イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

田辺湾釣行

2022年03月30日 | 2022釣り
場所:田辺湾 カナヤ
条件:中潮 5:38満潮 11:24干潮 17:13満潮
釣果:チヌ 50.5センチ以下11匹 ヘダイ1匹 真鯛1匹
   (チヌ6匹、ヘダイは放流と隣の釣り人に差し上げたので画像なし)

今日は年に1回の乗っ込みチヌ狙いだ。一昨年は4月21日、去年は4月6日。ここ3年を見てみると釣行日が少しずつ早くなってきている。一昨年は嫌なことがありすぎたようなことを書いているが、確かに大きいやつを狙いたければもう少し後のほうがいいのかもしれない。特に今年は春の訪れが遅い気がするので4月の半ば以降がベストなところだろうが、今の仕事場で休日の予定を組むと、週の中で必ず土、日を入れないといけなくなる。
そうなってくると山菜採りとの兼ね合いができない。SNSにもお腹がパンパンのチヌがアップされているし、これはすぐにでも行くしかないと今日の日を選んだ。
しかし、やっぱり、昔みたいに「明日行こう。」と発作的な行動はできなくなってきているのは事実だ、体力と財力は底を尽き、何日も前からモチベーションを上げていかないと行動に移せない。1回の釣行で加太への釣行4回分の費用がかかることもネックだ。今回も1週間ほど前から天気予報をにらみながら、31日は雨の予報になっていたのでそれをなにかと言い訳をつけ、強引に休日の予定を変更し今日に至った。

しかし、それでも相次ぐトラブルに見舞われる。第1は、高速に乗ろうとしたらETCカードの期限が切れてしまっていた。はじめて迂回路というところを通ったのだ。これはカードケースの中をまさぐったら期限内のカードが出てきたので再度ゲートを追加することで回避。
これで5分ほどタイムロスをしてしまった。次のトラブルは家とバイクと船の鍵を一緒にしたキーホルダーを失くしてしまった。家の扉の鍵を閉めたのは覚えているのだが、その後、どこにしまったかという記憶がなく、ポーチの中を探しても見つからないのだ・・。
そんなことなどでもたもたしながら田辺を目指した。
去年の記録を見てみると、午前2時半過ぎに家を出て相当早くに到着してしまったので今日は若干遅めの午前2時50分に出発した。一番船は午前5時半出港だ。
高速を走りながら思い出したのだが、印南インターまで4車線に拡張されていたのだ。これはものすごく快適である。ストレスなく南部インターまでたどり着いた。
しかし、ここで次のトラブル。高速も変わってきたが、地道も変わっていた。エサ屋からは海岸沿いの国道を走るのだが、いきなり道が変な方向に変わっていた。それも3方向に道ができているのでどの道を通ればいいのかがわからない。一方向は間違いなく山の方に行っているのだが、残りのふたつは微妙だ。もうひとつは急角度で海の方に曲がっているのでこれも違うんじゃないかと思い真ん中の道を選んだらえらく細い道に入り込んでしまった。南部の集落の中に迷い込んでしまったようだ。軽自動車でもぎりぎりな道をカーナビを頼りに進んでやっと国道に合流。あとで船頭に聞いたら、ごく最近開通した道路らしく、急角度で曲がっている道が正解だったようだ。
そんなことをしていて、結局4車線化の恩恵もなく、去年とほぼ同じ時刻に港に到着。

今年も客は多い。平日にも関わらず20人くらいは来ている。



紀州釣りの客も増え、今日も僕を含めて5人くらいは紀州釣りのようである。
ゆっくり釣りをしたいと思うがどこに行けばいいだろう。本命はよく釣れているというカグラなのだが・・。そんな気持ちを察してかどうか、珍しく船頭が「どこ行く?」と聞いてくれた。「カグラに行きたいんだけど・・」と答えると、「二人行くで・・。」という答え。
ここ数年、寝屋川市が拠点のクラブのメンバーたちが盛んにこの磯を訪れるようになり、まずはそいつらの行きたい磯が優先されるような暗黙の了解ができ上がってきているようなのだ。向こうも邪魔をされたくないのか、他の人がどこに行くのかということを気にしているようで、そういったことを船頭が調整しているという感じだ。
彼らは、とにかく数を釣るということに徹しているというような集団で、他人の都合のようなものはまったく関知しないという連中だ。まあ、それくらいの勢いがないと思い通りの釣果を得ることはできないのは確かだが・・。ちなみに彼らは釣ってきた魚を港まで持ち帰り、検寸したらそのあとは放流してしまっている。鉤を呑み込んでいる魚もいるだろうからそんな魚は遅かれ早かれ死んでしまうだろう。僕はそういうことはある意味、魚への冒涜ではないかと思っている。
そういうことで、今日も彼らを避けてカナヤに行くことにした。
捨てる神あれば拾う神あり、いつも渡礁を手助けしてくれる船頭の息子であるが、走行中の船の上で、「今日はどの場所でやりたいの?」と聞いてくれた。おそらく彼はこの島に乗る予定の紀州釣りの釣り人は僕しかいないのを知っていて聞いてくれたようだ。紀州釣りのポイントはどの島でも限られているのでそこを外すと釣果は激減する。「磯の左側に行きたいんですよ。」というと、「荷物はあとで下したらいいから先に場所だけ取っておいで。」とアドバイスをくれた。これはありがたい。船が接岸すると同時に竿ケースを持って磯に飛び降り、目指す場所に突進した。
年に1回しか来ない、全然儲けにならない客なのにありがたいことだ。これでひと安心。この時間をうまく切り抜けることができればホッとするのはいつものことである。

そんなトラブル続きであるが天気は良すぎるほど良い。気温もほどほどで風はまったくない。それはありがたいのだが、ついでに潮も流れない。今日は大潮前の中潮だがこんなにも潮が動かないとは驚きだ。ウキはほぼその位置から動かない。少し長い目のトップが付いているウキなのでまるでヘラブナを釣っているかのようだ。底は取りやすいけれどもこれだけ動かないとまったく釣れないのではないかと不安になる。



ただ、隣の真鯛狙いのおじいさんたちは朝一から真鯛を釣り上げている。決して条件は悪くはないようだ。そしてこっちにもエサ取りの反応はある。いつかチヌが集まってくるということを信じてダンゴを投げ続ける。その後約1時間。答えは出た。エサ取りがいなくなった頃にモソっとウキが沈み、上がってきたのはでっぷりと太った50センチ近いチヌだ。まさしく乗っ込みチヌである。あまりにもお腹周りが大きくなっているので体が動かないのか、引きからするとこんなに大きいとは思わなかった。
その後は快調そのもの、午前9時を回る頃には真鯛を加えて生け簀の中がパンパンになってきた。これ以上は入れることができないのでここからは鉤のかえしを潰して逃がせるものは逃がしてゆく態勢だ。
釣った魚を逃がそうとしていると、隣のおじいさんが、逃がすくらいならもらってあげるというのでチヌとヘダイを差し上げた。このおじいさんはいくつくらいの人だろう。おそらく70半ばは軽くこ超えている感じがするひょっとしたら80歳近いのではないだろうか。腰もやや曲がり気味だがそれでも磯の上に立てるというのはうらやましい。あと2,3年で磯釣りは引退だと思っている僕とは大違いだ。



お昼を過ぎて南西の風が強くなるころまでは途切れることなくアタリは続いた。風が出てくるとやっと田辺の磯らしく底がわからなくなってきた。何度か修正をしながら我慢の釣りをしていると、午後2時を回ってやや風が落ち着き、またアタリが出てきた。
1匹は目の前でバラしたけれども2匹を釣り上げ魚の下処理をするため早めの午後3時15分に終了。午後4時の迎えを待つことにした。
0.5センチプラスなだけであるが、今年は年なしを釣り上げることができた。

チヌの真子はまだ成熟しておらず、少しピンクがかった色をしている。真鯛はというと、これはびっくりするほどの脂を蓄えていた。一体何を食べるとこんなに脂が溜まるのだろうと思えてくる。加太の真鯛を見慣れている僕にとってはまったく別物の魚に見えるが、これを専門で狙っているおじさんたちは、「いい形をしている。」と言う。ここで釣れる真鯛は近くの養殖筏から逃げ出した脱走真鯛なのだ。この人たちに本当の真鯛を見せてあげたいものだ。

いつものとおり近くの酒屋で「太平洋」を購入して一路我が家へ。4車線化の恩恵もあり、1時間足らずで帰宅できた。
そして、これからが疲れる。午後6時を前にして、これから魚をさばき始める。内臓と鱗を取って下処理をしているので作業は速いとはいえ、切り身にした魚を奥さんに渡して道具を洗い、食卓についたのは午後8時。この釣りが年に1回でいいというのはこのせいでもある。
誰に聞いてもチヌは美味しくないというのだが、僕はまったくそうは思えない。特にアラ炊きはおそらく真鯛よりも美味しいのではないだろうか。この時期のチヌは脂をたっぷり蓄えており、煮汁のコクといったらほかに並ぶものがないのではないかと思う。(僕が釣ることができる魚の範疇での話だが・・)



