イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2021年01月31日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮 8:26満潮
潮流:5:30転流 9:28 上り3.0ノット最強 13:03転流
釣果:サバ6匹 マアジ12匹

昨日は強風が吹いていたので今日は加太もたくさんの船が出ているとは思ったが僕も長らく加太に行っていないので混雑を承知で出撃した。今日の潮流では釣れ始めは遅いのかもしれないがそんな時間を待ちきれずに夜明け前に出撃した。
港の前のボートパークからも紀ノ川方面からもきら星のごとく船が出ていく。もう、これは大変だという感じだ。



まずは大和堆ポイントからスタート。僕の出撃が早すぎたのかあまり船の姿が見えない。



さっそく仕掛けを降ろすがアタリがない。午前7時半ごろに到着しているのでまだそれほど潮は早くないはずだから期待はしていたが残念だ。
さて、これからどうしようかと考えていると四国沖ポイントに船団ができていた。ここからはそれほど距離はないので早速移動。



そのタイミングでビニールをピンクとオレンジからすべてグリーンに変更していた。
それが奏功したのか船団の近くまで来た時に魚探に反応があったのですぐに仕掛けを降ろすと早速アタリが出た。
かなり引く。やり取りをしている間に船団に飲み込まれてしまったので周りの船が気になる。しかし、なぜだか帝国軍の艦船は見当たらないので少しは気が楽で、僕の印象だが同盟軍の人たちはお互いに周りには注意を払っているような気がする。僕も少し心を落ち着けて仕掛けが引っぱられていく方向に舳先を向けながらやり取りを続ける。上がってきたサバは4匹。それもかなり大きい。よく引くはずだ。
すべてタモに取り込んだがこれで仕掛けが絡んでしまってオシャカになると思ったが、一番下についた魚から順番に外してゆくとうまくさばけた。これはうれしい。
そのすぐ後にまたアタリがあったがこれはすぐにバレてしまった。そしてその後はまったくアタリがない。さて、これからどうしようかと考えていると、今度は銅板ポイントに船団ができている。今日はもともと大和堆ポイントから銅板ポイントにいどうしてつりをしようというプランを立てていたのですぐに移動。この時点で今度はオレンジのサビキ仕掛けに変更していた。
そしてまたこれが奏功したのかすぐにアタリ。
マアジが2匹だった。

Kさんが電話をくれ、もう少し南に下るほうがいいですよというアドヴァイスをくれた。僕も移動。それからはコンスタントにアジが掛かる。アジは底べったりに付いているという感じだ。錘が底に当たっている感覚を維持しているとアタリが出る。時には中層に反応が出るので仕掛けをその場所に合わすとサバが釣れた。
午前11時半、アタリはまだまだ続きそうだが、まあ、これだけ魚があれば十分だ。家に帰って捌く時間を考えたらこれくらいが引き時だと終了した。

今回はハマチがまったく当たらなかったが同じ時刻にそんなに離れていない場所で釣っていたTさんはアジがなくてハマチが爆釣だったそうだ。仕掛けが違うのかわずかな場所もこれだけ魚が異なるのか、なかなか難しい。

釣ったアジはトンカツサイズのアジフライにしてもらった。これは美味しい。次はいつ食べられるだろうか・・。



前回の釣行で椅子が壊れた。これの前に買った椅子は7、8年はもったと思うがこの椅子はまだ2年ほどしかたっていない。座面が割れただけなので竹を使って補修してみた。しかし、竹の強度というのは結構なものだ。僕が座ってもびくともしない。少し座面が高くなったので違和感があるがもう少し経てばそれにも慣れるだろう。買っても1500円ほどの椅子なのでそこまでやらなくてもと思うのだが、こういうのは性分だ。貧乏性は治らない。

 

そしてそういう貧乏性はいつでもどこでも人から追い越され置いてきぼりにされるのだ・・。


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「3年7組食物調理科」読了

2021年01月29日 | 2021読書
須藤靖貴 「3年7組食物調理科」読了

多分アマゾンのリコメンド機能で見たタイトルだったと思うが、面白そうなタイトルだったので借りてみた。人気があるのかどうかわからないけれども貸出中だったのでどんなジャンルの本かもわからないまま予約の順番がまわってきた。

よく食に関するものを検索するのでこんなタイトルの本が表示されるのだろうか、先日も、イカの天ぷらを揚げるときに油が飛び跳ねるので何かいいものはないかと探していると天ぷら鍋にかぶせるネットというものを見つけた。



せっかく買ったけれどもそろそろイカのシーズンは終わってしまうので1年間寝かせることになるのだが、こんなものばかり見ているからこういうタイトルの本が表示されるのだろう。

以前に、カレー作りを食材の栽培や飼育から始めるという本を読んだことがあったのでその類の内容かと思ったがまったく違って小説だった。それも多分大人が読むというよりも、中学生、高校生が読むような本だろうと思う。NHKの、「中学生日記」という感じだろうか。

食料調理科という学科を持った高校は本当にあるらしく、そういえば、滋賀県か三重県にある高校が実習で営業しているレストランは安くてものすごく美味しいのだということを紹介していたニュース番組があったことを思い出した。

この小説は総合技術高校の食物調理科30名のクラスが舞台になっている。将来の職業に向かって一途に取り組む姿にこっちが恥じ入りながら読むことになるのである。青春時代はあまりにもまぶしすぎる。
そして、何でも100点満点を目指して取り組むという言葉にはタジタジとなるのだ。

このクラス30名は、科が1クラスしかないので3年間全員が同じクラスで過ごす。クラスのルールはすべてのことは全員一致でなければ決めないというものだ。対立する意見は全員で話し合ってひとつの結論を導いてゆく。
なかなか理想的な民主主義だけれどもこういうことは今の政治家の方々に見習っていただきたい。

今年も通常国会が始まっていろいろな論戦が戦わされているけれども、いつも思うのが野党の皆さまの論調だ。彼らは政府に反対するのが仕事だからなにもかもに反対するのだろうけれども、聞いていると、「どうするんですか!」としか言っていないように思う。コロナ対策がこの国会の大きな議題なのだが、それに対してもGotoの予算を医療に振り向けろと言うだけで、じゃあ、具体的にどこにいくらを振り向けてそれに対する効果の予測は与党の案とはこれだけ違うのだと言うような具体的な話がまったく出てこないような感じがする。
レンポーさんに至っては「ことばが伝わらないし、国民に危機感が伝わらない。総理大臣としての自覚や責任感を、ことばで伝えようとする思いがあるのか。」というのは一体自分が何様だと思って言っているんだろうかと思う。このクラスでは『反論には必ず具体案を考える』ということが決まりになっているが、レンポーさんには具体案があるのだろうか。
この人たちも東北の震災を目の前にして何もできなかった人たちではなかったかと言いたくなる。
まあ、党としては対案というものを作っているのだろうけれども、そういったものがあまり表に出てこないような気がする。少なくとも僕は知らない。ということは普通にニュースを見ていてもなかなか目にすることができないほど一般には知られていないのではないかと思うのだ。これだけ無茶苦茶言えるのならすべての国民が簡単にわかるようにワイドショーにでも出て説明すればいいのにといつも思うのだ。
レンポーさんもキャラでやっているところがあるのかもしれないが、人を挑発しているだけでは観衆にバカにされるということがわからないのだろうか。
スガさんが、「少し失礼ではないか。精いっぱい取り組んでいる」とじっと我慢をしながら反論している姿の方がまっとうに見える。スガさんもいっそのこと、「じゃあ、どうしましょう?」って言ってやればいいのにと思う、タムラさんもニシムラさんも同じように、「あなたたちならどうしますか?」と逆に問うてみたらどうだろうか。
多分相手は何も答えられずにタジタジとさせることができるのではないだろか。僕もクレーマーと対峙していたころはよくそういう手を使った。相手にこう聞くのだ。「ドウサセテイタダイタライイデデョウカ?」もともと相手に何か要求をすると、強要や脅迫となるのだが、そういうことを抜きにしても、ただ相手を困らせて楽しんでいるだけの相手は何もいう言葉を用意していないことが多かった。対案がないのだ。

