イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「人生一般ニ相対論」読了

2021年03月29日 | 2021読書
須藤靖 「人生一般ニ相対論」読了

頭の固い人が書く柔らかい文章か、それとも頭の柔らかい人が書く固い文章か。そんな本だ。
ここで言う「頭の固い」や、「頭の柔らかい」は、頑固者でどうしようもないとか、脳細胞がジュクジュクで危険なことを考えているという意味ではなく、論理的な思考をするひととか、ユーモアに富んだ思考をする人とかいう意味である。

著者は、前にも読んでこの人の文章は面白いなと思った人だ。東大で宇宙物理学を研究しているそうだ。そのシリーズ(この本を含めて2冊だけなのかもしれないが・・)の一番最初に出版されたものだ。
同じように注釈がやたらと多い。そしてやっぱり理科的なことには程遠いというか、しかし、身の回りのことについて書かれたその中に、しっかり理科的な要素がちりばめられている。
そもそも、科学というものは古代ギリシャ時代の哲学から派生した学問だ。だから科学から理科的なことを取り除くと生きることとは、とか、人生とは、という、純粋な哲学が残る(はずな)のである。

タイトルにもなっている、相対論については、ガリレオからニュートン、アインシュタインに続く相対論とはほとんど関係がない国ごとに異なるマナーや〇×のつけかた、善悪の判断などに絶対的なものはないのだという話が続く。しかし、それがいつの間にかダークエネルギーの話に変わっていく。そういった話の作り方いうのが、この人はすごい文章を書くなと感心し、また納得してしまう。
その裏には、ダークエネルギーというのは、今や宇宙空間に満ちあふれている、いまだ確認はされていないものの間違いなく存在するとされているものだが、この世界の空間を満たすものとは、ギリシャ時代からニュートンの時代までエーテルというものだとされてきた。しかしニュートンは真空という概念を持ち出した。実は何もなかったのだとしたのだ。しかし、アインシュタインから量子力学の時代になるとそこはダークエネルギーというものに満たされているとなった。
絶対的なものは何もない。時代や立場が変わることで何もかもが変わっていくのだという諸行無常ともいうべき人生観に繋がっていくのだ。

すべての章がこんな感じで何気ない日常やちょっとした不思議なことが物理学と結びついていく。そこにはやっぱり科学というよりも哲学を感じるのだ。
この不思議さが心地よいエッセイなのである。

ひとつの章で、「ニュートン算」というものが紹介されている。
こんな問題だ。



これがなぜニュートン算と呼ばれるかというのには諸説あるらしいが、ニュートンが講義した代数学の講義録に牛が牧草を食べるという問題があったとか、プリンキピアを書いたあと、王立造幣局長官を務めるのだが、この問題が複利でのローン返済日数を求める問題と同じであるのでおカネと関係があるということからきていると言われている。(これをヒントに回答に挑んでください。答えは書きません・。)
この問題は中学入試に出てくる問題なのだそうだが、著者は、こんな問題が入試に出題されることの功罪についても語っている。
これが将来大学で学ぶ学問について何の役にも立たないのに、無意味と思える事項を暗記する羽目に陥っている小学生たちを憂いている。
こういう部分でも人生に必要なものは何であるか、そうなってくると、著者が専門としている天文学や宇宙物理学というのはどういった功罪があるのかということを自虐的に書いている。
そのこころは、「だって面白いんだもん。」はたまた、「役に立つことは役に立たないことをするために役立つ」という結論になる。そう、役に立つことは他人にやってもらっておいて、「役に立たないことをするため。」ということが人で生では大切なのだということがこの本には満たされているのである。

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タラノメ採り 4回目

2021年03月28日 | Weblog
去年見つけたタラノメスポットがそろそろ採り頃だろうと行ってみた。
今日は朝早くから雨が降る予報であるのと、このスポットがどう見ても私有地を通らないと入れないので雨が降る前、それも人目につかない時間帯をと、ほぼ夜明けと同時にスポットに到着した。

去年見た時にはこんなに目立つ場所なのに盗られた形跡がないと思っていて期待したのだがさすがにそんなに甘くはなかった。手の届く範囲の芽はすべて盗られてしまっていた。ほんの少し残っていた梢の芽を採って終了。
立派な木が生えているところなので残念だが仕方がない。

 



しかし、この辺りはやたらと桜が多い。毎年、ここを通る時期はすでに桜が終わっているのでこんなにいたるところに桜が見られるというのに驚いた。明日から当分出勤の日が続くので今年は船の上から章魚津子山の桜を見るだけで終わりかと思ったが思わぬところで満開の桜を見ることができた。せっかくなので全部載せてしまおう。

     

