているのはうれしいことだ。



この卒業試験は多分不合格だろうと思っていたので先に釣った魚たちを締めてしまっていたので写真は別撮りになってしまった。たった1匹の釣果であるが今日の状況と他のふたりにはいまだ釣果がないという状況では合格としてもらってもいいのではないかと思う。
その後も風は治まらず、応用問題としておだんごクラブの秘儀であるウキなし釣法を試してみたがこれは答えを得られず、これ以上続けても同じだろうと考え、14時の便で磯を降りた。

今日が最後と書いたのは、これは毎年書いていることだが、この釣りには財力が必要だ。今日の経費は、砂0円、ヌカ50円、押しムギ300円、サナギ粉740円、オキアミ420円、アミエビ1460円、渡船代4000円、高速代2720円、ガソリン13リットル約2000円で合計11690円。ヌカもなかなか手に入りにくくなってきたし何もかも値段が上がった。それに比べると、船の釣りはメンテナンスの固定費を除くと1回2000円ちょっとだ。財力の方は幸いにして今日に限っては先週末からの日経平均の4万円超えで磯の上からピコピコやったおかげでチャラにすることができたが、今年で60歳ともなると体力と精神力は逆にレベルが下がってくる。何日も前から気力をため込まないと車に乗れない。



そうはいうものの、来年になればもう一回と思うのかもしれないがその時になって、財力と体力と精神力はどうなっているのだろうか・・。
それはやっぱり来年になってみないとわからないのである。気持ちだけは行きたいと願っているのだが・・。


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水軒沖~雑賀崎沖釣行

2024年03月03日 | 2024釣り
場所:水軒沖~雑賀崎沖
条件:小潮9:41満潮
釣果:ボウズ

前回取ったワカメは翌々日からの長い雨で腐らせてしまった。だからもう一度ワカメを採りに行かねばならないのであるが、また明後日から雨が降るというので今週も採りに行けない。仕方がないというかなんというか、前回釣ったアマダイがあまりにも美味しくてこれはもう一度食べねばという食欲が勝っての釣行だ。

釣果があればアマダイを釣った位置でブログの冒頭の場所を1か所だけに絞って書くのだが魚が釣れないとウロウロした場所をすべて書かねばならなくなってくる。
僕の勘では、双子島の沖に、水軒沖と雑賀崎沖を分けるブレイクラインがあって、そこがアマダイのポイントであると考えている。



今日も水軒側と雑賀崎側の両方から攻めてみたが全く何のアタリもなく終わってしまった。

アマダイはまったくいなくなってしまったという訳ではないようで、僕から見て沖の方と地方のほうに何艘かずつ浮かんでいる。

 

乗合船もあったのでまったく期待が持てないというわけでもないのだろうが、3月に入ってから下がり始めた気温がアマダイの動きを鈍らせているのだろうか・・。船の上にいる僕も寒いがアマダイも寒くて穴の中にもぐりこんだままになっているに違いない。
船は速すぎず遅すぎず、いい感じで流れているが寒さとまったくアタリがない状況では忍耐がすぐに限界に達してしまう。明日は田辺に行きたいと思っているので体力を温存するためにも早めに切り上げることにした。

何のトピックもない釣行であった・・。


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