自由が第一で個人の権利が先だと思っているような国民が大多数では統制のとれた生活など求めることができないのは明白だし、目に見えないものを相手にこれが打開策だといって決定的な対策が打てるはずがない。そんなことができるのは映画か小説の中だけだ。国民すべてが公平で幸福であるためになんて言い始めたらそれは社会主義だ。それが嫌だから自由主義社会で生きているのだろう。
いっそのこと、スガさんも匙を投げてレンポーさんに総理になってもらってこの難局を乗り切ってもらったらいいのにと、清々しい青春小説を読みながらドロドロのようなことを思っていたのである。

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「読み解き古事記 神話篇 」読了

2021年01月28日 | 2021読書
三浦佑之 「読み解き古事記 神話篇 」読了

去年の今頃も古事記の本を読んでいたが、その本は言葉遣いが難しすぎて何が何だかわからなかった印象があって、やっぱり古事記の真髄を理解するのは難しすぎると思ったが、こんな本を見つけてまた読んでみた。
古事記の本当に重要な部分は神話の部分ではなく、歴代天皇を称えた歌の部分だということを読んだことがあるが、やはり面白いのはこの神話の部分だ。この本はその、古事記の中の上巻、神話の部分に特化して解説している。
しかし、古事記というのはどうしてこんなに興味を引くのだろうか。ある人の見解では古事記というものには日本人のルーツが書かれているのだということだ。やはりそういう郷愁めいたものと自分たちはどこからやってきてどこへ行くのかということは人生の中の最大関心事ということなのだろうか。こう書いている僕自身も神々の出自と役割には非常に興味を持っている。
この本はそういうところを詳しく書いている。僕も古事記に出てくる神々の系譜とそれぞれどんな神様なのかということをまとめてみようとしたことがあったが途中で挫折してしまった。それをこの本はきっちりと書き出してくれている。

古事記の神話は、スサノオ、オオクニヌシの冒険譚を含めたクロニクルのような意味合いもあるのだが、一見つながりのない物語やエピソードの数々もこんなところでつながっているのだという考察も勉強になる。まあ、古代の人々がどこまで深く考えて古事記を書いたのかというのは疑問の残るところだが・・。
スサノオ、オオクニヌシだけでなくイザナギの黄泉の国への往還というのもこれまでどれだけの物語のベースになったのだろうというほどプロットとしては魅力的だ。
地底にある死者の国に行く話や、高貴な出自の若者が試練を乗り越えながら冒険を繰り返すという物語は世界中にあるけれども、どうしてこんなに似ているのかと思うものがある。
ギリシャ神話のオルフェウスの物語なんかは、冥界で奥さんの姿を見てしまったので別れなければならなくなったというところまでイザナギの話とそっくりだ。これなんか、ギリシャの神話がなんらかの形で日本に伝わったとしか思えない。
ペルセウスや、オイディプス、モーゼなどの貴種流離譚というのもどこの国にもあるそうだからますます不思議になってくる。
人間の心の構造というのはどこの国でも同じで結局同じような物語を生み出すことになるのだろうか・・・。

古事記を大まかなパートに分けると、
①イザナギとイザナミ
②アマテラスとスサノオ
⓷出雲に下りたスサノオ
⓸オホナムジ(オオクニヌシ)の冒険
⑤オオクニヌシの国作り
⑥制圧されるオオクニヌシ
⑦地上に降り立つ天つ神
となる。
イザナギとイザナミのパートの前には天地開闢のパートがある。そのときに現れる三柱の神様についてはこの三柱を含めた五柱の神様たちはすぐに姿を消したということになっているので特に注意を払うことがなかったのだが、その中の高御産巣日神(タカミムスヒ)、神産巣日神(カムムスヒ)は、古事記のなかでいたるところに出てくると言うのは、ボ~っと読んでいる僕にとっては初耳だった。
とくにタカミムスヒは天の岩戸の場面や、国譲りの算段という重要な場面に登場するのだ。古事記のなかでは知恵袋として働いているらしい。(といっても知恵を出すのはその子供のオモヒカネだが。)
カムムスヒも、オオクニヌシが兄の神々にいじめられて殺されたとき、オオクニヌシの母親に懇願されて蘇生させるという重要な役回りをしている。(これも実際に蘇生させたのは貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)という家来なわけだが・・)スサノオのオホゲツヒメ殺しの場面でも登場するので生き死にの境目で何かの役割をしている感じだ。

もうひとりの神様、天之御中主神(アメノミナカヌシ)は本当にこの場面1回限りの神様だ。この神様はまあ、数合わせということらしい。古代の聖数観念では一対となる偶数がよいとされてきたが仏教思想が入ってくると奇数が貴ばれるようになる。お釈迦様も阿弥陀様も脇侍を従えて3体で立っているのは奇数が尊い数字だからだそうだ。そういうことからこの最初の部分は古事記の中ではかなり遅く成立したらしく、だから数合わせがなされたというのが著者の見解だ。
と、いうふうにかなり緻密に様々なことについて説明されていて、系譜についても体系的に作られているのがこの本だ。

イザナギとイザナミのパートでは「黄泉比良坂」に興味が行く。前に読んだ小説のタイトルの一部だが、古事記は一応最後まで読んだつもりになっていた(もちろん口語訳でだが・・)がこんな言葉が出てくるというのを覚えていなかった。
イザナギはイザナミの姿を見てしまったために逆にイザナミに恨まれて追っ手を差し向けられるのだが、あの手この手で追い払う。最後は「黄泉比良坂の坂本(坂のふもと)」に生えている桃を投げ、追手がそれを食べている間に生還する。さて、その黄泉比良坂は地上界に属するのかそれとも冥界に属するのかという考察をしている。一般的にはこの坂本という場所は地上界の一部という見解になっているそうだが、著者は冥界の一部であると主張する。確かに文章を読めば冥界の追手がやってくることができる場所のようなのでそこはまだ冥界のような感じがするが、追手が冥界だけじゃなくて地上界でも生きる機能をもっていたとすると地上界でもいいのではないかと思える。
著者は、権威のあるひとが言ったことを鵜呑みにしてはいけないと書いているのだがそこは微妙な感じがする。たしかに権威に逆らって自論を主張し続けるというのは格好いいけれども・・。
この前見た新海誠の古いアニメでは冥界の魑魅魍魎は日光が当たるところでは生きていけないという設定だったので、この坂本も昼間か夜かで地上界だったり冥界だったりするという考えで折り合いをつけるというのはどうだろうか・・。

