イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2017年01月27日 | 2017釣り
場所:加太沖
条件:大潮 6:40満潮 12:06干潮
潮流:7:15 上り3.3ノット最強 11:00転流
釣果:ガシラ 3匹

強烈な寒波が去って今日は南風が吹くらしい。
潮の回りはよくないがとりあえず出港だ。
東の空は不気味なはどの厚い雲。その合間から落ちてくる光のスポットが不安を紛らわせてくれる。



田倉崎に到着した頃にはすでに潮が緩み始める時刻だ。どこから始めようかと思案しながら他の船の位置を探してみると帝国軍はナカトシタの少し南側に集結している。
潮はまだ上っているので船はいないが第2テッパンポイントからスタート。しかし、すでに潮が緩み始めていると思うとなかなか気合が入らない。だから全然アタリもない。唯一の望みは僕の港の近くから出港している人気の釣り船海竜も同じ海域で頑張っていることだ。



僕の選択も間違ってはいないと思いたいが、やっぱり疑似餌の釣りは確信が大切ですでに保険のガシラが気になり始めた。
この魚も簡単に釣れそうでも潮が止まってしまうとまったく釣れなくなる。簡単に我慢ができなくなり沖の島の南のいつものポイントへ移動。早速仕掛けを下すも予想に反してここはまだすごい潮が流れている。
貴重なPEラインを30メートルほど高切れさせてしまい意気消沈。これほど潮が流れているならと年末に1匹釣り上げたポイントで再度真鯛狙いに切り替えた。

あまり期待はしていなかったものの、ふた流し目でアタリが出た。ゆっくり巻き上げながらフッキングを待つとなんとか鉤に乗ってくれた。これをバラすと後がないと思うので慎重に巻き上げてくるも今日も途中でバラしてしまった。
真鯛だったのかどうかはわからないが今日も大きかった。神様はとりあえず1度はチャンスをくれるがなかなか獲物を手にさせてくれない。この神様は優しいのかそれともマゾなのか・・・。

その後何度か同じ場所を流してみたがアタリがなく、もう、ガシラに切り替えないと今日も何もなしで帰らなければならない。
ちょうど漁礁の回りにいるのでこの場所でガシラの仕掛けを下してみるとなんとアタリがあった。大きなガシラだ。やはり沖にいる魚は大きい。しかし小さな漁礁だ。なかなかその上を通すのが難しい。ここをあきらめて地方に移動。そこで1匹。
新しいポイントを求めて加太の大波止の沖へ移動。ここも1匹で終わって今日は終了。南からの風が吹いてくる前に撤収と考えていたが少し遅かった。田倉崎の沖はかなりのうねりが入っていた。しかしそれを除くとあの寒波が嘘のような陽気を感じられた。



この冬も寒さのピークは過ぎたのだろうか。そろそろワカメ採りの準備も始めなければならない。

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水軒沖釣行

2017年01月22日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:長潮 7:21干潮
釣果:コウイカ 2匹

昨日は北風が強かったが今朝は東からの風だ。釣りに行ける。
しかし寒い。港までの道中原チャリのハンドルを握る指先は完全に感覚が麻痺してしまっている。
大きな船はエンジン場とシールドとオーニングがあるおかげである程度風を遮ってくれるが今日は小船を駆っての釣りなので船外機のハンドルを握る指先は寒さで痛くなり、顔に当たる風はカミソリのようだ。
ちょっと前に三島由紀夫の肉声テープが見つかったというニュースがあり、三島の生死感として、「死が肉体の外から中に入ってきた気がするんです」という言葉が紹介されていたが僕にはよくわからなかった。
しかし、ゴムが緩んだ防寒着の袖口やひび割れた長靴から入り込んでくる寒さの辛さは身に染みてわかる。

