イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「そこにある山 結婚と冒険について」読了

2022年02月24日 | 2022読書
角幡唯介 「そこにある山 結婚と冒険について」読了

著者は有名な冒険家であるが、よく質問される内容に、「「どうして冒険しているのですか?」というものがあったという。それが結婚してから「なぜ結婚したのですか?」というものに変わってきたという。
そこから著者は、関係、行為、事態という三つの工程が、人間が生きてゆくうえでの本質になるのではないかということに気付く。その理由を考察したのがこの本である。

まず、本題には関係があるようでなさそうな、「冒険家が結婚をする」、「冒険者が結婚して家庭を築く」ということには違和感を感じるというのは本人も思っているようだ。そこでまず、冒険とは何かということから考察を始めてられてゆく。
その質問にはこう答えていたという。『冒険で死を取り込むことで逆に生の手応えを得ることができるんです。』この感想は、「空白の5マイル」での体験からだったということであるが、『それは端的に言えば、自然と触れあうしかない。自然というのは生と死を生み出す母なる基盤である。生きとし生けるものはすべて自然から生まれ、産み出され、やがて死して大地に立ちもどり、そして分解されてふたたび自然の中に吸収される。自然とは生命の根源的な源泉であり、生命を生命として脈動させ、宇宙そのものを成り立たせている力および動因そのものだといえる。』のだそうだ。ようは、そこには生きるという意味のすべてが内在しているのだということだ。
冒険は男がするものであるという解釈が一般的だ。それはなぜかというと、女性は妊娠して出産するからだという。『妊娠、出産とは自分と異なる別の生命体を、自分の腹の中に抱え込んで融合し、最後に産出する営みであり、実に無茶苦茶な生命現象だといえる。自分と異なるということは、おのれの意のままにならぬ、ということであり、その意のままにならぬ自然を、女は自分の身体にまるごと押しこめてしまう。』わけだからわざわざ自然の中に赴き生の手ごたえを感じる必要はないのだという。
なるほど、これは言い得て妙である。
また、冒険と女生との関係を、ポール ツヴァイクの著作、「冒険の文学」の中の言葉を紹介し、『冒険をもとめる男性原理の本質はずばり女性からの逃亡であると』書いている。
女という性が象徴するのは、っ外にむかおうとする男を囲いの内側に取り込み、おのれの支配下において管理しようとする魔力であるというのだ。なんとなくわかるような気がする。
そして、結婚というものについては、『結婚には、言葉で説明できるような論理や理屈を超えた何かがある。この人と結婚したら経済的に裕福になれるとか、おいしいご飯を食べられるからなどといった、表面的な説明を超えた何か別の要因に突き動かされている。』ものだと考えている。ここに、「なぜ結婚したのですか?」という質問に的確に答えられない理由が存在する。その理由がこの本の主題にもつながっていくのである。

ここからが本題に入ってゆくのだが、男が冒険をする、もしくは結婚をすることに至る過程には、「関係」「事態」というふたつの言葉が関係しているという。「冒険をする。」「結婚をする。」そのほか、「OOをする。」という行為の中には、能動的な意味が含まれると考えるのが一般的だ。冒険をしたいから冒険をする。この人が好きになったから結婚する。しかし、著者は、実は、そこには能動的な意志というものは介在していないのではないかと考える。
では、「冒険をすることになった」「結婚をすることになった」要因は何か。それを「関係」という言葉に求める。
人はひとりで生きているのではなく、様々な外部の何かと「関係」を持ちながら生きている。その中で「事態」として形作られるのが冒険であり、結婚であるというのである。
そしてそれを繋ぐのが「行為」である。この、「行為」というものが重要になってくる。
著者は空白の5マイルの冒険の後、北極圏への旅へと向かうが、衛星電話やGPSなどの装備を持ち込む。しかし、そこに違和感を感じる。『テクノロジーは〈結果〉をもたらすものなので社会生産性は高めるのだが、〈過程〉ははぶくため個人の知覚、能力、世界は貧層にするという構造的な欠陥を持っている。GPSという名のテクノロジーが介在したせいで、志向性はうしなわれ、関りが遮断され、結果、世界疎外においこまれた。』というのだが、そこから得た感覚が、「関係」というものなのである。「行為」を介して直接何かと触れることによって新たな「事態」が生まれるという連鎖が今の自分を形作っているのではないかと考えたのである。「事態」を招くためには必ず「行為」が必要なのである。
ハイデッカーは、人間とは、〈世界・内・存在〉であると定義したそうだ。『私たち人間は、何か世界としか呼びようのない時間と空間のもとで暮らしている。人間だけではない。鳥も蝶も花も、みな、この世の生きとし生けるもの、いや、生きていない机のような無機物でさえ、みな、ほかの人間や生き物や道具やその他もろもろの事物との関係のなかで存在している。』そうした関係の網目を無視しては生きた存在者として見えてこない。
ハイデッカーというと、「世界は輝ける闇である。」というなんとも意味の分からない言葉を語った哲学者だということくらいしか知らなかったけれども、庵野秀明がエヴァンゲリオンで語りたかったことの原点はここにあったのではないかと思わせられる定義である。

