場所:加太沖
条件:中潮8:42満潮
潮流:6:56転流 10:06上り1.6ノット最強 13:00転流
釣果:真鯛1匹
昨日からサラリーマン生活最後の有給消化をさせてもらっている。昨日は叔父さんの隣からキンカンをもらってきて砂糖煮を作っていた。1.8kgのキンカンの種を3時間かけて取り除いたのだがずっと座った姿勢でいたので腰が痛い。
腰が痛かったからというのでもないのだろうが、防寒着のズボンを忘れて家を出てしまいかなり寒い思いをしてしまった。これは腰が痛いのが原因というよりも、物忘れがひどくなったということだろう。カメラの電池の充電も忘れてしまっていて、1枚撮っただけで動かなくなってしまったし、海の上で帰り支度をするときもスパンカーを閉じる段取りを間違えてしまい船の上で右往左往してしまったのだ。普通にできていることを忘れていってしまうというのはなんとも情けない・・。
幸か不幸か、バイクのカゴの中にヤッケのズボンが入っていたのでそれを穿いて出港した。
今日も上り潮だ。とりあえず四国ポイントでサビキをしてみて反応がなければテッパンポイントに向かおうと考えている。
今日は平日にも関わらず四国ポイントには数隻の船が集まっている。
そしてテッパンポイント方面には帝国軍が集まっている。
四国ポイントの船団に混ざって仕掛けを下ろすがアタリはない。ついでに魚探の反応もない。30分ほどやってみたがまったく反応はない。集まっている船は一向に移動する気配はないが移動を決意。
もう少し北上したかったがテッパンポイントの手前で大きな反応が出てきた。
S邦丸だけがいるだけだがここから高仕掛けに変更して始めることにした。しばらくしてS邦丸はどこかへ行ってしまいこの海域には僕だけになってしまった。それでも魚探の反応は続いていて、この反応は真鯛というよりもアジかハマチじゃないのかと思ってサビキ仕掛けに変更して釣りを続けた。しかし、この反応は一体何なのだろう。これだけ濃い反応があっても一向にアタリはない。そうこうしているうちに仕掛けを根掛かりさせてしまった。オモリも失くしてしまったがこれが奏功した。残りの時間はダメもとで高仕掛けで終えようと思っていたら強烈なアタリが出た。一気に走っていったのでこれはハマチかと思ったが途中から首を振り始めた。ひょっとして真鯛かと思っていたら海の底から知トイ影が浮かんできた。けっこう大きな型の真鯛だ。交通事故みたいな形で得た魚だが、理由は何でもいいとりあえずボウズは免れた。もう1匹あれば叔父さんの家に持って行けると思ったがその後はアタリはなく、魚探の反応も消えてしまった。
潮が緩んできたタイミングでもう一度チャンスがあるのかとも思うのだがズボンを忘れて寒さも堪えて忍耐もそこまでは持つこともなく午前10時を待たずに終了し。
帰り道、四国ポイントではさらに船団が大きくなっていた。
潮が動き始めて魚が釣れているのか、それともここ以外にどこにも船団ができていないところを見るとこれは妥協の産物として少しでも船の集まっているところに雪だるま状に船が集まっているだけなのか・・。
その日の釣果が貧果であればあるほどそんな思いが募るである・・。
このブログはその翌々日に書いているのだが、釣行の翌日はなぜだか堺の街をぶらついていた。
目的は堺伝匠館。先日買った出刃と柳刃の生まれた場所を見たかったのである。
博物館には僕の包丁を鍛えた伝統工芸士の紹介もあった。
その後は仁徳天皇陵へ。途中立ち寄ったビジターセンターのプロジェクションマッピングはなかなかの出来であった。
その後も陵墓をほぼ1周してみたが、こんなに大きいものを重機もなしに1000年以上前によくも作ったものだと感心を通り越して呆れてしまった。堀は三重になっているようだが、当時、作業に駆り出された人たちはきっと、お堀は一重でいいじゃないかと思ったに違いない。
かなり前、ここを歩いたことがあった。調べてみると、ちょうど18年前の今頃であった。その頃は外周を巡ることができるような道は付いていなかったように思う。付近にあった大学が移転してその後に整備されたようだ。僕も当時の年齢は40歳を少し超えたほどの年齢であった。時の流れを感じてしまうのである。
堺の街は思っていた以上に大きな街であった。
和歌山も歴史の古い街であるがここにも歴史が詰まっていると感じた。今度訪れる機会があれば自転車を借りて巡ってみたいと思ったのである。