それをご飯にぶっかけてすすり込むとなんともいえない幸福感を味わえるのである。だから年に1回は必ず田辺を訪れるのである。

大量に出来上がった切り身は塩焼き、煮つけ、それにフライにして食べるのだ。



山菜もワカメもしかりだが、このチヌも我が家には欠かせない春の味なのである。

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椎名誠 「南の風に誘われて」読了

2022年03月29日 | 2022読書

椎名誠の新刊書を見つけるとつい借りてしまう。この本は夕刊フジに連載されているコラムを書籍化したものらしい。夕刊紙の連載なのでひとつの文章は3ページ分とかなり短く、それに1枚の写真を加えて1章ができあがっている。

相変わらずというかなんというか、過去の旅の思い出という構成になっている。しかし、「いろんな国を旅してきた」という言葉どおり、きっとこの作家は無尽蔵にこういう形のエッセイを書き続けることができるほどの経験をしてきたのだろう。そして、自らもきれいな写真を撮ることができるテクニックを持っているのだから、その写真を眺めながらいくらでも思い出を引っ張り出せるのだと思う。

今回は旅先で出会った人たちやその国で出会った不思議な習慣などがテーマになっている。

特にこれというような印象に残ったものはないけれども、椎名誠らしい文章に乗って軽快に、しかししみじみと読み進めてゆくことができる。
まったく、「旅」というものになじみのない僕にとっては確かに若い頃にもっと旅をしておけばよかったと思う。旅といってもほぼ紀伊半島から出たことがなく、海外といえば新婚旅行で行ったカナダとなぜだかグァム島へ行ったことがあるだけだ。
人は移動した距離に比例して大きくなれるのだと言ったのはたしか師であったと思う。
「夏の闇」の書き出しも、「そのころも旅をしていた・・」だった。名を成す人はみんな旅をしていたということか・・。
なんとか半径10キロで名を成す方法はないものだろうか・・。

あまりにも短い感想文なのでそのグァム島旅行でのことを書きたいと思う。当時、いろいろ調べてみると、グァム島とハワイでは日本の運転免許証で自動車に乗れるということがわかった。グァム島というのは淡路島ほどの大きさしかないので半日ほどあれば1周(といっても3分の1くらいは治安が悪いので行かない方がいいということだった。)できると考えた。せっかくなのでオープンカーがいいだろうと青いムスタングを借りたのだ。



右側通行はかなりやっかいだと思いながらなんとか運転をしていたのだが、途中でUターンしようとして路肩にはみ出してしまい、後ろのタイヤがスタックしてしまった。
日本の道路の路肩というのは相当田舎でもちゃんとコンクリートブロックで固められているが、グァム島の道路というのはそんなものがまったくなく、いとも簡単に路肩にはみ出してしまうのだ。ついでにいうと、中央分離帯というものもまったく存在していなかった。相当意識しないと左側通行の癖が出てしまい対向車線に飛び出てしまいそうにもなるのだ。
オープンカーにロックができるデフが付いているわけでもなく、エンジンを吹かしてもタイヤは空回りをするだけだ。もっと悪いことに、グァム島の道路というのはかまぼこ状になっていて、路肩の方が中央部分よりも低く、惰性で元に戻ることさえもできなかった。
どうしようかと悩んでいると、若い男女3人組の乗った車が停まり、車を出してあげるという。(言っているみたいだった。)藁にもすがる思いというところもあり、運転席のドアをあけたのだが、この島の人たちは手慣れたもので、あっという間に車を路上まで引き出してくれた。
そして、何事もなかったように颯爽とその場を離れていったのである。地獄に仏とはこのことだと思った。右も左もわからないところで手を差し伸べてくれる人がいたというのは本当にありがたかった。逆に、家族からは何で車なんか借りるの!それもこのクソ暑い島でオープンカーなんて!(事実、ほぼ全工程、幌を閉じてエアコンをかけて走っていた・・)普通に旅行しておけばよかったのよ!という無言の抗議が聞こえてきた。
あとから考えたのだが、その時、家族はまだ車の中に乗っており、下手をすればそのまま誘拐されてしまったのではないかと怖くなった。
しかし、世界には悪人よりも善人のほうがはるかに多いらしい。僕はそう思った。誘拐されそうだったのではないかと疑う時点で僕は旅人としては失格だったのかもしれないとこの本を読みながら遠い昔のことを思い出したのであった。


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タラノメ採り3回目

2022年03月27日 | Weblog
基準日からはすでに10日が過ぎている。ソメイヨシノの開花宣言もされているくらいだからもう季節は暦に追いついているだろうと考えタラノメ採り遠征を考えた。遠征といっても生石山への入り口にある、一昨年見つけた小さな林を目指すだけなのであるが・・。

自動車で行けばなんともない距離なのだが、それでは第2ポイントに入れない。だからバイクに乗って生石山の入り口を目指すことにした。
バイクの距離計で計ってみるとここまで18.2km。そんなに遠い距離でもなかった。道中ソメイヨシノの木が所々に植わっているのだが、大体3分から5分咲きというところだろうか。



去年は満開の状態でタラノメは大きくなりすぎているという感じだったので今日のタイミングはちょうどいいのではないかと思いながらポイントを目指したが到着してみるとまったくタラノメが見えない。人目を忍んでまだ暗いうちにやってきたのでよく見えていないのか、それともすでに盗られた後なのかと思い近づいてみると、盗られているどころか全く芽を出していない。膨らんでもいない。わずかに緑色の部分を出している芽はひとつだけだった。



季節は追いついているどころか、順当に遅れたままである。せっかくここまで来たのに徒労に終わってしまった。
仕方がないので今年の元旦に見つけたポイントに向かう。ここもまったく芽を出していない。ここは相当目立つ場所だ。芽を盗られまくって木はかなり痛めつけられている可能性があるのでこれらの木が生きているのか死んでいるのかさえもわからないような状態だ。柵があって簡単に近づけないので枝の先端のとんがりさえも確認できない。




最後の砦である第2ポイントに向かう。
さすがにここはほとんどの枝が芽を出している。大きいものだけを採り、あとは木を守るために残しておく。あと10年持たせるためだ。

それなりに採れたので給油のために港に寄ってから叔父さんの家へ。ここにも春がやってきている。廃棄した野菜にも花が咲いていた。



食べきれないほどできてしまうのでその分は仕方がなく捨ててしまうのだがもったいない話だ。食べきれないほど作ってくれるので僕もたくさんの野菜を持って帰ることができるのではあるけれども・・。

天ぷらの材料にする新玉ねぎだけもらって紀ノ川筋のポイントに向かおうと思っていたのだが、にわかに円卓会議が始まってしまった。今日は日曜日だからなのだろうか、やたらと会議が長い。僕のタラノメ談義もその議題の一部になっていたのでそれも長引く原因になってしまったのかもしれない。そんなことをしていたら、叔父さんの家を後にするのが午前9時半を回ってしまった。ここも目立つといえば目立つ場所で、よりにもよって近くでゴルフの練習をしている男性に出くわしてしまった。あえて引き返そうと思ったが、目の前にあるタラノメの木にはたくさんの芽が出ている。ええい、仕方がない。あいつに見られるのは確実だが斜面に取りついた。
後ろを振り返ると、案の定、不思議な顔をして僕の方を見ている。完全にばれてしまっている。
家に帰ってウチの奥さんに話をすると、「そんなものに興味を示すのはあんただけで、だれもその木が食べられるものかどうかなんて気にしていない。」というのだが、いまどき、写真を撮ってグーグルで調べればあの木が何であるかなんてすぐにわかってしまう。
来年、先に盗られたらどうしようという心配をこれから1年、ずっとし続けなければならないというのはかなりの苦痛だ。
白いトレーナーを着てアイアンを振り回しているようなインテリは全員、山菜には興味を抱かないものなのだと願うばかりだ。それにしても、この場所は目立ちすぎるので日曜日には来てはいけない場所だったのだ。
総走行距離55.1km。これだけ走ったのだからもうちょっと採りたかったというものだ・・。



お昼前には家にたどり着いたので回転焼きを買いに久々に百貨店に行ってみた。



どうして今さら回転焼きを食べようなどと思いついたのかというと、もう、言わずと知れたことだが、「カムカムエブリバディ」の影響だ。前半ではおはぎを食べたいと思いながら時が過ぎてしまい、大月の回転焼きを見ているといやがうえにもこれを食べたくなってくる。
ちょうど駅に定期券を買いに行く用事があったので今日こそはと思ったのだ。
「回転焼き」、「大判焼き」、「今川焼」、「ずぼら焼き」、同じ形状にいろいろな名前が付いているというのは食卓に上りやすい魚ほど地方ごとにいろいろな名前で呼ばれるというのと同じ意味だろうか?ちなみにこの百貨店では御座候という商品名になっている。
そういうことで、もともと人気のある商品なのかそれともドラマの影響か、10人近くの客が並んでいる。僕もるいさんを思いながら食べようという気がなければ即帰るところだが、じっと我慢で待つことにした。
大月は昭和の時代ですでに100円という価格であったが御座候は税込み95円。これは安いのか大月が高すぎるのか・・。どちらにしても100円だと思い込んでいたのでぼったくりの百貨店にしてはこれは安いと予定していた3個の倍の個数を買ってしまった。そして、大月の回転焼きは生地が白いがこっちは意外と黒い。なんとなくだが、こんがり焼けている方が美味しそうにも見えるのだ。



