イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行

2024年04月20日 | 2024釣り
場所:水軒沖
条件:中潮4:40満潮
釣果:アマダイ 5匹

今日の天気は上々、明日は雨の予報なので加太へ行っておきたいところなのだが、今日はトンガの鼻の草刈りの日だ。去年の9月に参加したきりなので半年以上不参加ということになってしまっている。暖かくなってきたし、草も伸びていることだろうから少しは戦力になれるかと思っているし、なにより地元とのつながりを絶やしたくない。だからダメ元で近場のアマダイを狙ってから草刈りに参加しようと考えた。去年の6月の再現をしようという魂胆だ・・。

集合時間は午前9時半。できるだけ釣りをする時間を稼ごうとかなり早くに出てきたつもりだったが午前5時に港に到着した頃にはすでにかなり明るくなっていた。



気づかないうちに夜明けはどんどん早くなってきている。週末ごとの釣りになってしまったので夜明けの時間の感覚がわからなくなってしまっているのである。多分、来週あたりは午前4時半ごろには出港しなければならないだろう。

2月に釣れた場所の少し沖合からスタート。



釣れていないのか、周りにはアマダイを狙っているらしい船はまったく見えない。今日も竿を3本準備しての満艦飾スタイルだ。



うち1本は拾って修理を施したリールをセットしている。電池110円、ギアの部品代550円、計660円で復活したが、外注するとこんな修理でも3000円くらいは取られるのだろうから、捨て主は買い替えたほうがよいと考えたのだろう・・。それでももったいない話だ。



風はなく潮止まりの時間帯のせいか、ほとんど船は流れていない状態だ。エンジンを切り静かになった船上はゆったりした気分になれるがまったくアタリの気配がない状態で、しかも午前8時半には撤収しなければならないというリミットを抱えていては実は相当焦っているのである。

しばらくして拾ったリールをセットした竿にアタリがあったが名前のわからない小さなハゼ科の魚であった。
こんな状態ではエサはもったいないが早く切り上げて草刈り用資材の搬出を手伝おうかという考えが頭を持ち上げてくる。残ったエサが多ければNさんが夜釣りのエサとして使ってくれるかもしれない。
そんなことを考えていると、少し北の方に船が集まってきた。大型の乗合船もいるのでまったく期待がないということもないのだろう。



残りは1時間足らずだが移動してみることにした。残念ながらすぐにはアタリは出ず、この小さな集団はただの妥協の産物なのかと思っていたら午前8時過ぎに待望のアタリが出た。しっかり喰わせて合わせを入れると30センチほどのアマダイが上がってきた。
この1匹で帰るか、それともNさんを裏切って釣りを続けるか思案をしてしまう。結局、釣りの方を優先してNさんにお詫びのLINEを送ってしまった。地元とのつながりは細っていくばかりである・・。

もう少し北のほうはどうだろうかと移動しようと拾ったリールを取り付けた置き竿の仕掛けを回収していると2匹目のアマダイが喰っていた。

次の場所は一文字の切れ目の真ん前だ。南に見えるようになった乗合船からは、「タモ入れんとあかん・・」というマイクの音が聞こえてくるのであっちも釣れているようだ。
この乗合船のこの日の釣果を調べてみると、全部で13匹だったそうだ。それに比べると、僕も頑張ったのではないだろうか・・。

期待を込めて待っているとこっちにもアタリがあった。少し大きな3匹目だ。10時になりそろそろ帰ろうかと思っていると少し小さな4匹目。あと1匹釣れたらNさんに草刈りをバックレたお詫びの献上品として持って行けるところだが家に帰って魚を捌く時間を考えるとそろそろタイムリミットだ。
釣ったアマダイの内臓を抜いて写真を撮り、投入したままの仕掛けを回収。最後に手持ちの竿の仕掛けを回収している途中で思わぬ5匹目が喰ってきた。これでNさんのところに持って行ける・・。
最後の1匹はきっと神様が、「これを持って行け。そして地元とのつながりを維持せよ。」と授けてくれたに違いない。おそらくはそんなことはなく、これもただの確率の問題であるのだろうが、やはりそこにはきっと神の存在が見え隠れしているように思えてならないのである。