アマテラスとスサノオのパートでは、もとは天照大神と月読命が月と太陽で一対の神になるはずが、オオクニヌシの国譲りの物語につなげていく必要があるため、月読命と入れ替えたのだということが説明されている。天照大神と月読命はそれぞれイザナギの左目、右目から生まれた。スサノオは鼻から生まれ、三柱合わせて尊い「三貴子」と呼ばれるが、スサノオと天照大神と月読命の出自の違いがわかるので少し無理をして物語をつなげているということがわかる。
伊勢に行くと、内宮のそばに別宮として大きな月読宮があるけれども、古事記の中ではこの場面だけに出てくるだけである。かわいそうに・・。
ちなみに、天照大神のように意味がすぐにわかる神様は比較的新しい神様と考えられているそうだ。

このパートではスサノオが大暴れする。これもオオクニヌシのパートにつなげるための伏線なのだが、このスサノオという神様は善人なのか悪人なのかがよくわからない神様だ。

出雲に下りたスサノオのパートでは、ヤマタノオロチ退治が中心になるけれども、その前にスサノオはオホゲツヒメを殺している。一見サブプロットに見えるけれどもそこにも必然性がある。オホゲツヒメを殺したあと、カムムスヒがその死体から生まれた種を持たせて出雲へ下すがの、これがクシナダヒメとの結婚につながる。クシナダとは、稲田を意味すると解釈した著者は稲田に種を蒔くということから、両社が結婚することで地上に豊穣をもたらすのだというのだ。
しかし、せっかくおもてなしをしてくれた神様を殺してしまうとはなんともと思う反面、困っている老夫婦を助けるためにヤマタノオロチと一戦交えようというのだから善人だか悪人だかわからない。

オオクニヌシの冒険と国作りの間、スサノオが何をしていたかは知らないが、オオクニヌシの妻になるスセリビメの父親として再び登場する。オオクニヌシ自身もスサノオの何代目かの子孫に当たるのでこの辺は親戚関係がややこしい。
ここでも婿殿をいじめる役割なのでやっぱり悪人だと思うけれども最後はスセリビメと一緒に逃げてゆくオオクニヌシにエールを送っているというところはやっぱり善人だ。それも言葉のニュアンスとしては、「がんばれよ!コノヤロー。」というのだからかっこいいではないか。
そして、スサノオが住んでいた国が根の堅州国というところなのだが、ここからオオクニヌシが逃げ出すルートの途中にふたたび黄泉平坂が出てくる。こういうことも読み流していると同じ場所が出てくるということわからないけれども、こうやって解説してもらえると神話世界のマップが浮かび上がってくる。

かたや、オオクニヌシはその後、天からやってきた神々に国を取られるのだが、一般的には国譲りということで禅譲されたように言われているが、よくよく読んでみたらこれも武力制圧を暗示しているという。
天の原の神々は三度目の神様の派遣でやっとオオクニヌシの国を手に入れるのだが、だんだんと武器が派手になってくるという。(こういうものは3回というのが物語の定石だそうだ。ほかにも3回同じようなことが試みられるというシーンが出てくる。)そんな中に、どうしても出雲を手に入れたいという高天原の神々の思いが見て取れる。その神々の末裔は大和政権を作った天皇家なのだが、どうして出雲だったのかというと、出雲のその強大な国力を欲したのかもしれないという著者の推理だ。
出雲の国は、日本海での交易を通して越後や諏訪といった地方とつながっていたという証拠が諏訪神社や高志(こし:越)という地名に残っている。そして何を交易していたかというと、ヒスイと黒曜石だったそうだ。ヒスイは装飾品というか儀式に使うため、黒曜石は道具として貴重である。また出雲大社の巨大な社殿を造ることができる土木技術も魅力的であった。
国譲りのシーンでは、オオクニヌシが、大きな社殿を造ってくれたらそこに祀られてじっとしていますというお話になっているのだが、著者の解釈ではその社殿はそのときすでに出雲の技術で作られていたに違いないという。
それらも含めて出雲の国を合法的に手に入れたと正当化するのが古事記の最終的な目的であるということになるというのが一般的な見解になっているが、著者はそこに滅びへの眼差しが濃厚に窺えるという。
こういう読みはかなり深いと思うのだ。
古事記のなかでは出雲が舞台になっている部分が全体の4割にもなるそうだ。古事記は天皇家が歴史上も正当にこの国を支配しているのだということを主張するための物語だが、その過程で強大な経済力と技術を持った出雲の征服にはかなり手こずっていたことを示すものではないかという証拠である。そして長々と記録に残すことによって征服した相手に多大な敬意が払われているのがこのパートなのだというのが著者の見解だ。確かに日本では敵対する相手を滅ぼしたあとに神として祀るというようなことがその後も続くが、そのルーツともいうべきものがこの時代からあったということだろうか。

いよいよ最後の地上に降り立ち天つ神のパートでは神武天皇の誕生までを描いている。
最初に地上に降り立った神様はニニギノミコトであるが、この人の本名はやたらと長い。本名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)というそうだ。ほぼすべてが神を称える言葉で本当の名前の部分は番(ホ)だけらしい。こういう表現が「寿限無」につながっていくのだろうかと思うといかに古事記が日本人の心の中に浸透しているのかということを思う。
地上に降りたニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと結婚して海彦、山彦を生む。そして山彦が天皇家の直系の祖先となっていくのだが、古事記の中で初めて没年齢が記されているのがこの山彦である。580歳で亡くなったと書かれている。これは神が人に近づいてゆくということを物語っているそうだ。
そして山彦の子供の子供、ニニギノミコトのひ孫がカムイヤマトイハレヒコ(神武天皇)へとつながってゆく。

ここでこの本は終わるのだが、中巻の神武東征、下巻の十六代天皇から推古天皇の時代までも同じような本を出版する予定があるそうだ。続きが楽しみだ。

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加太沖釣行

2021年01月22日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:長潮 5:26干潮
潮流:5:16転流 8:09下り 1.4ノット最強 11:02転流
釣果:ハマチ1匹 マアジ1匹

当初の予定では、今日は磯釣りに行こうと考えていたのだが、少し雨模様が気になったということと一昨日のボウスが悲しくてもう一度加太へ向かった。

天気予報は幸いにして少しずつよくなってきた。昨日の朝の予報では南風が強いということだったのでこれでは加太へも行けないのではないかと思ったが、夕方の予報ではそれも大したことはなくなってきた。雨の降りだしは相変わらず午前9時ごろのままなのでそれまでの勝負と考えている。潮流の時刻からしてもそんな感じだろう。