さて、家に帰って食べてみると、これはなかなか美味しい。あんこがかなり入っているので相当なカロリーだろうけれども、ドラマが終わると食べることもないだろうから許してもらおう。

そしてドラマはあと2週を残すのみとなった。100年間の物語を半年で終わらせるのであるからジェットコースターのような展開だが、このドラマはなかなか面白かった。最後にどんなどんでん返しと伏線の回収があるのか、見逃せないのである。

そして、このドラマを通して、僕は重大なことを発見した。
深津絵里の左頬にはちょっと大きめのホクロがあるけれども、実はウチの奥さんもまったく同じ位置にホクロがあったのだ。ここだけ切り取って比べてみたらウチの奥さんと深津絵里は瓜二つなのである。

 

まったくくだらない話であるけれども、ミーハーな僕としてはちょっとうれしい発見だったのである・・。

コメント (4)
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「フェラーリを買ふということ。」読了

2022年03月26日 | 2022読書
清水草一 「フェラーリを買ふということ。」読了

フェラーリとは言わずと知れたイタリアのスーパーカー、フェラーリのことである。この本は、フェラーリのオーナーとなるということはどういうことを意味するのかという、ある種哲学的なお話なのである。
もともと、自動車は好きだった。免許を取ったのはバブルがはじける前の景気のいい時代であった。男子ならだれでも免許を取って車を買うというのが当たり前で、ドアの数は少ないほどいいという時代でもあった。
いわゆる、クーペという種類の車もたくさん販売されていた。免許はもちろんマニュアル車でしか取れず、教習所に行っている間にミッション車の面白さに目覚め、依頼、自分で買った車はすべてクラッチが付いている車であった。
最初に買った車は今でも名車と言われているトヨタスプリンタートレノという車であった。AE86という型番だ。



ヘッドライトはリトラクタブルになっていて、これはもう、スポーツカーならこの構造は譲れないと思っていた。当時、リトラクタブルライトが搭載されていた一番安い車がトレノだった。FRという駆動方式もスポーツカーの王道であった。そしてその究極はフェラーリだったのだ。当然ながら宝くじで1等を当てる以外に購入する手立てはなく、ただ憧れだけは残っているので2代目以降、買った車はすべて赤い車となったのである。

そして、それは、船を持つということと限りなく近いのではないかとこの本を読みながら僕は思い至るのである。

まず、その入手方法であるが、いくつかある方法も船を購入する手法とまったく同じである。
基本、フェラーリも船も大金持ちか悪くても小金持ちがやっと所有できるものであるが、船のほうはもう少しハードルが低く、僕みたいな貧乏人でもなんとかなるものである。そこは海洋国家日本のいいところなのかもしれない。
著者も、大金持ちというのではなく、自動車ライターという職業の人だ。この本を読もうと思ったのは、サラリーマン風情のひとがどうやってスーパーカーを購入し、どうやって維持し、どうやって生活しているかということを知ってみたかったのだが、さすがに業界にいる人だと、相当なコネで一般人には到底真似ができないような方法で入手しているのだろうからそういった裏話は書けなかったようである。

その方法は、①正規ディーラーで新車で購入する。②並行物の新車を買う。③中古車店で購入する。④個人売買で購入する。
それぞれメリットデメリットがあり、一番のお金持ちは①、貧乏になっていくにつれ、②、③、④となっていくが、それにともなってリスクが増えていく。僕は、④のルートで船を買ったが、その後、乗れるようになるまでに買った値段に近いくらいの修理代を使ってしまったのである。
次に、維持費だ。部品代やメンテナンス、これにも国産車では考えられないほどのお金がかかり、いざ故障となると目をむくほどのお金がかかってしまう。これも船に似ている。故障は遭難よりも怖い。唯一フェラーリと異なるのは、船は自分でメンテナンスできる余地が残されているということだろうか。

そしてここからは哲学的なものになってゆく。果たして、そんなに無理をして買って維持をしているフェラーリ、もしくは船は私を幸せにしてくれているのだろうか・・。
いつも、壊れはしまいかとエンジン音や排気ガスの色を気にしたり、舵棒が錆びきって落ちてしまうのではないだろうかと危惧し、台風のたびに会社から帰ってそのままロープの点検に行かねばならない。自分でメンテナンスをするといっても相当体力を使う。たまに、どうしてこんなに苦労しているんだろうと思うこともある。しかし、著者はこういう言葉ですべてを片付けてしまうのだ。
『オレはフェラーリを買って不幸になった人というのを見たことがないってことだ。金銭的なダメージを受けた人は多いけど、不幸になった人はひとりも知らない。オレの知る限り全員、すごく幸せそうな顔してフェラーリに乗っている。』
う~ん、確かにその通りだ。僕の友人、知人でも、嫌そうで不幸な顔をして船に乗っている人を見たことがない。そんな人は底にびっしりとフジツボを飼っている人ひとだけであろう。
フェラーリには12気筒と8気筒のモデルがある。12気筒ではテスタロッサシリーズが有名だ。



8気筒ではF355という、清原が乗っていたというモデルが有名だが、当然ながら12気筒モデルの方がはるかに値段が高い。



(しかし、どれもかっこいい。素晴らしいデザインだ・・・。)
そうなると、12気筒モデルに乗っている人の方が優越感に浸れるというものだが、フェラーリはフェラーリだ。オーナーが、「オレはこれが好きなのだ。」というものだけがあれば12気筒であろうが8気筒であろうがそんなものは関係がない。それは比較の対象とはならないのである。ボロい和船に乗っていようが、ベッドにシャワー付きの船に乗っていようが、釣れる魚の種類は同じ海域なら同じじゃないかと思ったらへりくだることもないのと同じである。唯一フェラーリと異なるのは、フェラーリはそれを見る人すべてを魅了することができるがぼろい和船に乗っていると知らん顔をされることばかりであるということだろうか・・。

そして、究極は荘子の「無用の用」に通じる哲学である。
『馬車を引いたり人を乗せたりする、役に立つ馬はほとんど絶滅したけど、無意味に速く走ったり、無意味に棒を飛んだりする役に立たない馬だけが生き残ってる。なんでそうなったかと言うと、役に立つ馬は、代役が出現したら全然要らなくなっちまったから。でも、役に立たない馬は、最初っから役に立てようと思っていないから、時代の流れと無関係に生き残った。同じように、役に立たない自動車は絶滅しない。30年前に造られた自動車で、今でも稼働状態にあるのって、ほとんどが名車と言われるスーパースポーツだけである。』という著者の考えは正しい。僕の船もまったく世の中の役には立たない。使った燃料代で魚を買ったほうがよほど安上がりなのである。それでも僕は船を持ち続けたいと思うのは、きっとこの、無用の用がまさしく僕の人生にシンクロしているからなのではないかと思えてくるのである。
無用の用、世界の景気は「無駄」がけん引しているというのはこのコロナ禍で証明されたも同然だ。人は生きている限り、犯罪者でも世の中の役に立っていると書かれた文章を読んだことがあるけれども、そういう意味では僕も世の中の役に少しは立っているのかもしれないと思わせてくれた本である。


この本の大半は病院の待合で読むことになってしまった。
昨日、いつものごとく病院にいくと、なんと待ち時間が3時間・・。予約時間というのは一体、どんな意味を持っているのだろうか・・。



これは、おととい、釣りに行きたいばかりに、今日はワクチン接種3回目の副反応が出たと言って病院に行く日にずる休みをしてしまった祟りじゃないかと思ったり、釣竿を作るときのグリップ用に軒下に置いていた袋竹の中に巣をつくった蜂に腹を立て燃やしてしまった祟りじゃないかと思ったりしていた。
先生に事情を聞いてみると、金曜日の診察は新患も診るので途中にどんどん新患が入っていくので遅くなるらしい。それなら仕方がないとは思うのだが、蔓延防止措置の期間はガラガラだったことを思うと、みんな、別に急いで病院で診てもらわなくても大丈夫な人が大半なのではないかと思えてくる。今日の診療代は250円。これだけしか払わなくて済むのなら、レジャー感覚で病院にやってくるひともいるに違いない。