アマダイのアタリの出方についてであるが、5匹のうちの2匹は仕掛けの回収中にアタリがあった。そして今までもよくそんなことがあった。
居喰いをしていて仕掛けの回収中に驚いたアマダイが反転したか、上昇していくエサに反応したかのどちらかなのだろうが、僕の感じでは居喰いで喰っていたとは思えない。それなら竿を持った時にすぐ魚の引きを感じるはずだが明らかに引きを感じるのは数回リールを巻いた後だった。仕掛けはほぼ真下に落ちているので糸ふけが出ているような状況ではなかった。アマダイはきっと、動きの激しいものによく反応するのかもしれない。タイラバに喰ってくるというのもそういう性質の故だろう。
ならば、ブラクリ仕掛けのようなものを作って素早く上下させればアタリの回数が多くなるかもしれない。
加太ではいろいろな魚に対してたくさんの人たちがいろいろな仕掛けを試してすでにその策は出尽くしたというところであろうが、アマダイはここで発見されてからは3年ほどしか経っていない。当然、試されていないことは山ほどあるはずだ。今日の5匹以外では、明らかにアマダイだというアタリが2回あった。これはゴカイの先っちょだけを喰われて鉤には乗らなかったが魚は間違いなく安定的に居るようだ。ブラクリ様仕掛けのほか、いくつかの迷案(名案ではない・・)を思いついているので少しずつ試してみたいと考えている。


最後に自販機のアオイソメだが、冬頃に比べると明らかに量が減っていた。すでに600円に値上がりしているので多分、去年に比べると実質4割くらいの価格上昇になっているのではないだろうか・・。
昔、横山ノックは、「君達はいったいいつまで大阪府知事をいじめたら気が済むんだ!?」と言ったことがあるが、僕はこう言いたい!「世間はいったいいつまで貧乏な釣り師をいじめたら気が済むんだ!?」と・・。
そうすると、神様はこんな返事を返してくれるに違いない・・。「だからリールをひとつ、授けてあげたじゃないか・・」と・・。
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「スプーンはスープの夢をみる 極上美味の61編」読了

2024年04月16日 | 2024読書
早川 茉莉/編 「スプーンはスープの夢をみる 極上美味の61編」読了
 
この本、図書館では「食品・料理」の書架に入っていたがこれはまったく日本文学というジャンルの本に間違いない。司書さんはタイトルだけを見て分類したに違いない。
作家や詩人だけではなく、芸術家、音楽家など様々な分野の一流の人たちの文章が収録されているアンソロジーなのだが、「スープ」というキーワードはほんの体裁でしかない。その著者たちはすでに物故しているかもしくは僕よりも年上の、ある意味、積極的に残しておかないと世間からどんどん忘れ去られてしまうような人たちなのだが、それはあまりにももったいないという思いで集められたかのようだ。61人の著者の一部を紹介しておくと、僕が知っていた人では、
江國香織
星野道夫
島崎藤村
岡本かの子
三島由紀夫
荒井由実
阿川佐和子
村上春樹
伊丹十三
中谷宇吉郎
林芙美子
小林カツ代
林望
宇野千代
北大路魯山人
という人々。これだけ見ていてもバラエティーに富んだ人々だ。
知らなかった人たちでは、
入江麻木(指揮者の小澤征爾の義理の母。あとから調べてみるとこの人の本を1冊読んでいた・・。)
森茉莉(森鴎外の娘)
斉須政雄(日本でのフランス料理界のレジェンドだそうだ)
松浦弥太郎(暮らしの手帖の前編集長)
などなど・・。