できるだけ釣りをする時間を稼ぎたいので夜明け前に出港。幸いにして今日は寒くない。



潮流を考えると今日はコイヅキがいいはずだ。ポイントに到着すると確かに帝国軍の船がたくさん集まっている。



船団から少し離れたところから僕も急いで仕掛けをセットし降ろしてゆく。今日の仕掛けはオレンジのサビキ仕掛けだ。船の向きが安定しないうちに仕掛けを下したのでかなり斜めに入っていくが錘で底を確認した直後にアタリ。幸先よく大きなアジが釣れた。ポイントに到着したときには魚探にはまったく魚の反応がなかったので今日も返り討ちに遭うだけかと思ったがひと安心だ。
そしてすぐに仕掛けが途中で止まるような大きなアタリが出た。今度はよく引く。けっこうな大物だ。鉤は少し大きいものを使っているが慎重にやり取りをする。上がってきたのはもう少しでメジロかというハマチだ。もう1匹掛かっていたのか、このハマチが掛かった鉤から下の仕掛けが無くなってしまっていた。残った2本の鉤も魚が掛かっていないほうは鉤が伸びていた。ということは最低でも3匹掛かっていたということか。すんでのところで何とか魚が取れたという感じだ。
この仕掛けはプロトタイプとして2セットしか作っていないので残りはひとつだ。大切に使わねば・・。
ハマチが釣れた50メートルから70メートルのラインを再び流すとまたアタリが出た。
今度も大きい。多分1匹掛かって暴れているところにまた魚が掛かったのだろう、やり取りをしている最中に引きが強くなってきた。なんとか耐えていたが途中で一気に軽くなってしまった。仕掛けを回収してみると、枝素が1本切れてしまっていてほかに2本の鉤が伸びてしまっていた。あのサイズのハマチが3匹掛かっていたらそれはよく引くはずだ。

最後のひとつの仕掛が損傷してしまったので曲がった鉤をペンチで直し、切れた鉤はひとつ目の仕掛けの残骸から移植して再スタート。
同じような場所を流しているとまたアタリ。今度も大きい。大きいのが掛かると仕掛けをロストするかもしれないので小さいのでいいのだけれどもと贅沢なことを思いながらやり取りをする。幸いにしてあまり走らないので今度は取れるかもしれないと思ったが、後ろから帝国軍の船が近づいてくる。



正確には、僕の船は北風に乗って下っていて、帝国軍はそれを打ち消すためにギアを前進に入れているはずなので双方が接近しているという状況だ。
かなり近づいてきているのと、僕の仕掛けは魚に走られて道糸が40メートル以上出ているのでこのままでは相手の仕掛けと絡んでしまうのではないかと気になり始めた。
そしてその頃には帝国軍は何やらワーワーわめいている。多分、邪魔だからどけろというような内容なのであろう。
そして案の定仕掛けが絡まってしまった。もう、相手は怒り心頭だ。こっちの仕掛けが長く伸びているので相手の方が先に引き上げる形になった。見ていると、ハマチを2匹取り込んでいる。僕の魚をかすめ取られた。
あまり近づくと何をされるかわからないので僕も強引に仕掛けを切って逃げようと思い切り糸を引っ張る。それが気に食わないのかまた怒鳴り始めた。
こっちは糸を切られてもいいから早く逃げたいと思っているので引く力を弱めない。そうするとフッと軽くなって仕掛けが切れたようだ。そのまま強引に糸を巻き上げると僕の仕掛けは生き残っていて、相手の仕掛けが絡まったまま上がってきた。相手の仕掛けもけっこう太い仕掛けなのでなかなか切れないと思うが、漁師の矜持としては他人が掛けた魚を横取りするのは恥ずかしいとせめて仕掛けだけでも無事に返してやろうというような少しだけ優しい気持ちが頭をもたげでもしたのだろうか。それとも単に老眼なので切るべき糸を見誤ったか・・。
それにしても、前に見える船が魚とやり取りをしていたら迂回をするか、自分の仕掛けを引き上げてやり過ごすくらいのことはするべきではないだろうか。帝国軍たちは、僕たち同盟軍が透明人間でもあるかのように視界に入ってこないとでもいうのだろうか。まあ、彼らにとって僕たちは自分の庭を荒らしまわっている忌々しい輩であると思うのもわからなくもないが・・。
どちらにしても一戦交えてしまっては僕はお尋ね者だ。あとから見つかると何をされるかわからないのでここに留まることはできない。
まだまだアタリは続くのだろうけれども諦めて別の場所に移動。ここからは船の影が見えないが大和堆ポイントを目指した。



途中、魚探に反応が出るところがあったので仕掛けを下すもアタリがなく、大和堆ポイント到着。靄で見えなかったが数隻の船がいた。少しは期待が持てるかと仕掛けを下すがアタリはない。魚探には時折真っ赤な反応が出るがダメだ。時には厚さが20メートルはあろうかというような反応がでるがアタらない。いったいこれは何の反応なのだろうか?



確かに潮は動いていない感じだがそれでもこれだけ濃い反応ならアタリがあってもよさそうなものだ。
回りの船も魚を上げている様子はなく、帝国軍との鍔迫り合いでここにも僕の居場所はないのかと落胆してしまい午前10時に終了。
今日もなんだかすっきりしない釣行となってしまった。

その鍔迫り合いで鹵獲した仕掛けを家に持ち帰って分析してみた。これはもう、北朝鮮がアメリカ軍の墜落した無人爆撃機をみつけたようなものだ。何か秘密の構造を見つけられるかもしれないと思ったが、たいして僕が使っている仕掛けとは違わなかった。



大体こんな感じだ。
錘から一番下の枝素までの間合いは70センチ。根掛かり対策か、細いナイロン糸がスナップと錘の間に入っていた。
枝素は45センチ。チヌ鉤のような形状のような鉤だ。大きさはチヌ鉤として4号くらいだろうか。僕の手持ちの鉤をみてみると、引退したイトウさんにもらった鉤の中に同じようなものがあった。
それから上は、3本目までが間合い1.5メートル、それから上は2.5メートルくらいだった。鹵獲できたのは5本までだったのでそれから上は不明だ。
すべてナイロンの5号を使っていて、かなり使い込んでいる模様だった。幹糸には枝素が切れた根元がいっぱい残っていて、きっと幹糸はボロボロになるまで使うのだろう。艶もなくなっているほどだ。そこはやっぱりプロの節約術というものか。すぐに仕掛けを捨ててしまう素人とは違う。きっとこの仕掛けを失くしたことも悔やんでいることだろう。
疑似餌はビニールではなく赤い毛糸が使われている。毛糸というか、ほとんどちぢれがないところを見ると毛糸ではないのかもしれない。これは何なのか知りたい。そして下の2本には虫エサを使っていたようだ。青イソメの頭だけくっついている。そして1本にはチャリコが掛かっていた。ハマチ2本とチャリコが1匹ではまったく割りに合わない。
素材としては僕のほうがいいものを使っている感じで、そこそこボロい仕掛けでも魚は釣れるのだということを物語っているようだ。ただ、この時期、毛糸はまだ早いのではなかろうか?これも素人の考えだが・・。このあたりをどう見習うかだが、「世の中の漁師のすべては腕がいい。」という仮説を信用したいところだ・・。

今日の獲物は年末に「わかやま○しぇ」でもらってきたエスカベッシュソースというものを使って調理してみた。



スペイン風の南蛮漬けのようなものらしいが、レモンの酸味が効いた甘酸っぱい味はなかなかいける味だ。ただ、これがエスカベッシュという料理になっているのかどうかはそれを食べたことがないのでわからない。ソースを一から作ってというとなかなかハードルが高いところだが、これはお手軽だ。ソースは残り2パック。また別の獲物で試してみたいと思っている。
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「人生で大切なことは泥酔に学んだ」読了

2021年01月21日 | 2021読書
栗下直也 「人生で大切なことは泥酔に学んだ」読了

泥酔関係の本というのは探してみるとけっこうあるものだ、去年も2冊読んでいたようだが、また1冊みつけた。今回の泥酔のテーマは、『偉人の泥酔から学習する。』というものだ。作家に限らずいろいろなジャンルの人たちの酒に関するエピソードが収録されている。