しかし、せっかく作ったグリップの素材であるが、去年のまだ暑い頃、燻製用の火吹き竹が詰まってしまい何が原因だろうと思っていたら、同じ場所に置いていた、節を抜いた袋竹の穴に蜂が出入りしているのを見てしまった。よく見たら、穴がふさがれていて、これはきっと卵を産んだのかと思い、処分するしかないなと思っていた。焚き火の練習の素材にはなるかと思い、ワカメ採り用の竹を燃やすついでに港に持って行った。
すでに秋には巣立ってしまったかと思っていたら、割ってみるとまだ中に幼虫が潜んでいた。



可愛そうだが仕方がない、放っておくと成虫になって人を襲うかもしれないし、僕のグリップを台無しにした恨みもある。僕を祟るというのはおかど違いだからねと言いながら燃やしてしまったのである。



最後に、この本に載っていた専門用語や語録を忘備録として書いておく。
〇キャバリーノ・ランバンテ:フェラーリのエンブレムに描かれている跳ね馬のこと。
僕も本物は買えないのでステッカーだけ持っていた。
〇「まずエンジンを造った。それに車輪を付けたんだ。」:エンツオ・フェラーリの名言。
フェラーリって直線は速いけど、意外と曲がらないらしい。GT-Rのほうがはるかによく曲がるということだ。この本は2000年出版の本なので、20年以上前のフェラーリの話だが・・。
まだ、この頃にはとんでもない無理をすれば一般人でも中古のフェラーリを手に入れるということは夢物語ということでもなかったそうだが、ここ数年は投資対象となってしまったことでとんでもなく中古価格が高騰し、それも夢物語となってしまったそうだ。これもコロナ以降の釣りブームに乗って船の中古価格が高騰しているということに似ている。
〇ストラダーレ:市販車のこと
〇トンネルバック:ミッドシップ車などで、リヤウインドウが立っている形状
〇ベルリネッタ:=クーペ
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タラノメ採り2回目と加太沖釣行

2022年03月24日 | 2022釣り
場所:加太沖
条件:小潮 9:24満潮 16:35干潮
潮流:9:07転流 11:31 上り0.6ノット最強
釣果:マアジ11匹 サバ1匹

タラノメ採りは基準日からすでに1週間が過ぎている。昨日、一昨日は少し寒かったけれども、前回からは中3日開いているので十分採り頃だろうと第2ポイントに向かった。
しかし、今日も食べることができる芽が出ているのはわずかであった。その他の芽は殻を固く閉じている。今年は芽吹く芽と開いていない芽の差が大きいように思う。この冬、かなり寒かったことが影響しているのか、それとも周りの藪がどんどん刈り取られ、この場所の生態系に異常をきたしているのか・・。
これだけではたらふく食べられないというほどしか手にすることができなかった。



一度家に帰り、高枝切り鋏を釣竿に乗せ換え港へ。しかし、その前にタラノメも足らないのでこちらもまだ早いのだろうと思いながら紀ノ川筋のポイント向かう。
こちらも予想した通り、3個しか食べ頃の芽を採ることできずに出港する。



タラノメが採れなくても、来年のために幹に絡みついた蔓を切り取り手入れだけはしておく。



今日の釣行は気が重い。というのも、友人であり、かつ隣の船のオーナーであるNさんの手術日なのである。
彼は、過去に脳の中の血管の異常が見つかり、最近になって開発されたという治療を2年ほど前に受け、手の痺れが完治せず療養生活に入っていた。(釣りには行っていたが決して僕のように仮病を使っていたわけではない・・。)再度手術を受けたが今度はそれが原因かどうか、てんかんの症状が出てきたというのを年が変わる頃に聞いていた。おかげで船に乗ることはおろか、車の運転さえ禁止されてしまうということになってしまっていた。
しかし、彼はたくましく、車に乗れないのなら三輪車だと僕とちからさんが載っているジャイロキャノピーを購入し機動力を得た。おかげでジャイロ三兄弟が出現したのである。



その症状を改善するためか、もともと予定されていたのか、今度はガンマナイフという装置で血管の異常個所を焼き切るという治療をすることになったらしい。それが今日なのである。これは放射線治療の一種らしく、それほど大きな出力ではない放射線ビームを一度に複数撃ち、それらを収束させることで患部だけを焼くというものだそうだ。放射線が体内を通過するけれども、ひとつのビームが通過した部分の細胞はほとんど死ぬことはなく、収束した部分だけにエネルギーが集中するため、体内の奥深いところでもピンポイントで射貫くことができるものだそうだ。連邦軍がソーラレイシステムでソロモンを攻撃したのと同じやり方のようだ。ウチの奥さんが脳腫瘍の手術をした頃にはすでにあった技術で、たまたま行った病院でこの装置の宣伝が書かれていたのを見たので僕もそんなものがあることは知っていた。当時の主治医に、頭を開くくらいなら、こんな装置を使って腫瘍を焼き切ってもらえないだろうかと聞いたことを思い出した。その時の主治医の答えはつれなく、「できるもんならやってますよ・・。」であった・・。

そんな日に、治療の成功を願いながらも殺生をしに行ってしまうという、自分の業の深さにうんざりしてしまうのである・・。だから少しばかり気が重いのだ。

野山をウロウロしていたので出港は午前7時半になってしまっていた。



田倉崎を通過するのは8時半ごろになるので、転流時刻までは大和堆ポイントでアジサバ、うまく獲物が確保できればメバルを試してみて、その後は例の秘伝の仕掛けを試してみようと考えている。メバルと秘伝の仕掛けについてはまったく自信がないのでなんとか前半でアジサバを確保したいところだ。

大和堆ポイントには3艘ほどの船が来ていたのでまんざらでもないのだろう。



早速仕掛けを下すが、前回の釣行同様、潮の小さい日なので流れはなく、アタリもない。アジサバは最初にアタリがなければ相当心細い。できるだけ障害物のある所をと思い、山のてっぺん付近を流してみるがダメだ。
遠く、コイヅキ方面を見やると向こうの方が船団は大きい。しかし、あれは全部帝国軍なのだと思うと行く気にはならない。しかし、まったくアタリがないというのではそうもいかなく、ロックオンされたら潔くメバルに転進でもするかと仕掛けを引き上げた。
行ってみると同盟軍の船もチラホラ見える。どこもダメなのでみんなここに集結しているという感じだ。潮の小さい日でもここは流れている。しかし、相変わらず複雑な流れだ。



海面を見ていても湧き上がってくる潮と潜り込んでいく潮が複雑に絡み合っているのがわかる。試しに、水深70メートルほどの所から仕掛けを下してみる。やはり、水深ごとに複雑に流れが絡まっているようで道糸はどんどん出てゆく。少しテンションをかけながら落としてゆくと、錘が着底した瞬間にアタリがあった。
とりあえずアジを1匹。しかし、こんな流れの場所でしかも水深は70メートル以上でないとアタって来ない。これは釣りにくい。もうすこし楽に底の取れる場所へと思い移動するとまったくアタリがないのだ。仕方がないのでまた流れが渦を巻いているところに行くとやっぱりアタリがある。そんな場所を行ったり来たりしているとほぼ入れ食い状態だ。
それなりに数を稼いで転流時刻を過ぎてきた。さすがにアタリは遠のき、叔父さんの家に持っていく分も確保できたことだし、ここからは実験的な釣りに切り替える。
まずは銅板ポイント付近の浅場でメバル狙い。



ここはポイントらしく、数隻の船が集まってきている。新たに作り直した仕掛けを下すがすぐに根掛かり・・。今日はふたつ持ってきているので新たな仕掛けをセットしたけれども、どんくさいことに、チチワにスナップを通す前に指から仕掛けが落ちてしまった。糸が細いのと、短い仕掛けなのでモトスの部分も高仕掛けよりも短く作っていたことが災いしてしまった。何もなすすべがなく2個の錘を失ってしまった。
ここではやることがなくなってしまったので秘伝の仕掛けを試すべくテッパンポイントへ。
ここでは魚探の反応はあるものの、まったくアタリはない。このまま秘伝の仕掛けを使い続けるか、やはりオーソドックスな高仕掛けに切り替えるか迷うところだが、潮流が最強を迎えるまでは我慢することにした。
ここも潮の流れはなく、ついでに帝国軍もいないので思い切って北上することにした。その理由にはもう一つあって、先週の「鉄腕ダッシュ」のロケ地を見てみるということだ。
何気なくテレビを見ていたら、突然、友ヶ島というテロップが出てきた。友ヶ島って和歌山以外にもあるんだなとみていると、その島の形はどう見ても友ヶ島だ。そしてやっぱりあの友ヶ島であった。



今まで全然知らなかったけれども、友ヶ島には修験道の道場があるらしく、ジャニーズのアイドルがそこに挑戦するというものであった。
葛城山系には、「葛城二十八宿」という、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚があり、友ヶ島はその一番目になっているそうだ。
砲台の跡があったり、魚の付き場になっていたり、おまけに修験道とも関係していたりと、友ヶ島というところは謎に包まれている・・。
そして、アイドルたちは今回、虎島の岸壁を登っていた。テレビを見ていると、その岩壁になにやら文字が刻まれており、いったい何が書いてあるのかそれを確かめてみようと思うのである。10数年ここを見ているが、この壁に文字が彫られているというのはまったく知らなかった。
今日はおあつらえ向きに帝国軍がいないのでこの岸壁に最接近できるというわけだ。