こうやって取り上げられている人たちを見てみると、こういった人たちを集めた編集者はすごいというしかない。ほとんどの人はすでに物故しているような人たちだが、誰かが残しておかなければどんどん忘れ去れてしまうしかないだが、絶対に残しておかねばならない文章なのかもしれない。僕自身も、自分より若いひとの文章よりもこういった人たちの文章のほうがしっくりくるもの確かだ。
早川茉莉というひとは、ネットで調べてみてもフリーのライターだということしかわからないが、どれほどの読書量とデータベースを持っているのだろうかと驚かされる。いくつかの文章は料理としての「スープ」とはまったく関係がなく一語だけ「スープ」という文字が入っているだけというものもあった。よけいに大したものだと思えてくる。

スープ自体が食材の栄養を一滴残らず体の中に取り込めるという料理だから、さしずめこの本は時代時代の貴重な文章をしっかり心の中に取り込みなさいという意味も込められているのかもしれない。

司書の判断ミス。こういった出会いもうれしいのである。
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水軒沖釣行

2024年04月14日 | 2024釣り
場所:水軒沖
条件:中潮8:19満潮
釣果:ボウズ

スマートキーはレスキューすることができたので車は使える。しかし、すでに山に行く気は失せてしまった。昨日、山に行けなかったというのは、単に偶然、もしくは確率の問題に過ぎないのはずなのだがそこにはなぜか「神」の介在を意識してしまう。我が家の「ダニ問題」が勃発してからもう、僕が採ってきた山菜が食卓に並ぶことはない。そんな光景を見た天の観測者が「やめておけ」と言っているのだと思ってしまうのである。
しかし、近所でもらったタケノコやイタドリは平気らしい。新聞のコラムで、『自分を大事に思ってくれない人のために何かを我慢する必要はない。みんな、「他人の趣味を否定することを趣味にする人にだけはならないでおこう。」』と書いていたが、まあ、ウチではみんなこんな人たちばかりだ。しかし、世界はすべて確率的である。僕が採ってくる山菜にだけ選択的にダニが生息しているのだという確率がまったくゼロだというようなことは断言できない。だから反論もできないのである。

と、いうようなことと、トウガラシの苗を叔父さんの家に届けなければならい事、加えて、山で食べようと思っていたカップ麺を消化しなければならないという問題もある。ワカメと採ったばかりのコゴミをトッピングした贅沢なカップ麺を作ろうと考えていたのであるがそれも夢と消えてしまった。
そのついでに船を出そうということなのである。
だから釣ってやるぞという気がまったくない。だから氷を準備することもなく港にやってきたのだ。出発もゆっくりですでに明るくなってからだ。



一文字の切れ目の前で碇を下ろしメタルジグを投げるも10分ほどで飽きてしまいカップ麺の準備を始める。海は波もなくまったく真っ平だ。デッキの上でコンロに火を点けてもまったく大丈夫なのである。
コゴミはないのでトッピングはワカメだけだ・・。



まったくやる気がないと言ってもまったく釣れないという根拠もない。毎週ここを通るたびに必ずテトラの上でルアーを投げる釣り人を見る。



まさか体を鍛えるためだけにルアーを投げているわけでもないはずだ。何かが釣れるに違いない。ただ、ここでも確率論的に限りなくそれが小さいというだけなのだ。

叔父さんたちは午前8時にもなると動き始めるだろうから午前7時過ぎに釣りを切り上げて叔父さんの家へ。無事にトウガラシの苗を手渡して帰宅した。




ワカメの期間中に故障したエンジンはすでに治っている。結局、純正部品を使って修理代は〆て85,000円。今回は家計に負担をかけず、以前の会社で貰った旅行券を換金したお金で賄った。定年退職してからまだ1ヶ月にもなっていないのにすでに経済的には綱渡り状態になってしまっているのだ・・。
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加太沖釣行

2024年04月13日 | 2024釣り
場所:加太沖
条件:中潮8:08満潮
潮流:7:05転流 9:09上り0.5ノット最強 11:20転流
釣果:サバ4匹 チダイ1匹

