イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「数学物語」読了

2017年08月31日 | 2017読書
矢野健太郎 「数学物語」読了

数学というのはずっと嫌いだった。特に高校生になってからは数学Ⅰでいきなりつまづいた。因数分解くらいまではなんとかなったが、log関数で雲行きが怪しくなり確率でほぼ息の根が止まり数学ⅡBの数列で完全に死んでしまった。
そんなつらい過去を振り返ってみようと、こんな本を読んでみたが、内容は多分、中学生の数学くらいの内容だ。

著者や日本でも指折りの数学者でアインシュタインとも親交があったという人だそうだ。この本も初版が1936年ということで長い間読み続けられていた本らしい。
それでもやっぱり数学は嫌いで、もしもっと数学ができたら僕の人生も大きく変わっていたかもしれないと思うと、仕方がないとは思いながらなんとも情けなくなるのだ・・。


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紀ノ川河口、水軒沖釣行

2017年08月30日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口、水軒沖
条件:小潮 6:28干潮
釣果:ツバス 11匹

なんとか8月中にスズキを釣り上げたいと紀ノ川河口を目指したが、今日も不発だった。
午前4時に出船。引き潮になっているのでいつものポイントより少し下流に投錨。いくつかのルアーをキャストしたがことごとくダメであった。

今日はもうひとつおととい同様ツバスを本格的に狙ってみた。
ポイントも前回同様水軒沖の一文字前からスタート。アタリはすぐにあった。



それからはコンスタントにアタリが続く。ツバスとはいえ、あと一息でハマチクラスだ。アタリは大きい。指に道糸を巻いておくとアタリがあった時にはグッと締め付けられる。
10匹を釣り上げたところでそろそろ貰ってもらうところが心配になってきた。1匹追加したところでちょうどアタリが遠のき、午前7時で終了。

脂がほとんど乗っていないので刺身にするには1日置いていた方がよさそうだ。真冬の加太のハマチと比べるというのも酷な話でまあ、これはこれでよしとしておこう。



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水軒沖釣行

2017年08月28日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 4:10干潮
釣果:ツバス 4匹 マルアジ 12匹


船底塗装後の最初の釣行はどこにしようかと悩んでいると、フェイスブックグループのTさんから水軒沖でタチウオとツバスが釣れているとの情報が入った。船底を塗装しているときに声をかけてくれた元組合長さんはチョクリでマルアジを釣ったということだったので、これを合体して狙ってみることにした。ツバスはあまり自信がないのでまずはタチウオといきたかったが、8月の休日は連日の早朝起床で釣りに行ったり船の底を塗ったりでさすがに疲れていたようだ。
少し涼しくなって寝苦しくなくなったので今日は寝過ごしてしまった。気が付けば午前4時半。トイレにも行かずに家を飛び出したが出港時間は午前5時10分。もう、すっかり明るくなってしまっていた。



タチウオには遅いかと思ったがとりあえず仕掛けを下してみるといきなりアタリがあった。かなり引く。ドラゴンかと思ったが、異常に引く。なんだと思えばツバスが掛かっていた。長いことこの仕掛けでタチウオを釣っているがツバスを釣ったのは初めてだ。そしてしばらくしてまたアタリ。今度もツバスのような感じだ。これはバレてしまったが、これはヒコーキを引っ張るほうがいいのではないかと仕掛けを切り替えてみた。海面を観察しているとボイルも見えている。そのそばをかすめて通るとアタリが出る。
7月に釣ったものからはかなり成長している。重量では5倍くらいになっているのではないだろうか。お腹の中にはカタクチイワシがいっぱい入っていた。



この」ヒコーキの仕掛けは引退した隣の船のおじさんからもらったものを使い続けていたのだが、多分ハリスは6号のようで、糸が多少劣化しているというのもあるだろうが、貴重なタコベイトをひとつ切られてしまった。けっこう大きな魚も混ざっているようだ。
このトローリングヘッド、結構お高い。ひとつ買ってみたが、310円。これは太い糸を使っておかないともったいない。