釣れるかどうかはわからないがとりあえずいつものポイントからスタート。
潮は緩やかで風もそう強くはない。底はちゃんと取れているがアタリはない。

新々波止の一番陸寄りの元の切れ目の前に移動。ここでかすかなアタリがあった。
こんなに寒くても釣れてしまった。これでなんとかボウズは免れた。

そうこうしていると西の空が真っ黒になってきて雨が降ってきた。東の空は少しお日様が顔を出しているというのに・・・。

 
で、雨が降ってきて急激に気温が下がってきた。



どうも目には見えないけれども寒冷前線が僕の真上を通りすぎているらしい。
アタリもないので帰ろうかと思っていたら、今度はかなり明確なアタリ。2匹目が釣れた。1匹目と同じ場所であった。
今日はここがポイントらしくすぐにもとの場所に戻り仕掛けをおろすと三度アタリが!今度は大きい。ひょっとしてモンゴウイカか!と喜んだがなんだか細長いものが・・・。ゴミかと思いきや生きていた。

  

ハモの子供にしては妙に長いし、食べるにはちょっと気持ちが悪いので撮影後に海に帰っていただいた。
いつもこのブログにコメントをいただいているちからさんからの情報では「ダイナンウミヘビ」というものなのかもしれないとのこと、ネットで調べてみるとたしかにこの魚だ。
しかし、名前が悪い。ダイナン=大難とは縁起が悪いではないか・・。と思いきや、“大灘”海蛇と書くようで、“ 氵”が付いていた。
なんとなくブログのネタも拾えたことだし、この寒さに負けてしまって午前9時半に退散した。

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「山女魚百態」読了

2017年01月21日 | 2017読書
宮地 伝三郎,山本 素石,開高 健/編 「山女魚百態」読了

もうすぐ渓流の解禁だ。
もう何年も渓流釣りには行っていない。アマゴは食べると美味しいし引き味も独特だ。春先の凛とした河原の雰囲気も気持ちがいい。
しかしながら大して釣果を得ることができず、同じ時期はワカメ採りや乗っ込みのチヌ、山菜採り、真鯛釣りとやりたいことがいっぱいある。悲しいかな遠距離を行かなくて体力的にもきつくなってくる川の釣りの優先順位は最下位になってしまった。

この季節を前にして日高川に行きたいという気持ちを再度ムクムクと盛り上げるため、この本を開いてみた。
さて、結果は4月ごろに出ていると思う。

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ベーコンを作る

2017年01月21日 | Weblog
森に暮らすひまじんさんのブログを見ながら、いつかはベーコンを作りたいと思っていた。
連休のタイミングに合わせて思い切って肉を買ってみた。

まずは塩漬け作業。



5日間冷蔵庫で熟成させ、1日半冷蔵庫内で乾燥。



いよいよ本日、燻製器に入れる。



今日は北風が強いが南向きの庭はけっこう暖かい。
本を片手に温度調節をしながら約3時間。



激安スーパーで買った米国産バラ肉だが、はじめてにしてはなかなかの出来栄えなのではないだろうか。
本当はもう少し燻したかったのだが残念ながら燃料切れ。
それでも燻煙の香り、歯ごたえ、買ってくるベーコンとは一味違う出来栄えだ。

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「人工知能 人類最悪にして最後の発明」読了

2017年01月20日 | 2017読書
ジェイムズ・バラット/著,水谷 淳/訳  「人工知能 人類最悪にして最後の発明」読了



なかなかセンセーショナルなタイトルの本だ。
去年の暮れから今年にかけて、クルマの自動運転や囲碁で名人を負かしたり、将来人の仕事をどんどん奪ってしまうのではないかということでで、AIの存在が一躍有名になった。
そのAIがもっと進化し、AGI(人口汎用知能)からASI(人口超知能)という自分で自分のプログラムを書き換え自分のコピーを作り出すことができるようになると、それは人類の存続にかかわってくるというのだ。
自ら進化することができるようになったASIは自身の衝動である、エネルギー獲得、自己防衛、効率性、創造性に従い、人類を滅ぼすという。
例えば、エネルギーの獲得のため、人間をただの原子の塊としてナノマシンを使いバラバラにしてしまう。暴走しようとしている自分を破壊するのではないかと考えたASIはターミネーターの世界のように無人兵器を操作して人間を攻撃するかもしれないというのが著者の主張である。