本当なら今日は加太に行くつもりはなかった。コゴミを採りに行くはずだったのである。午前4時過ぎには家を出ようとすべての準備をして最後に車のスマートキーを持って家を出ようと思ったら、ない・・。どこにもない。どこかで落としたかと思うものの、先週の金曜日、ディーラーでワイパーゴムの交換をして家に帰ってきたのだから家の中にあるには違いない。しかし、どこを探すといっても僕の家での行動範囲は限りなく狭く、それでも時間だけが過ぎてゆき、これはもう山には行けないと判断して急遽行き先を変更したというとわけだ。



結局、スマートキーは車の中に放置したままになっていた。どうも、スマートキーの機能として、ひとつを車の中に残して別のスマートキーでロックをかけると車の中のスマートキーは機能しなくなるらしい。僕は家の中に車を置いているときにはドアロックをかけない癖がある。奥さんは常にドアロックをする人なのでこんな現象が起こってしまったのである。ちなみにスマートキーを車内に残しているとドアロックはかからない。
しかし、よく考えているというか迷惑というか、こんなまったく普通のひとならこんな行為はしないだろうというような事象に対してまでアルゴリズムを設定しているというのはなんとも日本の自動車というところだ。そして、常々思っていたのだが、このスマートキーというのはなんとも使いにくい。今回のことも、セルをキーでひねって回す車なら家に帰ってきてキーを抜いて自分の手の中に入っているはずだし、万が一車の中に残してしまって別の人がドアロックをかけてしまってもスペアキーがあれば開けることができる。キーシリンダーに差し込まなくてもいいから車を降りるときに忘れてしまうのである。ディーラーではスマートキーを手渡さずに車の中に置いたまま引き渡してくれるのだが、それもよくない・・。手渡してくれるとすぐにポケットに入れるのだが・・。
スペースキーを作ることはできないし、釣りに行くときでも、濡れると壊れるから気を遣う。
なんだか自動車の価格を釣り上げるためのギミックにしか思えないのである。

ということで家を出る時間はかなり遅くなってしまった。



もともと釣りに行くつもりもなかったので潮流の時刻も調べていなかった。出港直前にはじめて見たというていたらくなのである。
転流時刻は目の前なのでとりあえずは四国ポイントで流れだしを待って北に上ろうと考えた。

釣れているのかどうかわからないが今日も船団ができている。



その一角から始めるが魚探の反応はなくもちろんアタリもない。まあ、ボチボチやっていこうと思いながらも少しアグレッシブに攻めすぎた。漁礁が見えてきたができるだけ底をキープしようとしたらいきなり根掛かりしてしまった。ああ、もったいない。道具箱には残りはひとつ。これは大切に使わねばと今度は漁礁の上ではかなり底を切ってやり過ごそうとしたときいきなりアタリが出た。それもかなり引く。ドラグを緩めて対応するがここは漁礁の上。あまり糸を出すと根掛かりしてしまう。途中から強引にやり取りを始めたがなんだか引きが変だ。これはきっと魚が大きいのではなくて何匹か掛かっているようだ。
海面下に見えてきたのはサバであった。それも4匹掛かっている。そしてサバが複数となると案の定、最後の仕掛けはぐちゃぐちゃになってしまっていた。

予備の仕掛けはもっと前に作ったいまいち釣れそうにないものしかない。とりあえず取り替えてみるがやっぱり釣れそうな気がしない。こういうのは思い込みが大切なので少し早いが真鯛狙いに向かった。

テッパンポイントには土曜日にもかかわらず全く船が見えない。



これはあまり期待が持てない。そのとおりで今日もナカトまで上っていくがアタリはない。



仕方がないので再びテッパンポイントに戻って早い目に退散しようと思って仕掛けを下ろすとアタリが出た。桜鯛にしてはかなり小さと思ったら本当に小さいチダイであった。
これはもう少し粘る甲斐があるかと気合を入れ直すがその後はアタリがない。それからしばらくするともう少し南の場所ににわかに帝国軍が終結をはじめた。



ひょっとして釣れているのかと僕もそこへ移動。帝国軍と完全に同化するのは怖いので少し離れたところに陣取ったのだが、それが悪いのかこれは帝国軍の罠だったのか、アタリがないので午前9時45分に終了。