般若心経か何かが彫られているのかと思ったら、友ヶ島にある5ヶ所の修行場所の名前であった。



その5ヶ所とは、序品窟、観念窟、深蛇池、閼伽井跡、神島剣池という名前だ。ちなみに、この岩壁が修行の場所ではなく、この途中に観念窟という洞窟があり、そこで経を唱えるというのが修行になるらしい。
調べてみると、この文字は、紀州藩初代徳川頼宣の命で掘られたらしく、そうなると、300年くらい前に彫られた文字を今、見ていることになる。Nさんの手術が成功することをとりあえずここから祈っておこう。少しはご利益があるかもしれない。

秘伝の仕掛けをあきらめ、タイラバ、高仕掛けといろいろやってみたけれどもまったく何の反応もなく午後1時に終了とした。

僕の修行にも終わりがないのである。

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「縁側から庭へ―フランスからの京都回顧録」読了

2022年03月23日 | 2022読書
エマニュエル・マレス 「縁側から庭へ―フランスからの京都回顧録」読了

著者はフランス人で、日本で庭園史を学び、庭師の経験もあるという人だ。BSの「美の壺」というテレビ番組でこの人とこの著作のことが紹介されていた。大学の卒論のテーマは、「縁側」についてのものだったそうだ。その縁で日本庭園というものにも興味を持ったという。
この本は、特に日本庭園を学問として論じているものではなく、かといって外国人が見た日本の伝統というありきたりなテーマのものでもない。そういったものを少しずつミックスしたというなんだか捉えどころがなさそうでいるのだけれども日本家屋の伝統性とそれに興味を持つ外国人の思い入れのようなものがしっかりと伝わってくる不思議な内容になっている。

キーワードは「縁」という言葉であった。フランスという国は、日本の武道が盛んな国であると聞いたことがあるけれども、著者も合気道をやっていたことから日本家屋について学ぶ「縁」が生まれたという。
フランス人からすると、「縁」という言葉は不思議な言葉だそうだ。『縁という言葉をはじめて耳にしたのは、東京の上智大学に留学していた時のことである。日本人は皆あたりまえのように使っていたが、私にはその意味がよくわからなかった。フランス語に翻訳できないわけではないが、どうも使い方が違う。たとえば、日本語を勉強しはじめたのは、また、京都に住みはじめたのは「縁があったからだ」と言えば、ほとんどの日本人が納得してくれる。確かに、これほど便利な言葉はない。この一言で最初に取り上げたような質問すべてに答えられる。しかし、「縁」という一文字で相手に何が伝わるのだろう。説明でもなんでもないのに、なぜ日本人は納得してくれるのか、不思議でならなかった。』と書いている。
たしかに、日本人は偶然おこったことでもそれが運命的なことであったように、「縁」という言葉をよく使う。「家族に乾杯」というテレビ番組があるが、笑福亭鶴瓶もそこでの出会いをよく、縁だと言っている。ここ数日、宇宙戦艦ヤマトのリメイク版を見ているのだが、そこでも高次元生命体が地球人との接触を「縁」だという。宇宙人にも「縁」と語らせるほど日本人は「縁」という言葉が好きなようだ。

そんな中、日本語の授業で配られたテキストの中に、『「縁」という概念を理解するためには「縁側」をイメージすればよい』と書いてあった。『縁側が家の内と外をつなぐ空間であるのと同じように、縁は人と人、物事と物事をつなぐものである。』という文章を出発点として「縁」という言葉と「縁側」という言葉の持つ意味について考え始めたのである。
著者が「縁」と「縁側」という言葉の関連性についてどういった結論を得たかということは書かれていなかったけれども、ここから発展して日本の庭や日本文化について深く知るようになっていく。
こういうことを読んでいると、僕は相当日本人的ではないと思えてくる。他人との間にそれほど縁というものが存在しているとは思えない。その人に出会ったのは何かの必然であったとは真剣には思えないのだ。逆に、それはすれ違いでしかなく、自分の人生の流れとは関係ない人たちだと思いがちだ。だから深く付き合える人が少ないと言えるのかもしれない。宇宙人が「縁」というセリフを言うと、「何言ってんの?」とツッコミを入れたくなってしまうほうの人間なのである。
そう思いながらも、この人に出会えたことはきっと僕の人生の宝物に違いないと思うことは多々あるのだが・・。

縁側の歴史というのは意外と新しく、江戸時代から現れたそうだ。はじめて縁側という言葉が文献に現れるのは1690年ごろにまとめられた「南方録」という書物からだと言われている。
縁側というのは、座敷に対して夏の強い日差しが入るのを防ぐため、そして、冬の斜めからやってくる日差しを効率よく取り入れるために昔から日本家屋には必ずあったスペースだと思っていたが、それは庇の役目であり別に縁側はあってもなくてもよかったものらしい。

日本庭園については、ヨーロッパとの庭の認識の違いと、近世から現代の京都の日本庭園に大きな影響を与えた3名の庭師について書いている。
英語で庭を意味する「ガーデン」であるが、これには安全を確保する場所という意味がある。常に外国からの侵略の危機を抱えていたヨーロッパでは、自分の家を外敵から守る緩衝地帯としての意味合いがあったというのだ。そういえば、「ガード」という言葉と発音がよく似ている。スペルはちょっと違うが・・。
また、宗教的な意味合いでは、ヨーロッパでは旧約聖書に出てくるエデンの園やギリシャ神話に出てくる庭園、日本でも儀式や場や神が降りてくる斎庭(ゆにわ)としての庭園など、清浄な場所というように聖域としての意味合いを持っている。
しかし、大きな違いは、ヨーロッパの庭は、神が女神や人間のために作ったところであるのに対して、日本の庭は神を迎えるための人間がつくったところであるというニュアンスの違いがあるそうだ。そして、ヨーロッパの庭というのは、果実を得るという実用的な場所、日本でいえば果樹園のような場所もガーデンとひとくくりにされる。日本ではそれを「庭」「園」としてはっきり区別しているというところも大きな違いであると説明されている。

3名の庭師にとは、江戸初期の小堀遠州、明治に近代庭園の先覚者であった七代目小川治兵衛、昭和の時代に活躍した重森三玲という人たちである。
小堀遠州は大名であり、徳川幕府の作事奉行として当時の有力者のためにお城や宮殿、お寺の庭園を設計した。植治と呼ばれた小川治兵衛は、職人として、山県有朋など明治初期の政治家や実業家の別荘や邸宅の庭を造った。重森三玲は全国の歴史的な庭園を調査、研究し、そのうえで古い習わしやしきたりにとらわれないモダンな庭園をデザインしたひとだそうだ。
著者は特に重森重森三玲というひとに思い入れがあるようで、たくさんの写真が掲載されている。確かに印象に残るデザインで、先に書いた「美の壺」で紹介されていた庭だとすぐにわかった。
庭を造る時には、それをデザインする人、石や植木を運んできて据える人がいる。歴史の中に名前の残る人というのはデザインや監修をする人のようで、実働部隊の人たちというのはまず名前が残らない。それにはこんな理由があったそうだ。
石や樹木というのは日本では神が宿るものと考えられてきた。そういったものの扱いを誤ると祟りがあるというので身分の高い人は手に触れることを嫌い、そういった作業は身分の低い人たちや差別を受けている人たちの仕事であったからだということだ。
宝石の採掘もそうだが、綺麗なものの陰にはひどい世界が隠されているものなのである。

この本には日本人でも知らないことがたくさん書かれている。しかもこれは日本語で書かれた原稿だそうだ。それがなんだか恥ずかしくなる。


ウチの家は、昭和の50年代に建てられたものだ。一応、庭があって、それの手入れに手を焼いているというのは何度かこのブログに書いた通りだ。
縁側もあるのだが、これも記憶のあるかぎり、縁側らしく使われたことがない。著者が書いている通り、家の内と外をつなぐ空間であるはずのものだが、母親が無造作に置いているプランターに分断されそこを行ったり来たりすることができない。また、ガラスのサッシが入っているので全開にしても間口が1間も開かない。縁側に座って誰かとお茶を飲むというようなサザエさんに出てきそうなシーンを実行しようにもこの家が建てられた時点で不可能であったのだ。
今ではワカメを干すかトウガラシを干すか獅子柚子を干すときに使うだけで、あとはずっと物置がわりとして使われているだけだ。
当時は、家というと、和室に床の間があり、その横には縁側があってその向こうには小さくても庭が見えるというのはごく普通で、父親も何の疑いもなくそんな家を建てたのだがそれを見ることによって少しでも安らぎがあったのだろうかと疑問に思う。しかし、現代の高気密高断熱住宅というのもあれはあれで味気ない。ウチの団地でも世代交代が進み、周りはどんどんそんな家に建て替わっているけれども、敷地は全部コンクリートで固められ、緑はというと、申し合わせたように1本だけ木が植わっているだけだ。窓も小さく、土の見えない家というのは息苦しくないのだろうかと思ってしまう。かと言って、なまじ植木などを植えておくと年に2回は刈ってやらないとえらいことになってしまうし、どちらにしてもやっかいだ。
ここにも自然との闘いがあったりするのだが、もう、シーシュポスの岩のようなもので、なんとかならないものだろうかといつも思っているのである。
僕の家の庭はワカメを干すスペースとして更地にしておくというのが一番有効的なのだ・・。せっかく日本庭園の魅力について書かれた本を読みながら、小さな家ほど日本庭園は無駄であるという結論に達したのである。