本の中では具体的なストーリーが語れていないのでなんともピンとは来ない。
本当にそんなことが起こるのだろうか。
しかし、すでにそうらしいのだが、今でもAIと呼ばれているコンピューターは並列処理というアルゴリズムで動いていて、格段に処理能力を向上させている。これは人間の脳細胞の働きをリバースエンジニアリングして作られ、たとえば、翻訳をするとき入力した文章と出力した文章はもちろん見ることができるが、コンピューターの中でどんな演算をされてそんな翻訳になったかというのはわからないそうだ。もうすでにそんな時代に入りかけているのだ。

昔、人間というのは遺伝子を運ぶただの乗り物であって、遺伝子は自分の情報が未来に存続できるもっといい手段があればそれに乗り換えるかもしれないというような内容の本を読んだことがある。
そういう意味ではコンピューターのほうが情報の運搬という意味では最適なのではないか。
宇宙にだって簡単に飛び出すことができる。DNA(=遺伝子)が30億年かけて蓄積してきた情報をすべてコンピューターに写し取ってしまったら遺伝子は生きながらえさせるには厄介な炭素体ユニットを簡単に捨ててしまうのかもしれない。
それがこの本でいう人類の滅亡につながるのではないかと思った。

それともうひとつ、ASIという超人工知能はひとたび生まれると急激な速度で進化し、他のAIを圧倒し、わずかな時間でコンピューターの世界を征服してしまう。
ということは世界を征服できるASIはひとつ、1体しかないということになる。
釈迦の悟りの根源は人生は“苦”であるということ。しかし、その苦も、単体しかない、それも電源が切れることがない限り死なないなどとなるとほとんどの苦しみから開放されていることになる。おまけに実態がないデータだと五陰盛苦などという、体があることさえも苦になる元であるという究極の苦しみもないこともない。

人工知能がそこまで発達するときを迎えるのは西暦2045年と言われているそうだが、僕は生きているのか死んでしまっているのかわからない。生きていたとしても世の中がどんなに変わってもボケてしまっていて何もわからなくなっている。だから僕にとってはシンギュラリティだなんだと言っても他人事でしかない。
ウインドウズ10でも扱いに四苦八苦しているくらいだ、もうついていけていないのだ。
それにしても、そんなに便利というかお節介な世界というのはすべての人が望んでいることなのだろうか?クルマについても非常ブレーキはありがたいけれども、自動運転を望む人はどれだけいるのだろう。ぼくなんか、自動で運転してくれてても機械なんて信じられないからコックピットのなかでひやひやしているだけだし、IoTだかなんだかで、冷蔵庫の中身まで管理をしてもらいたいとは思わない。
そういう意味では最後のいい時代を過ごすことになる世代なのかもしれない。
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加太沖釣行

2017年01月19日 | 2017釣り
場所:加太沖
条件:小潮 4:53干潮 11:30満潮
潮流:8:15転流 11:55 上り2.2ノット最強
釣果:ボウズ

ここ数日のすごい寒波が緩んで年が変わってやっと加太へ向かうことができた。

朝の気温が少し高くなったとはいえ、やっぱり寒い。朝はゆっくり出発、午前7時に出港した。
一文字の切れ目を出ると、空は雲が多いものの、海面は穏やかそのもの。快調にクルージングできた。



加太への到着時刻はほとんど潮が動かないので前回潮止まりでなぜか真鯛が釣れた沖ノ島の南側からスタート。
しかし、前回のような奇跡は起きず、午前9時、上り潮には強いと思っている第2テッパンポイントへ。ここでもまったくアタリがない。すごい寒波が水温を下げてしまったのだろうか。それに潮もあまり動いていないようだ。
そうこうしているとウミネコが1匹。