1時間足らずでアタリがなくなったので沖を目指す。底は塗りたてなので快調だ。水深45メートル前後という情報だったので沖ノ島を真南に見るところまで出張って仕掛けを下す。こっちもすぐにアタリ。飽きない程度にアタリが続く。
そこそこ釣れたし午前7時を過ぎたころからまったくアタリがなくなったので午前7時半で終了。
秋のスタートしてはまあ、許してもらえるくらいだとしておこう。

せっかく速度は快調になったのに、今度は舵が重くなってきてしまった。もう、“ぱ~わ~~すてありんぐ”というくらいに力が要る。毎年、カキがたくさん付くと重くなるので掃除をしたら元に戻るかと思ったが、今回はどうも様子がちがうようだ。家に帰ってボックスレンチとグリスを持ってきて舵輪を外して様子を見てみようと思ったがナットは外れるものの舵輪は外れない。あんまり変なことをして壊してしまうとえらいことになるので何の手出しもできずに終わってしまった。舵輪の真ん中のカバーを止めているネジは腐ってしまっていてネジ切れてしまうほどなのでこのヘルムポンプも寿命がきているのだろうか・・・。



また修理代が・・・。
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船底塗装

2017年08月24日 | Weblog
今年も船底塗装の時期がやってきた。
本当はもう少し後にしたかったのだが9月はまとまった休みが取れそうにない。
まあ、お盆を過ぎれば多少は暑さも和らいでくるだろうとこの日に作業日を設定したのだが、今年の暑さは尋常じゃなかった。

朝はバタバタの出発になってしまった。一応、期末でもあるのでけっこうやることがある中で強引に2連休を入れたのだが、予定通りいけば普通に仕事が終わるところを予算修正の指示が来るのが遅かった。
午前4時に仕事の続きをやってから上架場所へ向かった。
去年と同じ和歌浦漁港だ。そして同じく今年もいつもコメントをいただくちからさんにお世話になっての作業だ。




港まで徒歩で戻り、



和歌浦漁港に向かう頃に朝日が昇ってきたがなんだか暑くなりそうな予感だ。



漁港に到着して早速上架。そして今年もシラス漁師の網代丸の船長さんも助っ人にかけつけてくれた。



ちからさんの船も一緒に上架し、隣同士で作業開始。

去年に比べて、プロペラにはあまりカキはついていないような感じがする。この夏、あまり魚が釣れなかったのはこんなところにも要因があったりするのだろうか?




船長さんはカキ落としも手伝ってくれ、約1時間で掃除を終了

プロペラとシャフトの下塗りを終えたところまではよかったがそこからが暑さからの戦いだった。日差しは強く、風も少ない。船の下に潜ると少しは楽だが時間が経つと日影が少なくなってくる。
そして塗料にもトラブルが・・・。「ラウンドアップ」という除草剤を混ぜると付着物が少なくなるという話を聞き試してみたのだが、混入した直後から塗料がゲル化しはじめた。あの、牛乳を混ぜたら固まり始めるデザートのような状態だ。
早く塗らないとどうなってしまうかわからない。休憩もせずに一気に塗りきったので余計に疲れが増してしまった。そしてさすが農薬だ、太ももに垂れた塗料の場所がヒリヒリする。風で散った塗料が顔に着くと顔もヒリヒリする。
ゴーグルを付けて作業をしていたので目は大丈夫だったがこれが目に入ったらどうなってしまっていたのだろうかと思うと効果のほどはどうであれ、ちょっと次からは躊躇してしまうのだ。素人が使う薬品ではない。

なんとか午後1時に塗り終え、少し休憩をはさみ生け簀の樋の防水作業をして、シャフトのパッキンも取り換えたかったのだがもうたまらずに作業を終えた。
一昨年も同じ日に上架していたが、その時はほ同じ作業工程で午後5時頃までかかっていたことを思うと、最初手伝ってもらったとはいえ、かなり効率よく作業ができたのではないかと思う。

 

ちからさんが差し入れてくれた氷の詰まったお茶の入ったクーラーボックスがなければいったいどうなっていたかわからない暑さであった。
家に帰って体重計を計ると69.3㎏。昨夜は72.9㎏もあったので相当なダイエットになった。