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「チェレンコフの眠り」読了

2022年03月22日 | 2022読書
一條次郎 「チェレンコフの眠り」読了

なんとも不思議な本だ。新聞の新刊書の広告に載っていたのだが、タイトルが面白いので読んでみた。

ざっとあらすじを書いてみると、表紙にも描かれているヒョウアザラシの「ヒョー」が主人公だ。
原発事故の放射線の影響と、プラスチックゴミによる海洋汚染が極端に進んでしまった街が舞台で、主人公のヒョーは、その街を牛耳るマフィアのボスに飼われている。
そのボスの名前がシベリアーリョ・ヘヘヘノヴィチ・チェレンコフという名前なのである。

突然、チェレンコフの屋敷に警官隊が乱入し、チェレンコフとその手下たちは全員殺される。チェレンコフの機転によってテーブルの下に逃れたヒョーはただひとり(一匹)生き残る。
そこから奇妙で不条理なヒヨーの生きるための冒険が始まるのである。
チェレンコフが贔屓にしていたレストラン、怪しい音楽プロデューサー、この街を経済面で牛耳る老婆、そこではく製にされてしまったネコ科の豹の「ヒョー」、そういった面々が登場する。
何の特技もなく、アザラシなのに泳ぐこともできないヒョーはこういった面々に時には助けられ、時には騙され、時には危険にさらされながらも生き延びようとする。そしてチェレンコフの亡霊もときに彼を励ますのである。

ファンタジーのようでもあるが、異常に環境汚染が進んだ世界や、言葉をしゃべるアンモナイト、三葉虫の登場、もちろんアザラシも言葉をしゃべるという世界はちょっと普通ではないし、デストピア的な環境はファンタジーに似合わない。一体この物語を通して著者はいったい何を表現したいのかということがよくわからないというのは純文学的でもあるが動物がしゃべるという段階で純文学ではなさそうだ。そういう意味では著者が独自で持っている世界観なのかもしれない。ほかの著書を調べてみたが、やはり同じく言葉をしゃべる動物が不条理な世界を生きるという世界を描いているようだ。

それでもこの作品を通して著者が語りたかったことを想像すると、この舞台、放射能に汚染された街というのはあきらかに福島の原発周辺を連想させている。チェレンコフという言葉自体も原子力発電所の燃料棒を入れたプールから発せられる光を連想する。また、海面を覆いつくすプラスチックゴミは昨今の環境問題からのヒントであろう。
『野生動物の最大の死因は人間だ。経済活動ってやつのおかげで地球はぼろぼろなのさ。地球に蔓延してる人間もだ。天災のほとんどは人災だしな。自分で自分の首を絞めて金儲けしてるんだな。そのうち金持ちだけで火星にでもひっこすんじゃないのか。ほんきでそうかんがんがえてそうで洒落にもならんが。この世界に人間なんて産み落としたのが運のつきだったな。』
この1節が、もう、どうにもならない地球環境とそれを引き起こした人間のエゴを憂いているように見える。きっとその他の作品もこの1節がベースになっているので主人公が言葉をしゃべる動物となっているのだろう。
そんな世界で、チェレンコフは魂だけになりながらも、この世に残してきたペットのことを案じているのだ。
ここまでのことを合わせて考えると、あの地震と津波で亡くなった人たちの魂は生き残った人たちの身の安全を今でも気にかけ続けている。しかし、この世はどんどん住みづらい環境に向かい、それでもしたたかに生きてくれと願うのだ。
というようなことだろうか・・。

まあ、じつはもっと奥深い意味が隠されているには違いないけれども、僕はそこまで解析できないでいる・・。


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山田昌弘 「世界ナンバー2列伝」読了

2022年03月21日 | 2022読書

新聞の別冊で、世界の指導者の下に仕えたナンバー2とはどのような存在だったのかという特集が組まれていて、これは面白そうな題材だと思い、この本を借りてみた。

この本も前回の本と同様、登場人物が誰だかまったくわからない。もともと、高校時代の世界史の成績が赤点だったくらいだからそういうものにまったく興味がなく、それに加えて歴史の教科書に出てくる人というのは当然ナンバー1の人たちなのだからナンバー2の人なんていうのは知らなくて当たり前だ。『チュラロンコーン大王のチャクリ改革を支えたダムロン』って誰よ?ということになる・・。

世界の政治の中で、ナンバー2と言われる人が存在した時代というのは、いわゆる帝国主義が主流だった時代だ。君主なり王様なりがこの人間を自分の側近として横に置いて補佐させようと独断で決めるような性格のものであった。
選挙で選ばれる議会制度の世界では補佐役としてのナンバー2というよりも役職として存在するナンバー2というかたちになる。なので、現在のナンバー2というと会社組織やその他もろもろの法人の中に存在するという感じだろうか。
役職ではなく、君主からの厚い信頼を得ているのだからその権限も巨大になり、他のものから恨まれたり妬まれたりすることになる。
しかし、たいていの場合、固い信頼関係で結ばれていたとしても、やがて関係は冷え込んでいくというのがその流れであったらしい。君主が補佐役に殺意を抱くことさえ珍しくなかったというのである。
この本に登場する人物たちもことごとく追放されたり処刑されたりという不幸な運命となるのである。

ときに、ナンバー2はナンバー1よりも知略に富み、実行力、人望も高かったりする。しかし、それでもナンバー1にはなれない。それは、唯一、カリスマ性というものが欠落しているからだ。『人の上に立つ正当性や社会的承認は容易に手に入るものではなく、正当性を持つものと持たざるものの間には絶望的なほどの格差が存在しているのである。結局、補佐役という存在は、たとえ有能であっても、持つ者と持たざる者の間にある格差を飛び越える力がないために、補佐役になるしかない人間なのである。』と、著者はなんとも薄情な書き方をし、『補佐役の権勢は、同僚たちの嫉妬と足の引っ張り合いの中、上司の恩寵にぶら下がり、辛うじて維持されているに過ぎない。』と手厳しい。
だから、ナンバー2たちは悲惨な最後を遂げる場合が多くなる。

それは使命感なのか、自己実現の方法がそれしかなかったのか・・。出世欲のようなものがまったくない僕にとってはそこまでしてどうしてそうなる運命にもかかわらずナンバー2でいたいのかと思ってしまうのである。

これは国家や国家間の政治の舞台での話であるが、会社組織のなかのほうが、古い時代のナンバー2への抜擢方法を継承しているようにも思える。選挙でえらばれるのでもなく、社長や会長の気に入った人物が選ばれるというのはいかにも帝国主義的だ。
自分の会社の中を見てみると、専務という役職のひとがおそらくナンバー2と言われる人だろう。今の社長が上司であった頃、この専務(当時はヒラの取締役くらいであっと思うが。)のことを、「俺、あいつのこと、大嫌いや。」と言ったことを鮮明に覚えている。
だから、ウチの会社の場合、ひょっとしたら、ナンバー2というのはナンバー1のマウンティングのためだけに存在しているのではないかと思ったりするのである。だから配当もできないほど業績しか残らないのだろうと納得してしまうのだ。ぼくはこの専務の方がはるかに人格者であると思っているが・・。