これも前々回の加太釣行の奇跡の再現か・・・。
しかし、このウミネコ、僕の船のそばに舞い降りた直後、舳先にチョコンと乗ってきた。



去年の2月、同じような場面の時があった。そしてこの日はボウズであった・・・。

それから30分後、待望のアタリ。それもかなり大きい。慎重に巻き上げ、仕掛けまでたぐり寄せあと3本枝針を取り込んだら魚に手が届くところまできたが残念ながらそこでバラしてしまった。
僕の前にはヤマハの和船がいて、その船頭はきっと竿を曲げている間はくそ~、やられた!と悔しがり、僕が肩を落とした瞬間、ざまあみろと歓喜の声を心の中で上げたに違いない。C'est la vie。これが人生だ。

ウミネコは三度舳先に舞い降り、その間、3回のアタリがあったがすべてバラしてしまった。今日はこの時間、午前10時ごろが時合であったようだ。ウミネコくんにはいいところを見せることができなかった。
3度目に舞い降りた時は約30分、ずっと水先案内をしてくれたがそれでもアタリがなく、午前11時ごろに最後のアタリがあって今日は終了。潮流の最強時刻に近づくにつれて風も強くなり午後0時に終了。

午前10時ごろ、僕が時合だと思った時はまだ風が緩く、潮の流れと仕掛けの流れがうまく合っていたのだろう。風が強くなると船が流され今日のような北風と上り潮では仕掛けが不自然に引っ張られてしまうように感じる。
それがアタリがない要因なのではないだろうか。今日はそう思ってひたすら船を前進させて釣り続けたが、こんどは巻き上げ速度に問題が出てきてしまう。なかなかそれが難しい。
それを克服しないと獲物には出会えないのかもしれない。

ウミネコくんが悪いのではない。僕の腕がわるいのだ・・・。


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水軒沖釣行

2017年01月09日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 4:04満潮 9:31干潮
釣果:コウイカ 1匹

年が明けて10日近くになろうというのに海に出られない。昨日の天気予報でも今日は冬型の気圧配置だ。
しかし、今日もとりあえず夜明け前に目を覚まし、空の様子を見る。
??、風がない。ひょっとして行けるのではないか・・・。
風は間違いなく吹いてくるだろうし、小船のエンジンはもう3週間以上も回していないので初釣りはコウイカ狙いだ。

風が出る前に釣りを終えたいと思い暗いうち、午前6時に家を出発。冬至十日過ぎたらアホでも分かるということわざがあるが、確かに夜明けの時間はどんどん早くなってきている。港に到着したころには薄っすらと明るくなっていた。

風はないけれども、一文字の切れ目を越えると大きなうねりが出ている。多分大きいと言えるようなうねりではないのだが、船が小さいので若干の恐怖を感じる。



沖へ向かうのは断念して新々波止と沖の波止の交差点からスタート。
仕掛けを下してわずか5秒ほどだった、多分アタリ?という違和感があって、大きく合わせると本当にイカが乗ってきた。

ひょっとして今日はすごい日に当たってしまったのではないだろうかとものすごく期待したもののその後はまったくアタリがない。
潮は上げの最中なのだがまったく動いていない。仕掛けは流れすぎても困るが真下に下りたままというのはもっと困るのだ。



結局、午前8時半まであちこちウロウロしてみたが気力がなくなり今日は終了。

そうすると、今日の1匹というのは何だったんだろうか?どうして釣れたのだろうか?
今日の時合の最後だけをギリギリ掴むことができたということだろうか?それとも、前回の神社めぐりでお参りするのを忘れていた矢の宮神社にお参りをしてから港に向かったご利益だったのだろうか?
それとも、姿の見えない何者かが、「そうか、そうか、そんなに釣りがしたいのなら3時間だけ時間をやろうじゃないか、1匹だけ釣らせてやろうじゃないか。」と僕にチャンスを恵んでくれたのだろうか・・・?
夜明けから2時間ほど、この時だけ冬型の気圧配置が一瞬だけ緩んだような気がする。日本海にあるはずの等圧線が消えている。