そして、翌日の今日、再び進水。
港に三輪車を置いて海岸伝いに和歌浦漁港へ移動。ここは遊歩道が続いているのだが、もったいないことに歩いている人が皆無のような感じだ。この辺りは「日本遺産」というものに認定されているそうだが、一度廃れてしまうと再度復興するのはかなり難しいのだろうか。ここら辺りは歩いて三つの漁港を回れるというものすごく良い立地だと思うのだが・・。



まあ、そんなことはさておき、相変わらずこの最初の航行が一番爽快だ。



帰港して空を見上げると雲は少し秋めいているようにも見える。



破れてしまっているスパンカーの取り換えもやらなければならないのだが、待っとけ!魚たち!という気分だ。

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「動的平衡ダイアローグ 世界観のパラダイムシフト」読了

2017年08月23日 | 2017読書
福岡伸一 「動的平衡ダイアローグ 世界観のパラダイムシフト」読了

“動的平衡”というのは、生物の体を構成している物質は新陳代謝を繰り返し常に入れ替わっている。しかし、生物としての形がまったく変わってしまうものではない。物質は常に流動的であるが、生物としては平衡状態を保っているといことで、“動的平衡”という。

この本はその“動的平衡”をキーワードに著者と各界の著名人が対談をするという形式だ。
全体を通してこの対談がどう動的平衡に関係しているかということは正直あまりわからなかった。少しづつ自分なりに拾ってみると、流動的というところから、人は変わっていかなければならないということと、何度でもやり直しができるというようなことを強調したいのかというところだろうか。

しかし、これは各界で成功した人たちだから言えることであって、変わって別の世界に羽ばたけるひとがどれだけいるだろうか。やり直すエネルギーがどれだけ必要だろうか。
アドラーは個人はそれ以上分割できないものとして扱うべきであるという。しかし、この対談では、人はいろいろな場面でいろいろな側面を見せることができると言っている。これが動的だと言っている。
はたして人はそんなにいろいろな側面を見せることができるのだろうか。あなたのここは嫌いだがここは好き。好きな部分だけ見てあなたを評価することができる。
そんなことをいう人がいるが、そんな動的な見方というのは本当にできるものだろうか。ぼくはすでに硬直化してしまっているだけなのだろうか。
とりあえずはこの本の元本になっている、「動的平衡」という本を読まなければならない。

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「アドラーを読む―共同体感覚の諸相」読了

2017年08月22日 | 2017読書
岸見一郎

前回に読んだものよりアドラー心理学の本質が書かれていると思う。アルフレッド・アドラーという人は、児童教育に熱心な精神科医であった。この本も子供の心の正しい成長を促すにはどうすればよいか、不幸にも心に疾患が生じたときにどうすればいいか、そういうことを元にして、人が善く生きるためにはどうあればよいのかということが解説されている。そういう意味でもよりアドラーの本質に近いものだと思う。

アドラーは、「人の悩みのすべては対人関係の悩みである」という。人は他人との関わりがないと生きてゆけない。そして、“善く生きる”ためには他人を敵と思ってはいけない。仲間と思えなければならない。それをアドラーは共同体感覚と呼ぶ。
しかしながら人はそれぞれ個人として意味づけされた世界を生きている。そしてその中で課題を持って生きている。その課題とは克服、完成、安全、優位性を求めることであり、人生の目的でもある。ひたすらそれを解決するために生きている。アドラーはその解決策を、「ライフスタイル」と呼んでいる。その課題や解決策が共同体のなかでうまく受け入れられるものでなければ人は不幸になる。

自分にしか興味のない人、全体の一部だと考えられない人は“善く”生きられない。

どの大人にも子供の時代があった。その時にどのように教育を受けたかで共同体感覚を持てるかどうかが決まる。
甘やかされた子供は支配的になり自分が世界の中心でなければ安心しなくなる
無視され憎まれた子供は自分は誰からも愛されていない、他人は敵であると考える。
相当残酷な書き方をしている。
そして、そういう子供たちに対して、励ますのでもなくなだめるのでもなく、勇気を与える教育が必要だというが、そこがそんなにうまい具合にいくはずがない。と思うのは僕だけだろうか。