この場所は僕の魚探にはマークのないところだし漁礁もシモリもなさそうなところだったのだが、なぜここに帝国軍は集結してきたのだろう。本当に僕たちのような悪人を一網打尽にしてやとうと考えたりしていたのだろうか・・。

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住金一文字釣行

2024年04月06日 | 2024釣り
場所:住金一文字
条件:中潮4:57満潮 10:47干潮
釣果:チヌ 2匹

今週は金曜日にズル休みをして3連休は初日タラノメ、二日目、三日目は釣りだと思っていたのだが大きく狂ってしまった。
金曜日はタラノメを目前にして高枝切りハサミが壊れてしまって何も手にできなかった・・。



最後に残していたポイントはこれがないとひとつも採れないのだ。泣く泣く引き上げて二日目は釣りに行けたがこれもドタバタしながらの釣行で、三日目は風邪をひいて一日中寝て過ごした。
なので今日のブログは二日目のみのことを書くしかないのである。
二日目の釣行でドタバタした理由であるが、Nさんから土日のどちらかは住金一文字へ行くで、という連絡をもらっていて、決定は前日にLINEするからと知らせてくれていた。金曜日の夕方、スマホを見ていなくて、これは日曜日だなと思い加太に行く準備をしていた。準備を終えて念のためと思ってもう一度スマホを見てみると明日行くよとメッセージが入っていた。
それを見て急いでフカセ釣りの準備を始めたのである。準備といっても必要なものは全部物置から出しているのでいつでも行けるのであるが・・。

いつもの通り、午前9時に港に集合。エサを買うのはわかやまペイだ。



これを使うとポイントが10倍になるので少しはお得になる。

今日は過去2回の場所よりも少しだけ先端に釣り座を取ってみた。

 

「春は沖から」という箴言に倣ったのだ。と、言っても、スリットの上は怖いのでそれほど遠くには歩いてゆけない。今思うとこの時くらいから風邪の症状が出ていて平衡感覚が怪しくなっていたのかもしれない。狭い足場にはどんどん慣れてきていたはずなのだがこの日はやたらと怖かった。まあ、結局、これには何の意味もなかったのであるが・・。

潮は少しだが沖の方に流れている。いい感じだと思うのだがそれに反してまったくエサ取りもない。anotherNさんは僕よりさらに先端に座っているが同じような状況らしい。
しかし、この人は流石だ。30分ほど後に早くもチヌを釣り上げた。その後はまた沈黙が続いたが午前11時半ごろアタリがあった。同時にanotherNも竿を曲げている。この時がひとつの時合だったのかもしれない。
※見出しの左の画像はその時に2匹一度に掬った魚なので僕が釣ったのはどちらかの1匹だけである・・)
アタリがないものだからそろそろ反対側に移動しようと思っていたところにアタリがあったのでもう少しここで粘ることにしたけれども結果としてはここで見切りを付けなかったというのが悪かったようだ。NさんとanotherNさんの話では、チヌだけを狙うとするなら反対側のほうがいいらしい。かなり遅れて見切りをつけて移動したが、ここでもアタリのない時間が続いた。



撒きエサが無くなりこれが最後のひと流しだという時に鮮明なアタリがあった。そしてこれで今日は終了。
しかし、この時点でNさんとanotherNさんはそれぞれ8匹ずつ釣り上げていたそうだ。それにしても4倍の差というのは悲しい。港に戻って仕掛けの中身を聞いてみると、若干、僕の仕掛けよりも深いところを釣っていたようだが、それよりも撒きエサの打ち方や仕掛けの流し方に何かの違いがあるのだろう。
釣りには海面上の形而上よりも海面下の形而下のほうがはるかに大切なのだが、それをまざまざと見せつけられたという感じだった。
フカセ釣りはやっぱり僕には難しすぎる・・。加太もだが・・。