気象庁の短時間降水情報をにらみながら出発した甲斐があってタラノメを採っているときだけ雨が上がっていた。桜を見ながら帰途につく頃には本降りの雨になっていた。今日も鬱陶しい1日になりそうだ。

家に帰って読書の感想文をひとつ書き終えたくらいの時刻にまた雨が上がり始めた。図書館に行かなければならないのと、船の給油もしたいのでまたまた気象庁の短時間降水情報をにらみながら午前10時までは大丈夫と見た。雨ならあきらめようと思った紀ノ川土手のタラノメも見に行くことにした。

こっちは誰にも目をつけられていないようで、残しておいたすべての芽が残っていた。しかし、中2日の間に一気に大きくなったようだ。少し採り頃を過ぎている。

 

最初に見つけたのは3本の株だけだったのだが、ほかにもないだろうかと周辺を探してみるともっと大きな木をみつけてしまった。山菜を見つけるときにはひとつ見つけたらその周辺をくまなく探すというのが鉄則だと思っているがそれを怠ってしまっていた。こんな場所には生えていないだろうという先入観はよくないのだ。せっかく見つけた芽は食べられないほど大きくなってしまっていた。また来年だ。

 

ここから和歌山城まではすぐそこだ。雨が降りはじめたがせっかくだから桜を見て帰ることにした。どんどん雨足強くなってきたので本当に見るだけで終わったがまあ、桜はさくらだ・・。

  


「桜の下には死体が埋まっている。」と書いたのは梶井基次郎だが、タラノメの下にも死体が埋まっているかのようだ。まさか死体の養分を吸って芽が大きくなっているわけではないだろうけれども、なんとももソワソワしてしまう。そして採りに行かずにはいられなくなってしまう。そうなるとやっぱり、絶対、死体が埋まっているのかもしれないと思ってしまう。
そう言えば、「タラの芽一つ摘み取るは、坊主千人の首を斬るに等しい罪悪」ということわざを聞いたことがある。これは、枝一本の先に一個の芽しか出ないので、それを摘み取ることは木を殺すこと…首を斬ると同じ殺生だということを表した言葉だそうだが、坊主の死体が埋まっていそうだとも思ってしまうのである・・。
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「かわうそ堀怪談見習い」読了

2021年03月27日 | 2021読書
柴崎友香 「かわうそ堀怪談見習い」読了

著者は芥川賞作家だそうだ。受賞作というのが、東出昌大の不倫の発端となった映画の原作だったらしい。

どこでこの本の名前を知ったのかを覚えていないのだが、この本の内容もそういった、忘れられた人の記憶のはざまの中で繰りひろげられる不思議な世界を書いている。

主人公はまだデビューしてそれほどの間がたっていない小説家だ。デビュー作に恋愛小説を書いた覚えはなかったのだがなんの幸運かドラマになった。その後、「恋愛小説家」と自分の写真の下に肩書として書かれていたことを見て、恋愛小説を書くのをやめようと思い、別の棚に並べられる本を書こうと決め、怪談を書くことにした。
新しいことを始めるのにちょうどいいということもあり、郷里の街に3年ぶりに戻ってきたという設定である。

小説のネタを探すため、再会した幼馴染のたまみやその知人の体験談、街で出会った不思議な体験が短編集のようにつながっているという構成だ。
「怪談見習い」というのがどういう意味で使われているのかはわからないが、怪談というには恐怖感がまったくない。だから僕も最後まで読めたというところなのではあるけれども。

物語の最後のほうで、「それまで暮らしていた世界と、別の世界との隙間みたいなところに、存在するようになっていたのだ。」と書かれているとおり、人々の生活のはざまの中で誰かがそれを見ている人がいる。ふとしたはずみにそれが見えるのだというような話が続く。
かといってその誰かがなにか悪いことをするというのでもない。ただ、見ているだけだ。それは、過去と未来をつないでいる何かを忘れないでくれと語りかけているかのようである。人はそうやって命をつないでいっているのであるといいたいのかもしれない。

道元の考えでは、「人生というのはスライスされた時間が積み重なったものである。」とされているが、その誰かたちはスライスされた時間をつなぎとめている役割を担っているのではないだろうかと、ふとそんな考え方をしてみた。
今だけを生きるとはいっても、未来はどうかわからないけれども、過去に対しては何かが残って積み重なっているのだとそういったことを教えてくれているようだ。