社長が持ち込んできた目玉の収益策はフランチャイズ事業なのだが、聞くところによるとこれも実態としてはまったく利益を出していないらしい。利益どころか損失が出ているので人件費の抑制策として僕みたいなヨレヨレ人間がコンビニの店員にさせられたというのが去年のことである。社長の手柄としてはこの事業をセグメントとして本業から分離させたいところらしいが、そうすると損失が出ていることがばれてしまうので利益の出ている事業にくっ付けておかないとまずいらしい。鳴り物入りで始めた某DIYブランドはすでにその頃からブランドとしての価値を失い始めているらしく、去年、直営店でさえ大幅な閉店を余儀なくされた。心斎橋にあった巨大な店舗もすでに閉店していたということを知って僕も驚いた。そんな高い買い物をしても誰も責任を取らないというのがこの会社の素晴らしいところだ。
もう少し下の階層にいって、今の職場のナンバー2はどうだろう。軍隊でいえば一個中隊くらいのレベルになると思うのだが、この組織は面白い。普通、職階で言えば、課長が中隊長ならナンバー2は係長となるのだろうが、傍観者の僕が見ているとどうもナンバー2らしき人物はヒラ社員のようなのだ。ときたま、「係長にこの仕事やらしたろ。」といっているところをみると係長の業務をヒラ社員が決めているということになる。それで、係長はどうしているかというと、なんだかフラフラしていてそんなことどうでもいいやという超然とした態度でそれに従順に従っている。それを見ている中隊長もどうもそれでよいと思っているらしく、何も言わない。しかし、このナンバー2、電子メールを送信できないというポンコツだ。一度、理由を聞いたことがあるのだが、間違って送るとまずいのでメールは送らないことにしているという。送らないようにしているとは言っているが、送り方を知らないというのが本当のところだと思う。何かトラウマでもあるのかもしれないが、よくぞ今まで生き残ることができたものだ。まあ、サイバーセキュリティー担当大臣がUSBという言葉を知らないという国だから、メールを送れないからといってイコール仕事ができないというわけではないだろうが・・。ナンバー3か4がそんな重責(というほどでもないが・・)を担って成功するのは映画か小説の世界のみだ。
それに加えて、ホメイニ師のように役職がないのになぜか中隊長に指示を出しているというような女帝までいるのだから収拾がつかない。ここはナンバー2の論理さえも通用しないまさにカオスの世界だ。

そんなことは放っておいて、ふつう、ナンバー2というのは、意気盛んで暴走気味なナンバー1のブレーキ役として働くという一面を持っていると思うのだが、我が社には、「もう、撤退しましょうよ・・。」と言えるナンバー2が存在していないらしい。なんといってもナンバー2は、「大嫌いだ」と言われている人なのだからそこには信頼関係はまったく存在しないといっても言い過ぎではないだろう。少なくとも、ナンバー1はナンバー2を信頼どころか、今でも見下しているのにちがいない。会社は戦場ではないので、とりあえず給料はもらえるし、精神を損なっても命を失うことは絶対にないのだから、おかしな奴とは付き合わない方がいいと思うのが人情だろう。(僕はつい、そう思ってしまう・・。専務はもっと会社のことを憂いているとは思っているのだが・・。)
しかし、その末路はどうだろう。僕が知る限りの歴史の中では豊臣秀吉を思い出す。秀長、利休を失なった後、無謀な朝鮮出兵をおこない関ヶ原に突入してゆく。独裁が極まると誰もが保身に走り、彼の耳に心地よいことしか言わなくなってしまうそうだ。菅総理も同じようなことを言われていた。総理に上がってくる情報にはネガティブな情報はなかったという。もう、ブレーキが効かなくなった暴走列車というような状態になってしまっていたということだろう。
このふたつの事例ではどちらも歴史からの退場を余儀なくされた。おそらくそうやって消えていった国家や会社というのは無数にあったに違いない。

そんなことを思うと、ナンバー2は悲惨な最後を遂げる運命であるが、それは命を賭して平和を維持してきたという尊い立場の人たちではなかったのかと思い至るのである。

この本には、紀元前から近代まで、世界中のナンバー2が紹介されているけれども、その活躍した現場というのはほとんどが戦争だ。そうなると、人類が歴史を記し始めてから現在まで、世界ではずっとどこかでいつも戦争がおこなわれていたと言ってもいいのかもしれない。第2次世界大戦が終わり、ベトナム戦争を経た後は、アフリカやアラブではいくつかの紛争が起こっているがそれでも世界は概ね平和だと言われてきた。しかし、それは、世界の歴史の中では異例のつかの間のひと時であったのかもしれない。ウクライナの戦争はそうしたつかの間のひと時を破壊するような行為なのだ。プーチンには有能なナンバー2はいなかったのだろうか?彼の取り巻きたちも彼の耳に心地よいことしか言わなかったと言われているが、どうして彼は、そのつかの間のひとときを次の世代に引き継ごうとしなかったのだろうか。
世界の平和というのは、そういう、つかの間のひと時を繋いでいくしか維持できないのだということをナンバー2もナンバー1も心に留めておかねばならないのではなかったかと思うのである。
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タラノメ採り

2022年03月18日 | Weblog
今年もタラノメ採りの基準日がやってきた。
この前の調査のときの様子だとまだ早いかもしれないが今日は1日雨模様なので釣りに行けず、雨が降る前に様子見がてらに出かけてみた。しかし、常に監視をしておかないと、タラノメというのはすぐに大きくなってしまうので油断はできないのだ。

午前7時には雨が降ってくるという予報なので午前6時5分の日の出時間と雲量を考え、タラノメを認識できる明るさはやはり日の出時刻あたりからだろうと考え家を出る。帰宅するまで1時間、その間だけ雨が降らなければそれでいい。

今日は第2ポイントを見に行く。思ったよりも明るくなっていないが藪の中に突入。入り口にある芽はやはり小さい。去年からはコンペティターが現れたようなので放っておくと先に盗られてしまうかもしれないがもったいないので残しておいて先に進む。
メインの場所はやはりまだほぼすべての芽は小さすぎる。なんとか口にできそうな芽だけをふたつ採って終了。



しかし、ふたつだけだとまったくおかずにもならない。西の方の雲の様子をにらみながら紀ノ川筋のポイントを目指す決断をする。ここはポイント名に番号を付けていないのだが、ここ数年で意外とたくさんのポイントを見つけたのでここが何番目に見つけたポイントだったかということがわからなくなってしまっているからなのだ。
途中、港に寄り、前回の休みに取り替えたスタンチューブの水漏れがないかをチェック。水漏れはないが、また嫌なことを見つけてしまった。右舷の燃料タンクのゲージがおかしい。透明なパイプの中の油面が見えないのだ。ゲージよりも油面が高くなるほどの給油をしてはいないはずで、そうなってくると、燃料漏れで空になっているか、前々回に給油したまま、パイプ詰が詰まってでエンジンまで燃料が行っていないのかもしれない。大量に燃料が漏れているのなら臭いがひどくなるのでそれはないと思うが、もともと、どうもタンクから燃料が滲みだしている気配があるので、早晩大規模な修理が必要なのかもしれない。



なんとも厄介だ。次回の釣行で具合を確かめてみよう。

そして、紀ノ川筋のポイントでまったく採れなかった時のことを考慮して、「わかやま〇しぇ」へ。この時点でまだ午前7時になっていないのでお店は開いている。



社長が「今日も釣りか?」と聞くので、「今日はタラノメです。」と小さいのを見せる。「まだまだ小さくておかずにならないのでコロッケ買いにきました。」と説明。
僕も、こういうこともあろうかとクーラーボックスを持参してきているというのはなかなか用意周到だ。

お店を出る頃はまだ雨は降っていなかったが、ポイントに到着した頃にはいよいよポツポツし始めた。これは急がねばと藪に入っていくと、こっちもちいさい。ひとつだけよさそうなのを高枝切り鋏で切り取ろうとすると、あれまあ、壊れている・・。鋏を開閉するグリップがシャフトから外れてしまっているのだ。第2ポイントにいた時には何も異常がなかったのでここに来るまでにネジが取れてしまったようだ。まったく役に立たなくなったので無理やり藪の中に突入して折り採る。

去年新たに見つけた木の方に行くと、こっちはひとつだけかなり大きくなっていた。なんだかこの木だけ異常に成長が早いようだ。



この頃になると雨は本降りになってきた。その他の木をざっと見まわしてぎりぎり食べられそうなものをいくつかとって今日は終了。



帰り道、高枝切り鋏の修理をするためにコ〇ーナンプロへ。ネジの直径がわからないので本体ごと店内に持ち込んだのだが、早朝からこんな長物をもって店内をウロウロする初老の男、それも雨で半分濡れているというのはどう見てもテロリストにしか見えない。
結局、ここはネジではなく、リベットのようなもので止められていたらしく、自分でネジ山を切るしかなさそうだ。少し太い目のネジを買って帰る。
こんな早朝にこんな長物を持って7円の買い物しかしない初老の男はやっぱり死にぞこないのテロリストにしか見えないのである・・。


第2ポイントについてであるが、ここ数年で藪が刈り取られ、周りがどんどん明るくなってきている。タラノメというのは相当か弱い植物らしく、あまり露出してしまうと枯れてしまうようなのだ。かといってまったく日が当たらないとそもそも生えてくることはないのだから気難しい。すっかりはげ山状態になっている藪の端のほうの木はすでに枯れてしまっていた。去年は間違いなくこの木は生きていたはずだ。
僕が持っているポイントでは最大級の大きさを誇った場所ではあるが、おそらく数年で消えてしまう運命なのかもしれない。



「年年歳歳花相似たり」とはいうものの、人間が手を下すことで異常なスピードで環境を変えていってしまう現代では、この偈も意味を持たなくなってしまっているようだ。
「タラの芽一つ摘み取るは、坊主千人の首を斬るに等しい罪悪」という言葉があるというのは以前に紹介したけれども、自然破壊はやはり罪深い。まあ、放っておいてもタラノメの木というのはどんどん大きくなっていく森に呑み込まれ消えていく運命にあるのであるが・・。そのニッチで生きているのがタラノメなのだ。
あと、10年耐えてくれれば僕も体力の限界を迎えるのだから、それまでなんとか、1食分だけでも芽を残しておいてくれと願うばかりだ。
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ワカメ採り4回目