どちらにしても、不安定な天気という中で初釣りをボウズを免れて追われたのは幸先がよいと思っておこう。


帰宅してから、十日えびすのお参り。この時間にはかなりの北風になっていた。早い目に切り上げて今日はよかった。



今年も安全に魚が釣れますように・・・。


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「「酒」と作家たち 」読了

2017年01月09日 | 2017読書
浦西和彦 編 「「酒」と作家たち 」読了

本書は作家と酒というテーマで小説家、文芸評論家、詩人、歌人をそれぞれにゆかりがあった作家が思い出として書いている。
「酒」という雑誌に連載されていたものだそうで、対象になった作家たちは執筆された時点ではすでに物故している。
文芸評論家や詩人、歌人となるとその人そのものを知らないのでなかなか退屈になるのだが、作家については書かれた人、書いた人とも幾人かはなんとなく知っていたり、著作を読んだこともあったりする。

師のお酒については柳原 良平が書いているが、これは前回読んだ、「大阪で生まれた開高健」に掲載されていたものと同じで、この雑誌から引用されたもののようだ。
中上健次については保高みさ子という作家が書いていて、その酒豪振りと酒乱ぶりが面白く書かれていた。
そして、発見がひとつ、津本陽という作家は和歌山市出身というのは知っていたが和歌浦に生家があるそうだ。そして、師も同人であった「VIKING」に参加をしていたそうだ。エッセイの内容は、その主宰者であった富士正晴の自宅でおこなわれた新年会の模様であった。しこたまお酒を飲んで豊中から地下鉄に乗って南海電車で和歌山市駅からバスに乗って和歌浦へ・・・となっていた。
和歌浦のどこだったのだろうと調べてみたら和歌浦の国道42号線が大きく曲がる三叉路にある古い家だった。今でもよく通る道で、この場所だけ利用価値がないのか、古い家が残ったままで、そこが津本陽の実家だとはまったく知る由もなかった。いつもボ~っとして前を通っているだけで、改めて見に行ってみるとそこはすでにコンビニの駐車場になってしまっていた。




大半のエッセイは昭和40年代から60年代に書かれたものをまとめているようなのであるが、この時代の作家の文章のうまさというのはすばらしいと感じる。対象になっている作家に興味があるからよけいにそう感じるのかもしれないが、文章の硬さというか、言い回し、言葉遣いのうまさというのが素人でも十分わかってしまう。
ある作家の文章に、放歌高吟という言葉が出てくる。この本の文章がすばらしいのはまた、作家の酒の飲みかたがそういう言葉のとおりなのだからとも思う。僕たちがグダグダ会社の悪口や変な噂話を肴にして飲んでいるのとはわけが違う。だから僕は宴会というものがどうも苦手だ。もう少し頭と品がよければおいしいお酒も飲めるのであるが、今日もひとりで電車に揺られながら不味い缶チュウハイを飲むのだ。

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天気晴朗なれども・・・。

2017年01月05日 | Weblog
毎年、元旦の次の休みは釣りに行って、その後に給油を兼ねて港そばの神社を巡るのが恒例になっていたが、今年の2回目の休みは北風が強くて海に出ることはできなかった。

残念ながら今年は神社めぐりだけになってしまった。
いつものとおり、玉津島神社、塩釜神社から東照宮、天満宮、近所の漁港の恵比寿神社を経て僕の港の集落の氏神様へ。

      

港に戻りちょっとだけ船の修理、
舵と油圧装置を繋いでいる部分の境目の隔壁が錆びてしまっていて低くなり大雨が降るとラバーのカバーの中に雨水が入ってしまうようになっていた。再び100均のまな板を登場させ、隔壁に合うサイズに切り出し、コーキング剤で貼り付けてみた。