物語の舞台になった「かわうそ掘」というのは、大阪市内にあった、海部堀川(かいふぼりがわ)という今はなくなってしまっている運河がモデルのようだ。同じく、「うなぎ公園」という公園は、靭公園があてはまる。著者は大阪出身だそうで、郷里の街も自身の出身地である大阪を舞台にしているのだろう。ちなみに僕も同じ大学を卒業している。この大学、藤本義一、東野圭吾という作家が卒業している。僕みたいなクズもいればこんなすごい人達もいるのだ・・。
この辺りは大阪大空襲で多くの被害が出た場所でもある。その誰かたちも犠牲者のひとりだったのかもしれないとも思えるのである。
大阪大空襲は1945年3月13日深夜から始まったそうだ。同じ3月にこの本を手にしているというのもやはりその誰かたちに背中を押されてのことだろうかとも思うのである。

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加太沖釣行

2021年03月25日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮 4:39満潮 10:33干潮
潮流:8:55転流 11:31 下り2.1ノット最強
釣果:ガシラ 13匹

ワカメももう少し採りたいところだが、今日は雨模様ということで久々に加太に行こうと決めた。夜が明けた頃から雨が降る予報なのだが、出港まで雨が降らなければ大丈夫だろう。

今日は港に行く前にやっておかなければならないことがある。紀ノ川土手のタラノメの再収穫だ。今週の日曜日に見たところでは今日くらいが残りの芽の採り頃であるはず・・。だったのだが、真っ暗な中、懐中電灯で見てみるとまだ採り頃には程遠いくらいにしか成長していない。採れる芽の数は数個というくらいなので小さい間に採ってしまうと嵩がいかない。幸いにしていまのところ誰にも盗られた形跡がないのでそのままにしてスポットを後にした。



ここまで来ていると港までの道中に、「わかやか〇シェ」がある。寄らないわけにはいかない。いつものお店で冷凍コロッケを数種類買い込んで港に向かい、渡船屋の奥さんに冷凍庫で預かってもらう。



お店では今でも顔を覚えてくれているようで、「釣りに行ってきたのか?」と聞いてくれる。この時間に行ってきたのかと聞かれるのも不思議だが、「これから行くんですよ~。」というような会話になる。確かに夜釣りの帰りということは考えられるし、冷凍食品を買っておいて今から釣りに行くという答えも普通ではおかしいのかもしれない。

そんなことをしていると出港したころにはすっかりと明るくなってしまっていた。数日前から日の出の時刻が午前5時台になっているそうだ。時の経つのは早い・・。



今日の予定では、転流時刻までは船団を見ながらアジサバを狙い、転流前後でガシラを釣ってみて、ガシラの釣果によってその後真鯛を狙うか再びアジサバを狙うかを考えるつもりだ。

まずは田倉崎を目指して針路を取っていると、四国沖ポイントに小さいが船団ができていた。そこからスタート。仕掛けを下ろしていると、多分西脇漁港の漁師だろう、かなり近くまで接近してきた。加太の漁師じゃないのに威嚇行動かと思ったら簡単にアジらしき魚を1匹釣り上げて離れていった。流石だ・・。



おお、釣れるじゃないかとやる気になると僕にもアタリがあった。アジではなさそうな引きで上がってきたのはガシラであった。
なんでもいい、魚が掛かるということはいいことだ。しかし、その後にアタリがない。やっとアタリがあり、間違いなくそこそこの型のアジであったがすぐにバレてしまった。アタリがない日は掛かりも浅いということだろう。

ここもこれ以上やっても大して数を稼げないだろうとガシラ釣りに変更。今日は以前に教えてもらった秘密の漁礁の在処を探すつもりだ。そこは岩礁に棲む魚も釣れるとのことだったのでそこでもガシラを狙ってみようと考えている。
座標を印刷した紙をカバンに貼り付けてポイントを目指す。風がないので船の微調整も可能だ。



ほぼその座標に差し掛かった時、確かに小さな漁礁らしきものが魚探に映った。3メートルくらいの高さはあるというのはわかったけれども、どれくらいの範囲に広がっているかはわからない。あっという間に通り過ぎてゆく。風のある日なら2、3秒で通過してしまうのではないだろうか。噂では軽トラック1台分くらいだということだ。
ここをピンポイントで釣るというのは僕には無理というもので、せっかく見つけたポイントだがきっと宝の持ち腐れになってしまいそうだ。

大体の場所をマークして、ガシラの仕掛けを下すがアタリはない。そんなときに他の魚の反応が出てきた。すぐに高仕掛けに変更して対応するがそんなに甘くはない。

ガシラの本命ポイントに移動。
最初はなかなか釣れなかったが少し潮が動き始めたか、アタリが出始めた。仕掛けを根掛かりさせてしまうまでに12匹を釣り上げることができた。



これでおかずは確保できたので真鯛狙いに変更。ここからはナカトが近いのでその周辺で釣りを始めたいが、ナカトのど真ん中はさすがに帝国軍が占拠しているので入るわけにはいかない。
虎島の陰の50メートルくらいの場所から流し始める。