条件:中潮8:42満潮
潮流:6:56転流 10:06上り1.6ノット最強 13:00転流
釣果:真鯛1匹
昨日からサラリーマン生活最後の有給消化をさせてもらっている。昨日は叔父さんの隣からキンカンをもらってきて砂糖煮を作っていた。1.8kgのキンカンの種を3時間かけて取り除いたのだがずっと座った姿勢でいたので腰が痛い。
腰が痛かったからというのでもないのだろうが、防寒着のズボンを忘れて家を出てしまいかなり寒い思いをしてしまった。これは腰が痛いのが原因というよりも、物忘れがひどくなったということだろう。カメラの電池の充電も忘れてしまっていて、1枚撮っただけで動かなくなってしまったし、海の上で帰り支度をするときもスパンカーを閉じる段取りを間違えてしまい船の上で右往左往してしまったのだ。普通にできていることを忘れていってしまうというのはなんとも情けない・・。
幸か不幸か、バイクのカゴの中にヤッケのズボンが入っていたのでそれを穿いて出港した。
今日も上り潮だ。とりあえず四国ポイントでサビキをしてみて反応がなければテッパンポイントに向かおうと考えている。
今日は平日にも関わらず四国ポイントには数隻の船が集まっている。
そしてテッパンポイント方面には帝国軍が集まっている。
四国ポイントの船団に混ざって仕掛けを下ろすがアタリはない。ついでに魚探の反応もない。30分ほどやってみたがまったく反応はない。集まっている船は一向に移動する気配はないが移動を決意。
もう少し北上したかったがテッパンポイントの手前で大きな反応が出てきた。
S邦丸だけがいるだけだがここから高仕掛けに変更して始めることにした。しばらくしてS邦丸はどこかへ行ってしまいこの海域には僕だけになってしまった。それでも魚探の反応は続いていて、この反応は真鯛というよりもアジかハマチじゃないのかと思ってサビキ仕掛けに変更して釣りを続けた。しかし、この反応は一体何なのだろう。これだけ濃い反応があっても一向にアタリはない。そうこうしているうちに仕掛けを根掛かりさせてしまった。オモリも失くしてしまったがこれが奏功した。残りの時間はダメもとで高仕掛けで終えようと思っていたら強烈なアタリが出た。一気に走っていったのでこれはハマチかと思ったが途中から首を振り始めた。ひょっとして真鯛かと思っていたら海の底から知トイ影が浮かんできた。けっこう大きな型の真鯛だ。交通事故みたいな形で得た魚だが、理由は何でもいいとりあえずボウズは免れた。もう1匹あれば叔父さんの家に持って行けると思ったがその後はアタリはなく、魚探の反応も消えてしまった。
潮が緩んできたタイミングでもう一度チャンスがあるのかとも思うのだがズボンを忘れて寒さも堪えて忍耐もそこまでは持つこともなく午前10時を待たずに終了し。
帰り道、四国ポイントではさらに船団が大きくなっていた。
潮が動き始めて魚が釣れているのか、それともここ以外にどこにも船団ができていないところを見るとこれは妥協の産物として少しでも船の集まっているところに雪だるま状に船が集まっているだけなのか・・。
その日の釣果が貧果であればあるほどそんな思いが募るである・・。
このブログはその翌々日に書いているのだが、釣行の翌日はなぜだか堺の街をぶらついていた。
目的は堺伝匠館。先日買った出刃と柳刃の生まれた場所を見たかったのである。
博物館には僕の包丁を鍛えた伝統工芸士の紹介もあった。
その後は仁徳天皇陵へ。途中立ち寄ったビジターセンターのプロジェクションマッピングはなかなかの出来であった。
その後も陵墓をほぼ1周してみたが、こんなに大きいものを重機もなしに1000年以上前によくも作ったものだと感心を通り越して呆れてしまった。堀は三重になっているようだが、当時、作業に駆り出された人たちはきっと、お堀は一重でいいじゃないかと思ったに違いない。
かなり前、ここを歩いたことがあった。調べてみると、ちょうど18年前の今頃であった。その頃は外周を巡ることができるような道は付いていなかったように思う。付近にあった大学が移転してその後に整備されたようだ。僕も当時の年齢は40歳を少し超えたほどの年齢であった。時の流れを感じてしまうのである。
堺の街は思っていた以上に大きな街であった。
和歌山も歴史の古い街であるがここにも歴史が詰まっていると感じた。今度訪れる機会があれば自転車を借りて巡ってみたいと思ったのである。