どうやってこういうエピソードを探したのかと思うほど多彩な偉人たちが登場する。作家はもとより、政治家、実業家、俳優、格闘家など職業は様々だ。唯一登場しないのはサラリーマンくらいだろうか。そして著者の小さなツッコミが面白い。久々に思わず笑いがこみあげてきた。

おそらく今では許されない行状ばかりが並んでいる。例えば、三船敏郎は日本刀を振り回し、太宰治は執筆のために滞在していた旅館の飲み代を払うために送られていたお金でまた飲んでしまってお金の工面に友人(檀一雄)を置いたまま失踪し(この時のツッコミは「走れメロス」だ。であった。)、政治家の泉山三六というひとは憲政史上はじめて国会で泥酔してセクハラで大蔵大臣を辞任したそうだ。ほかには、師のエッセイにも出てくるそうだが、藤沢秀行という棋士は酔っぱらうと所かまわず女性の陰部の名前を連呼していたそうだ。そんなこんなが面白おかしく書かれ、それに著者のツッコミが絶妙にマッチしている。

どれもかなり古い時代のエピソードだがさすがに今の時代にこれをやってしまうと世の中から抹殺されてしまうだろうと思われるものばかりだ。おおらかでいい時代であったのだろう。
一応この本は偉人の泥酔に人生を学ぶというものなので僕なりに考えたその結論は、泥酔しても偉業を成し遂げる人はちゃんと成し遂げるがその影できっと億万の人たちが酒のせいで身を滅ぼしていったのだろうというところだろうから、絶対に真似をしてはいけないということだ。
いや、逆に、この本を読んでいると、泥酔しながら破天荒なことをやってのけることができる人だからこそ突破力があり偉業を成し遂げることができるに違いないと思えてきた。
ただ酒を飲んでうずくまっているだけの人間は億万の方にいくしかない。

僕は血圧が不安定だからだろうか、数年前から酒を飲むと歩けなくなることが多くなってきた。外で飲むとそこから駅までたどり着くために何回も肩で息をしながらひといきつかなければならない。そして、バッグのストラップが肩に食い込んで腕が引きちぎれてしまうのではないかと思うほど重く感じるのだ。自宅の最寄り駅に到着しても同じような感じだったときがあったので家に帰ってすぐに血圧を測ると上が90しかなかった。飲酒は血圧を下げるというがこんなに下がったら確かに歩けなくなるだろうと自分で分析した。
そういうことがあってからと、もともと人とくだらない、本当にくだらない仕事の話なんかをしながら酒を飲むということに何の意味も見出すことができないと思っているので外で酒を飲むということがまずなくなった。だから飲み屋街で泥酔している人というのを最近は見たことがないのだけれども、今の時代でもそんな人っているのだろうか?しかし、外でうずくまることができるほど飲むことができたら僕の人生ももっと変わっていたかもしれないと思うこともあるのだが、この偉人たちのエピソードを読んでみるとやっぱりそれだけ飲めたとしても僕も億万の側からは脱出できそうにないとあきらめるしかないと思った。

著者は1980年生まれということだからやっと40歳になったばかりだ。本人も酒が好きなようでいろいろな経験をしているようだが、40歳までにそんな経験をしているからこそこんな本が書けるのだろうが、どう見ても40歳の人が書いたような文章に見えないと思うのは僕の人間形成に問題があるのだろうかと思ってしまう。

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加太沖釣行

2021年01月20日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:小潮 4:13干潮
潮流:8:37転流 12:11 上り2.2ノット最強
釣果:ボウズ

先日、NHKのドキュメンタリーを見ていたら、この地球は今のまま温暖化が進むと2100年には平均気温が4℃上昇するという研究結果があると言っていた。
そして、2030年までに手を打たないともう後戻りはできないと言っていた。
最初はえらい大袈裟なことを言っているなと思いながら見ていたのだが、その内容にはかなり説得力があった。
後戻りができないシナリオとはこんな感じだ。
2030年以降も今と同じペースでCO₂を排出し続けると、まずは北極圏の氷がどんどん解けてゆく。陸地の部分には永久凍土という地帯があるが、ここにはメタンガスが閉じ込められている。それが空気中に放出される。メタンガスはCO₂よりもはるかに温室効果が高いので南極の氷を解かす引き金になる。この時点で地球の平均海面が1メートル上昇する。こうやってドミノ倒しのように地球環境が変化する。この時点までくると人間がどんな対策をしてももう、このドミノ倒しを止めることができなくなる。
さらに気温が高くなると熱帯雨林地域がサバンナに変化する。密林が消失するということなので、木材として溜め込まれているCO₂も空気中に排出され温暖化がさらに進む。
もう、オートマチックに温暖化が進んでゆくというものだ。

これには正直驚いた。温暖化の最初を始動させればあとは勝手に惑星規模で温暖化が進んでしまう。
それを防ぐ最後のチャンスが2030年までに人類が排出するCO₂を削減することであり、去年の暮れくらいから各国がCO₂の排出ゼロを目指すのだという宣言が続々と出ているのはこういう研究結果が背景にあるということらしい。

僕の船のエンジンは軽油で動くディーゼルエンジンだが、陸上を走る車と違って触媒や煤塵の吸収装置のようなものは装着されていない。(多分)だからCO₂もNOxというたぐいのものも垂れ流しという状態だ。(多分)これが、社会貢献のための漁業や運搬なんかに使われている船ならそれも許容されるのかもしれないが、まったくそういうこともなく、そのうえ、一家の食料さえも賄えていないとなると、僕はトランプさんよりも悪質な人間なのではないかと思い始めるのだ。たかが小さな釣り船1艘が排出するCO₂が地球の気象を左右することもないだろうと思うが、牛のげっぷに含まれるメタンガスが地球温暖化を加速させるという研究もあるらしいので侮れないのだ。
そして今日も無駄にCO₂を排出しまくってきてしまった。



そしてもうひとつ、知ることの悲しみということを存分に知らされる結果となってしまった。
結論から書いていくと、今日、知り合いの人はほぼ同じ海域で仕掛けを下してたそうだが、魚が釣れすぎて2時間ほどで帰ってきたそうだ。状況を聞いてみると、その人とは少なくとも1時間は同じ場所にいて、魚探が真っ赤になるほど大きな魚の群れに遭遇したそうだ。仕掛けが降りていかないほどすぐにサバやメジロが食ってきたというのだ。
僕の魚探にはポツポツと点のような反応はあったけれどもそんな強烈な反応を見ることがなかった。まるで別の宇宙に浮かぶもうひとつの地球上に浮かぶ日本という島の端っこにある加太の海のできごとではないのかと多重宇宙論というものを本気で信じなければと考えさせられるような話だった。
そういうことを知らなければ、ああ、今日は風が強くて釣りがしづらかったから、まあ、釣れなくても当然かとあきらめることができたのだ・・・。


風が吹くという予報に反して、出港してみると意外と海は穏やかだ。一文字の切れ目を抜けると素晴らしい景色が広がっている。空気が余りにも澄んでいるので遠く四国まで見渡せそうな景色だ。