魚探の反応もなく、アタリもない。ここも見切ってコイヅキへ。今日は中潮だがそれほどの潮流はない。なんとか底を取っているがここもアタリがない。高仕掛けからサビキに変更したがやはりアタリなし。



最後の手段で大和堆ポイントへ。



サビキを続けてなんとかアジを釣りたいと思ったが名前のわからないフグとチャリコだけだった。

フグの写真を撮っておこうとバケツに生かして置いたら、かわいそうなことに青息吐息になってしまっていた。急いで写真に撮って放流したけれども、水中に潜っていかない。かわいそうなことをしてしまった。
僕は釣った魚を殺して食材にしているので偉そうなことは言えないが、食べない魚はできるだけ元気なまま海に戻してあげたいと思っている。それなのに、写真に撮りたいからというだけで魚を弱らせてしまった。釣ってすぐに写真を撮って放流してあげればそんなことにならないのになんとも後味が悪い。



今日はこのフグのほかに、水圧で腸が出てしまったベラも放流してしまったけれどもこれもなんだか後味が悪かった。このベラは直後にウミネコにさらわれてしまったのだ。
思っている魚も釣れず、そんな後味の悪さも手伝ってなんとも今日も煮え切らない釣行になってしまった。

港に帰る頃には雨はすっかり上がり、章魚頭姿山の桜がきれいだ。まだ五分咲きというところだろうが、月末月初の予定を見てみると今年の桜はこれで見納めになりそうだ。
こっちのほうもなんとも煮え切らない花見になってしまったのだ。

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「禅とジブリ」読了

2021年03月24日 | 2021読書
鈴木敏夫 「禅とジブリ」読了

スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫が禅宗の僧侶の方々と対談集だ。
その対談を通して、ジブリ作品に込められた思いや生きるということなどについて語っている。

スタジオジブリの作品には確かに、“生きること”について考えさせられるものが多い、キャッチコピーがずばり、「生きろ!」なんていうものもあるくらいだ。
それが宮崎駿や高畑勲の意思なのか著者の意思なのかはわかないけれども、若いころから禅に興味をもっていた著者の思いも十分に入っていることには間違いはないだろう。
「生きろ!」というコピーは著者が考えたそうだ。

そんな著者がもっとも重要だと考えているのは、今を生きることの大切さである。これは道元の教えの中にも書かれているが、時間というのはその瞬間瞬間がスライスされたような状態で積み重なっているだけで、前後の関係があるようで実は独立をしている。だから今をきちんと生きるということが一番重要だと考えている。今をきちんと生きるといくことが重なって一つの人生になってゆくというのである。
禅の言葉では、「即今目前」、「茫筌」というような言葉で表現されている。
「即今目前」は文字のとおり、今、目の前にある時間だけを大切にしろという意味だ。「茫筌」は“ぼうせん”と読むそうだが、「筌」は魚を獲る道具のことで、魚を得たら、その道具のことは忘れろという意味だそうだ。
どちらも、どんなつらいこと、楽しいこともその日1日だと思えば耐えられるし、浮かれることはないというような解釈になる。
それを著者はこんな言葉で言っている。「過去も未来も、自分の力ではどうすることもできない。変えることができるのは“今”だけなのである。」
かといって、この世の中は生きづらいことが多すぎる。自分の思うようにならないことも多い。かといってなにもせずに漫然としているわけにはいかない。
だから、「この世は捨てたもんじゃないけれども、先のことを考えずに今のことをちゃんとやらねば。」ともいうのである。
なかなか耳が痛い言葉である。実は、今のことをきちんとやっていくということほど難しいことはない。
正岡子規は、「禅の悟りとはどんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたがそれは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった」と言ったそうだが、平気で生きていくためには他人からとやかく言われないような術を考えなければならない。それがきちんと生きていくということのひとつだとすればそれがどれだけ難しいことかということがわかってくる。