自分の来し方を思い浮かべれば、どうだったのだろうか?無視され、憎まれてきたことはないとは思うのだが、どうも、自分はほかの人からはそれほど良くは思われていないのではないか、叱られたり、非難されたりしかしないのではないかと思うことのほうが多い。まあ、これは多分に子供の頃の生い立ちというよりも、社会に出てからはとにかく叱られることはあれども褒められたり勇気をもらうようなことがなかった。
それはお前の能力が劣っているからだろうが。と言われればそれまでで軽自動車をフルアクセルで飛ばしてもポルシェには絶対に勝てない。
それでもなんとかここまで過ごしてきたけれども、あと残りの数年はどうなんだろう。研修に行けと言われて行っては見るものの今さら若い人に混ざって自分を変えるんだと鼓舞されてもどうしようもない。役員の威を借りて自分の自慢ばかりしゃべっている講師には尊敬の念も沸かない。ああ、そういえば自分も他人に対して共同体感覚を持ってはいないのではないだろうかと講師の顔を見てあきらめてしまうのだ。


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紀ノ川河口釣行

2017年08月21日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口
条件:大潮 5:22満潮
釣果:ボウズ

8月も残りあとわずか、なんとかスズキを釣っておきたいと今日も紀ノ川河口を目指した。
夜明け前にポイントに到着したいと急いだつもりだが出港は午前4時半になってしまっていた。

水温が相当高くなっているのか、エンジンを回すと航跡が夜光虫で幻想的に光り出す。この蛍光色は自然のものが作り出したとは思えないほどだ。



画像処理ソフトを使って写真を処理すると夜光虫の輝きが浮かび上がってきた。実際の輝きはもっと美しい。
美しいのには違いがないが、僕の船に巣食っているフジツボたちはこの夜光虫を食ってどんどん大きくなり船足を遅くする。ある意味、憎き相手でもあるのだが・・・。


ポイントに到着し、ルアーをとっかえひっかえキャストするもアタリはない。



かなり明るくなってきて、トップウオータープラグが船のすぐそばまでやってきたときにルアーの下で魚が反転した。
おお、今日はいるぞと気合を入れてルアーをキャストすると水面がさく裂した。残念、フッキングには至らず。すぐにキャストしなおすと今度はしっかりフッキングした。
それほどの大きさはないが慎重に引き寄せ、魚の姿をみてタモ入れしようとしたが失敗した。りもう一度引き寄せタモ入れを試みたが魚は水面深く潜りそのままバレてしまった。
残念、アタリはこの1回だけであった。

スズキをあきらめタコ狙いに切り替えたが潮は引き始めの時間になり流れが強くなってきた。船を流しながらの釣りは無理なので錨を下し、即席で作った竹竿のカタパルトでテンヤを投げ込んでアタリを待つもまったく反応無し。
まあ、この流れではタコも海底にしがみつくので精一杯というところなのだろうか。
そんな時間を過ごしているとき、かなり遠い場所だがスズキがボイルを始めた。これはチャンスとルアーを投げ込むとそのルアーの真後ろでスズキがジャンプした。残念、リトリーブが早すぎたか・・・。

場所を移動し、青岸の防波堤の南側、旧の堤防のそばでテンヤを下してみた。ここはそれほど流れがなく、底もテトラの残骸だろうか、障害物も少しありそうだ。
今日はアタリがなかったが、次回はじっくり攻めてみたい。


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水軒沖釣行

2017年08月17日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:若潮 0:53満潮 8:21干潮
釣果:エソ 4匹

船もいよいよ動かなくなってきたし、今日は智辯和歌山と大阪桐蔭の試合がある。そろそろ気になってきたタチウオの様子を調査しに出かけてみた。
夜明け前にはポイントに入らないといけないから午前3時50分に家を出た。この時点では空はどうってことがなかった。
いつものスーパーでお茶を調達して港に向かう途中、三輪車のシールドにポツポツ水滴が付き始めた。予報では雨が降るなんていう情報がなかったのでまあ大したことはないだろうとそのまま走り続け、水軒川に差しかかったころ、なんだか本降りの様子になってきた。