作業前がこれ

 

作業後がこれ


(元々、タコのテンヤを作ろう思って

調べてみると、前のオーナーさんも同じようなことをしていたようで、コーキング剤のカスが隔壁の周りに貼りついていた。いつの間にか外れてしまったのか、それともうまくいかなくて外してしまったのか、僕の修理もうまくいっているのだろうか。
まあ、当分は様子見だ。

そしてもうひとつ年末にやっておいた修理というか仕掛けというかの確認。
僕の船の艫のところはなぜかいつも鳥のフンで汚れている。オーニングの片隅をお気に入りの鳥がいるらしのだ。


(これは掃除をして日が浅いのでこれくらいでおさまっている。)

CDロムを吊り下げてみたりしたが効果がなく、あきらめてはいたのだが、ふと、100均の猫避けマットを思い出した。
止まっていると思われるフレームにタイラップでトゲを再現してみた。



これは効果があったようで、約1週間経ってもフンの被害は増えていない。
まあ、これも寒くて鳥がどこかへ避難しているだけかもしれないのでやっぱり様子見というところだ。

どちらもうまく機能してくれれば少しだけ快適になるのではあるが・・・。


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「高僧伝 道元」読了

2017年01月05日 | 2017読書
松原泰道 「高僧伝 道元」読了

いままで何冊か読んだ、「高僧伝」のシリーズを古本屋で見つけたのでこんどは道元禅師編を買ってみた。

道元の思想は、「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という言葉から始まる。この言葉は、「すべてのものは仏の心(=仏性)を備えている。」という意味だが、すでに仏性をもっているならどうして人は修行をしなければならないのか。という疑問を持ち、その解を求めて中国に渡ったそうだ。

仏性は確かに人の心には備わっている。しかしそれを見つけるためには自分というものを極限まで捨て去り、そうしながらも自分自身を見つめ続けることが必要であると書かれている。
それを禅師は「仏道をならうといふは、自己をならふなり。」と表現した。

自分を捨て去りかつ自分自身を見つめるというというのはどういうことなのだろう。
釈迦の教えは、簡単に言うと、人生は苦しみに満ちている。それから逃れるためにはすべてを捨て去ることだ。というように思うが、人が苦しいと思う要因というのは人それぞれに違うのだから自分を見つめなおしてそこを見つければ解決策があるのではないかというようなことなのかと思ってみたが、どうもそうではないらしい。自分の苦しみの根源を考えることがすでに迷いであり、ただひたすら座り続けること(只管打坐)をすれば自然とさとりの世界に入れるという。それを心身脱落というそうだが、そのための形而下での努力が座禅をすることや各種の作法を実践することであるというのが僕がわかる範囲の大体の内容だ。

しかしながら、自分の迷いや悩みの元をそぎ落としてしまうと、タマネギをどんどん剥いていくと何もなくなってしまうのと同じように自分がなくなってしまうのではないだろうかと心配になってくる。達磨から数えて6代目の祖である慧能という人の言葉に「本来無一物」という言葉があるそうだが、悟りというのはそんなものなのかもしれないし、本書でも、仏性はどの人も同じものを持っている。最終的には他人と同化さえできるのだと、これは道元禅師の言葉なのか著者が言っていることなのかはわからないが最後のほうでそのように書かれている。

ちょっとSFっぽくなってくるのであるが、それでは自分だけが修行しても相手も修行してくれていないとどんどん苦悩の元がこっちに押し寄せてくるだけなのではないかと考えてしまうのはまだまだ座り方が足らないということなのだろうか。
ウチの会社の上層部の人たちも一緒に座禅してくれるというのなら僕も喜んで只管打坐すのだけれども・・・。

しかし、このシリーズの表紙を見ていつも思うのだが、道元禅師のお顔はこんなのだった
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