しかし、この風邪はしつこい。2年前の熱は一晩寝ると治ってくれたが今回は三日経ってもあまり良くはならない。体の中にタイマーが装備されていて、60歳を境に回復力がなくなるのだというようなことを信じないが、この2年間の年月は無残というほかがない。なんだか衰えと落胆ばかりが目立つ今年の春である・・。


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「三体X 観想之宙」読了

2024年04月03日 | 2024読書
宝樹/著 大森望 、光吉さくら、 ワン チャイ/訳 「三体X 観想之宙」読了

タイトルに「三体」と入っているがその続編でもスピンオフの物語でもない。劉慈欣の熱烈なファン(中国では“磁鉄”と呼ばれているらしい。)である著者が「三体」のメインストーリーでは深く語られなかった部分を想像してネット上で公開したストーリーが劉慈欣の公認のもとに著作として出版されたものだ。
こういったものが実際の著作として出版されるというのは著作権に甘いというのか原作者の懐が深いというのか、なんとも中国的であるなと思える。日本では著作権と版元にガチガチに縛られてこんなことは実現しないのではないだろうか・・。

原作のストーリーは長くて複雑で忘れてしまっている部分がほとんどである。以前に書いた感想文と、この本のストーリーの中心になっている原作の後半部分「死神永世」のあらすじが巻末に掲載されていたのでそれを先に読んでからこの本を読み始めた。

取り上げられているエピソードは、
●脳だけを冷凍保存され三体世界に送り込まれた男性が主人公と再会するまでにどのような生き方をしてきたか・・。
●宇宙を破壊しようとした者の正体。
●物語に登場する「小宇宙」の秘密。というものが明かされている。(明かされるといっても、それはメインストーリーの著者が考えたものではないのだが・・)そして、それぞれのエピソードが絡み合い、宇宙とは何だったのかということを書いている。
簡単にその正体を書いてみると、宇宙は元々十次元世界で時間は永遠に続いてゆくというか、時間というものの観念のない世界であった。その世界は永遠でもあり瞬間でもあるというものであった。そこには、この世界を統べる「統治者(マスター)」と、この世界を破壊し、時間という観念、すなわち始まりがあり終わりがある世界を創ろうとする「潜伏者」との戦いがあった。その戦いの歴史の中で宇宙の次元はひとつずつ減ってゆき現在の三次元世界にたどり着いたのだという。
潜伏者とは、メインストーリーに書かれている、『死とは、永遠に点灯している唯一の灯台なんだと。つまり、人間、どこへ航海しようと、結局いつかはこの灯台が示す方向に向かうことになる。すべてが移ろいゆくこの世の中で、死だけが永遠だ。』ということを実現させようとする勢力だ。主人公たちは「統治者」の側の代理人として「潜伏者」の宇宙の次元破壊を阻止しようとする。結局、宇宙の破壊を阻止することは叶わず、一縷の望みである破壊後寸分違わない同じ宇宙を創造するという夢もわずか5㎏の質量の不足で叶わなくなる。
しかし、主人公たちは、まったく同じ世界を再生するよりも新たな世界を生み出すことのほうが自然の摂理にかなっているのではないかと思い始めるのである。

神のような統治者とは何者か、破壊を司る潜伏者とは何者か・・。彼らはわずかな時間で宇宙を破壊したり再生したりできるほどのエネルギーを操り、量子レベルでまったく同じクローンを創り出し、銀河を瞬時に横断し制御するほどのテクノロジーを持っているというまったくおとぎ話のようなプロットが使われているが、これを書いたのが北京大学を卒業した哲学者であるとなると荒唐無稽な話でもないのかもしれないと思えてくる。
十次元世界というのは調弦理論で提唱されている考えであり、イエスキリストや空海、釈迦という人たちは異次元からやってきた「統治者」の代理人であったのかもしれない。この本のラストでも、「統治者」の代理人となった主人公は現宇宙に蘇る。
最近発見されたという、どこからやって来たのかわからない1グラムあれば地球を破壊できるほどのエネルギーを持つアマテラス粒子というものはひょっとして遠い宇宙のどこかで繰り広げられている星間戦争の流れ弾なのかもしれない。