2022年03月15日 | Weblog
まずは近況・・。
3月12日にJRのダイヤが改正されたが、今回はかなり大幅な変更になっている。ニュースにもなっていたが、乗客の減少にともなって大幅な減便になってしまった。
僕が乗っている路線は、いわゆるアーバンネットワークという分類に入っているのでそんなに減便はないのだろうと思ったら、土、日のダイヤには快速電車がなくなってしまっていた。改正ではなく改悪としか思えない。



熊取までは各駅停車だ・・。おかげで土、日の出勤時間は13分ほど早くなってしまった。おまけに帰りは平日までもが途中から各駅停車になる車両しかない。
おまけに天王寺発ではなく環状線からの乗り入れなので座って帰れなくなってしまった。JRは熊取駅から南をアーバンネットワークから在来線に格下げをしてしまったかのようである。コロナ禍が乗客の減少を予想よりも早めたという社長のコメントがニュースで流れていたがあと2年待っていてくれれば・・。
もとは和歌山駅まで走っていた快速電車は日根野が終点になり、



その人たちはここから各駅停車に乗り換えるのでそれ以降は2編成分の乗客が1編成の電車に乗り込むことになる。なので車内もこの混雑だ。



年年歳歳人同じからず、こうやって変わっていくのは仕方がない。変わっていくといえば、いつもヌカを買っていた米屋さんが休業していた。張り紙には店主が急病で入院したと書かれていたが、個人経営のお米屋さんが無くなるとヌカの調達ができなくなる。このお米屋さんも、それまで買っていたお米屋さんが廃業してしまったので、このブログにコメントを寄せてくれるちからさんに教えてもらったお店だ。もう、町のお米屋さんなんて減りはすれども増えることはないので僕の紀州釣りのキャリアも体力の限界ではなく、ヌカが手に入らなくなってしまって終えてしまうということになってしまいそうだ。
まあ、エサ屋でも手に入れることはできるのではあるけれども・・。
その後、図書館にいく途中にあるお米屋さんにダメ元で入ってみたら、無事に調達することができた。しかしながら、出てきてくれた女将さんはヌカの袋を持つこともおぼつかないほどヨレヨレだったので早晩この店も廃業ということになりそうだ。散髪屋さんもそうだが、僕の生活に欠かせないお店屋さんがどんどん消えてゆくのである・・。
とっさに思い付き、バイクに積んでいたワカメをおすそ分けしてしまった。いきなりヌカが欲しいと言ってワカメを置いていく初老の男は相当怪しいと思われたに違いない・・。ずっとヌカを買っていた紀三井寺の米屋は、「うちはヌカを売ってるんじゃない。」といつも嫌味を言われていたので、ヌカだけ売ってくれるお店は貴重なのだ。

船の燃料も入れたのだが、燃料代の高騰もいまだ頂点を見ていないようだ。先週からまた値上がりしている。とうとう2200円の大台を突破してしまった。いったいどこまで値上がりするのだろう。



燃料代が上がってしまったので釣りに行かないというわけではないが、今日は午前中に病院に行かねばならないので釣りは無理だ。病院に行く時間までに給油と、限界に近付いているスタンチューブの交換をやっておこうと港に向かった。病院へは午前11時までに到着すればよいので、余るであろう時間でタラノメの様子を見に行って、スタンチューブに交換を終えてから焚き火の練習をするか、風の様子を見てワカメを採りに行くか、どちらかをやろうという予定を組んだ。
まずは第2ポイントに向かいタラノメの様子を見る。例年の基準日には3日早いのでやはり芽はかなり小さい。しかし、少しだけ緑色の部分が見えている。この分ではあと3日もすれば食べ頃の芽も出てくるかもしれない。



今日はそっとしておいてそのまま港に向かった。
軽油を買って、焚き付け用の枯れ葉を取り港に向かう。
スタンチューブの様子だが、いっときは停泊中でもダダ洩れで、前回の釣行時も一文字の切れ目にたどり着いたころにはダダ洩れになってしまっており、今日も相当漏れているのだろうと覚悟していたけれども今日はまったく漏れていない。どういう原理で漏れたり止まったりするのだろうか・・。まったくわからない。締め代はもう少しあるけれども、今日は絶対に交換する。
5本入れているスタンチューブのうち、とりあえず中心部分の2本を取り替えようと3本目まで抜いた時、海水がどんどん漏れてきた。できれば1本だけ残して奥から2本目と3本目を交換したかがったこれはまずい。出てくる海水に向かってスタンチューブをあてがい溝に突っ込んでいく。それでも漏れは収まらないので急いで2本目を入れる。ここらくらいでやっと漏れは止まってくれた。あとは落ち着いて状態のよさそうな古いスタンチューブを入れて完了。
プロのメカニックの人は船が浮いたままで全部を取り替えるそうだが、いったいどうやって交換するのだろう?今日の漏れ出てきた分でも3リットルはありそうだ。もうちょっとでアカ受けがいっぱいになりそうだったのでもっと時間がかかればエンジンの下部が海水に漬かってしまうということにもなりかねない。前回の上架のときに不精をして交換しなかったのでこんなことになっているのだが、次回からは疲れていてもきちんと交換しなければならないと反省した。

スタンチューブの交換を終えて、焚き火をしようか、それともワカメを採りに行こうかと考えているうちに雲の間から日差しが出てきた。そのせいか、なんとなく風も治まってきたようだ。潮はまだ高いがこれなら行けそうだ。佃煮用に採って来いと言われているだけなので港に戻るまで30分だけ穏やかであればそれでいい。
急いでエンジンをかけて出港。少し風は強いが北風なので一番いいポイントの南側に入れる。15分ほどグリグリやって佃煮には十分過ぎる量を採って港に戻る。



ワカメの品質についてであるが、採ったワカメをデッキに盛り上げていると、茶色い汁が出るときと出ないときがある。最初、あの汁は細胞が壊れて中のものが出てきているのだと思っていて、成長が進みすぎるとそうなるのだと思っていた。だから、汁の出ないワカメはよいワカメだとずっと解釈していた。しかし、今年のワカメだと、前回に採ったワカメはものすごい量の汁が出てきたが、今回のワカメはまったく出ていなかった。それは成長するにつれて汁が出るようになるという僕の考えからは逸脱している。
その匂いを思い出すと、明らかに前回のワカメのほうが匂った。ワカメと昆布の成分を比較すると、持っている旨味成分はほとんど変わらないそうだ。



じゃあ、ワカメで出汁を取らないのは何故だろうかという疑問は残るものの、確かにその匂いはコブ出汁の匂いそのものだ。それが、汁の出ないワカメだと匂いが少ない。と、いうことは、汁の出るワカメのほうが旨味成分をたくさん持っていることになるのかもしれない。確かに前回のワカメで作ってもらった味噌汁は相当美味かったのは確かだ。だから、今までの考えは間違っていて、汁を出すワカメほど美味しいのではないかと考えられる。
そうなってくると、次に、汁を出すワカメと出さないワカメはどう違うのかという疑問が残る。
今回採った場所と前回採った場所は距離で10メートルも離れていない。遺伝的な違いからくる個体差があるにしても、これだけの距離感だと去年の同じ株から飛んだ胞子から生まれた兄弟ワカメであるとしか思えない。場所によって汁を出すか出さないかは決まらないと考えるべきだ。
では、汁を出す日と出さない日があるのだろうか?前回は小潮の廻りだったが今日は中潮だ。それも大潮に向かっていく中潮である。
ここで仮説としては、潮の大きい日はワカメも潮に揺られて疲れているので汁が出ないが、潮の緩い日はリラックスしていて旨味のある汁を出すのだということが考えられないだろうか。それが細胞の中にも充満していて美味しいワカメになる。と、いうのが僕の考えた理論だ。人も動物も植物も月の動きに従って生きているというではないか。リラックスすると旨味が出るのかどうかは怪しいが・・。
普通、潮のよく引く大潮の日はワカメ採りにはよい日だと言われているが、実は、うまいワカメは小潮の日に採れるのかもしれない。
来年はそこのところを意識して採り比べてみたいと思う。

気温はどんどん上がり、ポカポカ陽気になってきた。港のそばにある河津桜も満開になっていて、カメラを持った人たちも見に来ている。僕もブログ用に撮影。

 

桜の木の幹を見てみると、誰が名付けたか、「大漁桜」と名札が掛かっている。



なかなか縁起のいい名前だ。

港を後にして、図書館へ行き、最初に書いたとおりに紀州釣り用のヌカを探してから帰宅し、病院へ向かった。
まん延防止措置が解除されてから、やたらと人が多くなった。



時は過ぎて事態はどんどん変わってゆくのである・・。

コメント
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