そして、今を生きるということに繋がってくるのだろうけれども、「死を思うこと」の大切さということも語っている。対談者のひとり、臨済宗円覚寺派管長である横田南嶺老師は子供のころに同級生が亡くなったことに対して、大きな衝撃を受ける。そして、死に対する回答を求めたいと思うようになり、キリスト教や天理教の教会にも通ったそうだ。そして禅寺である老師の姿を見て、直感的に、これだ!と思ったそうだ。えらくませた子供であると思うけれども、だれでも人生のなかで一度はそんなことを思う時があるのではないだろうか。著者も若くして姉を亡くしたときのそんなことを思ったそうだ。
僕自身も20年ほど前によく一緒に釣りに行っていた上司が亡くなったときに人は絶対に死ぬんだ。そんなことを思った。それからは、とりあえずは自分がやりたいことは我慢せずにやっておこうと思うようになった。それは仕事や家族を守ることではなく、ただ、遊ぶことであったというのが下級市民の考えることで、著者は、生きていくことは人のために何かすることであると悟ったそうである。
しかし、遊ぶことを優先してしまうと他人からとやかく言われてしまう。そうなってくると平気で生きることも、今のことをきちんとやっていくこと(一般的に思われるようなきちんとした生き方)ができなくなる。堂々巡りだ・・。
そんなときは座禅でも組むとなにか悟れるようなことが思い浮かぶのだろうか?横田老師は、座禅をするだけで生きてゆけるのだから禅僧という生き方はなんともすばらしいと思ったそうだが、そんな境地までいこうと思ったら残りの人生の期間では間に合いそうにない。
道楽というのは、生業を楽しむというのが本来の意味だそうだが、そんな思いを持ったことがない。だからずっと何かにおびえながら生きていくしかないのかと、そんなことを考えるしかなかったのである。

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「和歌山県の祭りと民俗」読了

2021年03月23日 | 2021読書
和歌山県民俗芸能保存協会 「和歌山県の祭りと民俗」読了

新聞にこの本のことが紹介されていたので借りてみた。今年の1月に出版されてすぐに蔵書されるというのはやっぱり県の文化に関する本だからなのだろうか。大体は出版されてから半年以上経たないと蔵書されない感じのようだから相当早い。
お祭り男でもないので特にこういうものに興味があるわけではなかったのだが、地域のコミュニティというものにはあこがれがあるというのか、そういったことを少しでも感じたかったというのが読んでみようと思った動機だ。

この本に掲載されている各種の祭りは国指定重要無形民俗文化財と県指定無形民俗文化財を中心とした祭礼や行事ばかりなのだが、それだけでも恐ろしいほどたくさんの祭りがある。おそらくこういう文化財の指定を受けていない祭りを加えるとまだまだ増えるだろう。
さすが高野山と熊野三山を抱える県だけのことはあるというところなのだろうか。
地域に根ざした行事がこれほどあるというのに僕は子供のころからそういった祭りに参加をしたことがない。
子供の頃に住んでいた場所には住吉神社があったけれども祭りといえば夜店が出るだけでなにか儀式めいたことがされるということはなかった。もともと漁業が盛んな土地だったから大昔には何かやっていたのかもしれないが、物心ついたころには神職もいなくなってしまっていたのでそういうものは廃れてしまったのだろうと思う。
引っ越しをしてから以降も地元でなにかそういうものがあるという話も聞いたことがないし、あったとしても所詮よそ者だからそういったコミュニティに入っていくとくことは難しかっただろう。
そういうことがある世界で育った人たちのなかにはただただ面倒くさいことだと思う人もいるかもしれないが、そういった体験のない人間から見ると、土地に根を生やしているということの安心感というかそういったものがうらやましくて仕方がない。

見に行くだけでもと思うけれども、よそ者がそれを見学したところでただ見ているだけだ。本当の価値を体感することはできない。ここ3年ほどは初詣に海南市を中心にした神社をはしごしているが、ここもそれぞれの氏神様ばかりだ。この神様たちも自分の周りの人たちのために存在しているのだからよそ者がお参りにきても、「おまえは誰なのじゃ・・?」となってしまうだろう。
そういう意味ではこれからもずっと根無し草で生きていくしかない。ただただそういったことがうらやましいと思うしかない本であった。
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「ロバート・フック ニュートンに消された男 」読了

2021年03月22日 | 2021読書
中島秀人 「ロバート・フック ニュートンに消された男 」読了

前に読んだ本の中に、ニュートンはかなり腹黒い人であったということが書かれていた。そしてそのとばっちりを一番受けた人がこのロバート・フックであったらしい。
この本は、そのロバート・フックという人はどんなひとであったかということを書いた本である。
ロバート・フックもニュートンもともにイギリス人なのだが、イギリスには1660年から活動が始まった王立協会という科学者の殿堂のような組織があり、二人ともそこの会員であった。それぞれ要職を占めていたけれども、フックの死後会長となったニュートンは協会に残っていたフックにまつわるものをことごとく排除し、そのおかげでフックは世の中から忘れ去られてしまったのであるというのである。