なので、そこには自分の意志とは関係のない、別のものの力が働いているのではないかというのである。著者はそれを、「中動態」というものに例えている。これは、主語と動詞の関係の三つ目の分類らしいのいだが、現代の言語ではほぼ使われなくなっているものだ。能動的でも受動的でもなく、何か別の力学、偶然であったり、思いつきであったりする。しかし、それも突然現れるものではなく、それは過去から現在に至るまでの経験の積み重なりがもたらすものなのである。
これにも腑に落ちるものがある。人間の脳のシナプスというものは、昔は年齢を重ねるごとに結合箇所が増えることによって脳内のネットワークが複雑化し様々なことができるようになると考えられてきたそうだが、それは全く逆で、もとからあった複雑なネットワークの中で自分に必要のないものをそぎ落とすことによって得意なもの不得意なものができあがっていくらしい。歌舞伎の俳優の子供が歌舞伎役者になるのは、その世界の中にいることによって歌舞伎の脳内ネットワークが残るので歌舞伎役者にふさわしい人間ができ上るのである。
著者はきっとそれを「事態」と表現しているのだと思った。

そして、著者は、この原理は結婚にも当てはまるのではないかと考察を広げる。男と女が結婚に至る過程にも様々な「関係」が関わり、その「関係」の連鎖が結婚という「事態」に呑み込まれるのであるというのだ。確かに出会いは偶然ではあるが、その出会いの場に居合わせるためにはそこにたどり着くための「関係」が必要なのであるとは納得できる回答だ。
僕の奥さんとは30年近く前に紹介をされて出会うことになったのだが、それは父親が港で出会った知人に言った、「うちの息子にだれかいい人いないかな?」だった。父親が釣り好きで船を所有しているという「事態に」がなければそういった出会いもなかったことになる。父親が釣りが好きというのは祖父が漁師をしていたからで、それもすべて「関係」であったといえる。そしてその息子がまた釣りが好きで釣りを通してたくさんの人たちと知り合うことができたというのもまさに「関係」から出ずる「事態」といってもいいのかもしれない。
ひるがえって、僕の職業を考えると、これはまったく逆で、できるだけそこに「関係」という行為を持ち込まないような生き方をしていたように思う。当然ながらそこには「事態」に呑み込んでもらえることができずに窓際に座っているという結果になる。この本を読んでいると、今のことは必定であったのだと改めて納得した。こういうのを、「男は仕事を間違えると一生不幸になる。」というのであろう。しかし、これも平日に休めるという条件で選んだ職業なら釣り人生に関していえば「関係」になるのであろう。「事態」に呑み込まれなかった結果である。
人生は複雑怪奇だ・・。

著者は最後に、人生の固有度と自由について語っている。こうやって事態に呑み込まれてゆくうちに人生の選択肢は狭まり、自由度という面では不自由になってゆくはずであるが、そうはならなかったという。
僕は魚釣りを選んだおかげでその他諸々のことを犠牲にしてきたことは確かだ。旅行にも行かない、スキーにも行かない、当然スポーツもやらない。そうやっていろいろなものを切り捨てた。かといって魚釣りに膨大なオカネを投入できる身分でもない。でも、意外と好きなことをやっていると思っているし、これで十分じゃないかとも思っている。結婚もそうだ。港で父親があんなことをつぶやかなかったら僕は自分の収入の大半を自分の好きなことに費やせただろう。100均の棚の前で、これを買おうかやめておこうかと悩むことはなかったし、近くのドラグストアで表示価格から3割引きの紙パックのお酒を物色することもなかったのかもしれない。でも、まあ、この人でなかったらこんなことやらせておいてくれないのだろうなとも思っている。ただ、うちの奥さんにしてみては、自分の子供を医学部に入れられるほどの能力を持っているのならこいつみたいなクズと結婚しなくても死ぬまで普通乗用車に乗っていられる身分の男と結婚できたんじゃなかろうかと思っているんじゃないかと思ったりしている。事実、彼女の妹は開業医の奥さんにおさまってハイブリッドのスカイラインに乗ったりしているのだからその格差は半端ではない・・。しかし、著者はそんなことはないというのである。
外的に不自由と思われていても、自律的、内面的には独自の経験に濃密な手ごたえを感じることで得られること、独自のモラルで人生を見ることが出来るようなったことで得られる自由が真の自由であるという。これも連綿と続いてきた「関係」の結果であるというのだ。僕の奥さんもそう思っていてくれることを願うばかりだ。

著者は僕よりも12歳も若い。40代半ばにしてこれだけのことを悟れるというのだから、もう、負けたとしか言えない。そして僕はこの歳になってそれをやっと知るというのではかなり遅すぎるのである。その違いは何か?それもこの「関係」と「事態」という言葉に隠れているのだと思う。
すなわち、様々な関係を素直に受け止め、その流れてゆく先々で新たなことを受け入れてきたことの結果が会社に縛られず、自由に、すなわち、自律的な生き方につながったのだろう。そこにはリスクもあるのだろうが、合理的に考えないという心の持ちようもやはり「関係」ということなのだろうか。
どうせ自分には無理だ、そこに踏み込んだら失敗したときに取り返しがつかないと思うと会社にしがみついておく方が危なくない。かといって、会社からも距離を置き「関係」を拒むというのはまったく矛盾した生き方だ。幸いであったのは、周りもアホだからリストラされずにここまで来ることができたということだけだったような気がする。

僕も30代でこの本に出会っていれば違う人生を歩めたのだろうか・・。それとも、何度繰り返してもポンコツはポンコツのままだったのであろうか。とりあえず、人生は1回だけだからやり直さなくてもいいというのも幸せなことなのかもしれない・・・。
コメント
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