まあ、そういうのも妄想なのかもしれず、宇宙のどこかで善と悪が戦い、その代理人が主人公であるというプロットは平井正和の「幻魔大戦」や「超人バロム1」で使われているようなありきたりのものかもしれない「エウレカセブン」も時空を行き来してこの世界とは何者なのだということを問うているのは、人間のDNAには古い高次元の世界の記憶が刻み込まれているのかもしれない。

というか、大のSFファンの著者ならこういったものも知っていてそういうものも念頭に入れながらこの物語を書いただけのかもしれないのでこれもただの僕の中のおとぎ話に過ぎないのかもしれないが・・。この感想文とはまったく関係ないのだが、「超人バロム1」の原作者は「ゴルゴ13」のさいとう・たかおだというのをこの前の堺市放浪のときに初めて知った。この人も未来と過去を見ていたのかもしれない。
そう思いながらも、こういったプロットから50年が経つと様々な自然現象の解明が進んでリアルさを増してきて、ひょっとしてこれはおとぎ話とも言えないのではないかと思わせてしまう1冊であった。

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「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」読了

2024年04月01日 | 2024読書
河野啓 「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」読了

この本は、2020年 第18回 開高健ノンフィクション賞受賞作だ。
北海道放送のディレクターであった著者が登山家栗城史多について生前の取材や、死後新たに取材したものをまとめている。

登山家栗城史多をウイキペディアで調べてみると、こんな人であったそうだ。残念ながら僕はこの登山家のことについてほとんど記憶はなかった。
『栗城 史多(くりき のぶかず、1982年6月9日 - 2018年5月21日)は、日本の登山家。実業家として個人事務所の株式会社たお代表取締役を務めた。北海道瀬棚郡今金町出身。北海道檜山北高等学校を経て札幌国際大学人文社会学部社会学科を卒業。よしもとクリエイティブ・エージェンシーと2011年9月から業務提携した。
「冒険の共有」をテーマに全国で講演活動を行いながら、年に1、2回ヒマラヤ地域で「単独無酸素」を標榜して高所登山を行っていた。エベレストには、頂上からのインターネット生中継を掲げ、2009年にチベット側、2010年と2011年にネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず敗退。2012年に西稜ルートから4度目の挑戦をするも強風により敗退。この時に受傷した凍傷により、のちに右手親指以外の指9本を第二関節まで切断。2015年の5度目、2016年6度目、2017年7度目のエベレスト登山も敗退した。2018年5月に8度目となるエベレスト登山を敢行したが、途中で体調を崩して登頂を断念し、8連敗を喫した直後の5月21日にキャンプ3から下山中に滑落死した。35歳没。』


著者は当初、同郷の登山家に好感をもち、ドキュメンタリーを作成するために長期の取材を続けていた。しかし、取材途中でのトラブルや意見の相違などから2013年ころから徐々に取材の頻度を減らしてきた。その後も登山活動を続けた栗城史多は2018年の登山中の滑落事故で亡くなるのだが、それを機に栗城史多の取材を再開し、この本にまとめた。

世間が思う登山家のイメージというのは、寡黙で人嫌い。山だけにしか興味がない。というようなイメージだが、栗城はまったく違った。そして、取材途中での様々な出来事、その後、滑落事故で亡くなるまでの間に聞こえてきたいろいろな噂から、栗城史多という登山家は一体何者であったのかそれを知りたいというのがその動機であったようだ。

偉大な登山家とは言えなく、むしろ世間や登山界ではむしろ評判は良くなかったようだ。AIにまとめてもらった栗城史多の明暗の評価は以下の内容だった。
『栗城史多さんについての明るい部分としては、彼が日本人初となる世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂に挑戦し、その明るいキャラクターで多くの人々から賞賛を受けたことが挙げられます。また、彼は「冒険の共有」をテーマに全国で講演活動を行い、多くの人々にインスピレーションを与えました。
一方、暗い部分としては、彼の登山スタイルが同業者から批判されることもあり、常識とはかけ離れた方法での単独登頂を続けたことが指摘されています。さらに、2018年5月に8度目のエベレスト登山中に滑落死するという悲劇がありました。彼の死は、登山界に大きな衝撃を与えました。』