では、ロバート・フックというひとはどんな人であったか。1635年にグレートブリンテン島の南の端にあるワイト島という島に生まれた。ちなみにニュートンは7歳年下になる。
小さいころから手先が器用で、それが認められボイルの法則で有名なロバート・ボイルの実験助手になる。そこから王立協会の実験主任、王立協会幹事、評議委員と要職を歴任することになる。
当時のヨーロッパでは、科学者というのは名誉職であり、大体は金持ちの道楽でありそこから収入を得る人とというのは稀であったそうだが、フックはその能力が認められ、専業で協会から給料をもらって実験主任をしていたそうだ。王立協会では会合の時には必ず科学実験が行われたのであるがフックがいなければこの会合は続かなかっただろうと言われていたほどであった。

その功績は多岐にわたって、「17世紀のレオナルド」といわれたそうである。
一般的には、初めて“細胞”を顕微鏡で見た人で、cell(英語で細胞という意味)という単語を作った人とか、フックの法則(1本のばねを10センチ伸ばす力で同じばねを2本つなげて伸ばすと20センチ伸びるというやつ。)というのが知られているが、そのほかにも、望遠鏡を作ったり、1666年のロンドン大火のあとでは都市計画や建造物の設計もやったそうだ。身近な例では、僕も先代の翠勝丸で使っていたユニバーサルジョイントもこの人が開発にかかわっていたそうだ。その他にも既存の技術を改良して社会生活の向上に貢献している。
生物学から物理学、建築までと幅広い功績が、「17世紀のレオナルド」といわれる所以であるけれども、性格はというとけっこう嫉妬心と名性欲が強かったらしい。その性格が災いしてのちにニュートンとの確執を生むことになるのである。

まず最初のニュートンとの確執は望遠鏡にある。フックは手先が器用と書いたが、レンズを磨いて自分で望遠鏡も作っていた。望遠鏡自体はガリレオのころからあったが、当時はレンズを正確に磨こうとすると球面レンズしか磨けず、このレンズは光の屈折率が色によって異なるので虹の隈みたいなものができてしまう。それを解消するには鏡筒の長い望遠鏡が必要になるのだけれどもニュートンは屈折式の望遠鏡を考案して王立協会にデビューした。
フック自身は長い鏡筒の望遠鏡の開発に対して強い自信があるものだから、俺もそんなものは知っているが使い物にならないとぼろくそに批判をする。確かにニュートンが開発した当時の望遠鏡に使われた反射鏡というのは精度と明るさについては天体観測をするにはかなり性能が悪かったというのも事実であったそうだ。

次の確執は光についてだった。ニュートンは粒子説を唱えたのに対して、フックは波動説を唱えた。今では光というのは粒子の性質も波動の性質も持っているということが知られているが当時は真っ向から対立する考えであったのだ。そして、その粒子説のヒントになる光の干渉による現象はフックがかつて出版していた「ミクログラフィア(細胞のスケッチが掲載されている本)」掲載されていたものであり、それをニュートンも認めていたということでフックは批判を強めた。
それよりも、ニュートンもフックもこの時代に光に対してそんな考え方を当てはめることができただけで僕はすごいと思うのだ。

そして、極めつけは万有引力の法則に対してだ。ニュートンといえばこの法則を見つけたということを誰でも知っているほどだが、1687年にプリンキピアが出版されたとき、この考えはもとはといえば自分が考え出したことでニュートンとはそれを盗んだのだといい始めた。
そこまで言うかとは思うのだが、それにも一理あって、フックがニュートンに送った手紙の中にそのヒントになる考え方が掲載されていて、たしかにニュートンもそれをヒントに考えを推し進めたことを認めている。しかし、それを数式で表すことができたのはニュートンのほうであったのだ。だからニュートンにしてみても、俺が見つけたはずなのに!となる。プリンキピアは王立協会が出版元になっているものだからフックはへそを曲げ、ニュートンのほうもフックが怖いので出版をためらっていたけれどもその仲立ちをしたのがハレー彗星の発見者であるエドモンド・ハレーであったというのだから王立協会というところはものすごい人材の宝庫であったのだ。
ちなみに、プリンキピアは協会の財政難と、書かれた内容がけっこう聖書の考えに反しているということでハレーの自費で出版された。この人はとことん優しい人だ。
ニュートンも当初の原稿ではフックやその他の先人のおかげでこの法則を発見できたと書いていたが、フックの批判がどんどんひどくなってくると怒りが爆発してそういった個所をすべて消してしまったそうだ。

結局、プリンキピアの出版は世界的な反響を呼びニュートンのほうの名声がフックを上回ってしまった。それでもニュートンはフックが怖くて協会へはあまり出入りできなかったというのだからフックという人も怖い人だったのだろう。フックのほうもこのこの頃には評議委員という要職に就いていた。
ニュートンはその後国会議員にも選出される。