これはちょっと出港できる状態じゃないんじゃないかと渡船屋さんの事務所で小雨になるのを待たせてもらった。
データ放送の雨の表示ではここだけが雨になっている。



もう、なんでやねん・・という感じだ。どうして僕にだけ神様はつらく当たるのだと思ってみたけれども、よく考えたら、渡船で防波堤に渡った人たちも同じ目に遭っているのだから僕だけが不運なわけでもないのだ。

午前5時まで待ったが雨が止む気配はない。もう、夜明け間近だ。これ以上出港が遅れるとまずタチウオは無理だ。
風はないのでとりあえず出港だ。もう、すっかり明るくなってしまっていた。



一文字の切れ目を出てすぐに仕掛けを下して北上を開始。
この付近で船を流しながら何かを釣っているらしき船が2艘。カマスでも釣れているのだろうか。



そのまま向きを変えずに新々波止をぐるっと回ってエソが4匹。
午前6時に終了。

帰港しても雨は止まず、帰宅したころにやっと小降りになってきた。



一体あの雨はなんだったんだ。


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水軒沖釣行

2017年08月14日 | 2017釣り
場所:水軒沖
条件:小潮 4:35干潮
釣果:チヌ 49センチ 1匹
 
台風5号をはさんで気が付けば小船には20日近く乗っていなかった。そして僕の法則からいくと双子島でスズキが釣れるチャンスは8月15日までなのだ。
と言いながら紀ノ川沖に行こうか、双子島にしようか迷っていたのだが、フェイスブックのグループのメンバーの情報では昨日、番所の鼻のところでスズキのボイルがあったらしい。紀ノ川も濁りがほどよく残っていい感じかもしれないが、ここはやはり僕の心の中の法則に従って双子島沖を目指した。



今日は暗いうちに出港して暗いうちからルアーを投げる。
いつものポイントで数投したとき、大島と中ノ島の間の水道から無灯火のボートが僕がルアーを投げているポイントを横切りやがった。
僕もエンジンを止めて無灯火で停泊をしているので偉そうには言えないが、暗闇の中を無灯火で航行するとは何事だ。それもあんな磯際すれすれをよく行ったものだ。
人に見られるとやばいことでもやっていたのだろうか。それなら、何を捕っていたか僕にも教えてほしい。僕もやりたいものだ・・。
それから少し釣り続けたがボイルもアタリもなく、まだ薄暗いうちにと番所の鼻のに移動。



ここでもアタリがなく、再び大島の際に移動。



ここでもアタリがない。

最後にと思って鷹ノ巣の沖へ移動。イワシの群れも泳いでいていい感じだ。
風もなく、潮は大して流れていないので船を流しながらルアーを投げていて、番所の鼻に近いシモリに差しかかったとき、なんだかアタリがあった。“なんだか”というのは、こっちはもう全然釣れる気がしていなくてそろそろ帰ろうかと思っていたときだったのだ。引きからしてスズキだ!と思ったが、後半の締め込みがない。小さいのか?と思って船の下に入ってきた影を見るとなんとチヌだ。
テレビではこの魚をルアーで釣っているところを見るが、自分に釣れてくるとは思わなかった。チヌは紀州釣りで釣るものだから。

とりあえず獲物ができたし、今日は腰痛の診察の日だ。午前10時には診察券を放り込まなければいけない。
午前6時に終わって帰途に就いた時にはまだ太陽は低く、僕の影が畑にくっくり映っている。



まあ、夏はこのくらいの時間に上がってくるのが一番楽だ。

8月も半ばを過ぎると朝は秋の気配を見せてくれる。夜明け前はこの夏最初の冬の星座、オリオン座が東の空に低くではあるが見ることができた。雲も空に高く、秋の雲のように思える。



まあ、魚がどうであれ、こんな景色を見ることができるだけでうれしいものだ。



魚をさばいて燃料補給に回り、とりあえず墓にも参って病院へ。
お盆でも病院は大繁盛だ。ウチなんかガラガラだけど・・・。というか、今まで、病院というところはお盆休みをしているのだと思っていた。