栗城史多さんの生涯は、多くの成功と困難、そして最終的な悲劇によって特徴づけられています。彼の物語は、冒険と挑戦の精神を象徴するものであり、多くの人々に影響を与え続けています。』
筆者も同じようなことを書いていて、無酸素登頂という言葉に含まれる矛盾や著者の取材中の裏切り行為や奇行とも思えるようなことがあったということを書いている。
それでもこの登山家についてのことを本にしようとしたのか。そこには、「人はどうしてそうなってしまうのか」ということを解明したかったのかもしれないと思った。
その答えのひとつは、自分が理想とする自分像をよく作りすぎた。また、それを他人に広く見せつけたいという欲望が自らを死に追いやってしまったのではないかと著者は考えたようだ。
『夢の共有』という言葉がその両方を象徴しているように見える。自らの夢(=理想の自分像)を広く見せつけたい。ということだったのだろう。
僕は別の意味で「共有」という言葉に胡散臭さを覚えた。
「共有」という言葉はビジネスの中でもよく使われる言葉だ。「みんなに知らせたからトラブルが起こったときはみんな同罪ね。責任逃れはできないよ。」という縛りが生まれるのだが、この人も「共有」という言葉を使って、「失敗してもそれも共有してね。失敗に対して批判はできないよ。」と言っているように思えるのである。なんだかちょっと無責任な臭いがする。登頂をできないことを承知で会費を集めたりクラウドファンディングやスポンサー集めをやっていたのではないかとこの言葉から想像してしまうのである。共有するよりも、冒険なら、ただ一言、「俺を見ろ!」というべきではなかったのだろうか。

実際には、多くの登山家が評価しているように、栗城史多には単独無酸素でエベレストに上れる実力はなかったと考えられている。同時期にはイモトアヤコが世界の高峰に登っていた。タレントが自分と同じように山に登ることをエンターテインメントとして完成させている。また、実力のある登山家たちはもっと短時間でエベレストの登頂を果たしてもいる。
著者はその頃には栗城史多自身も自分でもエベレストには登れないと考えながらも虚勢を張るために無理をする。それが批判を呼びさらにそれを打ち消すように無理をして虚勢を張る。
そんなことをしていると大概は世間やスポンサーからは見捨てられてしまいそうだが、自身の人懐っこい性格から誰も放っておかなかった。
結局、8回目のエベレスト登山の途中に遭難してしまうのだが、最後に選んだルートはその直前に封切られた、「神々の山嶺」で主人公の阿部寛が選んだ南西壁ルートであったそうだ。なんとか、自分の理想の姿を具現したいという焦りが見え見えのようにも思えてくるのである。
タイトルのとおり、自分をドラマの主人公として生き切ったとも言える。しかし、それを完結するために自らが死を選んだとも言えなくない。
登山家を応援していたひとりの言葉が悲しい。
『死ぬつもりで行ったんじゃないかなあ、彼。失敗して下りてきても、現実問題として行くところはなかった。もぬけの殻になるより、英雄として山に死んだ方がいい、って思ったとしても不思議はないよね。』
なんだかオオカミ少年のようにも見えてくる。
著者は、自分も含めて、それを止められる人はいなかったのかと悔やむのである。

こういう人を見ると、ほとんどの人は批判をする側に回るのだが、誰でもどこかでは同じように自分をよく見せようとするのではないだろうか。SNSへの書き込みにはそういうものが溢れている。小さな幸せを一生懸命ひけらかしているのである。僕自身もそういった人たちと同じひとりであるようにも見える。
一歩間違えば自分をそれ以上に美化するために自分を陥れる危険にさらしている。
なんだか最後までザラザラ感が残る1冊であった。

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