その後、1703年にフックは死に、同じ年にニュートンは王立協会の会長に就任した。1705年には王立協会が当時使っていたグレシャム・カレッジの建物建物が老朽化し移転する際にニュートンはフックに関するすべてのものを排除したというのである。その時に肖像画もなくなってしまい、今ではフックがどのような顔をしていたかがわかる資料はまったく残っていなう。著者はフックの肖像画を燃やしているニュートンの姿を想像して戦慄を覚える。ニュートンはニュートンでえらい恨みを抱いていたようだ。

ニュートンは死後、ウエストミンスター寺院のひときわ目立つところに葬られているけれども、フックはセントヘレン教会という教会に葬られたが、今では教会のどこに葬られているのかは誰も知らないという。

著者はこのふたりの運命の違いを実験科学から理論化学への転換期の時代であったということに求めている。フックやニュートンが生きた時代のイギリスはピューリタン革命から名誉革命の時代であった。
ピューリタン革命によって一般人の生活の向上に役立つ実学は注目された。その中でフックのような実験科学は人々から受け入れらた。実際、王立協会が設立された主旨のひとつも商業や農業の改善のための取り組みであった。この協会の出資者たちがそういった実業家や資産家であったことでもわかる。
しかし、名誉革命ののち、再び権威主義というものが復活したとき、誰もが理解できる学問は都合が悪くなった。一般人が理解できない難しい学問が難しいからという理由で尊重される時代に変わった。それが権威というのである。そんなときにニュートンの高度な科学は時代に即した学問になったのである。そういう時代の変化の中でフックは忘れ去られる運命にあった。
現代でも同じであるが、人間というものは権威に弱く実学的なものは軽視される。ノーベル賞には物理学賞はあるけれども工学賞はない。それが権威主義というものが今でも続いているということを物語っているのだというのが著者の考えだ。

別の味方をすると、老害のなせるわざとも言えるのではないかとも思う。プリンキピアが出版されたとき、ニュートンは45歳でフック52歳。現代では52歳といえばまだまだこれからという年齢なのかもしれないが当時ではもう寿命に近かったはずだ。これだけの事績を残した人でも後ろから追いつき追い越してくる人に対して嫉妬心があったのだろう。
先輩の業績を無き物にしてやろうと躍起になるニュートンもどっちもどっちだと思うが老害というものも今に続いている。それは自分はそうとは思っていなくても周りはいつもそう思っているということを実感するのである。
今の職場には僕たちを雇っている立場の人たちがいる。
そこの役員さんに挨拶に行けと言われたので行ってみるとその役員さんの最初の言葉が、「皆さん、お歳ですね・・」だった。その次の言葉は、「この仕事には若いマインドが必要なのですが・・」であった。
そこは親会社でもあるので傘下には100以上の子会社を持っている。役員になれなかった50代の社員はみんなそういうところに出向させられて本社には優秀な若い人だけが残っている。そういった世界で生きている人から見ると僕は老害そのものなのだ。しかし、それを露骨に言われると虚しくなる。いや、僕も自分の会社の中では子会社に飛ばされた身分なのでそのとおりなのだ。虚しくなるというよりもスッキリしてしまう。自分ではそうは思っていなくても他人から見ると立派な老害だったのだ・・。

ロバート・フックも老いの中で自分の時代の終わりを感じて焦りと悲しみを感じていたのだろうなと思うのである。

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タラノメ採り 3回目

2021年03月21日 | Weblog
忘備録として紀ノ川土手のタラノメの採り頃を書いておく。

昨日のブログのとおり、今日は朝から荒天だ。何もすることができないが午前中、一瞬だけ雨足が弱くなった。図書館に行くついでに紀ノ川土手のタラノメを見てきた。小さな木が3か所に散らばっているのだが、その何本かの枝には食べ頃のタラノメが出ていた。

 

全体としては半分くらいだろうか。ということは、第2ポイントから4~5日遅れて芽が出始めるという感じのようだ。
しかし、こんなに目立つ場所にあるのに先週からまったく盗られた形跡がない。いい感じだ。

図書館から釣具屋に回って今年も何も買うあてがないけれどもカタログをもらってきてしまった・・。ついでに紀州釣り用の麦を買い、これも春の行事のひとつなのだということだ。



港に向かうと思いのほか風が吹いている。ロープの位置とデッキの上のものが飛ばされていないかどうかを確認。小船の2本目の錨もうまいこと効いているようだ。
あと数時間耐えてほしい。

 

明日からはまた天気が回復するようだ。再びしなびてしまったワカメも干しなおさねばならない。

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タラノメ採り 2回目

2021年03月20日 | Weblog
今週は集中的に休日を取っていると昨日のブログに書いたが、明日も休みにしている。しかし相当荒れた天気になるそうだ。次はタラノメをと思っていたけれども外出すること自体が無理っぽい。次の休みを待っているときっと大きくなりすぎてしまうだろう。