しかし、そんな穏やかな海も田倉崎を越えるまでであった。次第に風と波が強くなる。
加太へ到着した頃には下り潮が終わる時刻に近づいていたのでコイヅキからスタート。



ポイントの選択は正しいようで帝国軍の艦船も多数集まっている。ロックオンされることを警戒しながら船団の端っこのほうで仕掛けを下す。しばらくすると小さなアタリがあった。ビニールの端っこを食われただけであったが、ここには魚がいるらしい。しかし、魚探の小さな反応はときたまあるがそれ以降アタリがない。転流時刻をすぎて潮はまだ下っているが、ここにいても埒が明かないと思いテッパンポイントへ移動。ここでもアタリがなく、相変わらず風が強いので田倉崎の陰にでも入ってもう少しやってみてダメなら帰ろうと後ろを振り返ると、知らない間に大和堆ポイントに大きな船団ができている。ひょっとして釣れているのかとそちらへ移動。この時刻が大体10時頃だったのだが、先に書いた知り合いの人はその時刻にはこのポイントで爆釣していたことになる。

ここでも魚探には小さな反応があるけれどもアタリがない。ポイント周辺の何か所かを流してみるがアタリがなく、周りでも上げている気配がない。それに同盟軍の姿はあれど帝国軍の艦船が全く見えないとなるとこれ以上続けても無駄なのじゃないかという思いが頭をもたげる。



それに寒い。今日は大寒だそうだが、まさにそのとおりで3本指出しの手袋をしていると一瞬で指先の感覚がなくなる。それに風は一向に弱まる気配がなく今日はここまでと午前11時に終了。

帰りは強い北風の中を進むので久々にどっぷり潮をかぶった。船のシールドも海水を浴びて前が見えない。



まあこんな天気だから仕方がないと言えでパソコンの電源を入れるまでは思っていたのだが、先のような情報がSNSの向こうからやってきたというわけだ。
その画像をみているとドッと疲れが出てきてしまったというわけだ・・。

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「宇宙人の見る地球」読了

2021年01月19日 | 2021読書
須藤靖 「宇宙人の見る地球」読了

一般向けの科学読み物のページ構成でよくあるのが、都度本文の語句や文節の右肩に番号が振られていてページの下5分の1ほどがその脚注のような部分になってる構成だ。
老眼で小さい字が見えないのと、読書と言ってもほとんど読み飛ばしている状態で読んでいるものだからつい右肩の番号を見過ごしてしまう。ページを読み終わって見過ごした脚注に目を落とすとその脚注が一体どの部分の脚注かまた本文に戻って探すのに難儀する。根が短気なものだからいつもイ~!!となってしまう。どうしたら効率よく読み進めることができるのかいつも悩まされてしまうのだ。
そしていつも思うのだが、この注釈の部分も本文に入れてしまっておいてくれたらもっと読みやすくなるのではないかと思うのだが、本を書く人たちというのはいったいどんな基準で本文に入れたり脚注として分けたりしているのだろうか。

ちなみに、脚注が本の最後や章ごとの最後に書かれているものについてはほとんど読まないことにしている。こういったタイプの構成の脚注の場合ほとんどは引用した文献やホームページのURLだったりするのでまあ、読むこともなかろうと読むこと自体を放棄してしまっているのだ。

タイトルと表紙のイラストを見ていたら、難しい宇宙の話や物理理論を易しく解説してくれている読み物かと思ったが内容は本人が雑文と書いている通り、宇宙物理学者が感じる日常の矛盾や不可解、研究生活の裏話というような内容である。確かにこの本、科学の書架ではなくて日本文学の書架に並んでいた。
(しかし、ヒロシの本は日本文学の書架ではなく、演芸の書架に入っていた。ヒロシの本はどちらかというと人生論っぽかったからこれは日本文学だろう。その倣いでいくならこの本は科学一般という分類になるのだと思うが・・。図書館の分類というのもけっこういい加減だ・・)

東京大学が出版しているPR誌に掲載されているエッセイを集めたものらしいが、よくこの内容で掲載していて文句を言われなかったものだという感じだ。
科学者の少し変わった習性を自虐的に書いている下りというのはこういう象牙の塔のようなところでは命取りになってしまうのではないかと心配になってくる。本人も自分は学内では要注意人物とみられているというようなことを冗談交じりで書いているけれどもそれ以上に実力があるので許されているのであろうから、きっと偉い学者さんであるのだろう。

この本の大きなテーマとしては、「外から自分の世界を見ることの重要性」というものを取り上げている。
それを「宇宙人の見る地球」というように表現しているのである。ある時は自分の国の文化を海外に住んでみて改めて見直してみる。あるときは自分自身と世間とがどれくらい感覚として乖離しているか。そういうことを見つめ直す必要があるのではないかと問題提起している。
もっと大きな規模で外からの世界を見るということが、地球規模のことを宇宙人の視点で考えてみる必要があるということになってくる。

そういうことを堅苦しくなく、例えば、「村上春樹の文学を宇宙人は理解することができるか。」とか、「中華料理は作るのに失敗することが難しい。」「腰痛の原因は“対称性の自発的破れ”が起因している。」というような感じで書かれている。
中でも面白かったのは、科学者は疑い深いということに関し、世間一般のひとたちも科学者的感覚を持ったほうがいいのではないかという提案というか、苦言だ。元々科学者という人たちは他の学者が論文で発表した成果を鵜呑みにして信じないというのが普通だそうだ。その内容を疑って現象の再現性を確認してそれができれてはじめて信じるというのを通例としている。
この文章が書かれた時というのは、2009年に新型インフルエンザが流行った翌年に書かれたものらしく、海外で流行っているインフルエンザだが日本でも警戒してほとんどの人がマスクをしているというマスコミの報道を例に挙げ、マスコミが報道するマスク着用の光景はそこだけ見るとみんなマスクをしているようだがたまたま同じ地域に滞在していた筆者にはそうは見えなかった。だから部分だけ切り取られたところだけを見て全体として信じるなと言う。
くしくもこのコロナ下、午後8時の会食を控えよという政府のお達しを聞いて、昼間ならいいのだと解釈する人たちにはもっと科学者的感覚を持つべきではないかという思いが浮かび上がる。こんな人たちはウイルスって夜行性だとでも思っているのだろうか?(そうじゃないという証明もないのだが・・)。そして猫も杓子もいつでもどこでもマスクをつけているのもどうなのだろうかと思う。ほとんど人のいない夜の通りではマスクをつける必要はあるのだろうか・・?そもそも、あの紙製のマスクの感染防止機能というのはどこまで信頼がおけるものなのだろうか?昨夜、あとから陽性とわかった人とマスクなしで10分会話したら感染したという報道をしていたが、マスクをしていても結果は同じではなかったのだろうか。どうしてマスクを着けていなかったということをテレビは協調するのだろうか?
まったく自分の意思と責任で行動できない人たちがいつでもどこでも少なからずいるというのは滑稽だ。と書きながら、僕自身もそういう情報をネットやテレビでしか得ていないわけでお昼は大丈夫と思っている人たちが世間にどれだけいるのかなんていうことを本当に知っているわけではないので同じ穴のムジナということかもしれない。