先生曰く、「おお、前より腰が柔らかくなっている。」どれだけの患者を診ているのかはしらないが、個人の腰の柔らかさなんて実際覚えてくれているのだろうか。日焼けで顔を真っ黒にしている患者だと腰痛といっても大したことはないに違いないと高を括って言っているだけではないのだろうかと、訝しくなる。
家族に医者を目指す人間なんかがいると、こんな無責任な人間たちが医者をやっているのだと思うと訝しくなるのもしかたがない。
まあ、こっちも、湿布薬をもらいに行っているくらいにしか思っていないのも事実ではあるが・・・。



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「木原健次の発明」読了

2017年08月13日 | 2017読書
「木原健次の発明」読了

この本に出てくる発明家は、「八尾のエジソン」と呼ばれている人だ。発明家というよりも、“珍発明家”呼んだほうがいいらしい。そういえば、僕も何かのテレビで見たことがあるような気がする。ウイキペディアにも載っているくらいだからかなりの有名人だ。
そのエジソン氏が発明した珍品の数々の写真集であるのだが、その発明品はなんだか全然役に立ちそうもなく、仕上がりもまったくもってお粗末だ。
言葉に表すと、「幼稚園児がお父さんに手伝ってもらって一所懸命作った夏休みの工作。でも材料は東急ハンズで買ってません。」という感じだ。
だから、珍発明ということになるのだろうけれど、それでもなんだかバカにするにはものすごく惜しい気がする。

このエジソン氏には発明の五箇条というものがあって、
1)「頭は使うがお金はできるだけ使わない。」
2)「ハイテク技術は無し、ローテク技術。知識を駆使するのではなく知恵を絞る。」
3)「アイディアに時間は費やすが、作成は簡単に。」
4)「下ネタやブラックユーモア、社会悪になるようなことは避ける。」
5)「必ず欠点のあることを自ら意識する。欠点の無い珍発明は無い。」
というものだそうだ。
ちゃんとポリシーを持っていてだから仕上がりがお粗末でも何の役に立たなくてもいいのだそうだ。
氏曰く、こんな発明を笑っていられる時代というのが平和でいいのだそうだ。なんとも意味が深い。

ネアンデルタール人とホモサピエンスの運命を分かったのは遊び心があったかなかったかであるという説があるそうだ。
ホモサピエンスは路傍に咲いている花を見て、それが食えない花だとしても「美しい」と思う心があったというのだ。一見役に立たないことを学んでいたことによって危機を回避することができていたのかもしれないのではないかというのだ。
ネアンデルタール人は食べられないものの前は素通りして、花の首飾りなどを作ることはなかったという。

そいう観点から見てもこの珍発明をバカにはできない。しかし、なんだかそのお粗末さを見ていると自分の周りにあるもののお粗末さを鏡に映しているようで恥ずかしくなってくる。
僕も何かが欲しいとなると、まずは自分で作れないものだろうかと考えてしまう。これはもう、親譲りというか、祖父からの受け継がれた習性のようなものだろう。しかし、箪笥職人をしていた祖父の血も1/4になってしまうと精度はその3乗根以下になってしまう。使える材料もエジソン氏と同じ諸事情でお金をかけられない、だから出来上がったものは他人が見るとやはりゴミと見紛うようなものになってしまうのだ。
そんなものが僕の船の上にもいくつか転がっている。
ひとりで乗っている分にはまったく恥ずかしいも何もないのだが、たまに同乗者があったときにはかの人たちはそんなものを見てどんな感想を抱いているのだろうか・・・。(100均のシリコン製鍋つかみで作った竿受けというのはその真骨頂ではないだろうか・・・)



意味もなくカバがこっちを向いているのだ・・・。

まったく貧乏くさいやつだと思われてはいないだろうか・・・。それでもたくさんの魚を釣ってくるのなら、「ボロは着ててもウデはプロ。」みたいな感じで格好もいいのだけれど、モノと一緒で釣果もみすぼらしい限りではなんともやるせない。

まあ、そんなものを作っていられるときというのがたしかに平和で幸せなときなのだととりあえずは納得しておこう。これもオートメーションやグローバリズムというようなものに背を向けて生きるひとつの術かもしれないではないか。


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