なので、今日は普通に会社に行く日だが出勤前にタラノメ採りを強行した。第2ポイントは行って帰ってくるまを約1時間で終わることができる。少し早い目に起床すれば無理なことではないのだ。

日の出前、空が薄っすら明るくなる時間を期して出発。



第2ポイントのタラノメは一番採り頃という感じだ。前回見落としていた芽はかなり大きくなってしまっていたけれども採らなかった芽はすべて採り頃で小さすぎるようなものもなく一斉に芽吹いているという感じだ。
ホイホイとっていたらヤッケのポケットがいっぱいになってしまった。免許証とカメラしか持って出てこなかったので無理やりポケットに詰め込んで家に帰ってきた。



大きくて立派なタラノメばかりだ。



これでひとつ春のミッションが終わった・・。

しかし腰が痛い。一昨日は大阪市内を結構な距離を歩き、昨日はワカメ採りで今日はまたタラノメ採り、一応、腰痛で病院に通っている身なのである・・。
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ワカメ採り 2回目

2021年03月19日 | Weblog
今週も休日が定まらない中、ワカメとタラノメのベストウイークだと考えて集中的に休みを無理やりとった。一昨日は風でワカメを採りに行けなかったけれども今日の休みも明後日が大雨の予報では干しても乾かないと諦めていた。
しかし、昨日、視察に行った観光施設から海を見ているとあまりにも穏やかだ。(一応、これも仕事です・・)



明日も同じような好天が続き、あさっても昼間はまだ雨が降らないとなるとギリギリワカメは乾いてくれるかもしれないと思い、ダメになってしまう可能性があるがとりあえず行ってみることにした。最も潮が引くのは午後からだが少しでも乾かす時間を稼ぎたいので満潮に向かう時刻を承知で夜明けを待って出発。
風は東から。海はすこぶる穏やかだ。



僕の中では一番品質がいいワカメを採れる場所に取りつくことができそうだ。



ここはもともと潮の流れがあるところで、それに加えて岩礁の小さくえぐれた場所に海水が出たり入ったりする流れが常にあるのか、歯ごたえのあるしっかりしたワカメが採れる(ような気がする)ただ、そんなところだから少し波があるだけでも危険で近づけないのだ。

今日もゆれる船の上から作業を開始する。すでに潮が高くなってきているのでなかなか数を稼げない。おまけにここは成長が遅くまだまだワカメは小さい。だからこそいいワカメだといえるのだ。
いいワカメなのだがもっと採らねばと場所を移動。岩礁を少し回るとここは広い場所にワカメが群生している。ただ、ここも潮が高くて採りにくい。カネを突っ込むときには影を見つけてある程度目星をつけて突っ込むのだがそれが見えない。かすかな影を目安に探っていくが、少し浅いところに入れるとワカメじゃないやつが巻き付いてくる。
そうこうしているうちに潮はどんどん満ちてきてこういう時のために用意していた船の全長よりも長い竹竿でもうまく採れなくなってきた。もう少し採りたいところだがこれが限界だ。
もたもたしているくらいなら早く帰って干す準備をしなければと午前7時40分に終了。



家に帰って干してみると、嵩は少ないが個体が小さい分、本数はそこそこあった。今日のワカメもいいワカメだ。



雨に備えてどうしようかと思案していたのだが、今日は日差しもあって思いのほかよく乾いてくれた。ほとんどが小さい個体であったということも幸いしたのだろう。これくらいまで乾いてくれると物干し竿からザルに移すことができる。とりあえず家の中に取り込んでおいてまた明日朝から表に出そう。こうしておくと雨が降り出すギリギリまで表に出しておけるし夜露もしのげる。



日曜日の大雨をなんとかうまくやり過ごせそうだ。



全くの余談だが、一番最初の画像の観光施設は大阪南港にあるビルの屋上にある。下の方は大阪府咲洲庁舎として使われている。帰りのエレベーターはどうもこの庁舎として使われている部分のものをそのまま使っているようで、逆ルートで行くとタダで入れそうな雰囲気だ。事実、1階に到着したエレベーターでもう一度そのまま上まで上がることができたのだ。



このビルは一度は経営破綻したくらいだから来場者も少なく監視要員を置こうにも人件費が捻出できないのだろう。確かに景色はすこぶるきれいだが800円出していく価値があるかというとどうだかな~と思う。僕が行ったときも客は僕たち一行のみで、あとはどうもこの逆ルートを辿ってきたような大阪府の職員らしき人がコーヒーを飲んでいたくらいだ。
穴場といえば穴場と言える。次に来た時にはお金がいることを知らなかったふりをして迷い込んでみようと思うのだ。




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