前半はこんな感じでかなりくだけた内容だが、後半は別の雑誌などに寄稿されたものらしく、注釈もなくてもう少しお硬い内容になっている。

テーマとなっているのは、「山の頂は見えないほうが楽しい。」ということだ。宇宙の大きさはどれくらいという疑問から始まるのであるが、一般的に宇宙の大きさというのは観測可能な範囲と言われている。これは地球に光が届く範囲と同じなのだが、実は、入れ物としての宇宙は無限大だと考えられている。(ここらあたりでやっぱり理解の限界がやってくる・・)だから今は、その観測可能領域の先のことはわからないし、別には多重宇宙論という考えもある。著者は、そういった宇宙の果ての向こうや別の宇宙にはこの世界とまったく異なる物理法則があるかもしれない。もっと足元でも、現在の量子論や相対論がこの宇宙のすべてを語っているわけではない。新しい理論が出てきてもその先にはまた新しい謎が待っているはずだという。
そして究極は「宇宙原理」ともいうべきものであるという。「人間原理」という考えがあって、この宇宙の中に人類が生存しているのは、この宇宙を観測するためであり、逆にいうと人類が存在しなければ観測されるべき宇宙も存在しないのだという、一見非科学的な考えなのだが、宇宙原理はそれに対して似て非なる考えで宇宙のどの部分を見ても特殊な場所はなく、すべて平等である。という考えである。その平等な状態を観測、記述することがすなわちすべてを解明することである。
著者の考えでは、宇宙のすべてが解明されるときは永遠に来ないという。だから謎を追い求めることができるのだ。それを「山の頂は見えないほうが楽しい。」と表現している。
現在でも、古典力学が適用されるマクロの世界と量子力学が適用されるミクロの世界の境界線さえも分かっていないらしい。(量子力学が適用される世界というのは、不確定性原理というやつで、原子の中にある電子の位置は観測するまで確定していないというあれだ。対して古典力学では物質は固定されている。不確定の物質がどこまで集まれば固定されるのかという境界のことを言っている。)
著者はその説明に、『髪の毛が1本しかなければハゲと呼ばれる。2本であっても同じ。では、何本生えていたらハゲとよばれなくなるのか。』という例えを使っている。
お堅い話といいながやはり著者はものすごくウイットに富んでいる。

著者はこの本の前に、2冊同じような本を出版しているそうだ。機会があれば読んでみたい。結局、そういったウイットに富んだ注釈はけっこうおもしろいというのがこの本を読んだ僕の結論だ。

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「よもつひらさか往還」読了

2021年01月17日 | 2021読書
倉橋由美子 「よもつひらさか往還」読了

なんとも奇妙な小説だ。というか、こういう、幻想小説というジャンルの小説はたくさん書かれているのだろうけれども僕はまず読まないのだから、「奇妙な」という感想になってしまう。
「よもつひらさか」は「黄泉比良坂」と書き、『日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。』という場所のことを指す言葉だそうだ。

この小説もそのとおりで、とある洋館にあるバー、そこは主人公だけがプライベートに使うことが許されているバーのようなのだが、そこのバーテンダーが作るカクテルを飲むことによって主人公は奇妙な世界に迷い込む。
そこはあの世であったり、主人公の記憶の中の世界であったりまたはバーテンダーが作り出したりしたのかもしれない世界だ。そこには必ず女性もしくは女性らしきものが居て、主人公はひと時の逢瀬を体験する。
ただそれだけの短編が1冊にまとまっているという構成だ。

主人公がバーに現れるのは昼間だ。昼間のお酒には幻想の世界に引き込む力があるのだろうか?僕も最近では昼間にお酒を飲んでいることが多くなってしまったが、今のところはそんな世界に迷い込んだ経験はない。
そういう世界に迷い込むにはもう少しお酒には強くなければだめなんだろうな。そこへ行くまでにきっと眠ってしまうだろう・・・。


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水軒沖釣行

2021年01月16日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 8:50満潮
釣果:コウイカ 3匹

週間予報では今日まではまだ穏やかな天気だそうだ。これは運がいいとコウイカ狙いに出かけた。
例年なら年が変わってもしばらくは釣れるのだが、去年はまったくダメだったので釣れるかどうかはわからないけれども釣れなければ釣れないでそれを見届けるのもよかろうというところだ。

少し早い目に家を出て「わかやま○しぇ」に行ってみた。



年末、釣りに行けなかった12月30日、久しぶりに訪れたいつものお店で買ったカレーコロッケというのがかなり美味しくまた欲しいなと思っていた。
しかし、この施設のお店のほぼすべては午前7時半には閉店してしまう。タチウオを釣りに行っている頃は釣りをした後でここに来て買い物ができるがそれ以外の季節ではそれができない。釣りから戻ってきたら当然閉店しているし、釣りの前に買い物をすると冷凍食品だから溶けてしまう。かといってここに行くために朝早くから家を出るのもなんだか億劫だ。

そこで一計を案じた。買ったものを渡船屋の冷凍庫で預かってもらえばいいのではないかと・・・。我ながらこの案は名案だ。
この施設は和歌山市の中央卸売市場の一部になっていて入っている業者さんも仲買人の人たちだからか売っているものも安い。くだんのコロッケも4個入って150円だ。今日はほかにも別のタイプのカレーコロッケ(4個入りで100円)でっかいメンチカツ(2枚で150円)などを買い込んで港へ向かった。年末には合鴨の薄切り1パック100円というのもあったのだがさすがに今日はなかったのが残念だ。
渡船屋の奥さんは気さくな人なので簡単に了解してくれた。これで心置きなく出港できる。次回も厚かましくお願いしてみよう。

コウイカのポイントに行く前に恒例の紀ノ川河口でスズキを狙ってみた。いまだに釣ったことがないのといつまで釣れるのかという情報もないのだが、とりあえずやってみないと情報の蓄積にはならない。
エネルギーセンターの前まで行くとすでに3隻の船が仕掛けを流している。
まだ釣れているのだろうか・・・。僕も同じようなところを30分ほど流してみたがアタリはなくコウイカのポイントへ向かった。

しかし、この釣り、そうとう大きな魚が釣れるということなのだが、一体どれくらいの確率で釣れるのだろうか。今日の船を見ていると魚を上げている気配はなかった。そしていつも同じ船が来ているような印象なのだが、何日も通って1匹釣れるかどうかというような、鯉釣りの格言みたいな釣りなのだろうかと考え始めた。まあ、それはそれで夢があっていいとは思うが、実態を知らずにやみくもにやっているというのはどうも不安が大きい。
といいながらまた次の小船での出撃に時には同じようにやってみようと思う。まずは大物を1匹だ。

午前7時半にコウイカのポイントへ移動。



新々波止の沖から2本目の切れ目跡からスタート。



仕掛けを下してすぐにアタリがあった。これは調子がいい。去年とは大違いだ。そしてすぐにまたアタリがあった。そしてまた。3匹目は途中でバラしたが、今日はひょっとしたら二けたいくのではないかと思ったがいつものとおりそんなに甘くはない。
雨が降り出したのが悪いのか、まったくアタリがなくなった。そしてなんだか船の流れていく方向と潮の流れが合わない。仕掛けが船の下にもぐっていく。3匹目のバラしもこれのせいだろう。合わせがうまく決まらなかったのだと思う。何回船の姿勢を変えても同じ向きにしか流れない。風はほとんど吹いていないので上潮と底潮の向きが反対になっているのかもしれない。

午前8時半を過ぎて雨も止まずアタリもないのでこれで帰ろうと思っているとこんなときにかぎってアタリがある。合わせを入れると重い。相当大きなイカだ。仕掛けが切れないように慎重に巻き上げてくると確かに大きい。最初はモンゴウイカだと思ったほどだ。(この界隈でもたまに釣れるのだ。)日ノ岬くらいまで行くとこれくらいのサイズは普通らしいけれども、水軒の沖では多分最大クラスだ。僕も今までこんなに大きなコウイカを釣ったことはなかったのではないだろうか。
アタリがあると帰れない。もう少し頑張ってみようと少し船を流す位置を変えてみたりしたけれどもやっぱりアタリはなく午前9時過ぎに終了。

港に戻り、わかやま○しぇに行くついでに買ってきたガソリンを小船に給油して大きな船にも急をするために軽油を買いに行き、大きいほうの船のデッキに放り出したままになっている前回の釣行に使った道具を片付けたりしてからやっと帰宅。2匹のイカを捌いたらもうお昼前になっていた。
大きなイカが釣れたのはうれしいが雨が降って天気がすぐれなかったからかどうも疲れる釣行であった。
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「重力波 発見! 新しい天文学の扉を開く黄金のカギ」読了

2021年01月15日 | 2021読書
高橋真理子 「重力波 発見! 新しい天文学の扉を開く黄金のカギ」読了

著者は歌手ではなく、朝日新聞の記者だそうだ。以前に毎日新聞の記者が書いた科学関係の本を読んだことがあるが、新聞社では科学に強い女性が多いのだろうか。
「重力波」というと、2016年2月に直接検出されたというので話題になったが、一般向けとはいえ専門家が書いた本を読んでもまず何を書いているかわからないと思っていたが、新聞記者さんが書いたものだとなんとか理解の足掛かりでもつかめるのではないかと手に取ってみた。

重力波というのは、アインシュタインが相対性理論を構築する過程で存在を予言したものだ。この本はその重力波を人類が実際に観測するまでことが開設されている。

イタリア語を使って一般向けにも自身の研究成果を発表していたガリレオ・ガリレイを、「世界最初の科学ジャーナリストである」と呼んでいるだけあり、著者は素人にもわかりやすく書いてくれている。
重力波にたどり着く前に、人間が宇宙や時間をどのように理解してきたかという歴史をについてこまかく解説している。
というか、重力波だけでなく、様々な物理理論はそれを解明した偉人が突然ひらめいたのではなく、連綿と続いてきた科学、哲学の歴史の延長線上にその発見と観測があったのだということを強調している。
確かに、重力波というものの存在を予言するのも発見のひとつだし、その元になったギリシャ時代の哲学者が考えた物質観、宇宙観について理解するのも重力波の発見につながるということだ。
普通の人なら、「重力波の発見」という言葉からは、こんな観測機器が作られてやっと見つけることができました。というお話で終わるのだろうがそこまで遡ってほり進めていくというところがきっと新聞記者なのだろう。
そして、重力波の発見自体よりもこっちのほうが面白かった。


始まりはアリストテレスからだ。アリストテレスは宇宙というのは空っぽではなくて「エーテル」という元素で満たされていると考えた。宇宙はエーテルで満たされていて、地上は火・空気・水・土の四つの元素で構成されていてそれぞれ別の法則で成り立っていると考えた。
この考えからスタートしてニュートンとアインシュタインの革新的な考えに発展してゆく。

ニュートンの時代、大学ではギリシャ、ローマ時代の文献を購読することだけが学問であった。しかし、ニュートンはその文献を読みながらアリストテレスの考えに対して不満のあるところを考えながら万有引力の法則を発見したそうだ。宇宙でも地上でも同じ法則が世界を支配しているというのが万有引力の法則なのだ。
現状維持に甘んじない人が革命をおこすということなのだろう・・。
しかし、万有引力の法則では重力は波のように伝わるものではなく、質量のある物質が2個あれば一瞬にして重力が発生するということになるそうだ。
ニュートンの考えでは宇宙戦艦ヤマトがワープアウトしたら一瞬で周りのものと重力でつながってしまうというのはヤマトにとってもかなり危険であるということになるのだろうか。うまく姿勢を保てないかもしれないぞ。


19世紀になって、光の速度を求めようという動きが出てきた。その頃には光は電磁波という波なのだということがわかってきていたのであるが、波である以上それを伝える媒質が必要だということでエーテルの存在はその頃でも信じられていた。
マイケルソンとモーリーという学者は、光の速度を求めようしたとき、地球がエーテルの中を進んでいくとそれが抵抗になって光の速度が遅くなると考えた。地球は太陽の周りを時速10万キロで回っているのだから方向によって速度が変わると考えたが、調べてみると全然変化がないことがわかった。ローレンツという科学者はきっとこれはエーテルの抵抗で空間も縮むので光の速度が遅くなってもそれで相殺されるのだと解釈したのだが、もともとアリストテレスはエーテルは絶対不変の鋼鉄のように硬いものだと考えており、当時も同じように考えられていた。アインシュタインは、そんな硬いものの中を星が進めるはずがない。ファラデーの電磁誘導の実験を引き合いに出し、コイルを動かしても磁石を動かしても電流が流れるのならどちらが動いているかということには意味がない。だから、絶対的に静止した空間というものを考えても意味がないと考えた。静止した星から光の速度と動いている星から光の速度を計ることを一緒に考えても無駄なのだということだ。
そうしてエーテルの存在がなくても光の速度が変わらないという考えは成り立つということを証明したのが相対性理論である。相対性原理というのは、ガリレオ・ガリレイも考えており、「等速直線運動をしている二つの座標系があったとき、どちらの座標系でも力学的法則は同じでなければならない。」という慣性の法則だ。それが光の速さに置き替えられたのが相対性理論の一部になっている。ここもつながっているのだ。
素人にもよくわかるはずの本のはずなのだが、ここらあたりからよくわからなくなってくる・・。
相対性理論のなかでも、ローレンツの考えた光が縮むという数式はローレンツ変換というものでちゃんと生かされているらしい。みんなの考えはつながっているのだ。

そして、光がエーテルが存在しなくても伝わるのは光が粒子であるという考えをニュートンが考えだして以来復活させたのが光量子仮説なのである。
その過程で重力が働く場というものがあり、そのなかで重力を伝えるのが重力波なのだという予言が生まれた。

重力波というのはその波の強さが原子核の10のマイナス21乗メートル(これは陽子の半径よりもはるかに小さい)というほどの振幅しかない。それを観測するためには大きくて精度の高い観測装置が必要だ。
それを最初に作り上げたのがウエーバーというアメリカ人で、アルミニウムの共振という原理を使って1969年に観測してたという発表があったがこれは間違いで、STAP細胞のような騒動になったそうだ。
その後、干渉計という方法で巨大な装置がアメリカのLIGOとヨーロッパのVirgoという装置で観測された。ブラックホールが合体するときに発せらたものだったそうだ。これは正しいとなり2016年2月に正式に発表されたというのがこの物語の結末なのである。

日本ではカミオカンデのそばにKAGURAという装置が建設中で計画は初観測当時から進行していたが後れを取ったことになる。(去年から観測が開始されたらしい。)
しかし、このKAGURAでも建設費が150億円を超えLIGOとVirgoではその数倍の建設費と数十倍の科学者がたずさわっているそうだ。
これだけの予算を国家から獲得するためには非情な熱意と思い込みが必要だと感じる。何に対しても面倒くさくてこんなことをしても無駄なだけじゃないかと思うような人間には学者も絶対に務まらないとあらためて思うのだ。
その前に知能が追いかないというのが当然のこととしてあるのだが・・・。
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